第9話
前回までのあらすじ
女子高生の香田あずさは綾咲裕美のクラブを訪れる。
そこは厚生労働大臣吉本忠義が大手製薬会社と画策した悪魔の市場だった。
人間の記憶を移植することを可能とする新薬『ナイト・メア』
5年前、あずさと裕美の2人に殺人鬼『Jack the Ripper』の記憶が移植されたことを知らされる。
そしてまた1人、死者の記憶を移植された男が・・・。
「死者の記憶を移植したのね」
矢倉は頭をかきむしる。人格の崩壊が始まりつつあるのだ。
「どうです。気分は・・・」
野球帽の下の目には光はなく、口はぼんやりと開け放たれていた。だらしなく曲がった首は顎から縦に切り裂かれており、むき出しの気道の中から黒い小型の拡声器が突き出していた。
そしてその拡声器からモグルの抑揚のない声が響いた。
まるで機械人形のような無機質な声が蝋人形のような原西に重なった。
拡声器は外部からの音声を受信するタイプでカメラはついてはいない。
モグルはどこからか様子を見ている。
あずさは周囲を見渡した。
部屋のインテリアとして置かれていた花瓶に隠されるように小型のビデオカメラが設置されていた。
ワイヤレスタイプで映像を外部へ転送しているのだろう。
振り向くと矢倉は呆然と原西の死体を見つめているままだった。
矢倉の足がゆっくりと原西に近づく。まるで生まれたての赤ん坊が母親の元へ一歩、また一歩と近づくかのように……。
しかしその推測がまったくの間違いであることにすぐに気付いた。
矢倉の視線の先にあったものは床に無造作に置かれていたもの。
黒いプラスチックでできたような拳銃だった。
グロッグ。9ミリ自動拳銃。
「触らないで」
それに気付いたあずさは声を張り上げた。
母親にいたずらをとがめられた子どものように矢倉が動きを止める。
「触ったら引き込まれる」
五年前、手術用のメスで男たちの喉をかっ切った感触が蘇った。
今、目の前にいる男は五年前のあずさと同じだ。
あの時、無造作に置かれたメスを思い出していた。
すべてが『モグル』の計画だとしたら。
あの時と酷似した状況があずさを不安にさせた。
このタイミングで矢倉が拳銃を手にするのはあまりにも危険だった。
「お願いだから・・・」
叱られて泣いている子どものように矢倉は背を向け、肩を震わせていた。
「大丈夫。きっと大丈夫だから」
あずさが歩み寄ると矢倉がすばやくこちらを振りかえり、乱杭歯をむき出しにして笑った。
*
「本当にここなのか」
守屋和正はが見上げていたのは都内有数の高層ホテルだ。
香田あずさが男たちに連れ去られ、解放する条件は一時間以内に新薬を持っていくこと。しかしながら守屋も裕美も肝心のあずさの連絡先を知らなかった。
「わからない」
裕美がただ一言だけ告げた。
「わからないって」
守屋が腕時計を見つめた。
時間がない。
しかし言葉とは裏腹に裕美はホテルの入口へと歩を進めていた。
確信があるのか?
入口をくぐり、ロビーの中を見渡す。宿泊客やホテルの従業員がいるだけであずさの姿はなかった。
1人のボーイが裕美に駆け寄る。
「何か変わったことはなかった」
裕美は命令口調で言った。
裕美の質問にボーイが言葉を濁す。
「はっきり言いなさい」
「あの方が参られています」
「あの方?」
「国会議員の吉本忠義様でございます」
*
廊下はすでに血の海と化していた。
壁を背に横たわる死体は目で見てわかるぐらいはっきりと首を切られていた。天井まで届くおびただしいほどの出血。見開かれた目は白く濁っていた。
衣服を身に着けた状態でもわかる隆起した筋肉。あずさの廃ビルであずさの首を絞めてきたホリに間違いない。
「あなたがやったの?」
あずさの問いに矢倉は答えない9ミリオートマチックをあずさのこめかみに押し付けるだけだ。
あずさは自らの質問を否定した。
ホリは背後からナイフで首を掻き切られていた。
矢倉の手にナイフは握られていなかった。
頭の中に1人の男が映った。
皮のソファーに座った男。『モグル』だ。
矢倉を見た。乱杭歯をむき出しにし、口の間からよだれを垂れ流している。
すでに人格の統合は完了しているようにも見える。統合した人格がどういった性質を持つのかはあずさには想像もできなかった。
矢倉の手が私の肩をしっかりと抱いているため、身動きができないでいた。
この場で少しでも逃げる素振りを見せれば間違いなく殺されていただろう。
2人はエレベーターの搭乗口の前に立った。この部屋がホテルの最上階だと言うことが幸いした。
もしエレベーターの中に人がいたら矢倉はためらわず中の乗客を殺していたに違いない。
ベルの音と共に扉が開いた。
「何で」
私は驚きの声を上げる。
中には赤いきらびやか洋服に身を包んだ中年の女性が立っていたからだ。
「ひぃい」
悲鳴を上げ、両手に無数の宝石のついた手が顔を覆っていたが次の瞬間、矢倉の持っていた9ミリが爆ぜた。
女性のつけていた髪飾りと共に頭の一部が吹き飛び、個室の壁に鮮やかな赤い華を添えた。
直後に向かいのエレベーターの扉が開き、矢倉に引きずられるようにその中に入る。
女性であったものがエレベーターの扉に挟まり、何度も開けたり閉めたりを繰り返していた。
*
「吉本忠義」
守屋が声を詰まらせた。
元厚生労働大臣で近畿圏を基盤とする大物政治家。
あくまでも表の顔は。
「いつきたの」
「夕方の5時ぐらいですか」
「1人で?」
「いえ、いつもどおり、秘書の方をお連れになられていました」
「秘書」
守屋が声を出した。
「最上階の部屋に・・・」
それだけ聞いて裕美は駆け出していた。
「間違いないわ。あずさは最上階の部屋にいる」
搭乗口は宿泊客で混雑していた。
六機あるエレベーターのうち二つが最上階へとつながる高速エレベーターなのだがなぜか一機は最上階で停止したままになっていた。
時を刻むようにエレベーターの位置表示灯が一階へと近づく。
裕美はじっとそれをこらえた。
エレベーターの表示灯が点滅し、扉が解放される。
裕美は視線を上げた。
待ちきれず足を一歩踏み出した。
「えっ」
エレベーターの中にあずさがいた。
あずさの目が見開かれた。
隣の男は何?
あずさの肩を抱くようにする左腕とは対照的に黒い塊を持った右手が裕美に向けられていた。
「どうして」
裕美が声を出すよりも早くあずさが悲鳴をあげ、
それよりも早く隣にいた男の拳銃が火を噴いた。