第11話. 忘却の思い出
少女はふと、ゆっくりと目を覚ました。
粗く組まれた木の天井が最初に視界に入り、ぼんやりとした意識の中で、自分がどこにいるのかも分からないまま、反射的に薄い息を吐いた。
「ん...あれ...」
微かに違和感を覚えたものの、頭がまだぼんやりとしているせいか、その正体を掴むことはできない。
少女はベットから上半身を起こし、額に触れるように手の甲を当てた。その次の瞬間――
ガチャ
扉が開く音に、少女は驚き顔をそちらに向けると、そこには長身の男が立っていた。
男の顔はどこか険しく、その視線は鋭い。だが、その目の奥にほんのわずかな安堵の色が滲んでいるのが分かった。
「...セシル。お前、起きたのか」
低く落ち着いた声で名前を呼ばれた瞬間、少女の胸に奇妙な引っ掛かりが生まれた。
「あの、セシルって《《わたしの名前》》......なんですか?」
彼女の問いかけは、無垢でありながらどこか確信に欠けた響きを帯びており、まるで、自分の名前ですら他人事のように扱っているようなその言葉に、男の表情が一瞬だけ動揺したように歪んでいた。
やがて、短い沈黙の後、彼は重い吐息を漏らした。
「......お前、記憶喪失感か。しかも、自分の名前まで覚えていないとは、かなりの重症だな」
ため息をわざとらしく吐きながら手全体で頭を乱雑に掻くと、男低い声でボソッと呟いた。
「ちっ、クロノスが一枚噛んでいるな...」
「クロノス...?」
聞きなじみのない名前を耳にし、セシルは首を傾げた。
その仕草に気付いたのか、男は素早く顔を上げ、何事もなかったかのように微笑みを浮かべた。
「あぁ、なんでもない。そうだな、僕の名を名乗っておこうか。僕はアキラだ。君は、精霊様......いや、今それを言われても困惑するだろう。忘れてくれ」
一見丁寧に説明しているように見えるが、少女は彼の言葉にどこか違和感を感じていた。
(...初めて会ったはずの人なのに、何この胸騒ぎ......)
アキラの顔には親しげな笑みと心配の色が浮かんでいる。だが、彼の存在そのものから滲み出る何かが、少女の中に寒気が走る。理由は分からない。それでも、彼から逃げ出したくなるような得体の知れない恐怖が彼女を襲っていた。
少女の頭は混乱していたが、心の奥底ではただ一つ、確信していた。
この人は危険だ――
そんなことを考えながら彼を凝視していると、アキラはその視線に気付いたようで再び口を開いた。
「さて、セシル。腹が空いているだろう。食事を用意してくるから、食べてくれないか。再び倒れたりなんてしたら困るからね」
「はい。ありがとう...ございます...」
直感的に丁寧な口調で話さなければならないと感じ、セシルは素早く頭を下げ、お礼を述べた。やがて、アキラが扉から出ていくと、少女は緊張感を解くように大きく息を吐き、額に手を当てた。
「.....頭、痛いな。わたし....なんでここに....」
その瞬間、鋭い痛みが体中を駆け抜けた。手や腕、体のあちこちに走る鈍い痛みに気付いた少女は、被っていた布団を退け、自分の体を見下ろした。
よく見ると、腕や足は包帯は丁寧に巻かれていたものの、その僅かな隙間から見える肌には無数の切り傷のような痛々しい跡が残っていた。
血は出ていないものの、かさぶたにもなっておらず、生々しい痕がくっきりと刻まれていた。
「何...この傷...?」
彼女は疑問に思い、服を捲ってみると、二の腕付近にまるで龍の鱗のように綺麗な青白い花が小さく浮かび上がっているのを見つけ、思わず息を呑んでしまう。
全身を襲う痛みと、体に浮かぶ不思議な模様。それらは彼女に、自分に何か普通ではないことが起きたのだと思わせるのには十分だった。
(...あれ、この服、ポケット着いてる。何か入ってないかな...」
何か自分の記憶に繋がる手がかりがないかと躊躇なくポケットに手を入れてみた。すると――
「あれ、これ....耳飾り?綺麗だけど、なんでこんな物が...?」
ポケットからは対になるような美しい耳飾りが二つ出てきた。
自分の体に残っている傷を見ても、耳飾りを見ても、どうしてこんなところにいるのか、何が起きたのか。全く何も思い出せなかった――。
(...綺麗だな、これ)
セシルは耳飾りを両手で掲げ、天井を背景に窓から差し込む光を受けて輝くその装飾品をじっと見つめていた。すると――
ガチャ。
扉が再び開く音がして、セシルは反射的に耳飾りを握ったまま腕を下げると、それを素早くポケットにしまい込んだ。
そこに現れたのは、いくつかの食器を載せた台車を押して入ってくるアキラだった。その瞬間――
ドクリ。
(な、なに、この感情....?)
突如として押し寄せた得体の知れない恐怖に、セシルの呼吸は徐々に乱れ始め、胸元を掴む手に力が入った。
目の前のアキラが淡々と台車を押しているだけなのに、その姿が異様に歪んで見え、まるで、自分の中の「何か」が、彼を本能的に拒絶しているかのようだった。
喉の奥から絞り出すように息を吐き出し、心臓の鼓動が耳元で鳴り響く。体が強張り、アキラが食器を並べる音がやけに大きく聞こえてきた。
――カチャ、カチャ。
その音に合わせるように、セシルの胸の奥に広がる得体の知れない「嫌悪感」が膨れ上がっていくのが伝わる。
すると、食器を並べ終えたアキラが彼女に目線を向け、ゆっくりと口を開いた。
「さて、食事が冷める前に食べたほうがいい。冷たくなると美味しくないから......お前、顔色が酷いぞ。どうした?」
その言葉に反射的に体が跳ね、セシルは慌てて首を振りながらベッドから立ち上がった
「い、いえ。大丈夫です....」
自分でも驚くほど震えた声。胸の奥で不快感がさらに広がり、胸の奥から湧き上がる得体の知れない恐怖が息を詰まらせていた。
すると、セシルは無意識のうちに椅子の左側から座り、テーブルの上に置かれたナプキンを手に取ると二つ折りにして膝にかけた。
「...へぇ、記憶はないのに体は覚えてるもんなんだね」
アキラは満足げな表情を浮かべ、ナプキンが乗っていた皿を片手で取り上げると、丁寧に別の皿をセシルの前に置いた。
その仕草は妙に慣れており、彼の視線がセシルの動作の一つ一つを監視しているように感じられる。
「さぁ、召し上がれ」
その言葉にセシルは声を出すことすら叶わなず、ただ目の前の皿をじっと見つめ、焦るようにフォークを握りしめた。
(食べなきゃ....早く...食べなきゃ.....でも――)
無意識のうちに震える手でフォークを握りしめたが、指先から力が抜ける感覚に気づいた。
「どうした、セシル?」
低く、静かな声が部屋に響き、アキラが目を細めながら問いかけてきた。
だが、セシルは顔を上げることもできず、震える手を抑えるようにもう片方の手でフォークを持ち直したが、上手くいかず焦る一方だった。
「.....はぁ」
長い沈黙の末、アキラは大きくため息をつき、一瞬皿を見下ろし、それからまたセシルに目を向けた。その目には、彼女を値踏みするような冷たい光が宿っているようにも見えた。
「セシルはまだ本調子じゃないな。まあ、いいさ。食事はそのまま置いておく。もう少し一人で休むといい」
その言葉には、一見優しさを装った響きがあったが、セシルには裏に潜む冷酷さを感じ取らずにはいられなかった。
その場を立ち去るアキラの背中を見送りながら、セシルは荒い呼吸を抑えようと必死だった。背中が視界から消えるまでの時間が、やけに長く感じられる。
(はぁ、はぁ......何なの、突然こんな......?)
心に根付く得体の知れない感情。何かを思い出すべきなのに、それが何なのか分からない。目を閉じても、不快感は消えず、じわじわと胸を侵食していく。
胸の奥で、正体不明の感情が渦巻いていた。恐怖なのか、それとも別の何かなのか分からない。ただ、アキラの言葉も動きも、そのすべてが重くのしかかるようだった。
震える手でフォークを置き、セシルは静かに目を閉じた。しかし、内側から広がる不快感はさらに深く彼女を飲み込み、荒い息を繰り返すしかなかった。
「はぁ......はぁ......」
手が震え、息苦しさが増していく。心の中では恐怖がゆっくりと根を張り、冷たい汗が流れているのを感じた。
(落ち着いて......大丈夫、大丈夫だよ、わたし......)
そう自分に言い聞かせるものの、荒い呼吸は一向に収まらない。胸の奥に根を張るような不安と苦しさがじわじわと広がり、全身を侵食していく感覚に襲われた。
呼吸が浅くなるたびに頭がぼんやりとしていき、視界の端がじわりと暗くなっていく。すると、椅子に座ったまま身体がぐらつき、手元に力が入らなくなるのを感じた。
ガタッ.....!
ついに力尽きるようにバランスを崩し、セシルは椅子ごと倒れてしまう。硬い床に触れた衝撃が背中に伝わるが、それ以上に呼吸の苦しさが全身を支配していた。
落ち着こうとすればするほど視界はぼやけ、目の前が暗くなっていく。
頭は重く、心の中には得体の知れない恐怖が渦巻いていた。セシルは必死に近くの椅子の脚を掴み、なんとか体を起こそうとしていた。
「はぁ.......はぁ......苦......しい......」
涙目になりながらうずくまっていると、その時、静かに扉が開く音がした。セシルは力を振り絞り、ゆっくりと顔を上げるが、視界はぼやけていて、そこに立つ者の顔ははっきり見えなかった。
「...っ!セシル...!大丈夫か!!」
はっきりとは見えなかったが、男の声で話しかけてきたその者は貴族のような服装をしており、慌ててこちらに近づいてくるのがわかる。
(この人....誰? 知らない人.....!)
セシルは腕を動かしてその場から逃げようとするが、麻痺したように体は言うことを聞かずに更にパニックに陥っていた。
すると、その男はセシルと同じ目線になるようにしゃがみ、穏やかな声で語りかけてきた。
「安心しろ。危害は加えない」
その声は穏やかだったが、セシルの混乱はすぐには収まらない。それでも、男が彼女の肩に手を置いた瞬間、不思議なぬくもりが心に少しだけ安らぎをもたらしていた。
「......だれ......?」
セシルは絞り出すように震えた声で話すと、男は一瞬間を置き、低い声で答えた。
「.....クロノスだ。今は余計なことを考えずに、ゆっくり息をしなさい」
そう言いながら、クロノスはセシルの肩に手を当て、体を支えた。セシルは一瞬驚いたものの、この苦しい状況から抜け出したい一心で、彼の言葉に従って少しずつ呼吸を整えていく。すると、胸の圧迫感がほんのわずかに和らいで行く気がした。
すると、落ち着いたからなのかセシルの瞼は次第に重くなり、意識が遠のいていくのを感じた。
次の瞬間、体が前のめりに倒れる感覚を覚えたが、誰かの腕がしっかりと彼女を支えてくれた。
(.....温かいな)
そのぬくもりに、不思議と安堵を感じたセシルは、そのまま静かに意識を闇の中へと沈めていった。




