第16話. 歪んだ精霊の影
突如、部屋全体が青白い光に包まれた。その瞬間、空間が軋むような音を立て、目に見えない力が押し寄せてくるような圧迫感が部屋全体を支配した。
「セシル!どこだ!」
クロノスの叫び声は、歪んだ空間に押し流されそうになりながらも、彼は目を細め、慎重に一歩ずつ足を進めた。空間に漂う歪んだ空気を感じ取りつつ、手に握った召喚した鎖の感触だけを頼りに、なんとか踏みとどまっていた。
異常な空間の圧迫感と軋むような音が、状況の異様さを際立たせていたが、クロノスは冷静さを保ちながら周囲を見回し、次の一歩を踏み出した。
やがて、眩い光が徐々に収まり、ぼんやりとした輪郭が視界に浮かび上がる。その中に、椅子の上で前かがみになっているセシルの姿があった。
彼女は小さく身を丸め、両腕で自分の体を抱え込むようにしている。苦しそうに肩を震わせながら、息を詰まらせるような微かな声を漏らしていた。クロノスは一瞬だけ彼女を見つけられた安堵を覚えるものの、次の瞬間には冷や汗が背筋を伝い、頭の中に疑念がよぎる。
(馬鹿な....この空間の歪み、セシルが関係しているのか?だが、あの魔獣と同じではないか!)
目の前の彼女から漏れ出す力――それは、数週間前に戦った魔獣の放っていた空気に酷似、いや、それ以上に強い圧迫感を伴っている。
彼は足を止めず、慎重にセシルへと歩み寄った。周囲にはまだ残る青白い光と、空間が断続的に軋むような音が響いている。
「セシル、しっかりしろ!!」
クロノスは必死な声で呼びかけながら彼女に少しづつ近づくが、その瞬間――
「なっ!」
彼女の周囲に漂う光が不自然に揺れ、突如として冷たい衝撃と共に床からツタのように青白い花が生え広がり、勢いよくクロノスに向かって伸びてきた。
クロノスは咄嗟に空中から召喚した短い鎖を振るい、迫りくる花を切り刻んだ。その動きは的確で素早かったが、花が巻きつく勢いの異常さに彼は僅かに後退せざるを得なかった。
「っ!」
不意の衝撃に目を見開き、クロノスは即座に数歩後退して体勢を立て直した。その場に残る微かな力の残滓が、彼の手に触れた感覚を再現するかのように伝わってきた。
ふと、足元に何かが当たる感触を覚えたクロノスは横目で確認すると、そこには、不気味なほど鮮やかに咲き誇る数種類の花が散りばめられていた。それらは空間の歪みに耐えるように花びら一枚動かさず、ただそこに佇んでいる。
(...この異様な光景。彼が飲ませた聖杯と果物の影響か?だが、これが“精霊の力”だというのなら、あの魔獣も精霊と同等の存在だということになるのか?そんなことはありえない!)
クロノスの脳裏に、アキラが崇めていると豪語していた「精霊」の存在と、かつて戦った異形の魔獣の姿が重なった。その矛盾に彼の心は混乱し、胸の奥に冷たい恐怖が広がるのを感じ、彼は焦りを隠せず、セシルに向けて声を張り上げた。
「セシル!おい、しっかりしろ!」
だが、セシルは前かがみの態勢のまま、ほとんど反応を示さなかった。漏れ出す光は徐々に収まりつつあるが、それに反比例するように空間の歪みの力は一層強さを増していた。
「くそっ.....この力、何としても止めなければ!」
声には冷静さを装っていたものの、内心では明確な恐怖が広がっていた。目の前のセシルは、得体の知れない力に飲み込まれつつある。クロノスはその光景を前に、焦燥と混乱に苛まれながらも、力強く拳を握りしめ、次に取るべき行動を必死に模索していた。
(....たしか、あの時は俺の力を流し込むことで、暴走を止めたはずだ。だが、セシルに悪魔の力を注ぎ込むなんて...)
胸の内で葛藤が渦巻く中、それでも彼の体は無意識にセシルのそばへと動き、
ためらいながらも彼女の背中にそっと手を置いた。
「....すまない。これしか方法が思いつかない。これでダメだったら、いくらでも俺を恨んでくれ」
彼から放たれる声は低く、けれど決意の色がにじんでいた。
次の瞬間、クロノスの手には赤黒く禍々しいオーラが纏われた。それは周囲の歪んだ空間をかき消すほどの力を帯びており、彼は歯を食いしばりながらその手に纏われたオーラを一気にセシルの身体に押し込んだ。
――ドクンッ。
鼓動のような響きと共に、セシルの身体から溢れる青白い光とクロノスの赤黒いオーラが激しくぶつかり合い、絡み合った二つの力は暴れ狂い、衝撃波のような勢いで空間に放たれた。まるで二つの力が拮抗し、周囲の空気そのものを震わせているかのようだった。
「....くっ!」
クロノスは、暴走する力の猛威に息を呑みながらも、歯を食いしばり、全身の力を込めてセシルに自らの力を送り続けた。荒れ狂う力の反動が波のように押し寄せ、身体中に重圧として響くたび、まるで全身を押し潰されるかのような感覚が襲った。それでも、クロノスは足を踏ん張り続けた。目の前で苦しみもがく彼女を救うという決意が、彼を動かしていた。
だがその瞬間――不意に、横から誰かがそっと手を重ねる感触を覚えた。
「.....っ!?」
驚きに目を見開き、視線を動かしたが、姿は見えない。だが、その感触はどこか懐かしく、そして不思議なほど温かみがあった。荒々しく冷たい歪みの空間の中で、その手から伝わるぬくもりだけが異質で、忘れている何か、あるいは誰かを思い出させるような感覚に陥っていた。
(....誰だ?まさか、こんな時に――)
記憶が遠く、かすかに呼び起こされるが、すぐにそれは霧散した。名前は思い出せないものの、どうしてもその手がどこかで触れた事があるような気がした。だが、クロノスは首を軽く振り、意識を現実に引き戻した。
「違う....今はそんなことを考えてる場合じゃない!」
そして、再び力を込め直し、足を踏ん張り、その見えない手のぬくもりを支えにしながら、彼は荒れ狂う力に抗い続けた。
(耐えろ....耐えてくれ!!互いが耐えれば、この力は必ず止められる!!)
暴風のような力の奔流が長く続く中、クロノスの額から冷や汗が伝う。やがて、暴れ狂っていた力は徐々に収束し始めた。青白い光と赤黒いオーラが相殺されるようにして薄れていき、次第に部屋全体に静けさが戻っていた。
「.....っ、ふぅ...止まった、か...」
目の前のセシルの身体もようやく落ち着きを取り戻していった。肩を小刻みに震わせながら、体を軽く起こしながら、彼女は微かに息を漏らしていた。その姿を確認したクロノスは、膝をつきながら息を整えた。
彼は疲労にまみれながらも、目の前で力を静めたセシルを見つめるその横顔には疑念や困惑が入り混じっていた。
(この力は一体なんなんだ....彼女の中で何が起きている?)
疑問は尽きないまま、クロノスは視線をセシルに向け続けると、クロノスは息を整ええ、体を起こしながら、彼女の肩に手を伸ばして低く呼びかけた。
「セシル....大丈夫か?目を開けろ」
彼の声には緊張と焦りが滲んでいた。呼びかけるたびに、自分の中で押し寄せる不安を振り払うように、彼は彼女の顔を覗き込んでいた。しばらくの沈黙の後、セシルはかすれた息を吐きながら、ようやく瞼をゆっくりと開いた。
「.....ぁ、クロ...ノス、さん...」
その声は弱々しく、まるで夢の中で呟くようだった。彼女の視線はまだ定まらず、震える手を宙に伸ばして何かを探るように動かしていた。その様子に、クロノスは安堵のため息を吐き、彼女の片手をそっと包み込んだ。
「....生きているなら、それでいい」
クロノスの声は冷静を装いつつも、わずかに優しさが滲んでいた。
「セシルの中で暴走した精霊の力を防ぐために、俺の力を少し分けた。だが、無理はするな。人間に悪魔の力を流し込むなんて、本来ならやるべきじゃないんだ」
「.....精霊...の力?悪魔の...力?」
セシルは震える声で問い返した。その言葉には戸惑いが滲み、彼女自身も自分の中で何が起こったのか完全には理解できていない様子だった。
クロノスは一瞬、表情を引き締めると、ふと後ろの床に視線を向けた。そこには不自然に咲き誇る数種類の花が、周囲の異様な雰囲気と相まって、まるで彼を見つめ返しているような錯覚を与えていた。
(...この場所は普通じゃない。長居するのは危険だな)
異様な光景に警戒を覚えたクロノスは再びセシルに視線を戻すと、掴んでいた手をそっと放しながら声をかけた。
「...一人で歩けそうか?ここから移動するぞ」
セシルは少し息を整えながら、自分の手をじっと見つめた後、ぽつりと呟いた。
「クロノスさん...今、誰か...いませんでしたか?わたしを守ってくれたような...そんな気がして...」
その言葉にクロノスは一瞬、動きを止め、驚きが胸を締め付けたが、それを悟られまいと、すぐに表情を整えるため軽く目を伏せながら口を開いた。
「...何を言っているんだ。そんなわけないだろう」
静かにそう答えると、クロノスは立ち上がれないままでいたセシルを無理やり抱き上げた。彼女の体は驚くほど軽く、けれど発熱したように熱を帯びていた。その感触に驚きつつも、クロノスは異様に咲く花に触れないよう慎重に足を進め、扉へと向った。
ガチャ
扉を開けた瞬間、外の空気が冷たく肌を刺した。クロノスは息を吸い込み、視線を上げた。
(やはり、彼女も感じていたのか。誰かの気配を....)
歪んだ空間が充満する中、どこか温もりを感じたあの手の感覚が、クロノスの脳裏をちらついたが、彼はその断片を振り払うかのように無言で足を踏み出した。
腕の中のセシルは静かに目を閉じていたものの、その表情は穏やかとは程遠く、不安と疲労の影が濃く残り、全身から力が抜け落ちているのがわかる。その姿に、クロノスは無意識のうちに視線を落とした。
(.....それにしても、精霊の力か。まさか、彼は魔獣を精霊と称して崇めているのか?それとも、もっと別の何かが――)
彼のその片耳に揺れる耳飾りは、何かを暗示するように不自然に煌めいていた。光が淡く揺れ、まるで何かを伝えようとしているかのように、不規則な輝きを放つ。それに気づく者はなく、クロノス自身もまた、その異変を知らぬまま、セシルを抱え、足を速めるだけだった。




