第97話. 差し出される手
――それから、男によって新たな処置を受け終わったセシルは、傷口にじんと染み込んでくる痛みがゆっくりと引いていくのを感じながら、茂みに背を預けたまま、しばらく静かに呼吸を整えていた。
彼女の手のひらの上では小鳥が自身の体をヌベヌベと擦りつけたり、セシルが身につけていた繊細なレース手袋を興味深そうに見つめては、ついばむ寸前でとどまるような仕草を繰り返していて、その小さくも健気に寄り添ってくれているかのような姿にセシルは、自然と微笑みを零していた。
「......それで、また会いに来たりして。本当に何が目的なんですか?」
だが、次の瞬間には彼女は隣に腰を下ろしていた男へと鋭い視線を向けていた。男はというと、どこから取り出したのか分からない白いパンのサンドイッチを片手に、まるでここが日向の広場であるかのように呑気に鼻歌まで口ずさみながら、まったく悪びれもなくそれを頬張っていた。
「んー、俺? 言ったでしょ、癒しが欲しくてって。ほれっ、これでも食べるか?。」
男はニコニコしながらブドウとホイップクリームがこれでもかと挟まったサンドイッチを一切れ差し出し、セシルの手の上でごろんと丸くなっていた小鳥を優しく押しのけて、半ば強引にそのサンドイッチを持たせてしまった。
「......サンドイッチに果物、ですか......?」
「あっ。やっぱ、こっちの人は珍しく感じるんだな。いいからいいから。中々、美味い組み合わせだぞ。」
毒でも入っているのではという疑念ではなく、単純にその「サンドイッチの具の組み合わせ」に強い違和感を覚えたセシルは、恐る恐る、しかし勧められた手前無視もできず、きゅっと覚悟を固めるように息を整えてから小さく齧った。
「ッ......!」
「ははっ、その顔を見るかぎり、ずいぶん気に入ったみたいだな。――これも、いい土産になったか?。」
セシルが一口齧った瞬間に見せた驚きの表情を、男は心底微笑ましそうに眺めていたが、次の瞬間には自分の言葉から何かを連想したように軽く顎を上げ、袂へと手を差し込むと、そこからころりと大小二つの小瓶を取り出した。
「そうそう、土産といえば......ほれ、忘れないうちにこれも渡しとく。」
差し出された小瓶の一つは、つい先程彼がセシルの肩の傷を丁寧に処置した時に使っていた薬が入っているものと同じで、落ち着いた色味と厚みのあるガラスがいかにも効果がありそうな印象を与えていた。
もう一つのほうは、手のひらに収まるほど小ぶりで、それでいて装飾的な意匠が施されており、持ち運びたくなる可愛らしさと上品さが同居していて、セシルは思わずじっと見つめていた。
「......」
沈黙のまま小瓶と男を交互に見つめるセシルの瞳には、ほんの僅かに残る警戒心が宿っていたが、その警戒は敵意ではなく、慎重な猫がそろりと相手を観察するような、柔らかい緊張感だった。
「ははっ、今さらそんな目で見られても困るって。 で、はい。こっちは“今ある傷用”、で、こっちは“残っちまった傷跡を消す用”。俺のお手製は、少量でもよく効くぞ~。」
男は特に怒りも見せず、むしろその慎重さを微笑ましく受け止めるように、軽く口角を上げながら説明した。
そして、セシルの手元にいた小鳥がサンドイッチのパン屑を食べ終えるのを待つように一瞬目を細めると、次の動作は拍子抜けするほど軽やかだった。
小鳥をひょいと片手で掬い上げ、そのままセシルの肩へとふわりと移し替え、同時にもう片方の手では小瓶をそっと差し出す際、瓶同士が触れ合って「カチャッ」と小気味よい音が響かせた。
「っ......ありがとう、ございます。 そういえば、船で会った時も、この傷跡のことを配慮してくれましたね......」
セシルは恥じらいを含んだ声で礼を述べながら、王国へ向かう途中の船の上で初めて出会ったあの日を、ふと胸の奥底で思い返していた。
長く放置してしまったせいで消えずに残った傷を、彼は深く理由を詮索するでもなく、ただ淡々と“ちゃんと処置をしたほうがいい”とだけ告げた。
その目は決して追及するものではなく、むしろ彼女が隠そうとする気持ちごと包み込むような優しさを帯びていて、その記憶がセシルの心にじんわりと温かく広がっていた。
「あー、女の子なんだからね。仮に放置したのが自分の選択だとしても、そうやって隠そうとしている時点で多少は気にしてるって思っ......げっ、ナチュラルに女の子って言っちまったけど変な意味はないからな。」
自分の口から自然と出てしまった言葉に気づいた瞬間、男は「しまった。」とでも言うように眉を跳ね上げ、申し訳なさそうに頭を掻いていた。
その様子がおかしくて、セシルは思わず小さく笑みを漏らしたが、すぐに「いけない、いけない」とばかりに首を振り、気持ちを切り替えるように真剣な面持ちで彼へと視線を向け直した。
「......そ、そういえば、あなたには聞きたいことが沢山あるんです!!」
「ほほぉ、聞かせて貰おうか?。」
男はその変化を敏感に察したようで、軽く口元を上げながら、サングラスの位置を指先で整えつつ、どっしりと構えるでもなく、しかし逃げもせず、彼女の言葉を正面から受け止める姿勢へとゆっくり切り替えていった。
「まず、あなたはカミュちゃんと言っていましたが、まさかカミュロさんの事ですよね、あ、あれってやっぱり彼と親密な関係なんですか?! それと、何もしないって言ってたのに最初に電撃みたいなビリっとする痛いのを感じましたし。 それにあなたはあの時去る前に“本物の精霊の力”って言ってましたよね! そ、それに──!」
セシルは堰を切ったように、胸の奥で絡まり続けていた疑問を一気に放り出しており、彼女の声は必死で、まるで一つでも取り零したらまた霧の中に戻ってしまうとばかりに、勢いと混乱の熱が入り混じって溢れ続けていた。
「ストップ、ストップ。一旦そこまで、想像以上に多いって。」
男は額に手を当て、苦笑しながら片手をひらひらと振って制止を促していたが、突然ぶつけられた質問の嵐にやや押されつつも、どこか楽しんでいるような余裕を残した声色だった。
言葉を遮られたセシルは、むっとしたように眉を寄せてじっと男を見つめ、抗議するような無言の視線を投げかけていたが、男はその表情を見た途端、ふっと小さく笑みを零した。
しかし次の瞬間には表情を引き締め、軽く息を整えるように視線を落とし、真剣な面持ちで深々と頭を下げ始めた。
「まず、電撃の事は故意的じゃなかったとはいえ......一旦謝らせてくれ。」
突然の謝罪に、セシルは肩に乗った小鳥と視線を交わすように目を丸くし、困惑を隠せずに瞬きを繰り返していたが、男はすぐに頭を上げ、申し訳なさとバツの悪さが入り混じった表情で頬をぽりぽり掻きながら続けた。
「いやぁそのな......お嬢ちゃんを驚かせたくて、電気の力で瞬間移動みたいなのを使ったんだけど。今のあの場所、地面が荒れて水はけが最悪になってただろ。多分あれで余分な電気が逃げきれなくて、プチ感電を起こさせちまったって言えば伝わるかな。」
「......電気で瞬間移動。そ、そういえば船の上でも突然距離を詰めた時に感じた静電気って......まさか、あなたの力が――」
セシルが言いかけた瞬間、男は待ってましたと言わんばかりに「そうそう、それよ!。」と勢いよく指をビシッと向けてきた。
その動きはあまりにも急で強烈だったため、セシルは大きく目を瞬かせ、身体を僅かに後ろへ引きながら戸惑いを見せたものの、彼の説明が点と点を繋ぐように自分の記憶へと染み込んでいくのを感じ、やがて納得の色を帯びた落ち着いた表情へと変わっていった。
「で、次はなんだっけ......カミュちゃんの話しだっけ?。」
「っ、そ、そうですよ! なんで、そんなに......こう、馴れ馴れしい呼び方と言いますか!」
その勢いは、座っていた状態から立ち上がるのではと思わせるほどで、昂ぶりと戸惑いが同時に胸の内で跳ね返っているようだった。
男はその迫力に一瞬だけ「どうしようかな...。」とでも言いたげに眉を困ったように下げ、無言のままセシルをじっと見つめていたが、やがて観念したように視線をふいっと横へそらしながら口を開いた。
「......ま、まぁ。俺の他の人の名前を馴れ馴れしく呼んじゃう癖と言いますか。それに、あいつある種有名じゃん? そゆことよ......。」
「はっぁ、えぇ......それでまかり通ると?」
答えになっているようでまったく核心に触れない、そんな曖昧な返しにセシルは思わず素っ頓狂な声を上げてしまったが、その反応を受けた男の顔には「ぁ、やっべ。」と心の底から思っているのが誰の目にもわかるほどの露骨な焦りが浮かんでいた。
まるで自分で蒔いた種を自分で踏んづけたような表情をしながら、両手を慌てて前へ突き出し、降参のポーズを作って見せ、何とかその場を切り抜けようと必死に言葉をひねり出した。
「タイムっ! 見逃して〜、勘弁してくれよ〜。」
「.........絶ッ対、何か隠してますよね?」
セシルは眉を寄せ、疑念を含んだ声を落ち着いた調子で投げかけており、彼女の視線は先程までの勢いとは違い、冷静さと不安の入り混じった色合いで男の表情を探るように向けられていた。
だが、男はその問いに正面から向き合う気などさらさらないとでも言うように、わざとらしく息を吸い込み、不自然なまでに明るい調子で口笛を吹き始めた。
「っ、もういいです......一旦、整理させてください」
まるで「聞こえてませんよ〜。」と言外に示すような態度に、セシルはこれ以上追及しても確実にはぐらかされるだけだと悟ったのか、ふぅと小さく息を吐いてひとまず矛を収めることにしたようだった。
地面に座ったままそっと足の組み方を変え、それに合わせて上体の角度も整え直し、無理にでも気持ちを落ち着けようとするように姿勢を変えていた。
(正直......納得いかないけど。 そういえばミレイアさんも、あの時カミュロさんには自分のこと言わないでくれって言ってたっけ。ノエルちゃんを護衛する唯一の存在だし、有名っていうのは......ある意味、間違ってないのかもだけど......)
セシルは内心でそう呟きながら、キッチンで偶然出くわしたミレイアが、息を切らしたような勢いで「カミュロたちにはオレの事は言わないでくれ!」と必死すぎるほどの迫力で懇願してきた、あの妙に印象的な場面を思い返していた。
無理やり自分を納得させながらも、心のどこかで説明のつかない引っかかりが離れず、そんなもやもやを抱えたまま、セシルは納得しきれない思いをそのまま視線に乗せ、じっと男の横顔を見つめ続けていた。
すると、男はその視線に気づいたのか気づかないのか、一瞬だけ場の空気を和らげようと取り繕うようにニコッと軽い笑みを浮かべてみせたかと思えば、すぐに気持ちを切り替えるようにゆっくりと立ち上がりセシルへ向き直った。
「さってと、次にお嬢ちゃんが聞きたそうにしていることだけど......。」
「っ、精霊に関して! まさか。また、答えないまま、行っちゃうとかじゃないですよね?!」
セシルは思わず声を荒げるように警戒の色を露わにし、船の上で彼が意味深な言葉だけを放って煙のように姿を消したあの不可解な出来事を思い出したように、反射的に前のめりになって男のズボンの裾を掴もうと手を伸ばした。
「ぁー、ある意味正解かな~っと。はい、あっぶない~。」
「ぐぇっ、」
男は楽しげな軽さを崩さないまま、セシルの伸ばした指先が布に触れる寸前、その僅かな時間すら余裕をもって扱うかのように、本能的で鋭い反射で足をふわりと上げて避けてみせた。
勢い余って掴み損ねたセシルは、そのまま前屈みの姿勢で固まり、一方で肩に座っていた小鳥は「ギュピッ」と短い声を上げながら滑り落ちるように地面へと降りてしまった。
「ははっ、あんたら見てて飽きないな。」
男はそんな二人の様子を、どこか申し訳なさを含みつつも、同時に余裕の笑みを浮かべながら見下ろしていたが、その軽薄そうに見える態度とは裏腹に、彼はすぐに立ち去る素振りを見せることなく、そのままの位置でセシルが体勢を整えるのを待つように留まり続けていた。
「ちょ~と、個人的に試したいことがあってね。もう少し奥に行った場所に行く際になら話してあげるよ。」
「......奥に、ですか?」
セシルは肩に小鳥をそっと戻しながら、前に倒れた姿勢を立て直し、ゆっくりと地面に座り込むようにして体勢を整えつつ、男が無造作に指さした方向へ視線を向けた。
その先は庭の続きではあるものの、城からさらに奥まった区域で、日当たりの違いさえ感じられるほど雰囲気の変わるエリアだった為、静寂が深く沈むその方向に、セシルはほんの瞬間だけ躊躇うような色を瞳に滲ませた。




