第15話. 宿命の果実
空から舞い降りた魔獣による襲撃から数週間後――
あれ以来、特に目立った出来事はないものの、セシルはどこか胸の奥に違和感を抱えながら、小屋の中で無我夢中にクロノスに借りた剣を振り続けていた。
その様子を見守るように、クロノスは壁にもたれかかり、腕を組みながらその様子をじっと見つめていた。
(......やはり、何度指摘しても治らない奇妙な癖があるな。剣を扱う姿を見る限り、過去に相当鍛えていたはずだが....。くそっ、どうして彼女に関する記憶がこんなにも欠けているんだ)
クロノスは片手を顔に覆い、表情を隠すように軽いため息をついた。そして、思考を断ち切るように首を小さく振ると、手の指の隙間からセシルを再び真剣な眼差しで見つめた。
(思い出せないことは仕方がない。それにしても、今の問題は....セシルの食事だ。皿に盛られたものを何一つ口にしようとせず、挙げ句には過呼吸を起こすとはな。最低限の栄養は何とか取らせているが――)
『ほら、フォークもナイフも使わなくていい、とにかくしっかり食え! か弱い人間のくせに、これ以上食べなければ骨、いや塵になるぞ。ほら、口を開けろ!!』
『んー、食べますから!! パンを顔に突かないでください!!』
(......はぁぁ、全く手がかかる子だ。あんな調子では、先が思いやられるな)
クロノスは深いため息をつきながら、壁を伝ってズルズルとしゃがみ込み、指を組んだ手で顔を覆った。その様子に気づいたセシルが剣を振る手を止め、不思議そうに首をかしげる。
「クロノスさん...? どうかしました?」
その声にクロノスは反応せず、視線を床に落としたまま考え込んでいた。
(セシルの体についた傷、過剰な食事への恐怖心、それに異常なほど整った所作....やはり、アキラ様が関与しているのか? だが肝心の本人は...)
クロノスが膝に手をつき、ゆっくりと立ち上がろうとしたその時――
「お前ら、何しているんだ?」
「...っ!」
低い声にクロノスが素早く顔を上げると、扉の前に立つアキラの姿が目に入った。片手には聖杯とリンゴのような果物を乗せた皿を持ち、もう片方の手を扉に寄りかからせながら鋭い視線を向けていた。
「ア、アキラ様...。実に数週間ぶりですね...」
――そう、二人が魔獣と戦ったあの日以降、アキラは何かに取りつかれたように焦りを見せ、険しい表情で「逃げてもわかるからな」と釘を刺してから姿を見せていなかった。
クロノスが久々に見た彼の姿を観察しつつ恐る恐る口を開くと、アキラは無言で部屋の中へと歩み寄り、手に持っていた皿をテーブルの上に置いた。その動作は妙に丁寧でありながら、どこか不気味なものを感じさせた。
クロノスが視線を皿の上に移すと、そこに乗せられた真っ赤な果物を見た瞬間、ぼんやりとした記憶が頭をよぎった。
(この果物....どこかで見たことがある。確か、誰かに渡した記憶が――)
記憶の欠片を辿るように思考を巡らせていると、アキラがセシルに目を向け、探るような表情でにこやかに話しかけていた。
「久しぶりに見たら、セシルは剣術を始めたのか? ん?」
(っ! まずい。彼には剣のことを秘密にしておくつもりだったが...)
クロノスが言い訳を考える間もなく、セシルは軽やかにお辞儀をした後、王族さながらの笑顔を浮かべて答えた。
「お久しぶりです、アキラさん。実はクロノスさんに、魔獣に襲われた時のために剣を振っておくようにと教わったんです。でも、まだまだ未熟で...」
クロノスは一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐにセシルの意図を理解し、彼女の言葉をフォローするように軽く頷いた。
「そうだ。最近、彼女に体力をつけさせるため、少し運動をさせているところだ」
二人の言葉を聞き終えたアキラは一瞬目を伏せ、何かを考え込むように間を置いてから、ジロリと二人を見渡し、皮肉げな笑みを浮かべた。
「へぇー、体力作りね。でも、あまり無理はさせるなよ。セシルの体調が悪くなったら、困るのは僕だからね。...まあ、セシル。とりあえず席に座りなよ」
アキラは椅子に座りながら、同じようにセシルを椅子に座るように促し、クロノスにはその後ろに立つよう指示をした。
「...」
クロノスは小さく息を吐きながら、静かに指定の位置へと移動した。
◇◇◇
「さて、セシルに試してほしいものがあってね」
そう言いながら、アキラは机に置いていた聖杯と果物が乗った皿をセシルの前へと押し出した。まるでそれが絶対の命令であるかのような無言の圧力が漂っていた。
テーブルの上に置かれた聖杯中に満たされた液体は不気味なほど鮮やかな青色をしていた。表面には金色の細かで、どこか花びらのような形の気泡が浮かびあがっており、美しいと同時に、どこか異常で不気味なオーラを纏っているようにも見えた。
一方、皿に置かれた真っ赤な果物は不気味に輝き、甘い蜜の香りを漂わせている。しかし、その鮮烈な色彩に潜む違和感が、セシルの胸をざわつかせた。
「あ...あの、これは?」
セシルは警戒心を押し隠しながら、慎重に尋ねると、アキラは肘をテーブルに乗せ、にやりと薄笑いを浮かべた。その表情はセシルの不安をまるで楽しむかのようだった。
「聖杯に入っているそれは、”精霊様の力”を得られる、僕の実験の完成品と言えるものなんだ。さぁ、早くこれを飲み干してくれよ」
「これを、ですか...」
聖杯を前にして、セシルの目に僅かな動揺が走っていた。真っ青な液体の中に吸い込まれそうな感覚と共に、胸の中に広がる得体の知れない不安が彼女を包んでいった。
「そうだよ」
アキラはその口元を冷酷に引き締め、目の奥に隠された異常な熱をちらつかせた。
「できれば、僕の機嫌が悪くなる前に、飲んでもらえると嬉しいんだがな」
「....」
その声は甘さを帯びながらも、拒否など許さない冷たさが宿っていた。彼の視線はセシルを見下ろすように絡みつき、まるで彼女を縛り付けるような重圧を与えていた。
(これを飲んだら、どうなるんだろう。この人が何を考えているのか全然分からない...でも、拒否なんて、できない...)
セシルの手は僅かに震えながらも、無意識のうちに聖杯へと伸びていった。その背中には、無言のまま心配そうに見守るクロノスの気配があった。
(とりあえず...ここは従うしかない。うん、大丈夫。呼吸はできてる。一気に飲んで楽になろう...!)
意を決したように、セシルは聖杯を手に取った。聖杯の冷たさが手のひらを刺すように伝わるが、彼女は気に留めず、一瞬だけ躊躇してから、目を固く閉じ、息を止めて一気にその中身を喉に流し込んだ。
――ドクンッ。
体内に入り、胃に到達したその液体は冷たさではなく、灼けるような熱が体中を駆け巡った。その熱さは瞬く間に全身へと広がり、血が沸き立つような感覚が彼女を襲った。鼓動が耳元で響き渡り、手先が微かに震え始め、まるで体の奥底で眠っていた何かが目を覚ましたかのようだった。
セシルは体の中から沸き起こる奇妙な感覚に驚き、思わず聖杯をテーブルに落としてしまう。倒れた聖杯からは、わずかに残った液体がこぼれ落ちていた。その瞬間、彼女の瞳にはかすかに青い光が宿っていた。
「へぇ、いいじゃないか。予想以上の反応だ」
聖杯を落としたセシルに怒りの色は見せず、むしろ満足げに目を細め、その反応を楽しむかのように彼女を観察していた。その視線はやがてセシルの後ろに立っていたクロノスに向けられ、「邪魔をするな」と言わんばかりの冷たい圧を放っていた。
「では、次はこれだ。このままかぶりつけ」
アキラは冷ややかな口調で言いながら、手に持った果物をセシルの目の前に差し出してきた。セシルは体の震えを感じながら、ゆっくりと手を伸ばした。彼の命令には逆らってはいけない――。どこから湧き上がるのか分からないその思いは、彼女自身の意志ではなく、身体そのものが支配されているかのようだった。
そして、果物に口をつけ、恐る恐る一口かぶりついた瞬間――
「っ...!?」
青白い光が、眩い閃光が瞬く間に部屋全体を包み込んだ。その場にいた者たちは、視界を奪われた驚きに声を上げながら、反射的に手で目を覆った。
◇◇◇
やがて光が収まると、アキラの顔には驚きと歓喜が浮かんでいた。その瞳は熱に燃え上がり、満足げに輝いていた。
「やっぱり、間違いなかった...!セシル、お前はやはり特別だ!!」
彼の声には尋常ではない興奮が宿り、先ほどまでの冷淡さがまるで別人のように変わっていた。その熱狂的な様子に、部屋の空気が一層重く、不吉に感じられる。
クロノスは光の余韻に目を僅かに細めながら静かに立ち尽くしていたが、アキラの言葉に引っかかるものを感じたのか、険しい表情を浮かべ、思わず彼を睨みつけていた。
「これは....."あの者”に良い報告ができる!!でかしたぞ、セシル!!」
アキラは満足げに声を上げると、足早にその場を後にした。扉を開け、その背中が完全に消え去るまで、部屋にはセシルの乱れた息だけが響いていた。
セシルは椅子に座ったまま、全身を覆う奇妙な熱と違和感に呆然としていた。胸元を押さえる手は小刻みに震え、その目にはかすかな怯えが浮かんでいる。
体が重く、まるで自身が別の存在に取り込まれつつあるかのような感覚に捕らわれ、動くことすらままならなかった。
「おい、大丈夫か?今のはどう考えても普通じゃないぞ」
クロノスがセシルに歩み寄り、肩に手を置いて低く囁いた。その声は冷静を装いつつも、焦りと心配が混じり合っている。
「.......はい。でも、体が少し.....熱いです」
セシルはようやく絞り出すように答えたが、胸の奥から何かが膨れ上がっていく感覚は止まらなかった。
クロノスは一瞬、彼女の額に手を当て、その異常な熱さに一瞬目を見開かせたが、表情を変えずに静かに口を開いた。
「.....無理するな。ひとまず水を取ってくるから、ここでじっとしていろ」
クロノスは彼女を落ち着かせるために肩に手を置き、軽く叩くと、静かにその場を離れようとした。しかし――
「.....あれ?」
クロノスがわずかに距離を取ったその瞬間、セシルの体内で再び異様な熱が膨張し始めた、体の奥底から湧き上がる圧迫感に、反射的に腕を掴んでいた。まるで、内側から何かが侵食してくるような感覚が、痛みとなって全身を駆け巡る。
「ぃっ...」
突如、これまでに経験した傷の痛みとは明らかに異質な激痛が腕に刺すように走った。あまりもの痛さに恐る恐る包帯を捲ると、そこには――
腕一面に、青白い花模様が皮膚の下で脈打つように広がり、龍の鱗のように浮かび上がっていた。
「なに、これ...あの時の...?」
――その模様は、目覚めた時に包帯の下に僅かに見えたものと同じ。そして、数週間前、魔獣が爆発した際に舞い落ちた青白い花びらを思い起こさせるものだった。
セシルがそう呟いた次の瞬間、彼女の身体から青白い光がじわじわと漏れ出し始めた。それは徐々に強さを増し、眩いばかりの輝きとなって爆発的に部屋全体を包み込み、同時に、周囲の空気が異様に歪み始め、冷たく重い圧力が押し寄せてきた。
「....っ....!」
軋むような不気味な音が響き渡り、まるで空間そのものが軋んでいるかのような感覚が部屋を支配していった。




