フアンは宝物
「お前はどうしてそんなに気弱なんだ」
子供の頃から、親にそう言って叱られてきた。何をするにも引っ込み思案で、不安げに、オドオドとお兄ちゃんの影に隠れるぼくを、特にお父さんは歯がゆい思いで見ていただろう。
お前もお兄ちゃんのように、もっと自信を持て。
男ならドンとやって見ろ。
一代で八百屋をきずいてきたお父さんは、大学時代はラグビー部で、体格も良く、全身からエネルギーがほとばしっているような人だった。お兄ちゃんはお父さんの良いところを受け継いだようだが、どうやらぼくはそうではなかったらしい。
そりゃぼくだって、自信を持ちたい。
だけど、どうしても失敗しちゃったらどうしよう、上手く行かなかったらどうしよう……と、いつも余計なことを考え込んでしまう。生まれつき心配性なのだ。それで、お腹が痛くなることもしょっちゅうだったし、何をしていても、ふとした瞬間不安にさいなまれて、突然足元がガラガラと崩れ去って行くみたいな感覚に囚われることも多かった。
あぁ、もう、嫌だ。
本当にもう、毎日ぼくに影のように付きまとう、この不安が消えてなくなったら良いのに。
そうは言っても、人間、生まれついた性格を変えるなんて簡単ではない。毎朝、今日も朝が来てしまった……と深い絶望に突き落とされながら、ぼくはトボトボと学校へと向かった。学校に行けば、授業がある。体育もある。勉強も出来ない、スポーツもダメ……と言うぼくに取っては、これほど苦痛な場所はなかった。
「この間のテストを返すぞ」
教室に行くと、先生がそう言って皆に答案用紙を配り始めた。
「金繁!」
ぼくは自分の名前が呼ばれるのを、どこか遠くの方で、死刑宣告でも受けるみたいに聞いていた。ノロノロと席を立ち、恐る恐る答案用紙を受け取る。34点。ぼくは道ばたのガムを踏んづけるみたいに、いとも簡単に絶望した。元々自信のなかった算数だったが、このところ、点数は日に日に悪くなっていっている気がする。
「テストの点数が悪かった者は、もう一度受けてもらうからな!」
えぇ〜ッ!?
と、クラスの悪ガキどもが一斉にブーイングを始める。ぼくはと言うと、その言葉を聞いただけで胃袋がギュッと締め付けられる思いだった。あぁ、どうしよう。ぼくだけずっと、悪い点数を取り続けて、永遠にテストを受ける羽目になったら……。
何の味もしない給食を終え、午後からは体育があった。最悪だ。また、拷問のような1時間が始まる。お父さんにはまるで似ず、小柄な体格で、逆上がりすらマトモに出来なかったぼくは、スポーツの何が楽しいのかさっぱり分からなかった。
「気分がすぐれなくて」
また笑い者になるのはごめんだ。ぼくはいつものように先生に嘘を付いて、木陰に体育座りし、ギャーギャーと大声でサッカーボールを追いかける同級生たちを眺めていた。
「はぁ……」
自然とため息が出た。どうせぼくなんて。そんな思いがずっと胸の奥で消えない。あーあ。人生、何にも楽しくない。アニメを見ても、漫画を見ても、何だかはまらなかった。「強くなれ」とか、「明るくなれ」、「自信を待て」「夢を待て」「能力を得よ」「血統を讃えよ」「勝利こそ至上」……少なくともぼくのような人間には、アニメや漫画の中に居場所はなさそうだった。
せめて人並みに、勉強が出来たら……運動が出来たら……何か一つでも、自信の持てるものがあったら……この不安がなくなったら。
「あの……」
不意に声をかけられ、ぼくはびっくりして飛び上がった。いつの間にか、知らない女の子が隣に座っている。
「金繁くんですよね?」
「え? う……うん」
体操服……同じクラスだろうか? それにしては見覚えのない女の子だった。その子はぼくの目を見ながら、こう言った。
「私……あなたのフアンなんです」
「え?」
ぼくはキョトンとその子を見返した。ぼくの……ファン?
「どういうこと?」
何とも間の抜けた顔をして、ぼくは聞き返した。意味が分からない。ファンというのは、人気者や有名人だからできるわけで……ぼくのような、何の取り柄もないただの小学生に、ファンなんてできるはずがない。
「あの……私、ずっとあなたのことを見てて……」
「…………」
「良かったら……この色紙にサイン、くれませんか?」
そう言って彼女は顔を真っ赤にして白い色紙を差し出した。
僕は体育座りをしたまま、しばらく身じろぎ一つしなかった。
ははぁ。そういうことか。
何となく分かってきたぞ。
きっとこれは、からかわれているに違いない。どっかの性格が悪い奴が、ぼくに恥をかかせようと、この子にこんなことをさせているのだ。
告白ゲームだとか、前にもそんな目にあったことがある。ぼくがナヨナヨとしているから、良くこの手のターゲットにされるのだった。この子もイヤイヤ……そう思うと、急に彼女がふびんになってきた。ぼくは顔は動かさず、目のはじで悪ガキどもを探した。ここからは見えないが、きっとぼくの様子をのぞき込んで笑っている奴がいる……。
「金繁くん?」
「……いいよ」
ぼくは出来るだけ感情を出さずに、急いで色紙とペンを受け取った。さっさと終わらせた方が良い。こういうのは、大げさなリアクションを取ったら、観客を喜ばせるだけだ。
「あ……ありがとうございます!」
するとその子は、ぱあっと顔を明るくさせて喜んだ。
「そう言え」と言われているのだろう。ぼくはますますいたたまれなくなった。
「自分の名前を書けば良いの?」
「そうです。契約なので」
契約?
良く分からない。とりあえず下手くそな字で自分の名前を中央に書く。
「えーっと……これで良い? 君の名前は?」
「あ、いや、私は良いんですけど」
体操服の少女は慌てて顔の前で手を振った。
それから彼女は、何だか妙なことを言い出した。
「あと、何か願い事を書いてくれませんか?」
「願い事?」
ぼくは首をひねった。願い事?
良く分からないけど、色紙には普通は〇〇さんへとか、ファンの名前を書くものじゃないだろうか?
「『一期一会』みたいな……」
「あー」
あれか、『初志何たら』とか、座右の銘みたいなものか。だけど……ぼくはますます考え込んだ。小学生に座右の銘を聞かれても困る。ぼくの知っている四字熟語といえば、『面白半分』くらいのものだった。
「えーっと……」
「何でも良いんですよ。クリスマスにアレが欲しいとか、将来は何になりたいとか」
そう言って、少女が何故か嬉しそうに色紙を覗き込んだ。何だか狐につままれたような思いだった。いきなりそんなこと言われても、そうすらすらと手は動かなかった。
遠くで先生の笛が鳴り、ワッと歓声が上がった。誰かがゴールを決めたらしい。才能のある誰かが。何の才能もないぼくには、全く関係のない話だった。しばらく悩んだあげく、ぼくはやっとこさ筆を走らせた。
「『不安がなくなりますように』?」
少女が色紙に書かれたぼくの願い事を見て、固まった。ぼくは目を伏せたまま、小さく頷いた。
「うん……ぼく、気が弱くって……心配性なんだよ」
「不安が……」
「そう。もうずっと、毎日不安でいっぱいなんだ。それで、不安がなかったら、どんなに気が楽だろうと……」
「……ない方が良いですか? 不安」
「え?」
ぼくは首を傾げた。
「そりゃない方が良いに決まってるでしょ。不安なんて抱えてたって、神経すり減らすばっかりで、毎日全然楽しくないよ。それでノイローゼになっちゃう人だっているんだから」
「そうですか……」
あれ?
ぼくは面食らった。気のせいだろうか?
女の子が、俯いている。さっきまであんなに嬉しそうだったのに、急に悲しそうな顔になって……ぼく、何か悪いこと言ったかな?
「……仕方ありません。もう署名は終わりましたので。契約は契約ですから」
「ちょっと待ってよ。その契約ってのは一体……」
「おい、金繁」
「え? あ……はい」
急に先生に名前を呼ばれて、ぼくは振り返った。
「大丈夫か? 熱でもあるんじゃないか?」
「あ……いえ、大分良くなりました」
「そうか? さっきからブツブツ独り言言ってたが」
「え? 違いますよ、ぼくはこの子と……」
そう言って再び女の子の方に顔を向けて……ぼくは目を丸くした。
いない。
さっきまでそこにいたのに。いつの間に。先生が不思議そうな顔でぼくを覗き込んだ。
「この子? 誰だ? うちのクラスの子か?」
「え……っと」
ぼくは声に詰まった。あの子……どんな子だったっけ?
おかしい。特徴が思い浮かばない。ついさっきまで話していたはずなのに、こんなことって、一体……?
「無理をするなよ。辛かったら保健室で休んでろ」
先生はそう言って、コートの中に戻っていった。夢でも見てたのかしら?
グラウンドでは、才能のある子がまた何かすごいプレーを見せて盛り上がっていた。ぼくはその様子をぼんやりと眺めていた。それ以来、あの女の子がぼくの前に現れることは、二度となかった。そしてそのうち、そんな子と会ったことさえ、ぼくは忘れてしまったのだった。
次の日。
目を覚ましたぼくは、泣いていた。
嬉し泣きだった。
驚いた。なんて感動的な朝なんだろう! 朝が来るのが、こんなに素晴らしいことだったなんて! 全身から、エネルギーが湧き上がってくるような……一体何故?
分からない。だけど朝から、正体不明のワクワクが止まらなかった。こんなに晴れ晴れとした朝は生まれて初めてかもしれない。
「おはようっ!」
ぼくが元気な声であいさつしたものだから、父も兄も呆気に取られていた。美味しい。なんて美味しいんだろう。ご飯がいくらでも入りそうだった。あぁ、早く学校に行きたい。
早く学校に行きたい??
ぼくは驚いた。自分がそんな風に思うなんて、信じられなかった。だけど、今の自分になら、何でもできる気がする。胸の奥から、何だか良く分からないけど、湧き水のように自信が溢れてきて……何でも良いから何かをしてやろう。何かデッカイことを。そんな気分だった。
それからはもう、驚きの連続だった。景色がすっごくキレイだ。昨日まで確かに同じ道を歩いていたはずなのに。街が明るく見える。気がつくとぼくは笑っていた。
だって、おかしくて仕方ないんだもの。昨日までのぼくなら、急に道路に飛び出したら車にひかれるんじゃないかとか、ずっとビクビク怯えながら登校していたのだ。とにかく不安でしょうがなかった。
なんてバカなことを考えていたんだろう!
そんなわけないじゃないか。
強く、明るく、自信に満ち溢れ、夢はいっぱい。今のぼくには、何の不安もない。
「おはよう!」
ぼくが元気よくあいさつしたので、教室は少しざわついた。きっと、ぼくの声を聞くのは初めてだった人も少なくなかっただろう。席に着くと、隣で悪ガキが柄にもなく机にかじり付いて、勉強していた。
「何で勉強なんかしてるの?」
ぼくは笑いながら尋ねた。悪ガキがムッとしてぼくを睨んだ。
「何笑ってんだよ。ばーか、お前、先生の話聞いてなかったの? 点数が悪かったらもう一回って」
「それで悪かったらもう一回受ければ良いだけじゃない」
「お前……」
悪ガキが呆れたようにため息をついた。
「それで平気なのかよ? どうかしてるぜ」
ぼくはニヤニヤと学友を眺めるだけだった。
2回目のテストには名前だけ書いて、後は白紙で提出した。別に何の心配もしていない。算数なんて電卓でやれば良いし、こんなもの、ただの数字だから。テストの点数が何点だろうが、何の不安も感じなかった。それよりも、テストの点数よりも、世の中には大事なことがある。給食とか、体育とか。
そして。あまりの美味しさに涙を流しながら給食を食べ終え、その後は待ちに待った体育だった。
「よぉしっ!」
ぼくは一番乗りでグラウンドにかけて行った。今日はサッカーだ。ルールは良く分からないが、とにかく敵を蹴って蹴って蹴りまくれば良いんだろう。ボールに水をかけてやるぞ。ひひひ。ぼくのキックで全員ノックアウトしてやるから、覚悟していろ。
ぼくがサッカーに自信満々でいると、グラウンドでは、後からやってきたクラスメイトたちが、入念にストレッチを始めた。
「何でそんなことしてるの?」
ぼくは不思議そうにそれを眺めた。
「何で、って……」
クラスメイトたちは顔を見合わせた。
「怪我したら怖いだろ?」
「怖い?」
ぼくは首をひねった。良く分からなかった。それから1人が黙々とシュートの練習を始めた。ぼくはますます混乱した。その子は、昨日何とかというスーパーゴールを決めた、才能のある子だったからだ。
「何でそんなに練習するの? そんなことしなくても、もう出来るじゃない」
その子は、しばらく考えて、やがてポツリと呟いた。
「不安だからかな」
「え?」
「不安だから練習するんだよ。シュートを外したらどうしようとか……もっと上手くなりたいからかな、うん」
「不安??」
なぁんだ。ぼくは思わず吹き出した。不安だなんて、そんな役に立たないものを抱え込んでいただなんて、結局この子も大したことないんだな。どうやら自信満々のぼくの敵ではなさそうだ。
「試合開始!」
それから先生がやってきて、笛を鳴らした。シュートを練習していた子は、ぼくとは別のチームだった。よぉし。今に見ていろよ。何でか分からないが、今日のぼくは一切の不安を感じない。自信だけはある。敵を蹴って蹴って蹴りまくって……ひひ、ひひひ、ひひひひひ。
ぼくは尖ったスパイクで地面をえぐりながら、一直線に敵へと向かって行った。