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第8話

前回までのあらすじ

女子高生の香田あずさは綾咲裕美のクラブを訪れる。

そこは厚生労働大臣吉本忠義が大手製薬会社と画策した悪魔の市場だった。

新薬をめぐる抗争の末、あずさは自ら囮となり、裕美を逃がす決断をする。

捕らえられたあずさはひとり黒幕の男と対峙するのだった。

「やっぱり原西のやつ。電話に出ませんね」

ホリが携帯を片手にこちらに向ってやってきた。

矢倉は加えていたタバコを投げ捨てると靴で踏み潰した。ホテルの真っ赤な絨毯にタバコの葉が粉々になって溶け込んだ。

全身に酷い倦怠感けんたいかんがある。そろそろクスリが切れてきたようだ。

「どうかしたんすか?」

話しかけてきたホリの声が酷くゆっくりと聞こえる。

空間が酷く歪んでいた。

たとえて言うなら水の張ったプールの中を歩いているようなものだ。

酷い抵抗を感じるのだ。

すぐそこのトイレに向うだけでものすごい時間がかかるような気がする。

トイレの鏡に映った矢倉の顔は腐って骨がむき出しになり、右目に至っては眼窩がんかがむき出しになっていた。その穴から蛆虫が這い出ては洗面台の中に落ちた。

流水で手を洗い流す。

指の間から蛆虫が排水口に吸い込まれていく。

指の大半はすでに蛆の大群と化していた。

原型はとどめていない。

矢倉はそれがすべてはクスリによる幻覚であることは理解していた。

ポケットの中をまさぐるとシャブを打つ注射器とチューブはあったが肝心のアンプルはなかった。

代わりに入っていたのは赤黒い色をした液体である。

「こんなもの持っていただろうか」

見れば見るほど不気味で、まるで人間の血のようにも見える。

そんな気味の悪さよりもクスリで得られる快楽が打ち勝った。

注射器の中に赤い液体が充填される。

それを静脈に針が刺さった瞬間、身体に電流が走った。心臓に鈍い衝撃が加わり、全身が渦潮に巻き込まれたような感覚に陥った。

「きた。きた。きたぁ」

全身が溶けていった。



 *


「人体に流れている電気信号を抽出し、アンプルかしたものが『ムア』あなたたちが『ナイト・メア』と呼んでいるものです。『ムア』が体内に取り込まれると電気信号は脳内で『生体電気信号回路』を形成する」

黒い皮のソファーに座り私に背を向けて『モグル』が話を続けた。

私は五年前、組織に誘拐され、新薬の人体実験に利用された。

しかし私は今日に至るまでそのことを知ることはなかった。

なぜなのか。

私は唐突に真理を理解した。

正確に言うと私の頭の中で急速に知識が構築されるのである。

人間の記憶とは生体電気信号の集まりに他ならない。

電気信号回路が脳内で形成されることとは他人の記憶を享受すること。

この技術を活用すれば、不治の病に苦しめられている人間を救うこともできる。

しかし現実に行なわれようとしているのは金を持った年老いた豚が、大金を払い自らの記憶を抽出し、健康な身体を持った少年に記憶を植え付けるただの自己満足としかいえないものだった。

「新薬、人間の記憶を移植する。笑わせないで。あなたたちがしたことは更なる不幸を生み出しただけ。なんなら言ってあげようか。あなたたちは失敗したの。人間の記憶なんて移植されてなんかいない」

あずさは右手の人差し指を自分の頭に向って指差した。

「私の理論は正しかった。人間の記憶の移植は成功した」

モグルは反論する。

「どういったらわかるの?人間にはね。理性があるの」

「その理性さえも人間の脳内で生み出された電気信号の一つに過ぎない」

「あなたたちの最大の失敗は人格を無視したこと。私たちは電気の信号なんかで語りつくせない存在なの」

記憶を受領する側にすでにネットワークが形成されている場合、それの上から書き足すことは容易ではない。

すでに使用済みのノートの上に新たにボールペンで文字を書き足すようなもので。

最後には何が書かれていたかさえわからなくなる。

丸山佳代がいい例だ。

形成された人格は破綻をきたす。

「彼女にはある風俗譲の記憶を移植した。それがいけなかった。類似した人間の記憶ならうまくいくと思ったんだが」

彼らの過ちは記憶を文字として捉えたことだった。

記憶とは文字の集合体ではなく色の集合体である。

赤色のセロハンと緑色のセロハンを重ねると黒くなるのと同じで

記憶の統合とは同時に記憶の喪失を意味していた。

あずさの記憶の中に殺人鬼の記憶を移植したなら、それはあずさでも殺人鬼『Jack the Ripper』でもない。第三の人格と言うことになる。

現にあずさは統合される以前の記憶を覚えていない。

それはただ単なる香田あずさという肉体を持った別の人間でしかない。

「綾咲裕美は違った。彼女には2つの記憶が存在していた」

モグルの言うとおり、今いる裕美はあずさと違い完全にオリジナルの記憶を持つ裕美である。

それは裕美の場合、統合ではなく記憶の分離が行なわれていた。

たとえて言うなら赤色のセロハンと緑色のセロハンを並べて置いた状態に等しい。

つまりそれは赤でもあるし、緑でもあると言えた。

そして裕美の記憶の分離を完全なものにした一つの要因としてあずさの存在が挙げられる。

五年前、2人が誘拐された現場において、あずさは衝動的とはいえ、男たちを殺害した。

これはあずさでもなければ『Jack the Ripper』でもない、統合した後の『第三の人格』によるものである。

裕美はトラックコンテナの中であずさが男たちを殺害している情景を目撃し、一連の状況を『Jack the Ripper』によるものと位置づけた。

それがまさに記憶の分離であった。

すなわち後から植えつけられた『記憶』を『Jack the Ripper』という偶像を作り出すことにより、自らの人格との統合を避けたのである。

それがあの顔のないイラストに如実に現れていた。

(私たちを救ってくれるヒーロー)

裕美は『Jack the Ripper』のことをそう話していた。

裕美は新薬のことを『ナイト・メア』と言っていた。

世界を変える新薬を『悪夢』と名付けた。

その思いに涙があふれた。

想像を絶する苦しみが裕美を襲っていたことを始めて理解した。


 *


矢倉はトイレの個室で目を覚ました。

頭が酷く重い。

鏡の前の前には知らない人間が立っていた。

「なにみてやがる」

矢倉は吼えた。

鏡の中の男も負けじと吼えた。

矢倉はふらつく足でトイレを出た。

「早くしないと。矢倉さんに怒られちまう」

矢倉とは一体誰なのか。そんな疑問が浮かんでは消えた。

「そうだ。女を殺しに着たんだ。女を殺さなくちゃ。矢倉さんに怒られちまう」

絨毯も天井も真っ赤に染まっていた。

まるで血のように真っ赤に染まっている。

目線の先に見覚えのある男が寝ていた。

ホリだ。

上半身を壁にもたれかかるようにして横になっていた。

丸太のように太い首から血が止めどなく流れ。白いシャツを真っ赤に染めていた。

背後からナイフで首を掻き切られた。

傷口をなぞるようにすると指に血が付着した。

誰が殺したのか。

女だ。

あの女がホリを殺したんだ。

矢倉は歯をぎりぎりと噛み締めた。

「殺してやる。頭を潰してぐちゃぐちゃにしてやる」

矢倉はドアノブに手を掛けた。

ドアは音もなく開いた。オートロックが何者かによって解除されていたことにすら気が付かなかった。

部屋の中央に女が立っていた。

その視線の先には黒い皮のソファーが置かれている。

「私のかわいい怪物」ソファーに座っている男が声を掛けた。

矢倉は視線をソファーに向ける。

「誰だよ。おっさん」

あずさは矢倉の登場に酷く困惑した表情を見せていたが、すぐにすべてを理解したようであった。

「クスリを打ったのね」

あずさの問いの意味がわからなかった。

「不完全なクスリを投与したのね」

「不完全ではない。『ムア』は完成している」

「その身勝手な思いで何人の人間が犠牲になったの」

「ごちゃごちゃうるせーんだよ!」

矢倉がソファーを蹴り飛ばした。

皮のソファーが反転し、『モグル』がこちらに顔を向ける。

『モグル』の顔を見た瞬間、矢倉の胃が締め付けられる思いがした。

こみ上げてくる吐き気を我慢することができずにその場で嘔吐した。

「見てしまったのですね」

モグルは代わらず抑揚のない声で言った。

「何があったんだ」

矢倉は嗚咽をこらえ、あずさに聞いた。

「何も・・・なかった。これから始まるの」

ソファーには若い男が座っていた。

その目には光はなく、首は縦に十センチほどの切込みがあり、そこから黒い塊が突き出していた。

頭には見覚えのある野球帽を被っている。

「何もなかったら。どうしてそこに俺の死体があるんだよぉ」

矢倉は絶叫し、手で頭を覆うように床に伏せた。

「あなた。まさか」

「そのまさかです。最後になかなかいい仕事をしてくれましたよ」

野球帽の男が発した。正確には咽に埋め込まれた小型の拡声器からだ。

「死者の記憶を移植したのね」

室内にモグルの高笑いが響いた。

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