第12話. 悟られぬ立ち回り
ふと気づけば、セシルは静かで温かみのある村に立っていた。
(ん、ここ......夢?)
見たことがないはずなのに、どこか懐かしい。そんな感覚に駆られたセシルは、思わず周囲を見回していた。
柔らかな風が頬を撫で、遠くから子どもたちの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。その穏やかな風景は、まるで記憶の片隅から引き出されたような不思議な感覚を伴っていた。
ふと、隣に人の気配を感じ、視線を向けると、クロノスがどこか遠くを見つめて立っていた。彼の表情は驚くほど穏やかで、まるで安心感そのものを象徴するかのようだった。
(......さっきの人だ。もしかして、わたし彼と会ったことが...?)
そんな事を思いながら無意識にクロノスをじっと凝視していると、彼はセシルの視線に気づいたのか、ゆっくりとこちらを見つめ返してきた。
「おや、セシル。どうしたんだい?向こうに繧ィ繝ォ繝がいるぞ。行かなくていいのかい?」
「...繧ィ繝ォ繝?」
クロノスの口からこぼれた、耳にしたことのない言葉。
セシルはそれを反射的に復唱しようとしたが、口を開くたびに奇妙な感覚が走り、曖昧でまるで文字化けしたような掠れた音しか出てこなかった。
その言葉の意味を掴めぬまま、彼が見ていた視線の先を追うと、そこには誰かが優しい笑みを浮かべながらこちらに手を振っていた。
笑顔は確かに感じ取れるのに、霧がかかったようにはっきりとその姿が見えず、表情も輪郭も曖昧で、それでいてなぜか見覚えがある気がした。
(あの人.....誰だっけ?)
その矛盾する感覚に戸惑いながらも、セシルは無性にその影へと近づきたい衝動に駆られた。手を振り返そうと声をかけたが――
「縺雁ァ峨■繧?s!!」
再び掠れた音が出るばかりで、言葉にならない。何度も口を動かそうとするたび、焦燥感だけが募っていった。それでも人影は変わらず手を振り続けていた。
「今、そっち行くね!!」
セシルは声を出すのを諦め、隣にいたクロノスを一瞥すると、手を振る人影の方へ思い切って駆け出した。だが、その瞬間――
(え....?)
突如として鮮やかだった村の風景が揺らぎ始めた。緑豊かな草木も、家々も、まるで水彩画に水を零したように色や形を失っていった。同じように、手を振っていたその人影も徐々に滲み始めた。
「待って!行かないで!」
セシルは震える声をあげながら必死に足を動かし続けると、突然足元に絡みつく何かに気づき、視線を落とした。すると、真紅の鎖が片足にびっしりと巻きつかれていた。
「何、これ....!」
解こうとする間もなく、鎖はまるで生きているかのように伸び、彼女のもう片方の足、さらには腕にまで絡みついていき、抵抗する間もなく、強い力で後ろに引き倒され、地面に叩きつけられる感覚に襲われる。
セシルは必死に手を伸ばすが、手の先に掴むものはなく、人影はますます遠ざかっていく。やがて、視界が真紅の鎖に覆われ、すべてが飲み込まれていった。
「お願い!わたしを置いて行かないで――!!縺雁ァ峨■繧?s!!」
ガバッ!
セシルは影を追おうともう一度叫ぼうとしたが、気が付いたらベッドの上で飛び起きていた。額には汗がにじみ、胸の鼓動が速まっているのがわかる。
「なに、今の...うっ、いったぁ...」
痛みを感じた頭を手で押さえようとしたその時、不意に隣から穏やかな声が響いた。
「セシル、無理しては駄目だ。大丈夫かい?」
驚いて顔を向けると、クロノスが椅子に腰掛けてじっとこちらを見守っていた。どうやら彼がベッドまで運び、看病してくれていたらしい。
「ありがとうございます。もう、大丈夫です。.....そうではなくて!」
セシルは荒い呼吸を整えながらも、一度息をつき、戸惑いを押し殺して意を決したように口を開いた。
「あの.....わたし、あなたと、どこかで会ったことがあるのでしょうか?」
クロノスは一瞬驚いたように目を細めたが、目を伏せて考え込むように間を置き、ゆっくりと口を開いた。
「......セシルとは、過去に会ったことは、確かにある」
「そう...なんですね。すみません、記憶が何もなくて。さっきまで、自分の名前すら知らなかったんですよ。えへへ....」
ぎこちなく笑いながら言葉を紡ぐセシルに対し、クロノスの表情はどこか申し訳なさそうだった。少しの沈黙の後、クロノスは重々しく口を開く。
「そのことなんだが....セシルの記憶がないのは、俺との契約によるものかもしれない」
「契約......?それに、“かもしれない”ってどういうことですか?」
クロノスは一息つき、自分が契約悪魔であること、その存在の意義や役割を丁寧にセシルに説明し始めた――。
◇◇◇
「...なるほど。それが契約悪魔、ですか」
セシルはその言葉を聞くと、手を顎に当てて思案にふけるように黙り込んでいた。
「...やはり、怖いか? 他人の命を平然と扱うような存在だなんて...」
クロノスは自分の存在について彼女がどう感じるか、不安そうな表情を浮かべながら恐る恐る尋ねた。
その様子を見て、セシルは彼のしゅんとした顔に思わず微笑むと、軽い口調で返した。
「ふふっ、心配しないでください。初めて聞く話が多くて少し戸惑いましたけど、あなたが悪い方じゃないことはわかりましたし」
「そ...そうか...」
クロノスはセシルの言葉に胸を撫で下ろし、ほっとしたように安心の表情を浮かべた。
だが、次の瞬間にはその穏やかな表情を引っ込め、真剣な眼差しで彼女を見つめながら低い声で話し始めた。
「そしてだ。ここからが本題だ...」
突然の彼の表情の変化に、セシルはごくりと唾を飲み込み、次の言葉を待った。
「...どうやら俺たちは契約で結ばれているらしい」
「らしい...?」
セシルはゆっくりとその言葉を反芻した。クロノスは気まずそうな顔をしながら頭を掻き、苦笑を浮かべた。
「言いにくいんだが、俺も記憶がないんだ。セシルがどんな願いをして代償として俺に何を差し出したのか、それさえも分からない。ただ....俺の中で君と契約を交わした繋がりが確かに感じられるんだ」
「えっ、クロノスさんも記憶が...?」
セシルは驚きのあまり膝にかけていた毛布を蹴飛ばしてしまい、その勢いで上半身を前に乗り出していた。一方クロノスは動きを止め、何かを考えるように目を伏せていた。
「...あれ、えっと、クロノスさんーー?」
セシルは固まったままの彼に首を傾げ、手をひらひら振って注意を引いた。クロノスは軽く首を振り、気を取り直すと、小さくため息をついてから話を続けた。
「すまない。なぜか今の呼ばれ方が引っかかるような....いや、気にしないでくれ」
軽く咳払いをして気を取り直すと、クロノスは再び口を開いた。
「セシルとは違って、俺は全ての記憶を失ったわけじゃない。そうだな...具体的にはアキラ様と契約を結ぶ前後の記憶が曖昧なんだ」
その言葉を聞いたセシルはしばらく考え込むように黙り込んだ。そして、ようやく考えがまとまったのか、ゆっくりと口を開いた。
「あ、あの...その、アキラさんって――」
そう言いかけた瞬間、クロノスが急に扉の方に鋭い視線を向け、人差し指を唇に当てて「静かに」と促す仕草を見せた。
「...」
セシルは慌てて両手で口を塞ぎ、声を潜めた。それを確認すると、クロノスは椅子から立ち上がると、セシルの肩を軽く押して毛布を掛け直し、ベッドに横になるよう促してきた。
「えっ、あの...」
突然の出来事に戸惑いながらも、セシルは大人しく毛布に包まれたまま横になっていると、クロノスは優しくセシルの頭をぽんぽんと叩くと、すぐに部屋の中央へと移動した。
「セシル...すまないが、少しの間、寝たふりをしてくれないか?」
クロノスの低い声に従い、セシルは軽く頷き、目を薄く開けて状況を伺っていた。
すると、クロノスが食卓に並べられた料理に手をかざし、その一部を何かの力で粉々に消滅させていた。
消滅というよりは、小さな鎖が瞬く間に召喚され、それらを切り刻んでいるようにも見えた。
(...何しているのかな?)
セシルが疑問に思った矢先――
ダンッッ!!
「おい、クロノス!!」
扉が勢いよく開かれる音が響くのと同時に、不機嫌そうな声をしたアキラが現れた。セシルはその声のボリュームに驚きのあまり体をぎゅっと縮め、自然に寝返りを打つようにして背中を向けた。
「お前、こんな所で!.....ちっ、寝ているのか」
アキラの不機嫌な声は変わらなかったが、セシルの様子を見ると声量を抑えていた。
すると、アキラは腕を組み、踵をトントンと軽く鳴らすが、それ以上何も言わず、妙に間を取っていた。
(...どうしたんだろう。うぅ、下手に背中向けなければ良かったー)
寝たふりをするようクロノスに言われたセシルは、様子を見れないことを少し後悔しながら、息を殺しその場をやり過ごそうと耐えていた。すると、クロノスの落ち着いた声が沈黙を破った。
「アキラ様。セシルは今ぐっすり寝ていますので、ちょっとやそっとでは起きませんよ」
「そうかよ。なら、遠慮なく話させてもらう」
どこか焦りや苛立ちが入り混じっているアキラの声が響いた。
「お前がここにいることは目を瞑ってやる。セシルが記憶喪失になったことで、前と状況は変わったからな」
「...記憶喪失ですか。わかりました」
クロノスは初耳であるように振る舞いながら、やや興味を引かれるようなトーンで言葉を続けた。
「それにしても、アキラ様、俺がここに居るとよくわかりましたね」
「ハッ、契約者の特権を忘れるなよ。お前の位置はいつでも把握できる。それくらい当然だ」
アキラの声には嫌味じみた誇らしさが含まれていたが、クロノスはそれを聞き流すかのように短く「なるほど」と応じていた。そして、クロノスは真剣な表情になり、疑問になっていたことを尋ねた。
「それで...ご用件は何ですか?」
その言葉の後、苛立ちが増したのか、アキラは舌打ちを一つして話を続けた。
「知らせが来たんだ。数か月――いや、数週間以内だ。迎えの馬車が来る。一緒に来てもらうことになるからな、そのことを頭に入れておけ」
「迎え...ですか?どこから?」
クロノスが軽く首を傾げると、アキラの表情が一瞬曇るが、すぐにその視線を冷たく投げ返した。
「僕が所属する”アストラル教団”だ...」
苛立ちを押し殺すように言い放つと、アキラはどかどかと重たい足音を立てながら扉に向かっていた。
(アストラル教団...?)
セシルは初めて聞く単語に心の中で復唱していると、クロノスがどこか冷静に様子を探るような声をアキラにかけていた。
「...機嫌が悪そうですね、アキラ様」
すると、アキラは足を止め、ゆっくりと顔だけをクロノスに向けた。その目には、怒りとも困惑ともつかない複雑な感情が宿っていた。
「...お前さ、ここ数日の僕への態度といい...何を考えているんだ?」
言葉は途切れがちだったが、アキラの声にはかすかな棘が含まれていた。しかし、次の瞬間、彼は思いついたように口調を変え、わざと軽く笑った。
「いや、そうだな。クロノス、“純粋な器”についてどう思う?」
突然の問いかけに、クロノスはその聞き馴染みのない言葉だったことを示すようにわずかに眉を動かしていた。しかし、次の瞬間にはその表情を整え、平然を装いながら口を開いた。
「...といいますと?」
次の瞬間、アキラはその返答を聞きながら、顔を手で覆い、大きなため息をついていた。手の隙間から覗く彼の目には、どこか何かを察した感情が入り混じっていた。
「はぁぁぁ、そういうことかよ.....まぁ、いいさ」
アキラは短くそう吐き捨てると、彼はそのまま扉を開けて立ち去った。その背中には、何かを押し殺したような張り詰めた空気が漂っていた。




