控えめなノックの音が
控えめなノックの音が聞こえた。窓辺の小卓に向かい、魔術書に目を落としていたヨアヒム・ローゼンヴァッフェは、部屋の扉のほうへ首を回した。
入室を促すと、戸口に姿を現したのはげっそり痩せた修道女だった。頭にウィンプルを巻き、裾が引きずるほどに長い修道服を着ている。首元にはオーリア正教会のメダリオン。その彼女の、とろんとした目には輝きが乏しい。肌に張りがなく、ひどく老いて見えるが、これは栄養不足によるものだろう。
修道女は無言のまま、廊下からローゼンヴァッフェに手招きした。
「なんだよ……」
ローゼンヴァッフェが怪訝に言う。いま彼がいるのは、ウバス修道院の二階にある一室だった。まるで牢獄かと思える部屋だ。数少ない調度品はみんなガラクタのようで、ごつごつした石の壁と床のせいで底冷えがする。しかし、これでも来客用の部屋だという。ならばおそらく、修道士たちはもっと質素な環境で暮らしているにちがいない。清貧や苦行を求めるのは勝手だが、よくもまあこんなところで長く生活ができるものだと、ローゼンヴァッフェはある意味、感心した。
廊下で佇立する修道女は像のように固まり、ローゼンヴァッフェが動くのを待っている。
まったく、なんだというのだ。ローゼンヴァッフェは大儀そうに椅子から立ちあがり、廊下へと歩いた。すると修道女は近づいてくる彼から逃げるように数歩、身を引いた。そうして廊下の果てにある階段のほうを指さした。
「はあ?」
相手の要を得ぬ行動がもどかしく、ローゼンヴァッフェはいらいらしつつ問い返す。
あの修道女は沈黙の誓いを立てているのでしゃべれない。ローゼンヴァッフェもそれはわかっていた。ほかの修道士に聞いた話では、彼女はもう一〇年以上も口を利いていないらしい。が、言葉を発しない誓約などという行為は理解不能である。不便なだけじゃないか。それでいったい、なにが得られるというのだ。
階段の降り口まで歩いた修道女が、表情と身振りでローゼンヴァッフェを急かしている。ここにきてから、ずっとこんな調子なのである。ローゼンヴァッフェはうんざりしつつ、階段を降りはじめた修道女についていった。
オーリア王国の魔術院で下級魔術師として身をやつすローゼンヴァッフェは、昨日、このウバス修道院へ到着したばかりだ。魔術院の長であるネリー・ゴールデントゥイッグ直々の命令によって。
とかく、魔術師は浮世から外れている。この世に満ちるエーテルを操り、摩訶不思議な現象を引き起こす謎めいた存在。大昔、魔術の使えない者たちは彼らを異端として畏れ、互いに反目し合ったという歴史もある。それを契機に魔術協会なる管理機構が生まれ、魔術と魔術師はようやく一般社会にも認められるようになった。
現在、魔術は世界中に定着している。そのなかにあって、呪文の供給と使用に関する権利を監督している魔術協会は、既得権益を有する巨大な組織だ。魔術の戦争利用を禁止し、魔術師が犯罪行為に手を染めるのを厳しく取り締まっている。その影響力は大陸はおろか海を渡った外地にまでもおよぶ。
しかしオーリア王国だけは、魔術を独自の手段を以て統制していた。オーリアが神聖王国だった時分からそうである。理由は国家体制にあった。オーリアは建国来、神官王が統治する厳格な宗教国家だった。それゆえ神の代理人である神官王は絶対なのだ。つまり外部から一方的に干渉されることをよしとしない。政変が起こりオーリア王国として様変わりした現在でも、その体制は継承された。魔術という人知を超えた危険な力を、オーリア国内では魔術協会に代わり、魔術院が管理統制しているのだ。
魔術院はオーリア王国独自の行政府であり、組織を構築するうえで官僚制が取り入れられ、上下関係が生ずるのは理解できる。命令系統を明確とし、人員の運用を円滑にするためだ。しかし個々の能力を軽んじ、ただ新参というだけで冷遇されることにヨアヒム・ローゼンヴァッフェは不満を感じていた。特に、下級魔術師の扱いについて。
下級魔術師に任せられる業務といえば、いずれも些末な雑用ばかりだ。魔術税の徴税、呪文を正しく使うための啓蒙活動、上級魔術師の使い走り等々。要は、誰もやりたがらないことを押し付けられる。
元はマグナスレーベン帝国の貴族だったローゼンヴァッフェは、気位が高い。とはいえ門閥の末子ゆえ、そのままでは彼に碌な未来がないのは明白だった。そんな境遇から、ローゼンヴァッフェは若くして出奔すると、長いあいだハイランドのイシュラーバードでくすぶっていた。ただひとりで、誰にも頼らず、魔術を扱えるという自分の才能を武器にして。
生きるためには悪事に関わるのも厭わなかった。そのときにノア・デイモンと知り合った彼は、帝国とオーリアの国家間対立を利用し、運よく魔術院へ潜り込んだのだ。
(前作参照 https://)
ところが国家に奉じる魔術師というものは、ローゼンヴァッフェが思い描いたものとはほど遠かった。
——あのばばあ、おれのことをなめてやがる
自分を顎でこき使う、王宮魔術師のネリー・ゴールデントゥイッグ。たしかに彼女は卓越した魔術師だ。魔術の知識は底なしに深く、呪文を実践する手腕も申し分ない。それはローゼンヴァッフェも認める。だがしかし、自分のような器量人を見出せずに閑職へ回すなど、大器小用とはこのことだ。どうやら彼女に他人を見る目はないのだろう。
ぶつくさと不平を漏らしつつ階段を降りたローゼンヴァッフェが、玄関の広間へと行き着いた。するとウバス修道院は表玄関の扉が開け放されている。
外は陽が落ちかけていた。修道院を囲む沼地は、水面が空のオレンジを反射し、草むらは黒々と夜の色に染まっていた。
なにやら騒がしい。たくさんの人の声がする。ローゼンヴァッフェが玄関口に立つと、修道院の前庭には十人以上の者たちの姿があった。修道士に支えられた怪我人が、ローゼンヴァッフェの横を通り過ぎて建物内へと連れてゆかれた。その紫紺のマントをはおった者は、オーリア正教会の神聖騎士団にちがいない。
荷馬車の横で、騎士団のリーダーらしき女が修道院の尼僧となにか話している。ほかには革鎧をつけた傭兵風の男どもが数人。彼らが輸送隊の護衛役であるのをローゼンヴァッフェは承知していた。そのうちのひとりに知った顔を見つけ、ローゼンヴァッフェは笑みを浮かべながら彼に近づいた。
「よう、ノア」
錆色のローブを着た魔術師が声をかけると、ノアは振り向いて相手をじっと見つめた。
「ヨアヒム——」
およそ一年ぶりだったが、このもしゃもしゃの長髪をした魔術師は忘れようがない。
「おまえ、ここでなにをしている?」
「ご挨拶だな。おれは、おまえたちを助けにきてやったんだぞ。魔術院の代理人としてな」
「魔術院だと?」
「オーリア正教会から要請があってな。神聖騎士団の重要任務に不測な事態が発生したゆえ、手を貸してやれとな」
薄ら笑いを浮かべるローゼンヴァッフェの口調は、どことなく恩着せがましい。そうして彼は、少し離れた場所にある荷馬車へ目をやった。
「ほう、あれが問題の石棺か」
「もしかしておまえ、あの中身がなにか知っているのか」
「ああ、知ってるさ」
すると、ノアはローゼンヴァッフェの腕を強く摑んだ。
「ちょっとこい」
「おいなんだ、引っぱるなよ」
そのままノアは修道院の陰までローゼンヴァッフェを連れていった。
ふたりだけになると、ノアはローゼンヴァッフェを解放した。そして厳しい顔で彼に詰め寄る。
「この件について、どこまで知っているんだ」
「どこまでって……あの石棺には炭素冷凍された天使が入ってて、オーリア正教会がそれをほしがってるんだろう?」
それを聞いてノアは嘆息する。思ったとおりだ。ローゼンヴァッフェはかなり深く関わっている。この、魔術協会とオーリア王国とのあいだで火種になりそうな厄介事に。
「やっぱりか。じゃあ、魔術協会の書庫からマグシウスの術法典を盗んだというのは、おまえなんだな」
ぎくり——
ノアに言われてローゼンヴァッフェの顔がこわばった。
「さあ、なんのことかな……」
「いまさらしらばっくれるな」
手厳しく追求するノア。それへ、ローゼンヴァッフェはふてぶてしく居直った。
「だったらなんだよ。おれは上に言われたことを実行したまでだ。もちろん、相応の見返りは約束させたがな」
「イシュラーバードで最後に別れたとき、オーリアの魔術院へ取り入るようなことを言っていたが、まさか本気だったとは」
付き合いは短いものの、ノアはヨアヒム・ローゼンヴァッフェがどんな男かを知っている。彼は打算的で仲間でも平気で裏切る。徹頭徹尾、自分本位なのだ。魔術院に潜り込んだ彼は、おそらく功績のために汚れ仕事を引き受けたのだろう。見上げた上昇志向だ。いや、すぎた野心というべきか。いずれにしても、ローゼンヴァッフェの迂闊な行動によって火の粉がふりかかってきたのでは、ノアにとってたまらない。
「いいか、これは完全に違法行為だ。あとのことを考えたのか。魔術協会は、術法典を盗んだのがオーリアの魔術院だと感づいてる。おそらくその目的も。おかげで、石棺を輸送しているおれたちが魔術協会に襲われたんだ」
「で、一〇人委員会から派遣されたおまえが、それを撃退したと。さすがだと言っておこう」
ローゼンヴァッフェの言葉にノアは眉根を寄せた。
「そんなことまで知っていたのか」
「おれだってばかじゃない。いろいろと調べたさ。オーリア王国の上層は決して一枚岩ではないし、正教会にも独自の思惑があるようだな」
「だったら、わかるだろう。あの国の役人どもは、寝ても覚めても主導権争いだ。そんな伏魔殿に飛び込むつもりか。下っ端は、いいように使われて終わりだぞ。もし魔術協会がこの件をオーリアへ正式に抗議すれば、きっと魔術院はおまえにすべての罪を着せて生贄にする」
「まあ、そうなるかもしれん。だが危険を冒さねば大きな成果は得られない」
「あきれた奴だ」
「なんとでも言うがいい。おれはどうしても、魔術院での地位を固めたいのさ」
ローゼンヴァッフェは不敵に笑って見せた。そうして、
「しかし意外だな。おまえが他人の心配をするとは。しばらく会わないうちに、ずいぶん丸くなったものだ。そんなにおれのことが気になるか」
「ちがう」
「なんにせよ、ひさしぶりに再会したんだ。仲違いはやめようぜ」
ノアにローゼンヴァッフェを助ける義理はない。が、あまりに楽天的な様子に、ノアは本気で彼のことが心配になってきた。
「いまからでも間に合う。どこかへ身を隠せ」
「冗談はよせ。魔術院の下級魔術師は、腐っても宮仕えだぞ。こんな機会を逃してたまるか。えらぶって言ってるが、おまえもそうだろうに。一〇人委員会はマントバーン王直属の機関だ。国王騎士団とは比較にならんほどの高給が出るそうじゃないか」
「おれのほうは渋々で引き受けたんだ。できるなら全部ほっぽりだして、すぐにでも逃げたいよ」
とノア。
話してもむだのようだった。オーリア王国と魔術協会は、どちらも本気で衝突する気はあるまい。利益に見合わないからだ。どうにか交渉で折り合いをつけ、鎮静を図る公算が大きい。その矢面にいるのがローゼンヴァッフェだったが、彼にはまったく緊迫感がなかった。むしろ、その状況をたのしんでいるかのようだ。対してノアは、政争や陰謀に関わることに心底、嫌気が差している。いつもこうだ。なぜ自分は面倒事に引き込まれるのだろう。
頭痛がしてきた。神経性の頭痛。心労もすぎると身体に異状が現れる。ノアは話題を変えることにした。
「最初に顔を合わせたとき、おれたちを助けにきたと言ったな」
「ああ」
「おまえも輸送隊に加わるのか」
「荷馬車のあとについてラクスフェルドまで歩けって? 誰がそんなめんどくさいことを」
「じゃあ、どうする気だ」
「明日、空間転移でおまえたち全員をラクスフェルドまで送り届けてやる」
「明日? いまじゃだめなのか」
「あいわからず魔術に関しては素人だな。そんなにうまくはいかんよ」
ローゼンヴァッフェはノアを小馬鹿にするように鼻を鳴らした。それでノアも気がついた。
「そうか、対魔術の障壁……」
魔術師が使う〝空間転移〟の呪文は、長距離を瞬時に移動できる呪文だ。成功率は術者が転移先にどれだけ慣れ親しんでいるかに依存する。まったく知らない場所へは移動できない。よく似た呪文の〝瞬間移動〟と比較すると、移動距離と運べる重量が異なる。〝瞬間移動〟は個人やそれに付随する荷物ていどだが、〝空間転移〟のほうはより多くの人数や物資をより遠くの場所へ転移させることができる。
どちらも非常に便利な呪文である。それゆえ国家規模の組織では対策が講じられているのだった。でなければ、簡単に重要人物が暗殺されたり、金銭や宝が奪われたりしかねない。具体的には要人が利用する建物、貴重品の保管場所などを対魔術の障壁で囲うのだ。
「ラクスフェルドはマントバーン王の居城全体と、街の市壁より内側をばかでかい対魔術の障壁で覆ってある。王宮魔術師のゴールデントゥイッグが作った安全地帯だ。ありゃあ、たいしたばあさんだよ——」
ローゼンヴァッフェは目を細めると、渋い表情で顎をさすった。
「あの対魔術の障壁を空間転移で抜けるのは、おれでも無理だ。よって送り届けるのは、街の近郊ということになる。そこからは歩くしかない。となれば、いま移動先に転移したとしても、今日は陽も暮れたし身動きが取れん。野宿はいやだろう? 少なくともおれはごめんだ」
講釈めいたローゼンヴァッフェの言でノアは納得した。
とりあえず、ラクスフェルドまで安全に石棺を輸送する目処はついたようだ。しかし同時に、オーリア正教会が自分たちだけで石棺を輸送するのに執着したことを思い、ノアは腹を立てた。
「最初からその手を使えばよかったんだ。それなら、輸送隊が魔術協会に襲われることもなかった」
「ふん、縦割り組織の弊害というやつだ。オーリア正教会もそうそう魔術院に借りを作りたくないんだろうよ」
とローゼンヴァッフェ。
あたりがだいぶ暗くなってきた。ローゼンヴァッフェは自分の吐く息が、かすかに白くなっているのに気づいた。
「さて、感動の再会も果たしたし、おれは神聖騎士団の隊長に事情を話してくるか。さっき見かけたが、女だったな」
「あれはオーリア正教会の熱狂的な崇拝者だ。気をつけろ」
「任せろ。女の扱いは心得てる——」
そこでローゼンヴァッフェは、ふと思い出したように、
「おっと、そういえば、おまえが追っている帝国の女の話を聞いてなかったな。あとでくわしく聞かせろよ」
「話すことなんてない」
素っ気なく言うノア。彼は踵を回し、そのまま去ってゆく。ローゼンヴァッフェは黙ってノアを見送った。
ノア・デイモン。悪い奴ではない。だが、厭人者で世渡りが下手なのはいただけない。案外、あいつならこの修道院の生活にすぐ馴染むのかもしれない。
——いや、無理か
ローゼンヴァッフェは思い直した。ノアは血の気が多すぎる。剣の腕が立つことも問題だ。そういった者には荒事がついて回る。静かな暮らしを送ることなど、できるはずがない。
そしてローゼンヴァッフェは、いまもしノアに自分のやっていることを知られたら、確実に命はないと思った。
つづきです
いつのまにやら新年度を迎えていました
のんべんだらりと生きている作者には無関係ですが
ご感想やご指摘などがあれば、お気軽にどうぞ
作者がとてもよろこびます




