いつか明ける夜
「僕はこの通り顔も良くないし、人当たりも悪いし、何事にも不器用で勉強だって出来ないし……要するに、僕は駄目な側の人間なんだ。小学生高学年にもなれば、そういう事は自分でもしっかり分かっていたよ。僕はこの世の中でやっていけないって。一生不幸のままで惰性で生きて一人で死んでいくって事も身に染みてわかっていた。だからこの世界のなにもかもがくだらなく思えていたし、友情とか愛とか夢とかそういう浮ついた言葉も、そういう言葉を吐く連中も嫌いだった。でも変な話、そうやって斜に構えている自分の事はどこか誇りに思っていたんだ。ありもしない幻想に浮かれる幸福な連中より、不幸だけど現実を見ている僕の方がずっと上等に思えていた。何もかもを見下して孤独を楽しむ事ができるのだから、ある意味で僕は人より優れているんじゃないかって。ずっとそう思っていた。いや、今だから言えるけど、そう思うしか無かったのかな。……でも、彼女のせいで全てが変わってしまった」
佐伯は茶化すでも合いの手を入れるでもなく、僕が話し終えるまで口を結んで黙って聞いてくれていた。佐伯はレモンサワーのグラスを傾け、金髪の前髪を撫でた。そしてどこか陰りを帯びた細い目で僕を静かに見ていた。やはり佐伯は僕と似ているのかもしれない。
佐伯とは別段仲が良かった訳でもない。大学の時同じゼミで何回かレポートやノートの関係で話した程度の仲だ。こうして久々に会っているのも佐伯の方から「金を貸してくれ」と電話して来たのが切っ掛けだった。30近くにもなって「金を貸してくれ」という事は未だにチャラ男を脱却できていないらしい。半ばあきれたけれど、何より僕は嬉しかった。……僕は昔から、佐伯の心の奥底のほの暗さを見抜いていて、不思議な親しみを感じていた。佐伯も僕と同じように世の中の何もかもを見下していて、それでも何らかの思想からか諦観からか現在の生き様を選び取ったのではないか。僕にはそう思えた。実際に話して確かめた訳ではないが、彼が時折見せる虚ろな表情や真摯な態度が僕に確信をもたらしていた。佐伯なら分かってくれる。そう思えたからこそ僕はこうして打ち明ける事が出来ているのだろう。
「僕は大学を辞めてから工場で派遣で働いててさ、そこの事務所に、新卒の女の子が入ってきてね。彼女は別に、特別可愛いって訳じゃないけど、人懐っこくて明るくて、僕なんかにも笑顔で話しかけてくれて、まあ、いい子なんだと思うよ。もちろんどうこうしよう何て考えた事は無かったさ。そういう事はとっくの昔に諦めていたし、くだらないとも思っていた。でも、彼女の笑顔を見ているとさ……どうしても胸が苦しくなるんだ。もしかしたらこの子は、僕の事を好きなんじゃないか……なんて思う事もあった。どういうわけか彼女は僕によく話しかけてきたし、声のトーンとか視線とか言葉遣いとかそういう態度の端々からも、そういう風に思わせる所があってさ。まあ、僕は女性に好かれた事なんかなかったしどうせ気のせいだとは思っていたけど……でも昼休憩の時、同僚の軽薄な奴が話しかけて来てさ。そいつによると、彼女が……僕の事が気になってるっていうんだ。……といっても、そいつは軽薄な奴だから本当かどうかも分からない。でたらめで僕の事をからかっているだけかも知れない。だから奴の言う事を本気にしたわけじゃないんだけど、その時からずっと変な感じだった。なんていうか、自分が自分じゃなくなったみたいで、仕事にも全然身が入らなかった。それでも何とか仕事を終えて事務所に戻ってさ……彼女と目が合って『おつかれさまです』って彼女の笑顔がはじけて……それで僕は自分が壊れていくのを感じたんだ」
顔が火照っている。頭がくらくらしてくる。だが、あの時に比べたらずっとマシだった。
「僕は完全におかしくなっていた。喜びと苦しみが同時に溢れてきて頭を埋め尽くして行くんだ。走馬灯みたいに映像が光っていた。悪夢のようだった。若くて金のある男に彼女を寝取られて捨てられる光景、結婚してから僕の低収入に嫌気がさした彼女に邪険にされ離婚届を突き付けられる光景、生まれた子供に『どうして産んだんだ』と彼女がなじられている光景、全てが順調にいって子供も二人出来て幸せだと思っていたら、事故で彼女も子供もみんな死んでしまい僕だけ取り残されて一人カップ麺を食べる光景。そしてまた彼女の笑顔がはじけて浮かんで僕はどこまでも幸福になって、次の瞬間には自分の醜さや積み上げてこなかった人生が浮かび上がって、そんなことを繰り返している内に……全部が気のせいだったような気がしてきて、思わせぶりな態度で僕を苦しめた彼女が憎くて仕方なくて、そしてまた幸福に突き落とされて、失う恐怖に苛まれて、そういう事が一瞬の間に何度も繰り返されていくんだ。僕はもう狂ったようになっていた。耐えられなくなって仕事を辞めて引きこもってみても、それでも彼女は僕の頭に纏わりついていた。僕はもうどうしようもなくなってしまった。彼女をオナニーのオカズにして忘れようとしたけど、キリがなかった。ありとあらゆるシチュエーションでオカズにしてやったよ。でもどんなシチュエーションでも必ず最後に彼女は言うんだ『責任取らなくていい』って。……要するに僕はそういう程度の人間って事なんだ。やっぱり彼女は僕の事を誤解していたんだ。あまりにも若すぎて、僕を勘違いしてしまったんだ。いや、全部気のせいだったのかも知れない……とにかく、僕はもうダメだ。もう二度とあんな事は起こらないだろうし、今更努力する気にもならない。それだけならいいんだ。でも僕はもう……斜に構えて自分を保つことも孤独に逃げる事も二度と出来ないんだ」
言い終えてテーブルの木目に俯いていると、佐伯は店員を呼び止め手羽先とレモンサワーのお替りを注文していた。「お前も何か飲むか?」と心なしか優しい声に首を振り、ジョッキの底に溶けた氷水をあおる。佐伯は頬に皺をよせ、いつの間にか呆れたような表情を作っていた。
「北島、お前童貞だろ」
「……だったら何だよ」
「お前はさ、一回パーッと遊んだほうがいいんじゃないか? 何も考えずにさ」
馬鹿にするなよ、と出かかった声を飲み込んでみると、一理あるような気もしてくる。思考するから苦しみが生まれるという事は僕は散々思い知って来た。苦痛から逃れるには、何も考えない事が一番手っ取り早いのは間違いない。それに……仮に遊んでみて全然気が晴れなかったとしても、それはそれで悪くないじゃないか。……そうだ。悪くないかもしれない。どんなに願っていた幸福だって、実際に味わってみればなんてことはないという事はよく聞く話だ。僕はあまりにも遊んでこなかった為に、無意識のうちに遊びに幻想を抱いてしまっているのかも知れない。そういった幻想を解消する為には、頭を空っぽにして遊ぶのが一番だろう。そうして表面上の快楽に溺れられるなら十分すぎるし、くだらないと思えるなら、それはそれで僕は孤独に立ち返る事ができるかもしれない。自分を取り戻せるかもしれない。しかし……
「遊ぶって、どうやって?」
「お前貯金とかはしてんの?」
「実家暮らしでほとんど使わないし、150くらいは」
「へー結構あるじゃんか。そんだけあれば十分すぎるな」
「どういう事だよ」
「パーティ開くんだよパーティ。商売女の伝手ならそれなりにあるし、スナックやってる知り合いもいるから場所はあそこでいいし……」
ブツブツと独り言ちながらテーブルを指で叩き、佐伯は何かしら勘定しているようだったが、それもすぐ終わった。
「100万でいいぜ。女持ち帰り放題でたったの100万だ。それだけ払えば俺が最高の夜を演出してやるよ」
僕は頷いていた。「たったの100万」という言葉が妙に心地よかった。「たったの100万」で今までの自分も何もかも全部捨てられるなら、安い買い物じゃないか。僕にはそう思えたのだった。
◇
それから佐伯と連絡を取り合って、次の日には100万円を振り込んでいた。ATMの画面に浮かぶ預金残高は桁が切り下がっていて清々しかった。僕は後悔していないらしかった。……僕だって分かってはいた。佐伯は金を持ち逃げするかもしれないし、持ち逃げしなかったとしてもたった一晩の浮かれ騒ぎの為に大金を捨てるのはバカバカしい。それでも僕は後悔する気にはなれなかった。僕には100万払って浮かれ騒ぎをしなければならない義務がある。そんな気すらしていた。とにかく僕は後悔していなかった。後悔していなかったが、後悔していない自分が堪らなく愚かに思える事もあった。
しかし金を振り込んでからと言うもの、あの女の事を考える頻度は明らかに減っていたのも確かで、散歩して気を紛らわす余裕も出て来た。散歩をしていると悟ったような気持ちにもなって、すでに支払いは終わっているので今更どうにもならないし全てがどうでもよい気がして来た。いっそのこと佐伯に金を持ち逃げされても良かったくらいだが、幸か不幸か奴はそうする気はないようで、どういう女が好きかだの、どういう食べ物が好きかだので定期的に連絡を入れてきていた。やがて月末の土曜日に決行との連絡を受けて、僕はその土曜日を指折り数えて待った。恐怖と期待と不安が入り混じった気持ちを抱えながらも、重大な修練を控えた修行僧のように僕は落ち着いてもいた。
そして土曜日はやって来た。パーティは午後8時からの予定だったが僕はいても立ってもいられず、昼には家を出て一人繁華街をうろついていた。人気のない昼の繁華街を歩いていると、まるで人類が滅亡してしまったような気がして悪くなかった。ゴミゴミした細い路地。カラスがゴミ箱に止まっていた。黒い瞳で僕の方を向いて、少しためらってから義務的に飛び立っていった。何故だか嬉しくなった。僕はその路地が気に入って何度も往復した。
それでも時間はまだまだあったので、一度ネットカフェで時間を潰してからまた繁華街に戻ると、夜の繁華街は全く別の街になっていた。無機質な光が交錯していて、僕に向けられた視線のようだった。佐伯に言われていた通り、コンビニで胃腸液を買って飲み、5分前に会場のスナックに到着するよう念入りに計算しながら最後の散策に入った。昼にカラスがいた細い路地。今日何度も歩いた道だったが、夜になるとまた違った相貌を見せていた。「でもこれなら昼の方がずっと良かったな」と僕には思えた。僕は不思議と落ち着いていた。
スナックは雑居ビルの3階にあった。エレベーターに乗り込んで3を押して待つと、開いた。反射的にエレベーターから出ると、黒い扉に掛け標識が下がっている。「本日貸し切り」と黒字に白で書いてある。フォントは明朝体だろうか。その明朝体の横線の細さに目が吸い込まれているうちに、僕は嫌な感じがして来た。「本日貸し切り」……「本日貸し切り」か……全く大層なご身分じゃないか。無職で大して金もない癖に。大体が図々しいじゃないか。貸し切りと知らずに来て扉の前でガッカリする常連さんもいるかもしれないのに。いや、そもそも金で女性をどうこうしようって発想自体が途方もなく浅ましいじゃないか。……どうして今まで考えなかったんだろう。バカバカしくなって来た。どうしてこんな事になってしまったんだろう。いやでも、もう何もかもが遅い。僕はもう100万円を支払ってしまったし、今更キャンセルもできない。佐伯も女たちも僕を待っている。時間は……あと3分だ。あと3分しかない。もう行くしかない。行く義務があるんだ。ノブに手を掛ける。
扉を開くと炸裂音があった。紐が顔にかかる。火薬の臭い。何か向けられている。クラッカーだ。「イエェーイ!」拍手の音と歓声。3人の女の顔。ドレス。佐伯が笑っている。佐伯が何か手渡してくる。タスキだ。「本日の主役」なんて馬鹿げたことが書いてある。受け取って袈裟掛けにする。また歓声が響く。悪くない。思ったよりは。楽しいのかもしれない。自分でも意外だったが、確かにこれは楽しい。
色とりどりの女たちに手を取られてガラステーブルへと向かう。並んだご馳走と酒。揚げ物やらステーキやらが重箱に入っている。高そうなワイン瓶がある。ドンペリって奴だろう。それにしても煌びやかだ。棚もカウンターもガラスだらけだ。悪くはない。しかし僕が一番気に入ったのはそこかしこに垂れさがる折り紙で作った輪飾りだった。これは恐らく佐伯が自分で作ったのだろう。少しでも経費を削減して自分の取り分を増やそうという目論見も当然あったのだろうが、それでも手作り感があって好きだった。ソファに腰かけてみると、女が左に座った。僕の人生で初めての事だった。右にも女が座った。僕は女に挟まれてしまった。左右から腕を掴まれた。佐伯が「よっ! 色男!」なんて馬鹿な事を囃し立てている。楽しい。バカバカしいが、楽しいじゃないか。
……しかし疑念が過ぎる。本当に楽しい時は楽しいなんて思わないものじゃないだろうか。楽しいと思っているという事は、まだどこか自分を見る冷静さがある。それではいけない。我を忘れなければ本当に楽しいんでいるとは言えない筈だ。僕は我を忘れなければならない。
まず僕は右側の女へと顔を向けた。黒いドレスの女だ。茶髪の巻き髪で細く整った顔立ちだが、どこか愛嬌もある。スタイルもいい。ただ化粧が強すぎる。特に目元がパッチリし過ぎている。何よりこういう綺麗系の女は、見下されている気がして僕は苦手だった。「ミホです。よろしくね」ミホの笑顔はどこか作り物めいていた。「よろしく」「手、綺麗ですね」「いや……まあ……」手をさすられた。その手つきには服についた虫を払うようなニュアンスが見え隠れしていた。……やはり彼女は内心では僕の事を嫌っているのだろう。無理もないことだ。もし僕が彼女だったら、僕の様な男には見向きもしないだろう。だから彼女が僕を見下しているのは自然な事だ。
重箱の唐揚げに俯いても、ミホはまだ僕の手をさすり続けていた。いい加減うんざりして払いのけてやろうかと思い立った時、合図するように左腕が掴まれる感覚があった。左を向く。「カナでーす」黒髪で目が大きい童顔の女だった。白レースの胸元はハッキリ膨らんでいる。好みのタイプではあったが、どこか受け付けないところがあった。「お兄さん、今夜はいっぱい楽しもうね」「ああ、うん」彼女は表情から一挙一動まですべてが嘘くさくて、作り物じみていた。僕の方に円らな瞳を向けているが、全く僕を見ていないようだった。能面のようだった。彼女は僕を見下しているというより、そもそも眼中にないのかもしれない。
……どうも駄目そうだな。これは。帰りたくなって来た。
向かいに座る佐伯に目で縋る。佐伯は右隣りに女を侍らせて何やら談笑していて僕の視線に気付いていないようだった。女と目が合う。笑顔がはじけた。「ヒマリです。佐伯君の友達で、一応ここのママやらせて貰ってます」「ああ、どうも北島です」「よろしくね」「よろしくおねがいします」
少し顔が赤らむのを感じた。いい女だと思った。笑うと目尻に皺が出来て40くらいはいっていそうだが、落ち着いた雰囲気が好きだった。歌うような話し方にも座り方にも表情にも上品な色気があった。若い子を立てる為に自分の存在を隠そうとするような奥ゆかしさも見えて、それがかえって彼女の存在を濃くしていた。何より彼女には演技している気配が全く感じられなかった。あるいは、演技だと思わせない程に彼女の演技力がずば抜けているだけなのかも知れないが。
「じゃあ、自己紹介も終わったとこだし、乾杯といきますか!」
佐伯が声を上げた。皆が僕の顔色を伺う気配があった。頷くと「そうだね」「うんうん」「開けちゃいますか!」僕もまた頷く。「よーし! じゃあ手始めにドンペリいっちゃいますかー!」「やったー!」「おおー!」佐伯は「ほらーみろ北島! ゴールドだぞ!」なんて僕に金ラベルを見せつけると、大事そうに瓶をガラステーブルに立て置いた。布巾を瓶に宛がってボトルの底を捻っていく。弾けるような音がしてコルクが抜けた。「おおー!」テーブルの上のワイングラスに透明の液体が注がれていく。少し気泡があって、気の抜けたビールのようだった。「さて、本日は不肖、佐伯雄二が乾杯の音頭を務めさせて頂きます! みなさんグラスをお手に! はい! どうぞどうぞどうぞ! ……それでは本日の主役、北島君のご健勝を祈って! 乾杯!」乾杯の声が重なって、僕も何とか声を重ねて、グラスが弾けていく。呷ってみると確かに美味かった。フルーティだ。
「うーん! やっぱゴールドは違うな! どうだ北島! うまいだろ?」
僕はへらへら笑ってごまかしながらも、いよいよ帰りたくなっていた。乾杯の音とドンペリの味は確かに僕に良い効果を与えたのだが、それが余計に頭打ちを予感させた。後は緩やかに下降していくしかないように思えた。「ほら北島! 唐揚げ食べろよ! 好きだろ?」「ああ、うん」義務的に口に運んでみる。「ああ、美味しいね。……あの」「どうしたの?」「この唐揚げ、ヒマリさんが作ったんですか?」「うん。お店の台所でちょっとね」「へー台所があるんですね。ああ、美味しかったです」「そう、良かった。他にも色々作ったから食べてね」「はい」ヒマリさんの厚い唇が微笑みになっていた。僕は目を逸らす。少しだけ達成感はあったが、自分の会話のたどたどしさに対する自己嫌悪の方が強かった。
「ねぇ、なんか飲む?」「いや、まだいいかな」「このTシャツいいね。どこで買ったの?」「いや、どこだったかな」左右の女が交互に声を掛けて来る。彼女たちは僕とヒマリさんの会話から何かを悟り、自分の存在を誇示したくなったのかも知れない。佐伯が言っていた。僕にお持ち帰りされた女はボーナスとして15万貰えるらしい。だから彼女たちは必死に15万を奪い合っている。左腕に感触があった。左の女が腕に抱き着いていた。見ると胸が当たっていて驚いた。胸の固さに驚いた。ブラジャーのせいもあるのだろうが、それにしても固かった。女の手の方がずっと柔らかいくらいだった。あまりの事に僕は興奮すると言うより、純粋な興味を憶えていた。どうしてこんなに固いのか、ブラジャーと胸に触れて徹底的に調べて構造を把握してみたくなった。アホらしいので本気でやるつもりも無かったが、しかし案外、世の男達も今の僕と同じように、単純な性欲ばかりでなく調査欲の為に女性に近づこうとしている側面もあるのかもしれない。
一方で右の女は僕の肩に茶髪の頭を寄せて来た。シャンプーなのか何なのか僅かに甘い香りがしたが、しかし頭のせいで腕が動かしにくくてならなかった。これでは酒が飲みにくいし唐揚げも食べにくいじゃないか。別に今のところ何も口に入れたくないし右腕を動かす予定も無かったが、やはりこの女にはどこかがさつな所があって好きになれない。左の女も左の女で相変わらず固い胸を僕に押し当てていてなんだか滑稽だ。どうもこの女は、胸を僕の腕に当てるという行為に何か重大な意味があると思い込んでいるのかもしれない。だが僕はいい加減飽き飽きしていて、彼女の胸に対する調査欲すらも既に霧消していた。
「だよねー」
向かいのヒマリさんと佐伯が、何か話していた。楽しそうに笑い合っていた。佐伯は、どうしてこんな配置にしたのだろう。そりゃあ、女3人を隣に配置する事はできないし、バランスから言っても向かいに一人女を配置し、消去法でその隣に佐伯が座るのは正しいかも知れないが……。これじゃああんまりじゃないか。あんなに楽しそうに話をしやがって。ヒマリさんも佐伯さんも、ものすごく自然体で楽しそうだ。二人はヤッた事はあるのだろうか。……いや、無さそうだな。それは多分ないだろう。ないだろうが、それにしても仲が良さそうだ。むしろヤッてくれていた方がマシかもしれない。……ああ、僕は嫉妬しているんだろうな。しかし、おかしな話だ。左右に女を侍らせている筈の僕が嫉妬するなんて。
嫌になって来て嫉妬を振り払いたくて、左右の女の感触を同時にぼんやりと感じてみる。そうしてみると嫉妬が薄れて少しは良い効果があったが、それもすぐに慣れてしまった。もっと認識をぼかした方がいいかもしれない。顔を右に振って「ちょっと飲もうかなー」と語尾を伸ばすと、右の女は待ってましたとばかりに「何がいい?」と尋ねて来る。「ビールがいいな」というとすぐに「ちょっと待っててね」とヒマリさんがどこか嬉しそうに立ち上がってジョッキを持って来た。
軽くビールを飲んでみて、ふと気になった。佐伯は女持ち帰り放題と言っていたが、その持ち帰り対象にヒマリさんは入っているのだろうか? 言葉だけを読み解けば入っている、と考える方が妥当だろうが、もっと文脈を掘り下げてみれば入っていない可能性もある。何せ僕は佐伯に女性のタイプを聞かれた時、深く考えず若い子が好きだなんて馬鹿な事を言ってしまっていた。だったら、ヒマリさんにそういう気がない可能性も十分に考えられるではないか。「持ち帰り放題って事にしてるから」「えー私そういうの無理だけど?」「いや、大丈夫。あいつ若い子が好きって言ってたしさ。サポートだけしてくれたらいいよ」「ならいいけど」そういった密約が佐伯とヒマリさんの間に交わされた可能性は十分にあり得る。そう考えてみれば、ボーナスを物ともしないヒマリさんの落ち着いた態度にも合点が行くじゃないか。
いや、しかし、それもおかしいじゃないか? 佐伯は持ち帰り放題と言ったよな? だったら文字通り持ち帰り放題と受け取るべきだろう。食べ放題に置いてある料理を取ったら、「それは食べ放題対象ではありません」なんて怒られるみたいな話じゃないか。おかしいじゃないか。そんな事態があったとしたら、悪いのは料理をとった方ではなく店の側ではないか? ……いや、違うな。これは。やっぱり悪いのは僕だ。全部僕が悪いんだ。そもそも人を食べ放題の料理扱いする事自体が間違っている。ヒマリさんは、料理じゃない。ヒマリさんは人間だ。……そうだな、ヒマリさんが持ち帰りの対象に入っていたとしたら、僕はかえってガッカリするするのかもしれない。ヒマリさんの魅力はそういう事じゃないんだ。……でも、結局のところ、僕がヤリたいとしたらヒマリさんだけだ。右の……たしかミホだっけ? カナだっけ? どっちがどっちか分からなくなってきたけど、この二人とは別段ヤリたくもない。なんとうか、知的好奇心を刺激されない。どういう身体をしているのか、確かめてみる気にならない。服を剥がして裸を見てみても、大体予想通りで何も得るものが無いような気がしてしまう。いや、僕は最低なのかな。こんな失礼な事を思って。でも、誰かを好きになるっていうのは、結局そう言う事に過ぎないのかも知れない。
しかし、ヒマリさんとセックスしたいなんて僕が言ったら、この場の空気が最悪になりそうだ。ヒマリさんが断らなかったとしても、左右の女はガッカリするだろうし。怒って帰るかも知れない。断られても、それはそれで最悪だ。どのみち台無しじゃないか。いや、一番最悪なのが、ヒマリさんが本当は断りたいのに、場の空気で断るに断れないっていう事態じゃないか? そんな事になったら、レイプと殆ど変わらないじゃないか。……はあ。駄目だな、僕は。いっつもこんな調子だ。やっぱり僕には出来ない。僕にはセックス何てできない。できそうにない。もういいんだ。一生童貞でも。
ジョッキを掲げて思い切り傾けてやった。喉の奥が熱くなってくる。誰かが遅れて「イッキ! イッキ!」なんて掛け声を上げていて、その声が僅かに心配の色を帯びていて可笑しかった。
「おい北島無理すんなよ。お前酒弱いんだろ?」
息を吐くと眩暈がしてきた。顔が火照っている。口の中に鉄の臭いが広がって気持ち悪い。もううんざりだ。もううんざりだった。結局あの女の時と同じじゃないか。僕は人の顔色ばかりうかがって、傷つけられる事を恐れて、傷つける事を恐れて踏み出す事ができない。いや、こんな所で踏み出しても何もかもが遅いんだろうな。どこか別の場所で踏み出せばよかったんだ。例えば……
……いや、もういい。もう終わった話なんだ。もう何もかもが終わったんだ。
「ごめん。ちょっと寝たいかな」「大丈夫?」「うん」
音も無くソファから女がどいて、黒いソファは僕だけの物になった。嬉しかった。うつ伏せに寝そべった。思ったより酔っていなかったが頭がくらくらしていた。女たちの座る場所がふと心配になったが、100万円を思い出したらどうでも良くなった。僕はこのソファで寝る権利を100万円で買った。そう思う事にした。腕を枕にすると世界は真っ暗で、僕は一人になれた。一人になれた気がした。悪くないかもしれない。
いやしかし……やっぱり、駄目だったな。やっぱり、駄目だった。そもそも僕には最初からこんな事は向いていなかったんだ。……どうも僕は女性が苦手なんだろうな。女性を見ると、どうしてもセックスしたくなってしまう。セックスしたくなるって事は、人を道具扱いしてるって事だ。人を道具扱いするって事は、他人に道具扱いされるって事だ。そうなると僕は道具としての価値もポンコツだから、見下されて同然って事になる。だったらもう、最初から関わらなければいい。いつのまにかそう言う風になってしまった。結局、悪いのは思考だけじゃなかったって事だ。一番悪いのは認識だったんだ。認識が諸悪の根源だったんだ。
「おい北島!」「何だよ」「お前、いつまで寝てんだよ!」「もういいだろ。寝かせてくれよ」「寝てんなよ。今夜はお前が主役なんだぞ」
……主役? 主役だって? この僕が主役だって? 馬鹿にしやがって。
「もうほっといてくれ……頼むから……」
「ちょと、一回起きろって。水でも飲めよ」
「やめろよ! もう! どうせお前ら……」
僕は一瞬我に返ったが、暗闇を黒く染めていく衝動は止まらなかった。
「……お前らどうせ僕の金が目当てなんだろ? お前ら、15万が欲しいだけなんだろ? 俺なんかどうでもいいんだろ? 死ねばいいって思ってるんだろ? クソ……見下しやがって! そうだよ! 俺はクズだ! 俺はクズなんだ! 好きな女の子を誘う事も出来ずに逃げ出すような奴なんだよ! 金で人をどうにかしようなんてクズなんだよ! 結局何も踏み出せない馬鹿なんだよ! 僕は! だったら何だよ! 関係ないだろ! お前らに! もううんざりだ! 帰れよ! お前らもう帰れよ! 帰ればいいだろ! 15万やるから帰れよ! 頼むから一人にしてくれ! いいから帰れ! 帰ってくれよ!」
僕はソファの暗闇に叫んでいた。暗闇が涙で滲んでいた。僕は一人だった。全部がどうでも良かった。涙が広がって行った。うめき声が漏れないようにして、それだけに意識を集中していた。その間ずっと沈黙が続いていた。
「帰らないよ」
女の声だった。優しさと反抗と寂しさが全部グチャグチャに混じったような小さな声だった。僕は目を見張っていた。確かに「帰らないよ」と彼女はいった。どうして帰らないのだろう。金がもらえるんだから、とっとと帰った方が得なのに。「帰らないよ」か……。それにしても……誰の声だったんだろう。……多分、ヒマリさんではないな。ミホかカナかどっちかだろう。どっちにしろ、演技しているような声じゃなかった。好きだな。好きな声だった。……でももう遅い。何もかもが終わったんだ。もう取り返しはつかない。
……しかし、どういう訳だろう。人の気配がどこにもない。帰る気配も感じられない。世界から音が無くなってしまったのか? どこにいるんだろう? どうして帰らないんだろう? 帰ればいいのに。僕の言い方が気に障ったんだろうか。あるいは、彼女にも思う所があったんだろうか。人を物扱いして、物扱いされて、仕事柄そういう事に慣れてるだろうからな。そう言う事に慣れ過ぎてうんざりしていたのかも知れない。だから、もしかしたら彼女は僕の孤独を分かってくれたのかもしれない。……いや、これは考え過ぎか。ただ反抗しただけかもしれない。もしかしたら、もう帰っているかもしれない。佐伯もヒマリさんもみんな帰っていて、僕だけが一人で馬鹿みたいにソファにうつ伏せっているのかもしれない。そう言う事も、十分に考えられるじゃないか。……いや、どうでもいいな。そんな事より早く終わってくれないかな。これ。何の時間なんだろう。誰も得しないじゃないか。早く夜が明ければいいのに。あるいは痺れを切らした佐伯が、無理やりにでも僕を叩き起こしてくれればいいのに。そしたら僕の汚い泣き顔が白日の下にさらされて気分爽快だろうな。
しかし、参ったな。どうも僕は失敗したらしい。四の五の言わずに僕が帰ればよかったんだ。……今からでも遅くないか? ……いや、駄目だな。彼女は「帰らない」と言っているのに、僕だけ勝手に帰るなんて許されない。僕だってそのくらいの分別はある。それに、まずはこの泣き顔をなんとか乾かさないと。……しかし、改めて思うとすごいな。どうして帰らないんだろう。人間って言うのは……特にああいうタイプの女はもっと単純だと思っていたが、どうも僕は間違っていたらしい。人間って言うのは、思ったよりずっと複雑怪奇らしい。怖いくらいだな。
怖いと言えば……そうだな……僕は川崎さんの事も怖かったんだろうな。川崎さんはこんな僕の事を好きになってくれたかも知れないのに、僕も知らない僕を好きになってくれたかも知れないのに、僕の奥底を好きになってくれたかも知れないのに、僕は彼女の側面しか見る事が出来なくて、そのことに僕は耐えられなかったんだ。あまりにも複雑な川崎さんの心に僕の機械みたいな脳味噌が耐えられなくてショートしてたんだ。
結局人間は、他人の中に自分を投影する事しかできないのかな。やっぱり、人の心はどうしたって分からないんだ。結局全部が全部気のせいだったかもしれないし、佐伯の中に垣間見えていた暗さだって、ただ徹夜で遊びすぎてダルかっただけで、気のせいだったのかも知れない。川崎さんの事だって、全部気のせいだったのかもしれない。いずれにせよ、他人と言うのは僕が想像できないような複雑な形で存在しているんだろうな。
僕に足りていなかったのは、人を尊敬するっていう事だったのかな。人の心を信じて、複雑さの片鱗を拾い集めるっていう事だったのかな。それが僕には全然出来ていなかったから、こうなってしまったのかも知れない。いや、結果は変わらなかったかもしれない。どのみち僕は耐えられなくて逃げ出していたんだろうな。それでも……
いや、何でもいいな。もうどうでもいい。もう終わったんだ。そんな事はどうでもいいんだ。ただ、一つだけ確かなことは、僕はずっと川崎さんが好きだったってことだ。好きで好きで仕方なかったんだ。いや、今も好きなんだろうな。うん。好きだな、今も。
……本当に、もう、うんざりしてきた。眠れたらいいんだろうけど、眠くないし。早く終わってくれないかな。あと何時間あるんだろう。大体1時までとか言ってたっけな? だとしたら、あと4時間以上あるじゃないか。あと4時間以上こうしていないといけないってのか? 随分と長いな。まあ、僕の残りの人生に比べたら、ずっと短いんだろうけど。ああ……うんざりだな。こんなことは。でも、こんな夜もいつか明けるんだろうな。
それにしても静かだ。まるで誰もいないみたいだ。本当に、みんな帰ったんじゃないだろうか。本当に静かだ。世界が終わったみたいだ。……でも、彼女はまだ帰っていないんだろうな。多分。ああ……もううんざりだ。うんざりだよこんな事は。