第17話. 新たな道しるべ
聖杯を飲んでから数日が経った頃、セシルはクロノスに「体を休めろ」と厳命され、剣を没収されたまま別の小屋で過ごしていた。体にはまだ言葉では説明しづらい違和感が残り、完全に回復したとは言えなかった。
数分前に目覚めた彼女は、窓から差し込む朝日を浴びながらベッドに横たわり、天井を見上げてぼんやりと考え込んでいた。
あの聖杯の液体と果物を口にして以来、胸の奥にくすぶるような不穏な感覚が消えない。それは微熱にも似た、じわじわと広がるぼんやりとした熱さで、確かに自分の中に根を張っているような気がしてならなかった。
(....なんだろう、まだ熱い感じがする)
セシルは天井に向かって腕を伸ばし、そっと包帯を解いてみた。かつて青白い花模様が広がっていた肌は、今ではほとんど元通りに見えるものの、二の腕の一部にはまだ花模様が残っており、以前の青白い色に淡い赤が混ざり合い、ところどころ紫色を帯びていた。
その模様はどこか不気味でありながらも、奇妙な美しさを帯びている。まるで、クロノスの力と自分の中に眠る精霊の力が、互いに混ざり合った結果...かもしれない、とそんな漠然とした考えが浮かんでいた。
(精霊の力、か....正直、まだ実感が湧かないのよね)
自分が作り出してしまった歪んだ空間や現れた花々など、その未知なる力をクロノスから聞かされた時のことを思い返していた。
(うーん。精霊って、もっと神秘的で崇高な存在だと思ってたけど....)
そんなことを考えながら、セシルは腕に包帯を巻き直し、思考を巡らせていた。包帯は傷の痛みを抑えるためではなく、目立つ傷や花模様を隠すために巻いており、今では巻いていないと安心できないほど無意識に依存しているようだった。
(んもぉー!そんなことより、クロノスさんに剣取られちゃったし、暇だよ!)
巻き終えた包帯を軽く押さえながら、セシルは不満げに頬を膨らませ、ベッドから体を起こした。その瞬間――
ガチャッ!
突如、小屋の扉が乱暴に開く音が響いた。視線を音のした方に移すと、そこにはどこか険しい表情を浮かべたアキラが立っていた。彼はセシルを一瞥すると、手に持っていた豪華な服と紐で結ばれた一足のブーツを無造作に放り投げてきた。
「おい、迎えが来たぞ。他人の目に触れることになるから、精霊様に失礼のないよう身なりを整えて来い」
「お迎え...?」
言葉の意味を理解できず戸惑いながらも、セシルは反射的に投げられた服と靴を両手で受け止め、質問を投げかけた。
しかし、アキラは何も答えず、足音を響かせながらそのまま扉を閉めながら出て行ってしまった。遠ざかる足音が静かになると、セシルは渡された服と靴をじっと見つめていた。
柔らかな生地に繊細な装飾が施された服は、自分の日常からはかけ離れた上質なものに見える。編み込みが施されたブーツも同様に上品で、自分には少し場違いに感じられた。
(...あっ、前に教団の者が迎えに来るって言ってたね。それのことかしら)
静寂が妙に耳に残る中、セシルは小さく息を吐き、持っていた靴を足元に置き、気を取り直すように服を広げた。
「むむ、可愛い服...とりあえず着てみるか...」
そう、静かに呟いたセシルは今着ているほつれた簡素な服を脱ぎ、椅子にかけようとしたその時、不意にカランと床から小さな音がした。
(ん?何の音....?)
視線を落とすと、小さな耳飾りが二つ、朝日に照らされて輝いているのが見えた。
「....最初に起きたときに見つけたやつだ。すっかり忘れてたな...」
思い出したように首をかしげ、その耳飾りをじっと凝視すると、セシルはゆっくりとしゃがみ込んで拾い上げた。包帯越しに伝わる不思議な温もりに、どこか懐かしいような感覚が胸の奥でかすかに引っかかっていた。
(...これ――)
胸の奥にぽっかりと穴が開いたような、虚ろな感覚が広がった。耳飾りをじっと見つめていると、霞の中に見覚えのない人影が浮かび、隣にはクロノスの姿がぼんやりと重なった。
「....」
セシルはその映像を振り払うように目を閉じ、首を軽く振った。そして、手を目元に当てながら、ふとクロノスの片耳につけられた耳飾りを思い出していた。
「そういえば、クロノスさんも片耳に似たような耳飾りをつけてたよね...付け方を教えてもらおうかな」
かすかに笑みを浮かべ、ぽつりとそう呟きながら、耳飾りをそっとテーブルに置くと、セシルは改めて服に手を伸ばし、着替え始めた。
◇◇◇
数分後、着替えを終えたセシルはその場でくるりと一回転し、自分の姿をどこか満足そうに確認していた。
「手のところは隠れなかったけど....大体隠れてるし。うん、これなら大丈夫だね」
包帯が見えないように何度も調整を繰り返し、ようやく納得のいく仕上がりになった。
ミディアムロングのスカートがふわりと揺れ、足元の包帯はブーツでうまく隠れている。自分のそんな姿を見下ろしながら安心していた瞬間、部屋の扉をノックする音が聞こえ、続けて聞き覚えのある優しい声が響いた。
「セシル、そろそろ着替え終わったか?」
「あ、クロノスさん、大丈夫ですよ!」
心配そうな声に、セシルは思わず軽く笑みを浮かべ、元気よく返事をした。すると扉がゆっくりと開き、クロノスが恐る恐る姿を見せた。
彼はこれまでにも貴族風の服装を身にまとっていたが、今日はそれとは異なる新調された衣装を着ていた。彼は、一瞬セシルをじっと見つめたかと思うと、少し視線をそらしながらぽつりと呟いた。
「....似合うな」
「え!本当ですか!!」
思わぬ言葉に驚きつつも、セシルは嬉しそうに両手を合わせ、瞳を輝かせていた。それを見たクロノスはどこか気まずそうに素早く背を向け、少し早口に言い訳めいた言葉を付け足した。
「その、まあ....そうだな。アキラ様も待ってるし、急ごうか」
「あ、待ってください! そんなに急がなくても...クロノスさん!!」
急ぎ足で部屋を出て行こうとするクロノスを追うように、セシルは耳飾りをテーブルから掴み取り、転ばないようにスカートを軽く持ち上げて走り出した。
◇◇◇
あれからセシルは無事にクロノスに追いつき、二人で並んでアキラのもとへ向かうと、やがて、目を閉じながらどこか考え込んでいるような雰囲気を放つアキラの姿が見えてきた。
黒いマントを羽織り、腕を組んで佇むその姿は、まるで闇そのものを身にまとっているかのように威圧感があった。
二人の足音に気づいたのか、アキラはゆっくりと目を開けると、吟味するようにセシルをじろりと見つめていた。
「ちゃんと着替えたようだな、セシル」
真っ黒のマントを纏ったアキラは、立っているだけで周囲に異様な緊張感を生み出していた。そんな彼の雰囲気にセシルは少し気圧されながらも、反射的に体に染みついていた礼儀作法で深々と頭を下げた。
「はい、こんなに素敵なものをありがとうございます...」
少しぎこちなさを含んだ言葉だったが、その端正な顔立ちと見事なドレス姿は、まるで王族の令嬢のような品格を感じさせ、自然と場の空気が張り詰めていた。
「ふん、良い感じだな。さて、今日はあれで街に向かうぞ。まあ、明日の昼には着くだろう」
満足げに頷いたアキラは後ろを向き、遠くに停まっている馬車を指さした。車体には精巧な金色の模様が施され、磨き上げられた漆黒の車輪が鈍く光を放っていた。
その異様なほどの豪奢さに、セシルは思わず目を見開き、感嘆の声を漏らしていた。
「す、すごい....」
その反応を見たアキラは、満足げに腕を組みながらセシルの方に体を向け、問いかけた。
「どうだ、気に入ったか?」
「...はい、とても綺麗ですね」
そんな二人を横目に、クロノスは馬車を操る人である、御者に鋭い視線を向けていた。セシルもその視線が気になり、思わず追ってみると、そこには真っ黒のマントを纏い、顔を黒いベールで覆った人物が静かに佇んでいた。
(黒いマントに黒いベール...。随分と奇妙な格好ね。でも、アキラさんとほぼ同じ格好だし、あの人も教団の人ってことなのかしら...?)
セシルは異質な格好をした御者をじっと見つめたまま考え込んでいたが、その思考をアキラの声が響いたことで遮ぎられた。
「さて、ここでこんな立ち話をしている暇はない。さっさと乗ろうではないか」
促されてハッとしたセシルは、クロノスと共にアキラの後を追い、馬車に乗り込んだ。車内は見た目以上に快適で、柔らかなクッションと上質な内装が施されていた。
「....見た目以上に快適な馬車だな。まあ、街に着くまでの道のりを楽しもうではないか」
腰を下ろしたアキラは軽快な口調で言い放ったが、その向かいに座るクロノスは彼の言葉に応じることなく静かに様子を窺っていた。一方、クロノスの隣に座ったセシルは、閉鎖された空間にじわじわと高まる緊張感を覚え、どう振る舞うべきか分からず、ただ座っているしかなかった。
(うぅ...この緊張感、何だろう。密室だからかな...)
やがて、馬車がゆっくりと動き出し、地面を滑る車輪の音がかすかに響く中、外の風景が徐々に流れていった。
しばらく無言の時間が流れたが、どうしても気になることがあったセシルは意を決してゆっくりと口を開いた。
「あの...以前差し出してきた聖杯と果物は、一体何だったんですか? あの時、体に異変があったのは何が原因なんですか?」
不意に投げかけられた問いに、アキラは一瞬驚いた表情を見せるも、すぐにニヤリと笑みを浮かべた。
「言っただろう。あの聖杯に入っていた液体は、精霊様の力を得られるものだと。君が生きている時点で、僕の実験はほぼ成功といったところだな」
軽々しい口調とは裏腹に、その言葉にはどこか狂気じみた響きがあり、思わずセシルの背筋に冷たいものが走った。その言葉の裏に潜む異様な気配が、鋭い牙を覗かせているように思えた。
「それに、あの果物も僕の特別製だ。精霊の力を測るためのな――。ここに来る前に君は一度口に.....おっと、ここからは記憶のない者には余計な話だったな」
アキラはそう言葉を終えると、話を締めくくるように軽く肩をすくめていた。その態度の軽さに、クロノスは警戒心を高め、沈黙を破るように口を開いた。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「なんだ、言ってみろ」
アキラは窓に肘を乗せ、どこか面白がるような顔でクロノスの次の言葉を待っていた。
「...アキラ様が言う、精霊様とはどんな存在なのですか?」
セシルはアキラに視線を向け、その問いの返答を聞きたそうにしていた。一方、アキラはもう片方の手で笑う口元を軽く押さえ、窓の外に視線を移しながらぽつりと話し出した。
「精霊様はな、この世界を治める力を持つ存在さ」
(あの、奇妙な力が世界を治める力、なの...?)
その言葉に疑問を抱いたセシルは考え込むように唇に指を当てたまま沈黙していた。そんな中、クロノスがなおも疑念を抱えた表情で、慎重に問いを重ねた。
「...では、アキラ様は魔獣を精霊として崇めているのですか?」
「は?」
その問いかけが終わるや否や、馬車の中の空気が一気に凍りついた。
次の瞬間、アキラは袖から短剣を引き抜き、クロノスの顔面を狙って鋭く突き出す。鋭い音が馬車内に響く中、クロノスは即座に反応し、人差し指と中指で短剣を挟み込み、刃を眼前で止めた。
「...」
クロノスのもう片方の手は、座っているセシルを庇うように、彼女の前へと腕を伸ばしていた。その奥で、セシルは突然の事に目を見開き、呆然と二人のやり取りを見つめている。すると、アキラは舌打ちを鳴らすと、冷たい瞳をクロノスに向けながら話しだした。
「ふざけた発言を――」
短剣を握る手をゆっくりと緩めながら、アキラが低くそう言い放った。その声には怒りと苛立ちが混じり合い、ぞっとするような冷気を伴っている。
「アレはただ、“あの者”が作り上げた紛い物にすぎない。僕が崇拝しているのは精霊様自身で、“あの者”ではない」
やがて、アキラは短剣を手元に引き戻し、一度華麗に回転させてから袖の中へと滑らせた。その場の緊張感は解けるどころか、むしろさらに深まっていた。
(“あの者”....って教団に関係する存在、なのかな?どうしよう、謎が多すぎるな...)
頭の中で飛び交う言葉を整理しようとするものの、疑念は深まるばかりだった。曖昧な言葉が意味するものを知りたいと思いつつも、不機嫌そうなアキラにこれ以上問いかける勇気は出なかった。
一方、クロノスも短剣を止めた指を軽く振りつつ、頭を掻く仕草を見せたが、それ以上の言葉を発することはなかった。
こうして馬車内は静寂に包まれ、冷たい緊張感だけが漂った。外の景色は次第に深い森へと変わり、木々のざわめきが不気味に響き、その音がかすかに馬車内まで届いていた。
(....これから行く街で、何事もなければいいんだけど)
セシルは身を小さく縮めながら窓の外をじっと見つめていた。不安を拭えないまま、何かが起こりそうな予感が胸をよぎる――その直感が正しいと知るのは、もう少し先の話。




