第10話
前回までのあらすじ
女子高生の香田あずさは綾咲裕美のクラブを訪れる。
そこは厚生労働大臣吉本忠義が大手製薬会社と画策した悪魔の市場だった。
人間の記憶を移植することを可能とする新薬『ナイト・メア』
5年前、あずさと裕美の2人に殺人鬼『Jack the Ripper』の記憶が移植されたことを知らされる。
そしてまた1人、死者の記憶を移植された男が・・・。
矢倉の持っている9ミリ、オートマチックが火を噴き、乾いた音が響いた。女の頭が爆ぜ、エレベーターを朱に染める。
女の身体がエレベーターの壁に跳ね返るようにして前のめりに倒れ、扉に挟まった。
モグルの持っていた受信機での映像が女の死を鮮明に映し出した。
派手な衣服と髪飾りが印象的な女だった。熱狂的な『信者』の一人でよく吉本と話をしていたのを覚えている。
すべては計画通りに進んでいる。
5年前に『ムア』を投与した少女、香田あずさ、が乱入したことで事態は思わぬ方向に傾いたが、結果として『ムア』の宣伝に一役買ってくれたことになった。
ホテルには無数の監視カメラが設置されており、もちろんそれらは外から一切目にすることはできない。最上階の一室で香田あずさが見つけたカメラでさえも室内に設置されたカメラの数から見れば、取るに足りないといえる。むしろあれはわざと見つけさせるためにモグルが設置したものであった。
モグルの受信した映像はそのまま組織に転送され、その一部もしくは全部を『支援者』へと配信される。
モグルのように肉体を持って組織に貢献するものを『信者』といい、逆に莫大な金銭を提供することによって組織を支えるものを『支援者』と呼んでいた。
モグルには金持ちの考えることがわからない。
『信者』は組織に奉仕するが、同時にそれは『支援者』を満足させることを任務としている。
そして彼らがもっとも興味を持っているものが『永遠の命』と『他人の死』相反する2つのものである。
モグルは赤黒いアンプルを思い出していた。
組織で開発された新薬の名は『ムア』、正確には『夢亜』と書く。
アジアの夢と過大な名前を与えられた薬の可能性が示唆されたのは今から十年ほど前のことである。
人間の記憶が人体の中に流れている微弱な電流によるものであることはかなり早い段階で知られていた。
その記憶を抽出し、記録しようとした科学者に耳を貸そうとした人間はいなかった。
そんなことができるはずがないと頭から決め付けていたからだ。
当時、生命科学の中心となっていたのは『生体細胞』から『DNA』という人体の設計図を取り出す技術。いわば『クローン』である。
しかしそれには数々の問題があった。
一つには『クローン』によって、生み出されるものは、姿・形が似なるものであって、実質的には異なるものであるということ。
加えて寿命という問題もあった。生体の寿命を決定付けているものはDNA内に存在する『テロメア』であり、『テロメア』は再生を繰り返すことにより徐々に短くなることが知られている。『テロメア』が短くなることが老化という現象であり、人間、他の生物においても同様に生まれながらにしてその寿命を決定付けられているといえる。
つまり老人からDNAを採取し、『クローン』を生成したところで、それは見た目は赤子、されど中身は老人といった具合で真に不老不死とはいえないというのが彼らの至った結論であった。
そんな彼の前に一人の少女が現れた。
少女の名は綾咲裕美。
彼女の中にある男の記憶が移植されたというのだ。
もちろんそのことを信じようとするものはいなかった。
あの映像を見せられるまでは。
『Jack the Ripper』の名はもはや伝説に等しい。
数年前に『Jack the Ripper』が姿を消し、自殺したとも、何者かに殺されたとも言われているが定かではない。
その血液から抽出したアンプルが彼女の首の静脈に注入され、直後にスタッフ三名が見るも無残な形で惨殺される。
そのときの映像を『支援者』に公開したのだ。
もっとも殺したのは当の綾咲裕美ではなく、もう一人の少女香田あずさであったのだが、あずさはスタッフを殺害後、その姿をくらました。
一方、自由の身となった裕美であったが、あろうことか組織の保護を求めた。
彼女の中にあるもう一人の自分、『Jack the Ripper』を封じる手段として組織を選んだのだ。
彼女の口から語られるのは殺人鬼『Jack the Ripper』でしか知りえない真実。
『支援者』驚愕した。
そして記憶の移植が可能になれば、考えることはおのずと知れている。
自らの記憶を抽出し、別の誰かに移植することだ。
もっともそれは生命倫理に反することだろう。
だがその手段を知ってしまった人間にそれを止めることなどできはしない。
不治の病で残り数ヶ月の命であると医者に宣告されれば、自らの記憶を抽出し、死後、健康な肉体に移植しようと考えないだろうか。
もし仮にこのことが成功すれば、それこそまさに『永遠の命』と呼ぶにふさわしいのではないか。
たとえそれが歳、いくばくもないわが子であったとしても、その肉体を奪ってでも生きながらえたいと思うのが、人間の本性なのではないだろうか。
生物が生を営むということが、親から子へ、遺伝子を受け継がせることであるというのなら。
これから行なわれようとしていることは、まさに神への冒涜に他ならない。
されど、それでも人間は、欲深く、愚かな生き物である。
もはや遺伝子レベルのやり取りでは満足できないのである。
*
「あずさは最上階にいる」
裕美がそう告げるとホテルのロビーを駆け出した。
守屋はその後を追うように続く。旅行客が二人を避ける。
六機あるエレベーターのうちニ機が最上階へと通じる高速エレベーターだった。しかしそのうちの一機は最上階で止まったままになっていた。
そのことが裕美を、いや守屋を不安にさせていた。
高速エレベーターが到着し、灯がともった。
裕美がはやる足を抑えきれず、歩を進めたときだった。
銃声が響いた。
扉の向こうには男があずさの首に手を回し、拳銃をこちらに向けていた。
あずさの悲鳴が上が上がる。
裕美はまるで人形か何かのように身体を斜めに傾けながら大理石の床に右肩から落ちていった。
男の腕を振りほどき、捕らわれていたあずさが裕美に駆け寄る。
まるで氷が解けるように今まで静寂を保っていたエレベーターホールに旅行客の悲鳴が鳴り響いた。
守屋は男に見えないように腰のベルトに掛けていたニューナンブを引き抜き、撃鉄を起こした。
どこか怪我をしているのかわき腹を押さえながらエレベーターの箱から男が一歩を踏み出し、裕美に再び銃口を向ける。あずさが鋭い目で男を睨みつけた。
引き金に掛けた指が震える。
守屋は今更ながら後悔していた。
恋人の丸山佳代が自殺したあの晩、佳代に代わり、男たちに復讐してやると誓った。
あの黒いスーツを着た男に渡された銃で、佳代を死に至らしめた男たちを殺してやった。
浮かぶ、一筋の不安。
本当にそうなのだろうか。
だまされてはいないか。
頭に黒いスーツを着た男の顔が浮かんだ。
「この世の中には想像もできないお金持ちの方がいらっしゃる」
それが組織。
佳代も、俺も、その手の平で踊らされていただけではないのか。
だとしら今度は……。
目の前に横たわる裕美、それに寄り添うあずさが見えた。
あずさが叫んだ。
しかし、守屋にはその声は届かない。
ニューナンブの銃口を狙いに定め、ゆっくりと引き金を引く。
男の目が見開かれ、その刹那、驚くべき速さで男が守屋の腕を掴んだ。
閃光が走る。
弾丸が天井にめり込み、シャンデリアが音を立てて砕けた。
ニューナンブからこぼれた火薬のカスが守屋と男のニ人に降り注がれた。
降り注いだ火薬に対し、目を奪われた隙に守屋の身体が宙を舞う。
地面が九十度反転し、脳天から床にたたきつけられた。
意識が戻る前に鈍い衝撃が顔面に加えられる。
男が守屋に馬乗りになり、何度も拳を叩きつてきたのだ。
頬骨に鈍い衝撃が加わる。
まるで飢えた野獣のように守屋の顔をを必要以上に叩きつける。
意識が遠のきかけたそのとき、男の攻撃がやんだ。
男が拳を止め、辺りを見渡した。
まるで天敵から身を守ろうとする草食獣のようである。
そして男がゆっくりと立ち上がる。
親指に力を込める。
かろうじて手の中に残っていた拳銃の撃鉄を起こす。
男が守屋を見おろしながら笑った。
それは死にかけた小動物を見てあざ笑うかのようだった。
守屋は死を覚悟した。
もっとも佳代が死んだとき守屋は死んだ。
復讐が彼の命をつなぎ、それが全くの意味をなさないと知ったとき、二度目の死を味わった。
そして今度こそが本当の死なのだ。
目を閉じ、思いっきり引き金を引く。
破裂音と共に男の身体が揺れた。左手で身体をかばうように遮っているが、弾丸が男の腹に食い込み、くの字にのけぞりながら倒れた。
引き金を引く瞬間の男の顔が頭に焼きついていた。
男は笑っていた。
今までの見下す笑いではなく、死を受領した者の笑いだった。
この男も守屋と同じなのだ。死にたいのだ。
守屋は身をよじり、這い出すように腰を起こした。
床に横たわる男の腹が血で赤く染まり、辺りに血だまりを作った。
カニのように泡をふいた男の口が微かに動いた。
指が伸び、守屋を指した。
怨みか。
俺を怨むのか。
男の首が振れた。
違うのか。
だったらなんなのか。
男は答えない。
小刻みに痙攣を繰り返している。
フロアから女性の悲鳴が上がった。
五感が回復し、ロビーにいた客や従業員がこちらを取り囲んだ。
幻覚。頭を左右に振り、手を付いて立ち上がる。
「お嬢様」
守屋の後ろに立っていたボーイが声を上げた。
無機質な表情、抑揚の無い声。
どこかであったことのある、でも思い出せない。
床に横たわる裕美を抱き起こしながらあずさがこちらを見つめていた。
「香田……」
守屋の声が震える。
「近づかないで」
この人殺し。
あずさの言葉が死んだ恋人の姿と重なる。
「あなたがモグルだったのね」
あずさが守屋を睨みつけながら言った。
悪夢はまだ終わらない。
最後のカウントダウンが始まった。