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水無川

作者: どくだみ

 昔、大きな川のほとりに村があった。川は村の田畑に潤いをもたらしてはくれるが、何年に一度か大水を出し、田畑を荒らすばかりか、尊い人の命まで奪ったのである。


 この川のほとりの村に一郎という百姓がいた。一郎の田圃は川の土手の脇にあり、一郎は昼時になると土手に上り、川を眺めながらいつも弁当を食べていた。一郎は村の中でも働き者と評判の男で、朝早くから日が暮れるまで田圃で泥まみれになって働いていた。

 そんなある日の夕暮れ。一郎は自分を見つめる一人の娘の目に気付いた。娘は大層美しく、一郎の心をすぐに捕らえた。また娘も、そんな一郎ににっこりと微笑みかけたのである。

「一郎さん……ですね?」

 娘は顔を赤らめながら、一郎に話しかけてきた。

「ああ、そうだが……。あんたは?」

「おりゅう……」

 一郎はおりゅうがこの付近の村の娘でないことは、一目でわかった。おりゅうの身につけていたのは、それは美しく優雅な着物であったし、百姓の身なりではなかったからである。

 一郎はおりゅうがどこかの武家の娘かと思い、一瞬沸いた恋心が切なくも苦しく彼を苛んだ。百姓と武家では身分が違う。惚れ合った仲でも一緒になれるはずもなかったのである。

「おりゅうさんとやら、もう日が暮れますぜ。早く帰った方がいい・・・・・・」

 そう言い放つと一郎は田圃を後にした。だが後ろからおりゅうの声がした。

「待ってください!」

 その声に一郎が振り向く。するとそこには、涙を一杯に溜めたおりゅうが立っていた。

「私はあなたを遠くから毎日見ていたのです。そしてついにお許しをもらって、あなたの元へ参ったのです」

 そのおりゅうの言葉に、さすがに一郎も愕然とした。

「お許しをもらったと?」

「はい」

 おりゅうは力強く頷いた。一郎の心の中には、先程切なくも諦めかけた恋心が、再びムクムクと頭を擡げ始めた。


 その日の夜、一郎はおりゅうに立派な屋敷へと案内された。屋敷には家来はおろか誰ひとり見当たらない。

 そして一郎はまず居間へと通された。神棚には立派な玉が飾ってある。一郎がそれに目を奪われていると、おりゅうが湯殿の支度ができているという。

 おりゅうに促されながら湯殿へ向かう一郎だが、生活の匂いがまったくしない。果たしてここが、本当にこの世なのかとも疑いたくなる程だ。一郎は狐か狸にでもたぶらかされているのかとも疑うが、おりゅうの微笑みを見る度に、その猜疑心も掠れてしまうのだった。

 湯殿では一郎もおりゅうも一糸纏わぬ姿になり、その身を湯船に預けた。一郎の身体からは、きつかった仕事での疲れが嘘のように抜けていく。

 ただそれ以上に、おりゅうの透き通るように白く、細い裸身が目に焼き付き、離れなかった。

(女子の身体とはここまで美しいものか……)

 一郎は感嘆し、桶で湯を汲むおりゅうの姿を、呆然と見つめていた。

 だが一郎も男である。その美しい肢体に劣情を抑えぬことは無理からぬことか。

 湯船から揚がった一郎は、おりゅうの肩に手を伸ばす。一郎の手が触れると、おりゅうが振り返った。その妖しいまでの流し目に、一郎の想いは更に高ぶったのである。


「こちらに……」

 湯殿の隣は床の間であった。既に豪華な床が整えられており、おりゅうは一郎の手を引いて誘う。

 一郎は若さに任せて、力一杯おりゅうを抱き締めた。腕の中で軋む華奢な肢体。鼻をくすぐる濡れたような黒髪。胸に当たる膨らみの感触。すべてが一郎を興奮させる材料だった。

「ああ、おりゅう……」

「私を抱くということは、私と夫婦になってくださるということですね……?」

 おりゅうがやや真剣な眼差しで、一郎の目を見据えて言った。

「おお、そうとも。夫婦になるともよ……」

 そう約束した一郎はおりゅうの乳房に顔を埋めた。初めて知る女の柔肌である。一郎は欲望のままに、その震える蕾を吸い、心行くまで感触を楽しんだ。


 そして二人は結ばれたのである。

 おりゅうは眉間に皺を寄せ、唇を噛みながらも、どこか幸福そうな顔をしている。

 そう、この時、二人は限りなく幸福だったのである。


 一郎が村へ戻ってから、おりゅうは夕暮れになると、毎日一郎の元へ現れるようになった。

 これが村の噂になったことは言うまでもない。何せ、おりゅうの着物は武家を連想させるものであり、武家と百姓の婚礼など許されるはずがなかった。一番心配したのは一郎の両親で、彼の身に何か不吉なことが起こらないかと、いつも心配していた。

 しかし一郎は「許しは得てある。心配ない」と言うばかりで、毎晩おりゅうと出掛けてしまうのだった。


 ある夜のこと。村の衆がこっそり一郎とおりゅうの後をつけることにした。

 すると一郎とおりゅうは川の中へと消えていったのである。

 これに慌てた村の衆は翌朝帰ってきた一郎を問い詰めた。しかし一郎は「おりゅうのお屋敷に行っていた」と言って譲らないのである。

 村の衆や両親は「お前は妖怪にたぶらかされているんだ」と説得したが、無駄なことであった。一郎は「私はおりゅうと祝言を上げます」と言って聞く耳を持たなかった。

「一郎ひとりの問題ならいいが、このままだと村全体が危ない目に遭うかもしれねぇ!」

 業を煮やした村の衆と両親は、とうとう一郎に猿轡を掛け、納屋の柱へ縛り付けてしまったのである。


 夕方になって一郎を呼ぶおりゅうの声がする。それは一郎の耳にも届いた。しかし猿轡を掛けられ、声が出せないもどかしさが一郎を襲う。

「んんーっ!!」

 一郎は猿轡を嵌められた口で、精一杯叫ぶ。心は「おりゅう!!」と叫んでいた。しかし悲しいかな、おりゅうが一郎のいる納屋を見つけることはなかったのである。

 こうして、一郎を呼ぶおりゅうの声は夜中から、朝日が差し込む直前まで響いた。

 そして、一郎はこの苦痛に一週間も耐えなければならなかった。

 一郎が縛られて一週間もすると、おりゅうの声は聞こえなくなった。村の衆も「とうとう諦めたか」などと笑い、胸を撫で下ろしていた。こうして一郎を縛っていた縄と猿轡は解かれたのである。


 それからというもの、一郎は田圃へ行くこともなく、毎日を家の中で過ごしていた。

「ちったぁ働け。この穀潰し」

 両親や村の衆からなじられても一郎は田圃へ行こうとはしない。ひねもす家の中でゴロゴロしているだけであった。

 そればかりか一郎は食も細くなり、ほとんど何も食べなくなった。その身体は見る見るうちに痩せこけていき、骨と皮だけになってしまったとか。

 村の衆はそんな一郎を見て「妖怪憑き」などと噂し、避けるようになったのである。


 一郎にしてみれば、ただ好いた女と一緒になりたかっただけであった。それに周囲がやっかみを入れた揚げ句、自分を中傷しているとしか彼には思えなかったのである。

「ああ、もう生きてなんかいたくない……」

 そう呟いた一郎は最後の力を振り絞るようにして、川に架かる橋へと走っていった。村の衆はもはや一郎には村八分を決め込んでいる。彼の方を振り向く者など誰一人としていなかった。

 一郎は橋の中央にまで来ると、勢いよくその身を川に投げた。その様子を何人かの村の衆が見て、初めて事の重大さに気付いたのである。しかし一郎の身体は、滔々と流れる川の流れに飲み込まれてしまい、姿を確認できない。あっと言う間に人だかりができた。


 すると程なくして川は渦を巻き、その水は天高く舞い上がった。そして川の水は大きな龍へと姿を変えたのである。

 龍は一郎を抱えていた。その玉のような目は深い哀しみを湛えているように見える。

「オオォォォーッ!」

 龍は哀しそうに吠えると、一郎を抱いたまま天高く昇っていった。そして雲の裂け目へと、その姿を隠してしまったのである。


「見ろ、水がない……!」

 村の衆の一人が橋の欄干から川を覗き込んで叫んだ。その声を聞いた村の衆たちは次々に川を覗き込む。

 そこには所々に水たまりがあるだけで、水が流れていなかったのである。


 村の衆はすぐに龍神を祀った祠を建て、龍を呼び戻そうとした。川がなければ田畑は枯れてしまう。確かに川は時々暴れ、田畑を荒らしたり、人に危害を加えたりはするが、川は村の存続になくてはならない存在なのだ。村の衆は龍と一郎に心から詫び、祈った。しかし龍と一郎が再び戻ってくることはなかったのである。


 それ以来、川の水は涸れたままで、人はこの川を「水無川」と呼ぶようになったそうである。


(了)

 


「僕の村は釣り日和」のラストに出てきた昔話。スピンオフというところでしょうか。

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