第19話. 街の息吹に触れ
会話の途切れた馬車は、あれから何事もなく森を抜け、やがて人の手で整備された道に入った。
車輪が軋む音は次第に優しい音色へと変わり、すっかり明るくなった外の光が窓から差し込み、車内に柔らかな影を落としている。
しばらくすると、街を囲む外塀が見え始め、それに比例するように外から聞こえるざわめきも徐々に大きくなっていった。
木々の隙間から覗く塀は頑丈そうな石造りで、ところどころに見張り台が設けられているのが見える。
やがて馬車は垂れ下がった小さな跳ね橋を渡り、重厚な門をくぐり抜けて塀の中へと入っていく。門を越えた途端、外とは違う活気ある空気が馬車を纏う様に伝わってきた。
道沿いには緩やかな三角屋根や円錐形の屋根を持つ建物が立ち並び、白っぽい石畳の上を歩く大勢の人々が見える。行き交う人々は楽しそうに話し、時折笑い声が響き、手には買い物袋や荷物を抱えている者もいた。
街の一角には露店が並び、呼び込みの声や商品を品定めする人々のざわめきが絶えない。馬車はそんな賑わいの中をゆっくりと進みながら、街の中心部にある広場を目指して走り続けていた。
そんな賑やかで整然とした外の風景とは対照的に、馬車の中にはどこか緊張感を孕んだ空気が漂っている。
「さて、いよいよか...」
アキラはどこか緊張した面持ちで窓の外を眺めながら低く呟き、流れていく人々や建物を目で追っていたが、ふと寝息を立てながらクロノスの肩に寄りかかるセシルに視線を移すと、呆れたように口を開いた。
「...クロノス、馬車が止まる前に彼女を起こしてやれ」
アキラの言葉に、困ったような表情を浮かべたクロノスはセシルに視線を向け、軽く体を叩くようにしながら優しく声をかけた。
「セシル、起きるんだ。着いたぞ...」
それでも中々起きないセシルにやれやれと言いたげな表情を見せつつ、クロノスは肩をそっと揺さぶりながら呼びかけた。
すると、もぞっと動いたセシルが目を擦り、クロノスの肩から離れると、ぼんやりと辺りを見回し始めた。そして、見慣れない景色に気づき、驚いて目をぱちっと見開いた。
「ん...はっ!知らない場所...?」
「ぐっすり寝てたぞ。もう少しで止まるからな」
クロノスの言葉にセシルは瞳をぱちぱちとさせ、ようやく現実に引き戻されたように慌てて会釈し、姿勢を正して座り直した。
その様子を見ていたアキラは、ふっと口元を緩めたものの、特に何も言わず再び窓の外へと視線を戻していた。
(....どうしよう。いつ寝ちゃったんだっけ。うぅ、気まずいー!)
目を伏せ、両手を弄りながら少し申し訳なさそうな表情を浮かべていると、馬車のスピードが次第に落ち、馬のヒヒーンという鳴き声とともについに止まった。
直後、全身黒いマントとベールを身に纏った御者が運転席から降り、馬車の横に回り込むと、クロノス側の扉を丁寧に開けた。
(...あれ、誰も降りないのかな?)
扉が開けられたものの、アキラもクロノスも降りる様子を見せない。首を傾げて二人を見つめていると、クロノスが先に口を開いた。
「アキラ様、降りないんですか?」
「......先に降りていろ」
淡々とした口調でそう答えると、アキラは自分のマントを軽くめくり、下から黒いベールを丁寧に取り出して身につけ始めた。
「そうですか。わかりました」
クロノスはその様子を見届けると、扉の方へ体を向け、先に降りていった。
「...では、わたしもお先に失礼します」
セシルもアキラに軽く頭を下げ、馬車から降りようと椅子を滑るように移動した。
すると、扉のすぐそばには、セシルに手を差し出して待つクロノスの姿があった。見慣れない光景に一瞬目をぱちくりとさせたセシルに対し、クロノスは少し困った表情を浮かべ、差し出していた手をさらに近づけながら言った。
「軽いエスコートだ。これくらいはさせてくれ。でないと、馬車から一人勝手に飛び降りる女性がいた、なんて噂を立てられてしまうぞ」
「女性...ふふっ、そうですね。ありがとうございます」
セシルは思わず微笑みを浮かべ、差し出された手を取ると、スカートが引っ掛からないように、少しの緊張の面持ちでゆっくりと馬車を降りた。
馬車から降り、足を地面に着けた瞬間、まるで突風が吹きつけたかのように街の喧騒が一気に耳に飛び込んできた。
近くにある噴水の涼やかな水音、遠くから響く軽快な音楽、人々の賑やかな声が溢れんばかりに辺りに広がっていた。
「わぁぁぁ...」
思わず感嘆の声を上げたセシルは、目を輝かせながら圧巻の光景に魅入られ、いつの間にか馬車から少し離れて数歩歩き出していた。
(すごい!!こんなに賑やかな場所があるなんて。んっ、あの建物は何だろう?あっ、あの人が持ってるの美味しそうだな...)
目をキラキラと輝かせつつ周囲を見渡していると、背後から声がかけられた。
「セシルはこういう場所は初めてか?」
振り返ると、どこかホッとしたような表情を浮かべるクロノスが優しい声で問いかけてきた。
「はい、こんな素敵な場所――」
セシルが言いかけたその瞬間、すぐ近くから聞き慣れた怒号が響き渡った。
「ふざけるな!!」
その声に、さっきまで賑やかだった街のざわめきが一瞬で消え、辺りが静寂に包まれたような感覚が広がった。
(っ、今の...アキラさんの声?)
ギョッとしたセシルとクロノスは、ほぼ同時に声のする方へ視線を向けた。すると、馬車のすぐ隣で、全身黒ずくめの服にベールを被った二人が言い争っているのが目に入ってきた。
片方はもう一方の胸倉を左手で掴み、軽々と持ち上げているように見えた。その体格と服装から、アキラが先ほど扉を開けてくれた御者を掴んでいるのだと、すぐに理解できた。
「え...。なっ、何事...?」
セシルが驚きに目を見開き立ち尽くしていると、その視線の先では、クロノスが慌てて二人に駆け寄り、間に入るように仲裁に入ってアキラをどうにか宥めようとしていた。
(だ、大丈夫かな...?ん、あれって...)
心配そうに様子を見守るセシルの視界に、ふとアキラの垂れ下がった右腕の裾から深紅色の短剣がちらりと覗き、鈍い光を放っているのが見えた。
これまでのアキラの行動からして、その短剣を片手で滑らせ、今にもクロノスに刃を向けかねない危険な気配が漂っていた。
――危ない。
そんな思いが全身を駆け巡るより先に、セシルはいつの間にか少し離れていたアキラの右手首を両手でギュッと掴んでいた。
「っ!お前......」
黒いベールに隠されたアキラの表情は読み取れなかったが、その声には驚きが混じっていた。クロノスも何かに驚いたように目を見開き、セシルを凝視していた。
一方、セシルは、瞳に熱が籠ったような感覚を覚えたが、気のせいだろうと自分に言い聞かせるように思わず軽く首を振り、真剣な表情でアキラを見上げた。
「...アキラさん、こんな所で争ったら目立ちますよ。その様子だと、身分が周りに知られるとご都合が悪いのではありませんか?」
セシルの言葉に、その場には、御者が胸倉を掴まれたまま少し苦しそうに呻き声を漏らす声だけ響いていた。
やがてアキラは隠しきれない苛立ちを舌打ちに込めると、乱暴に御者を下ろし、重いため息をついた。
胸倉を掴まれていた御者はクロノスとセシルに軽く頭を下げると、喉元を押さえながら速足で人ごみに紛れて姿を消した。静まっていた辺りのざわめきが、次第に元の活気を取り戻していく。
「...あ、あの、申し訳ないです。おこがましい真似を...」
御者の姿が完全に見えなくなると、セシルは慌ててアキラの手を離し、焦ったように後ろに一歩下がりながら、セシルはおずおずと頭を下げた。
アキラは一瞬だけセシルを見やり、無言で軽く右腕を振ると、低い声で返した。
「...まぁいいさ。とにかく予定が変わった。お前らはここら辺を歩き回るなりして、僕が戻るまで待っていろ」
そう言い放つと、二人を無視するように背を向け、御者が消えていった方向へ歩き出した。
(...もしかして、本来なら一緒に呼び出された教団に行くつもりだったのかな?それにしても、何に怒ってたんだろう...?)
セシルはそんなことを考えながら、アキラを見送るように姿勢を正し、そっと前で手を組んだ。
するとアキラは、少し歩いたところで突然立ち止まり、体を捻って振り向くと、クロノスに向かって素早く手のひらサイズの革袋を投げつけた。
胸元に見事命中した袋をクロノスは片手で受け止め、中で金属が触れ合う音が「ジャラッ」と心地よく響いた。
「おもっ...何ですか、これ?」
驚きつつ袋を開けようとするクロノスに、アキラは先に口を開き、言葉を投げた。
「軍資金だ。それで時間でも潰しておけ」
「軍資金...?」
小さく呟いたセシルは、屈んだクロノスが広げた袋の中を覗き込むと、そこには、光を反射して輝く金色に縁どられた銀色の硬貨や、銀色に縁どられた金色の硬貨が何十枚も詰まっていた。
「...すごい!硬貨だけど、かなりの額なんじゃないですか?」
呆気に取られたように袋の中を見つめるセシルを、クロノスは一瞥すると、ゆっくりと袋の紐を閉じ、腰に引っ掛けるようにしっかりと持った。
「あ、あれ......」
クロノスが腰に袋を掛けているその隣で、セシルはアキラが立っていた方を見やったが、すでにその姿はどこにも見当たらず、思わず驚きの表情を浮かべた。
「行っちゃった...」
そうぽつりと呟いた瞬間、頭の上に軽く手が置かれる感覚を覚え、驚いて見上げた。すると、そこには穏やかな表情で目を細めるクロノスの姿があった。
「さて、少し辺りを散歩しようか。きっと良い気晴らしになるぞ」
優しい声色に、セシルは少し驚きながらも頷くと、遠慮するなと言わんばかりのクロノスが先に歩き始めた。
だが、セシルはすぐに足を動かせず、人混みをすいすいと進むクロノスの背中を、ほんの数秒じっと見つめていた。
活気にあふれる街の風景が視界いっぱいに広がり、初めて体験するほどの人の多さに、今更ながら圧倒されているようだった。
「...っ! びっくりした...ふふっ、優しい風...気持ちいいな...」
ふと背後から、そっとセシルを前に押し出すような優しい風が吹き抜け、彼女の髪を撫でていった。思わず髪を押さえながら、その穏やかな感触に思わず微笑んだ。
「なんだか、背中を押してくれてくれているみたい......よしっ!!」
セシルは小さく呟くと、再び視線を前に向けた。そして、風に背中を押されるような気持ちで、両手で軽くガッツポーズをし、決心を固めるように一歩踏み出した。
思ったよりも速いクロノスの足取りに置いて行かれないよう、セシルは少し急ぎ足で歩き始めた。




