物音で目が覚めた。
物音で目が覚めた。ノアは荷馬車のそばで外套にくるまり眠っていた。朦朧としつつ上体を起こすと、シャノンが荷馬車の輓具から馬たちを外そうとしているのが見えた。
ノアはしばらく地べたに座ったまま背を丸め、両手で顔を擦った。朝陽がまぶしい。ろくに眠れなかった。寒い。空腹を感じる。
「はやく起きろ。すぐに村へ向かうぞ」
とシャノン。声の調子にトゲがある。ノアのほうを見もしない。タイツはきちんと履いていた。おそらく下着も。
ぐずぐずしているノアに苛立ったシャノンが、荷馬車の荷台に帆布を掛けろと命じた。いま地面に敷いてあるそれは昨夜、彼女を寝かせるために使ったのだ。ノアはおとなしく指図に従った。
それからノアは荷馬車の車輪をよく調べた。不幸中の幸いか、損傷しているのはひとつの車輪だけだった。車軸も折れてはいない。しかし壊れた車輪は輻が折れているのに加え、輪木にひびが入っていた。なんとかスワンジの村で職人を見つけて、修理のためにここまできてもらうしかなかった。車輪を外して運べればよいのだが、そうするには道具と人手が要る。ノアとシャノンのふたりだけでは無理だ。
ノアは荷台の帆布を細く切り取り、その紐で壊れた車輪の径と輻の長さを測った。こうしておけば修理の依頼も確実で滞りない。
ふたりは荷馬車を引いていた馬に乗り、スワンジの村へ向かった。鞍がないので二頭とも裸馬だ。それでも何時間か自分の足で歩くよりはましである。荷馬車と石棺を放置してゆくことになるが、仕方がない。とはいえ、車輪が壊れた馬車と重量のある石棺を盗もうとする者はいないだろうが。
爽やかな朝だった。少し風が冷たい。
まずは大きな沼の縁に沿って西へ。うっすらと水面に靄がかかった沼の向こうには落葉樹の森が広がる。多くの木々の葉が赤や黄色に色づいている。こんなときでなければ、馬で遠乗りするのに絶好の日和と場所といえた。
シャノンの予想ではスワンジの村へは昼前には着くようだ。馬を並べて進む道すがら、彼女はロールブレッドをひとつノアへ手渡した。
「食料を持っていたのか」
ノアがなんの変哲もないパンを見てそう言う。するとシャノンは、
「わたしが創ったものだ。腹に入れておけ」
なるほどとノアは納得した。いまノアが手にしているのは、神聖魔術で創られたいわゆる〝聖パン〟だ。オーリア正教会で修行を積んだ聖職者は地母神ユエニの恩恵に浴して、水や食料を生み出すことができるのだ。聖パンは味がほとんどしなかったものの、少しは空腹が満たされた。
スワンジにはシャノンが言ったとおりの頃合いに着いた。ノアが想像していたよりもずっと貧しい小村だった。村人たちは主に森から木を伐採し、加工して近隣と取引を行っているようだ。畑もあったが、作物を自家消費するためのもので規模は小さい。十数世帯ほどが暮らしており、村人は全部を合わせても一〇〇人足らず。いずれも粗末な小屋に住まい、老人が多かった。若い者はより実りのある仕事を求めてオーミなどへ出稼ぎにいっているのだ。
まずは村長へ事情を話すべく会いにいった。相手はふたりを快く迎え入れた。オーリアの政変以降、正教会と聖職者たちを見る目が変わった地域もあるが、ここではまだ尊敬の対象のようだ。
木工を主としている村だけあって、車輪の修理は問題なさそうだった。村長は手の空いている職人の何人かに声をかけ、人手を集めてくれた。さらに彼らが準備を整えるあいだ、ノアとシャノンに食事を勧めてきた。
「気遣いは無用だ。我らはそのような目的で訪れたわけではない」
とシャノン。そんな彼女にノアは目を丸くする。
「いや、せっかくだ。おれは厚意にあずかるぞ」
「おまえのすきにしろ。わたしは少しやることがある」
そう言い残し、シャノンは村長の家を辞した。
提供された食事は田舎料理で口に合わなかったものの、ノアはすべてたいらげた。穀物を煮込んだ粥、燻製にした蔬菜、よくわからない肉の塩漬け。冬を前にしたいま、肉の塩漬けは貴重だ。精一杯のもてなしといったところにちがいない。
ノアは丁重に礼を告げてから、シャノンを捜しに村長の家を出た。
井戸のそばにある広場で人が集まっている。ノアがそちらに足を向けると、人だかりの中心にシャノンの姿が見えた。彼女は老人や病気を患っている者たちを集め、神聖魔術による治療を施しているようだ。オーリア正教会は地方の教会堂や修道院でも病人の診療を行っている。しかしそれを受けるには、正教会への多大な寄進が必要なのだった。奇跡の対価というわけだ。金銭にせよ物品にせよ、とても庶民が賄えるものではなく、神聖魔術の治療は裕福な者たちに限定されているのが実状である。
ノアはしばらく遠巻きにシャノンの様子を窺った。傍から見たシャノンの印象は、ノアが知る彼女とかけ離れていた。身体の自由が利かない者に手を貸し、子供たちにやさしく微笑みかけ、誰にでも分け隔てなく向き合っている。
神聖魔術は術者の魔力と精神力を著しく奪う。シャノンはそれを厭わず、集まってきた人々すべての面倒を見てやった。そうして、彼らからなにも受け取らずに戻ってきた。
ノアは自分の近くを通りすぎようとしたシャノンに声をかけた。
「奉仕か。殊勝だな」
「見ていたのなら、おまえもなにか手伝えばよかったろうに」
「おれは神聖魔術など使えない」
「関係ない。他人を思いやる気持ちがあればいい」
「悪かった。そう心がけるようにする」
「気にするな。おまえになど、最初から期待はしていなかった」
誰かの呼び声が聞こえた。村人がふたりのところまでやってきて、木工職人の準備ができたから出発できると告げた。
ノアとシャノンは木工職人と村の若者ふたりとともに、荷馬車を置いてきた場所へ向かった。村の者たちは歩いてノアとシャノンについてきた。車輪の修理にはさほど時間を要しないだろう。今日中には石棺の輸送を再開できそうである。気がかりなのは、瞬間移動する際にはぐれてしまった仲間のことだ。無事に魔術協会から逃れていればよいが。シャノンが言うには、神聖騎士たちは不測の事態が起こった場合、ここから北東の湿地にあるウバス修道院へ避難することになっていたそうだ。
「神聖騎士団は選りすぐった精鋭だ。簡単にやられてはいないだろう。もしそうなったとしても、任務を遂行するための許容せねばならない損害だ」
とシャノン。
「自分がそのうちに入っていなければいいがな」
ノアが皮肉まじりで言う。シャノンは元の冷徹な女隊長に戻っていた。なぜ彼女はこうも厳しく振る舞うのだろうか。
「どうしてそこまで任務にこだわる?」
ノアが訊いた。シャノンは彼のほうを横目で見たが、答えない。ためらっているようだった。しばらくして、ようやく彼女は口を開いた。
「……昔、スワンジの北にも村があったんだ。あそこよりもずっと小さな村だった」
「だったということは、いまはもうないのか」
「ああ。村があった場所には、もう誰も住んでいない。疫病でほぼ全滅した」
疫病で廃村か、気が滅入る話だ。察するにシャノンはその村の出身なのだろう。ノアは直感でそう思った。
馬に揺られるシャノンはどこか遠くを見つめながら、さらに語を継いだ。
「理不尽な話だろう。村人たちはなにもしていない。ただ必死に働き、毎日を送っていただけだ。わたしはどうしてユエニ神があんなにひどい仕打ちをなさるのかと、不思議でならなかった。だから洗礼を受け、オーリア正教会に入信した。少しでもユエニ神へ近づけば、その理由がわかるかもしれないと考えてな。しかし正教会に身を置いてみればどうだ。そこにいる清い心を持ったはずの人々は退廃し、戒律をものともせず野放図に振る舞っていた。なかにはそれが聖職者の特権と思っている者もいた。自分を騙して開き直る奴もな」
「その先鋒が先代の神官王だろう」
とノア。
「いや、あのお方も最初は正しくあらせられたのだ。しかし不徳を悪魔につけ込まれ、堕落するにいたった。それが腐敗を引き起こし、正教会で蔓延したのだ。このままではユエニ神が人の世を見放すのも遠くあるまい」
シャノンの嘆きが胸の内からこぼれた。しかし彼女はすぐに気を取り直すと、決意を固めたかの表情でノアに向き直った。
「なぜ任務にこだわるのかと訊いたな。答は組織のなかでのしあがるためだ」
「功績を打ち立て、自分が正教会の上層に食い込もうというわけか」
「そのためには手段は選ばん。周りの者にどう疎まれようともな。そうして、いずれわたしが正教会を立て直す」
シャノンが鎧のように身にまとっている気丈さと、非情な態度の理由がわかった。彼女は変革を求めている。現状に絶望を感じて、それを打開するためにはどんな強硬も辞さないのだ。あやうい信条だとノアは思った。
「簡単にはゆかないぞ」
「わかっている」
「どうかな。人の意識はそう簡単に覆せるものじゃない。大きな船は、舵を切ってもすぐには向きを変えられない。もしもいま現在の流れを変えるのなら、それが定着したのと同じくらいの時間が必要だと思わないか」
「おまえはずるい」
「なにがだ」
「自分ではなにもせずに、したり顔で皮肉や批判ばかり述べている」
「あんたと同じように、急ぎすぎたばかを知ってる」
「誰のことだ」
「マントバーンだ。あいつのやったことをどう思う?」
ノアの問いかけにシャノンは口淀んだ。
「強硬な手段を用いた者は、いずれ自分もその憂き目に遭う――」
シャノンはその自分の言葉を反芻するかに、少しのあいだ口を閉ざした。そして、
「じゃあ、正教会のあの様を見過ごせと言うのか」
「時間をかけるべきだ。なんならあんたが礎となり、次の世代に任せてもいい」
「悠長な。正しい道を示せば、世の中は必ずそちらへ向かうはずだ」
「正しければすべての人々が感銘し、一夜で改心するとでも? だったらこの世はもっと単純で平和にちがいない。まずは自分を大切にするんだな。いまのあんたは心と身体をすり減らせて、そのうち消えてしまいそうだ。見ていられない」
ノアとシャノンの後ろを歩く村人たちが、口論をしているような彼らに心配げな目を向けていた。
「だけど、わたしはそう願うんだ……」
ほとんど聞き取れないほどの小さな声で、シャノンは言った。
一行は日暮れ前に沼のそばの草地に着いた。輸送隊の荷馬車は置いてきたときと同じ状態でそこにあった。
ノアとシャノンは村の者らと、ただちに荷馬車の修理に取りかかった。全員で荷台の片側を持ちあげ、壊れた車輪を村から運んできた似たような大きさのものに取り替えた。細かな修理をするより、こちらのほうが手っ取り早い。車軸を通す轂の部分の大きさが合わずに少々手間取ったが、木工職人が軸を削って調整するとうまくいった。
馬を軛に戻し、ふたたび石棺を運ぶ準備が整う。シャノンはすぐに出発すると言った。ただでさえ予定が遅れているのだ。少しでもウバス修道院までの距離を稼ぎたいらしい。
「それで聖女様、このあとどちらへ向かわれるので?」
別れ際、村の若者のひとりがシャノンに訊ねた。
「湿地の奥にあるウバス修道院だ」
とシャノン。それを聞いた村人たちは、やや戸惑って互いの顔を見合わせた。妙な雰囲気だ。
「近道はないのか。知っているのなら教えてくれ」
ノアが言った。すると若者は、
「いえ、道は知りません。なんせ、あそこは禁足地ですので……」
「どういう理由でだ?」
「あの湿地の奥には、沼の怪物がいます」
「怪物だと? なんだそれは」
「ベルゼルゲル――殺しても死なない、おそろしい怪物です」
つづきです。
猛暑のみぎり、みなさまいかがおすごしでしょうか。
冬よ早く来てくれー。
ご感想やご指摘があれば、お気軽にどうぞ。
作者がとてもよろこびます。




