第10話. 消え去る記憶と共に
膝をついていたセシルは、床に爪を立てながら涙を流し、震える声で、声を絞り出すように口を開いていた。
「わたしがしっかり言うことを聞けば、お姉ちゃんは無事でいられるって......そう言ってたのに......。何のために、ここまで頑張ってきたの......? 何も......できなかった......お姉ちゃん......」
声は震え、悲痛が滲んでいた。クロノスは、その言葉をじっと聞いていた。
(......お前はもう十分、頑張っただろう。なのに...俺は何も――)
そう思いながらも、言葉にできず、ただ、彼女を見つめるだけだった。
クロノスは手を伸ばし、今にも彼女に触れようとしたその瞬間――。
(......俺は――)
心の奥底に閉じ込めていた記憶が、抑えきれずに溢れ出した。
❀❀❀
数時間前――
アキラに呼び出されたとき、クロノスは何が待ち受けているのかを知らなかった。ただ、いつも以上に険しいアキラの表情が、どこか引っかかっていた。
「...何を企んでいる?」
小声でそう呟いていると、アキラは小屋の扉の前で立ち止まった。クロノスもすぐ後ろで足を止めると、微かな甘い香りが、薄暗い小屋の中から不釣り合いなほど漂っていた。
(...花の匂い?)
そんなことを考えていると、立ち止まっていたアキラが扉を開けた。その瞬間――クロノスは息を呑んだ。
「......エルナ?」
そこには、少し豪華な椅子に丁寧に座らされた彼女がおり、周囲には、色とりどりの花々が咲き乱れ、壁を覆うように絡みついている。
その異様な光景に、クロノスは戸惑いを隠せずにいた。
(なんだ、この異様な光景は...)
エルナの膝の上で特段美しく咲いていた五本の薔薇が視界に入るが、その美しさとは裏腹に、クロノスは強い違和感を覚えた。
彼女の顔をよく見ると、その瞳は泥を混ぜたように濁り、涙の跡が頬に乾いており、白い腕には何本もの管が繋がれ、身体は椅子に縛り付けられていた。
契約悪魔として数多の「最期」を見届けてきた彼には、それがどういう状態かすぐに理解でき、クロノスの胸に、凍りつくような冷たい感覚が走った。
「エルナ...!」
クロノスは反射的にアキラを押しのけ、エルナの元へと駆け寄った。しかし――
「触るな」
その冷徹な声が空気を切り裂いた。クロノスは足を止め、振り返った。その目には、激しい怒りと深い困惑が入り混じっていた。
「今の彼女には精霊様の力が満ちている。下手に触れれば、その力が暴走して、お前自身が死ぬことになる。花にも下手に触れるな。あれは精霊様の力の副産物だ...」
アキラの言葉は、まるで氷のように冷たく、重く響いた。
その冷徹さに、クロノスは一瞬、体が固まる。だが、彼は冷静に立ち止まり、再び視線をエルナへ戻しながら、抑えきれない怒りが彼の体中に充満するように拳を握りしめていた。
「......彼女を殺したのか?」
その言葉は絞り出すように低く、震える声で放たれた。全身から湧き出る怒気が、彼を抑えきれない破壊力で包んでいた。
「お前.......!」
クロノスは怒りのまま、アキラの胸ぐらを掴み、力強く壁際に押し付けた。その目は、まるで炎が燃え上がるように、激しく燃えていた。
「セシルのように直接手を出していないとはいえ、彼女を散々な目に合わせた挙句、最後には命まで奪った...!それが、お前のやり方か!」
アキラはその掴まれた手に抵抗することなく、ただどこかバツの悪そうな顔でクロノスの視線を逸らすだけだった。その無表情の奥に、どこか空虚さが見え隠れしている。
「......僕だって、捨てられたくなかったんだ――」
アキラの声は低かったが、微かに震えていた。その言葉にクロノスは眉をしかめ、怪訝そうに目を細めた。
「......は?」
クロノスがその言葉の真意を問い詰めようとした瞬間アキラの声が一転して荒れた。
「精霊様の実験が未完成だったことくらい、分かってた!だけど!あのままじゃ......僕が見捨てられるのがオチだったんだ!」
彼の声はまるで抑え込んでいた感情が一気に噴き出したかのように、鋭く響き、その顔は歪み、その拳は怒りと恐怖で震えており、床に映る彼の影さえも、小刻みに揺れているように見える。
「僕が無価値だと判断され、“あの者”に切り捨てられる......!それがどれだけ恐ろしいことか、お前に分かるか!?」
その叫びは、怒りというよりむしろ必死さや何かに対しての恐怖心が滲み出ていた。
クロノスはその言葉に思わず沈黙し、アキラを冷たい怒りと軽蔑の眼差しで見下ろすしかできなかった。
「未完成なまま純粋な器であるエルナが耐えられるはずがない......。だけど、それでも......!僕は、僕の存在を証明したかったんだ....」
アキラの視線は床に落ち、その声は消え入りそうに途切れていた。
その小さな言葉の裏に隠れた後悔や恐れに気づきながらも、クロノスは眉一つ動かさなかった。
次の瞬間、クロノスは無言のままアキラを乱暴に床へ叩きつけ、その衝撃音が静寂を切り裂いていた。
アキラは床に倒れ込み、咳き込みながら喉を押さえ、必死に呼吸を整えようとしていた。
「.....そんなくだらない事で」
冷たく吐き捨てるような言葉がクロノスの口から零れたが、それ以上彼はアキラに目を向けることもなく、まるでそこに彼が存在していないかのように振る舞っていた。
クロノスの視線はエルナが座っていた椅子へ向かう。
その足取りには怒りだけでなく、どうしようもない虚しさが滲みながら、彼はエルナが座る椅子のそばに立ち、手を伸ばした。
その指先が、ほんの僅かでも彼女に触れることができると信じたかのように。
しかし、突如として背後から誰かに腕を掴まれるような感覚が襲い、彼の動きを止めた。その感覚は実体のない幻のようなものだったが、彼の動き縛るには十分だった。
そのまま手を空中に浮かべたまま立ち尽くしていると、足元で小さな音がした。コツン、と硬いものが床に落ちる音が静寂を破った。
ゆっくりと目を下に向けると、そこにはエルナが着けていた耳飾りが転がっていた。
(......これ、は......)
耳飾りに視線を落とした瞬間、心の中にエルナの笑顔が鮮やかに蘇った。
あの優しい笑顔――守ると誓ったはずの笑顔。それを守れなかったという無力感が、冷たい刃のようにクロノスの心を貫いた。
「エルナ......」
小さく呟かれたその言葉は、彼自身にさえ届かないほど微かなものだった。視界がぼやけ、彼の中で何かが壊れそうになる。それでも、クロノスは歯を食いしばり、ただ耳飾りを静かに拾い上げた。
その手の中で耳飾りが冷たく光り、彼の心に消えない痛みを刻んでいくようだった。
「俺は...守れなかった。こんな俺と出会ったせいで、こんなことに...本当に...すまない......。ははっ、こんな薄っぺらい謝罪なんて、いらないよな......」
クロノスは静かに呟き、目を伏せた。そして、セシルを見下ろす彼の目には、止めどなく涙がこぼれ落ちた。
(エルナ......何も伝えられなかった。俺自身のことも、これまでの思いも、何一つ......)
クロノスはその場に膝をつき、耳飾りを両手で優しく抱え込むように持ち上げ、顔の前に掲げた。
まるでそれが何かを祈るかのように、彼の瞳からは涙が静かにこぼれ落ち、顔を伝っていく。
その涙が床に落ちる音さえも、まるで無音の世界で響くように感じられた。
部屋の中には、クロノスの涙と共に、無情にも美しく咲き誇る花びらがどこからともなく舞い込んできて、静かな風に揺れながら漂っていた。
その風は、何処から来たのか、どこへ向かうのかも分からないまま、ただクロノスの肩を優しく撫で、彼の痛みと共にその場に流れ続けているようだった。
❀❀❀
記憶の中から引き戻されると、目の前にはセシルの小さな肩が震えていた。
クロノスは再び手を伸ばした。この手が届かなくても、何も守れなくても――それでも、今だけは。
「セシル...」
その名を呼びながら、クロノスははそっと彼女の肩に触れた。その動作はまるで、過去の自分を救おうとするかのようだった。
だが、彼女のその頬を伝う涙は止む気配を見せず、声を押し殺しながら震える小さな体は弱々しく見えた。
床に落ちた耳飾りを拾い上げようと手を伸ばすも、指が何度も滑り、まるでそれ自体が彼女を拒絶しているかのように掴むことができない様子だった。
ようやくの思いで、耳飾りを拾い上げたセシルはふと、顔を上げ、クロノスを見つめていた。
「クロノス様...」
泣き腫らした瞳で彼を見つめたその声には、かすかな震えが残っていた。彼女は震える手で涙を拭い、膝をついたまま、途切れ途切れに言葉を紡ぎ始めた。
「わたしと......契約、してほしい」
「なっ...それを...どこで?」
その言葉に、クロノスの表情が一瞬凍りついた。
契約悪魔である自分の正体を教えていなかったことで驚きと戸惑いが入り混じり、彼の顔がわずかに動揺を見せていた。
「...アキラ様から聞いたの。クロノス様は契約悪魔だって...」
セシルの声は震えていたが、その目は真っ直ぐクロノスを見据えていた。湧き上がる希望と絶望が交錯する感情が、その瞳の奥に宿っているようにも見えた。
「契約でお姉ちゃんを生き返らせて、ここから逃げることはできないの?」
セシルの問いかけに、クロノスはわずかに顔を曇らせた。アキラが契約悪魔の存在を教えたことで、彼女の中に不確かな望みが生まれてしまったのだと悔いていた。
「...それは無理だ。いくら契約悪魔の俺でも、一度消えた命を戻すことはできない。それに...アキラ様と契約を結んでいる以上、逃げ出すなんてことも不可能だ」
静かで冷静な声で答えたクロノスの言葉に、セシルの肩が小さく震えた。
「そう....ですよね」
押し殺したような声がこぼれる。すると、彼女は俯き、拳を握りしめていた。
胸の奥で渦巻く感情を必死に飲み込もうとしているのが伝わり、クロノスは黙ったまま、彼女の小さくなった姿を見つめ続けることしかできなかった。
◇◇◇
長い沈黙のあと、セシルは再びゆっくりと顔を上げた。その瞳には涙が滲んでいたが、どこか覚悟を決めたような強い光が宿っていた。
「じゃあ......わたしの記憶を消してほしいです」
「...なんだと?」
クロノスは驚きのあまり、思わず問い返してしまった。その提案が予想外すぎて、いつもの冷静さを一瞬忘れてしまった。
「ここから逃げられないなら、わたし、平然とあの人と接することなんてできない...!お姉ちゃんを失ったことも、この場所で何があったのかも...全部忘れてしまいたい...お願い...」
セシルの声は震え、最後の言葉を絞り出すようだった。クロノスの前で座り込んでいる彼女は、無力感と希望の狭間で揺れる少女そのものだった。
「セシル...」
クロノスは低い声で彼女の名前を呼んだ。だが、記憶を消すという行為の重さを理解している彼は、それ以上の言葉を紡ぐことができなかった。
記憶を失うことは、ただ忘れるだけではなく、過去の自分さえも切り捨てる行為。
「...契約には代償が必要だ。それをわかっているのか?だから――」
クロノスは冷静さを取り戻し、静かに問いかけた。だがセシルは目を伏せたあと、再び彼をまっすぐ見据えた。
「では......わたしの全ての記憶を代償として差し出します。だから!クロノス様...あなたのお姉ちゃんに関わる記憶を消してください」
「....は?」
その言葉に、クロノスは一瞬、息を呑んだ。その提案の重みと、その裏にあるセシルの覚悟を感じ取ったからだ。しかし同時に、彼の表情には苦渋の色が浮かんでいた。
「わたしが記憶を無くしても、クロノス様がお姉ちゃんの事を覚えていたら...いつかきっと耐えきれなくなって、わたしに伝えてしまうと思う。それを知ったらきっと――!」
セシルの声が震えながらも、芯のある響きを持って部屋に響く。その言葉には、彼女自身だけでなく、クロノスの心も守ろうとする意図が見え隠れしていた。
しかし、クロノスは何も言えなかった。セシルが本気であることは、その震える声と真剣な瞳から痛いほどに伝わってくる。だが、それを受け入れるには代償があまりにも大きい。
部屋の空気は張り詰め、どこか冷たさすら感じさせるほどだった。クロノスの目が床へと落ちる。
「......セシル、わかっているのか?」
クロノスが静かに口を開く。彼の声はいつもの冷静さを保っているようでいて、その奥にかすかな揺らぎが見えていた。
「お前が言っているのは、俺の中で大切な存在....エルナの記憶を消すということだぞ」
その言葉に、セシルの瞳が揺れる。彼女もまた、エルナの名を口にすることがクロノスをどれほど苦しめるかを理解しているようだった。
クロノスは唇を噛みしめ、目を閉じた。
エルナの記憶――それは彼にとって過去以上のものであり、心の支えそのものだ。
温かい笑顔、嬉しそうな声、心配する眼差し――彼女との日々はクロノスにとってかけがえのないものだった。
「エルナの記憶は...俺にとってただの過去じゃない」
クロノスは自分の胸元に手を当て、言葉を続けた。
「彼女がいたから、俺は今の俺でいられるんだ。彼女との時間が、俺に人としての心を教えてくれた........それを、消せというのか?」
クロノスの低い声が部屋中に響く。セシルはその問いに耐えるように拳を握りしめていたが、やがて、まっすぐ彼を見つめ、力強く頷いた。
「そうだよ、クロノス様。わたしがお願いしているのは、ただのわがままじゃないんだよ」
セシルの声は震えていたが、その決意は本物だった。クロノスは彼女の言葉に歯を食いしばり、目を伏せたまま黙り込んでいると――
「お互いに苦しみ続けるくらいなら、そのほうがいい!わたしだって、お姉ちゃんの為って思って耐えてきたこんな生活を耐え続ける力は残っていないの!!」
彼女の涙が床に落ちる音さえ聞こえるような静寂が訪れる。
クロノスはその場に立ち尽くしながら、目を閉じた。彼の表情には深い苦悩が浮かんでいる。
「......愚かだな」
沈黙が続いた後、やがて彼はぽつりとそう呟いた。その一言は、自分に向けられたのか、それとも目の前の少女に向けられたのかは曖昧だった。
セシルは不安げに顔を上げたが、クロノスは彼女をじっと見つめ、口を開いた。
「いいだろう...」
クロノスは、深い息を吐きながらゆっくりとセシルを見つめ、彼の震える手が自分の額に触れていた。
その仕草には、どこか諦めとも覚悟とも取れる色が滲んでいる。
「...お前の覚悟は伝わった。契約悪魔として、お前の願いを叶えよう。だが、後悔するなよ」
クロノスの静かな問いに、セシルは一瞬目を閉じ、震える息を吐きながらも、答えた。
「家族を失った以上の後悔なんて、もうないよ...」
彼女の震える声が静かに部屋を満たした。クロノスはしばしの沈黙の後、無言で彼女の言葉を受け止め、ゆっくりと手を差し出した。
「そうか...なら、もう一度その願いを言え」
「お願い...。わたしの記憶全てを代償に、あなたの記憶を消して」
セシルの声が微かに震えながらも、確かに響いた。
その言葉を聞き届けたクロノスは、深い溜息をつき、彼の手から真紅の鎖が空間に広がるように伸ばし、部屋中に重苦しい気配を満たしていた。
「...あぁ、わかった。その願い、受け入れようではないか」
クロノスの声が重く部屋中に響き渡る。その瞬間、空間に重苦しい気配が漂い、鎖は赤黒く輝き出し、やがて契約の成立を告げるような力が部屋中を満たした。




