第5話
前回までのあらすじ
女子高生の香田あずさは綾咲裕美のクラブを訪れる。
そこでは非合法にドラッグの売買が行なわれていた。
そこは厚生労働大臣吉本忠義が大手製薬会社と画策した悪魔の市場だった。
そんな中、新薬の利権をめぐり殺人集団『Jack the Ripper』がクラブを襲撃。
男たちから裕美を守りつつ、逃げるあずさであったが度重なる猛攻の末力尽きてしまう。
そんな中、残された裕美に男たちの魔の手が迫っていた。
野球帽をかぶった男が鉄パイプを高々と振り上げた。
暗闇を切り裂くような鈍い光が私の脳裏に焼きつく。
しかし次に起こったのは鈍器で頭を叩き割られる音ではなく、気持ちのいい金属音だった。
よつんばいになりながら裕美が男の一撃をかわしていた。
私は安堵の息を漏らした。
大丈夫。裕美はまだ生きる希望を捨ててはいない。
しかし男はコンクリの床を叩き、こっちを見てにやりと笑っていた。
私はぞっと身震いをした。
野球帽の攻撃は当たらなかったのではなく、わざと当てなかったのだ。
男の視線の先には私の首を絞めた、筋肉ステロイド男がいる。
そしてステロイドの右手には光るものが握られている。それが男の携帯電話であることに気付いた。
写真、それともムービー。
どちらにしろ男たちは裕美が嬲り殺されるさまを撮影しているのだ。
絶対的な絶望が支配していた。
彼らにとっては今の状況はゲームとさしてかわらないに違いない。
私はステロイドの隙を見てあとじさった。
裕美に気を取られていて、こちらのことに意識が回っていない今がチャンスだった。
ひとりで逃げるなんてつもりはなかった。
あとじさった左手の指が床に転がっていた角材に触れる。
私の指が、手が角材を強く握りしめる。
ステロイドは気付かない。
ゆっくりと足に床を着き、背後に立つ。
男の頭を殴り飛ばせばいい。
じっとりと汗が浮き出る。
たとえ死んだとしても不可抗力。
大きく息を吸い気持ちを落ち着かせる。
角材を大きく振り上げた。
「いけないなぁ」
私の喉元に冷たい指が触れた。
それは死神の手だった。
私は何が起こったのかわからずに身体が硬直した。角材が音を立てて床に落ちた。
目の前のステロイドは私の前で背を向けたまま、ゆっくりと振り返った。
その表情は困惑から怒りへ顔を真っ赤にし、携帯を持つ右手を肩口まで引きよせた。
「やめろ。ホリ」
男がステロイドの振り上げた拳をたしなめた。
野球帽の男も呆然とこちらを見ている。
「矢倉さん」
「失礼だろ」
首にかかった指が次第に上に上がっていき、親指と中指で頬を握り潰さんばかりに力を入れた。
我慢できずに開いた口の中に容赦なく男の指が差し込まれる。
「さっきのはいたかったよ」
私は横目で必死に矢倉の顔を見ようとした。
口から息ができず、鼻から空気を吸い込む。
覚せい剤中毒者独特の酷い口臭、それに歯のかけた乱杭歯が見えた。
さっき倉庫で私が殴り飛ばした男だった。
「大事なのは人を殺すことをためらわないことだ。狙うのなら足ではなく」男は私の足を踏みつける。
私はうめき声を漏らした。
男の爪が食い込み、口の中に鉄の味がする。
「頭だ」
矢倉が狂ったように私の頭を掴み振り回した。そして角材を拾うと床に向かって叩きつけた。
「叩きつけ、叩きつけ、叩きつけ」
角材が力負けして、中程から音を立てておれた。
2人の男たちも呆然とその光景を眺めていた。
「気付いたころにはそこに潰れたトマトが広がってるんだよ」男は自らの血で真っ赤に染まった手であずさの左頬から唇、顎にかけて撫でた。
その目は常軌を逸していた。
焦点が定まっていない。
「何見てんだよ」男は野球帽に向かって折れた角材を投げつけた。
「もしもし」男がくるりと反転するとすばやく携帯電話を取り出した。
「あぁ、あんたか」電話の向こうから微かに声が漏れた。
低く抑揚の無い声だ。
私の中にはあの黒いレインコートの姿が浮かんだ。
あの男が電話の向こうにいる。
「おっとそいつは契約違反だぜ」
矢倉が私の方を見た。
その顔には不満がにじみ出ている。
電話でのやり取りの後、矢倉は携帯を私に突きつけた。
私は恐る恐ると携帯を手に取り、声をかけた。
「綾埼裕美さんですね」男はそう言った。
「ええ。そうよ」あずさはあえて嘘をついた。
男は裕美と面識がないことを悟った。
そのとき私にある考えが浮かんだ。
「クラブを襲ったのはあなたね」
「そのようなものです」
「何が目的なの?」
「それはあなたが一番よくわかっているのではないですか。あなたが組織から持ち出したもの。それはあなたの手にはあまる代物だ」
「新薬のことね」
男が沈黙した。
「取引しましょ」
「取引」
「私をあなたのところへ連れて行ってほしいの」
「私のところに、ですか」
「今から友達にクスリを取りにいかせる。一時間後、彼女にクスリを持ってくるように電話する。私はいわば人質ってわけ。わかる?」
しばらく沈黙が続く。私と男の会話を聞いていた矢倉が酷くいらだった表情を見せ、乱杭歯をむき出しにしている。
「いいでしょう。あなたは噂以上に気が強い女性のようだ」女性という言葉に酷い嫌悪感を覚えた。「さっきの男に変わってもらえませんか」
私は男に携帯を突きつけた。
「約束さえ守ってくれればどうってことはない」
男が顎で2人に指示を出した。
裕美から2人が離れ、代わりに私を取り囲んだ。
「一時間後だ。もし来なければこいつを殺す」
矢倉が裕美にそう言い放った。裕美の顔に精気はなくただ呆然としている。
それでいい。後はこっちで何とかする。
かすかに人の気配がした。
暗闇の中に白いワイシャツを着た男のシルエットが映し出される。
私たちを見て、困惑したように足を止めた。
「誰かいるのか?」
「早く連れて行きなさいよ」私は矢倉をせかした。
この場で足止めを食わされるのは真意ではなかった。
今、私がしなければならないことは裕美を男たちから遠ざけること。
明日になればすべてが終わる。
すべてが悪い夢だったと思える。
私はそう願った。
*
殺人鬼ジャックの前に男が座っていた。床にだらりと手を垂らして、大きないびきをかいている。
それだけみればただ寝ているだけにも見えなくないが、男の頭は大きく欠けていた。それは月のクレーターのようなものだった。
人間の脳は複数のパーツで出来ている。
大部分は記憶を司る大脳だが、人間が生物として生存している由縁、つまりは本能を司っているのは極一部の延髄と言われる部分だ。
延髄さえ傷つかなければ植物人間として生きる道もある。
ジャックは目の前の男を思った。
意識はなく、呼吸するだけの人形の彼は何を夢見るのだろうか。
人間としての心を奪われた彼に何が残っているのだろうか。
ジャックは人差し指を男の頭の中に突っ込んだ。
血にまみれた柔らかい肉塊。
「あっううっ」まるで子供が駄々をこねるような叫び声をあげ、男が手を振り上げ抵抗した。
思いがけない行動だったために、思わず尻餅をついた。
「そうやって人間を何人殺してきた」
ジャックは飛びかかった。
必死に抵抗する男の手を押さえつけ突き上げた指を深々と中枢に突き立てる。
目の前で今まで閉じられていた瞼が開き、ジャックを睨みつけた。
「死んじまえ。ばーか」
男の声か自分の声かわからない。
この隔絶された空間がジャックを高揚させていた。
突っ込んだ指を鍵字にし、中をかき乱してやる。
見開かれた目が白く濁り、血の涙を流した。
指を引き抜くと動かなくなった男目掛けて、手袋を投げつけ、血の付いたレインコートを男に被せてやった。それがせめてもの弔いだった。
無くしたニューナンブを探している余裕は無かった。
まだここでつかまるわけには行かない。
手の中に残ったニューナンブの弾は残り3発。それをベルトに差し込む。
カーテンをめくると緑色をした非常出口を示す表示が露わになった。
正面玄関はすでに人で埋め尽くされているはずだった。
捕まることを恐れているわけではない。
もっとも恐ろしいのはすべてをやり遂げる前に力つきること。
すべては終わってから考えればいい。
非常口の扉を開ける。
パトカーのサイレン音と共に赤い赤色灯が夜の空を赤く染めている。
到着した警察官は中の様子を見て愕然とするだろう。
そして『Jack the Ripper』の名を世に知らしめることだろう。
この世の中に悪を懲罰する象徴として『Jack the Ripper』は存在し続ける。
非常口を出て右に曲がり、緑色の境界フェンスを足場にして隣のビルの2階によじ登る。
隣のビルは現在閉鎖中となっている。
そこを出て人ごみにまぎれればいい。
2階に上がってみてジャックは戸惑った。
無人であるはずの建物に人の声がするからだ。
「1間後だ。もし来なければこいつを殺す」
男が声を荒立てた。3人の男たちが1人の女子高生を取り囲んでいる。
その女子高生に見覚えがあった。
香田あずさ、そしてそれを呆然と見つめている女。
あずさと比べるとずいぶん大人びてみえる。
しかし2人が同年齢で同じ高校に通っていることをジャックは知っていた。
「誰かいるのか」ジャックは思い切って声をかけた。
「早く連れて行きなさいよ」あずさが男をせかした。
「うるせーな」男たちがあずさを連れて、反対方向に足早に去っていく。
裕美はまだその場に座り込んだままだ。
ジャックはニューナンブを見えないように隠すとゆっくりと裕美に近づいた。
裕美の切れ長の目にうっすらと涙が浮かんでいた。
その目は羨望のまなざしにもみえる。
明らかにジャックを見て裕美は安堵している。
たった今、お前の仲間を殺してきた俺を見て、心安らいでいる。
「守屋せんせい」裕美がジャックの胸の中で泣き崩れた。
ジャックは裕美をやさしく抱きとめた。
その顔は殺人鬼『Jack the Ripper』ではなく、いつものやさしい古典の教師『守屋和正』になっていた。
神木 蓮司です。
久々の更新です。
そろそろ終盤かなぁって思ってるんですけど
今後の展開をまったく考えずに書いている(←だめじゃん)
ので予想がまったく立ちません(笑