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午時葵が咲き 木五倍子編(高島藤次)  作者: 蒼乃悠生
第二章 木五倍子の花
7/8

二.「彼女は」

 なにも考えずに空を眺める事が増えた。

 青い空に、白い雲がゆっくりと流れていく。

 その様を見ていると、不思議に気持ちが落ち着いた。そんな錯覚に陥る自分がむしろ可笑しく思えて、ずっと空を見ていたくなる。

 怪我をした足に新しい包帯を巻き直してもらい、今は外に椅子を出して、訓練をしている隊員の姿を見ていた。

 エンジンの大きな音。

 上空に戦闘機が四機。

 犬の尻尾を追いかけるように飛んでいる。

 事故を起こせばタダでは済まない。

 離れた場所にいても、ピリピリとした緊迫感のある空気で肌がヒリヒリとする。

 しかし、俺の頭の中は、どこか遠くに意識があるように呆けていた。


(九藤さんの発言から考えると、自ら命を断つ為にどこか高い場所から落ちた可能性がある……まだそう決めつけるのも時期尚早かもしれない。だからと言って本人に聞くのも……)


 俺は悩んでいた。

 他のことが全く頭に入らないほど、彼女のことが気になって仕方がなかった。

 でも、今の俺と九藤さんの間に信頼関係がない。命に関わる重大な話をホイホイと質問することは更に警戒されかねないし、相手も答えてはくれないだろう。時間をかけて心を開いてくれることを待つしかない。

 そのことも気にかかるが、他にもある。


(俺のことを覚えてない、か)


 九藤さんが悪いわけではない。

 しかし、あんなに可愛かったちせちゃんに忘れられてしまったという事実が、どうにも受け入れ難かった。


(覚えていないのかー……)


 忘れてしまったものは仕方がない。

 そもそもまだ九歳だった出来事を覚えているわけがない。そう思いたかった。


「俺にとっては忘れ難い思い出だったけどなぁ」


 空を見上げながら、小さな声で呟く。

 そこに背後から気配を感じた。


「なぁにが忘れ難い思い出だって?」


 声が聞こえたと思ったら、頭を小突かれる。

 慌てて振り返ったら、腕を組んで、片目を細める伍賀さんの姿があった。


「痛いですよ、伍賀さん」


 後頭部をさすりながら、見上げる。


「ちょっといいか」

「いいですよ」


 伍賀さんは了承を得ずに、俺が座っている肘置きに腰掛けた。

 俺は仕方なく、空いている方の肘置きに肘を置く。


「ちせのことなんだが……」


 伍賀さんと言ったら、やっぱり孫だよな。


「はい」

「ちせと、少し話をしたんだ」

「はい」


 どことなく伍賀さんは遠くを見ていた。


「まるっきり俺を覚えていない、て」


 てか、知らないって!

 伍賀さんは悲しそうにそう言いながら、顔を両手で覆う。

 世界が崩壊するかのような絶望ぶりだ。

 なんて大袈裟な。

 と、口に出したら殴られるので、口を真一文字に結ぶ。

 瀬田が前に言っていたな。お口にチャック、だっけか?


「爺ちゃん、立ち直れないかも」

(爺い、少しは孫から自立しろ)

「高島隊長もこんなところでボケーとして、俺と似たようなもんだろ?」

「え、ぇえ? いや」


 否定しようと思っていた。

 そんなことはないと。

 でも。


「あー……」


 否定ができなかった。

 続きの言葉が吐けず、俺はそのまま空を見る。

 そんな俺を、伍賀さんは膝に肘突きをし、見下ろしていた。


「案外、俺よりも高島の方が重傷だったりして」

「……俺だって、傷付いたりしますよ」

「お! この脚みたいにか!」


 そう言って、伍賀さんは怪我している場所を突いてくるもんだから腹が立つ。


「痛いですから! まだ治ってないんでやめてくださいよ」

「言い返す元気があるなら大丈夫だな」


 ケラケラと笑っている。


「……」


 そして、俺は口を閉じる。あまり話す気になれない。自覚している以上に落ち込んでいるのか。


「高島」

「はい」

「ちせが俺らの事を忘れた原因は分からん。それは考えてもどうしようもない」

「香具山様なら少しは知っていそうですが」

「もう絶っ対に聞くなよ?」


 念押しされる。


「何故ですか?」

「香具山様はきっと〝知ってる〟。でも、その話を掘り起こすことは、香具山様自体に踏み込む事と同義だ」

「香具山様の秘密を知ること、自ら関わりに行くことは禁忌なんでしたっけ? いつの間にそんな暗黙の了解ができたんですか」

「この前、祥子さんが言ってた」

「は~。いつも突然ですよね。祥子ちゃんの思いつき」

「貴様みたいな奴がいるからだろ」

「〝ある〟ものを利用してなにが悪いんです?」


 俺は分かっていて言った。

 管理人に対してそのような物言いをしてはいけないのだ。この世界は香具山様によって維持されていると考える人が圧倒的に多い。そして、謎が多すぎる香具山様を神だとか言って、信仰する人もいる。が、俺にはできない。

 そんな俺に気づいているからこそ、伍賀さんは心配し、そして呆れ顔をする。


「歯向かって良いものと悪いもの、ちゃんと区別しろよな」

「悪い子である俺は、存在を消されちゃいますかね」


 確か、九歳のちせちゃんが消えた時、引き止める伍賀さんを振り切って香具山様に消えた理由を聞きに行ったんだった。

 香具山様の様子は普段と変わらなかったが、伍賀さんはなにか思うところがあるらしい。しきりに行くな、聞くなと言われる。


「やめろよ、本当に」

「心配してくれるんですか?嬉しいですね」


 俺は素直に笑った。

 すると、バシンッと頭を叩かれる。


「痛っ」

「ふざけんな」

「あはははは」

「なあ、高島。お前はどう思う?ちせが空から落ちてきたことに関して」

「空から? ……あー、どうしてでしょうね」


 九藤さんの発言と俺の推測は伍賀さんには伝えない方が良いと思った。この人のことだから、心配する気持ちが爆発して、九藤さんに詰め寄って困らせそうだ。だから、適当に話を合わせることにした。


「だろ? 今まで天から落ちてきた奴がいるか? 天使かなにかかっつーの」


 ちせは天使だけどな!

 伍賀さんは断言する。

 しかし、俺はそんな伍賀さんを相手にはしない。


「そういえば九歳のちせちゃんも突然現れましたね」

「ああ、それな。子供ちせと風呂に入った時に聞いてみたら、どうやら車との接触事故だったみたいだぞ」

「いつの間に聞いたんです、それ……」


 初耳だ。風呂の件も、事故も。


「学校帰りに、道路を飛び出してしまったらしい。車だと気付いた時には、こっちの世界に来ていたみたいだ」

「あ」

 伍賀さんの話を聞いて、気が付く。

「そういえば、ちせちゃんが現れる前、爆走する車が通ったんですよ。凄い偶然ですよね」


 一応、伍賀さんの反応を伺う。


「偶然……いや、必然か……」

「いやいや、必然はないでしょう」


 目前で手を横に振る。


「たまたま二つの世界で車が関与してくるか? 関与したところで、何故ちせがこちら側の世界に来ることができる? それなら偶然で済ますより、必然的だと考えた方が自然じゃないか?」


 ここで言う必然とは、来るべくして来たということ。本人の意思、または他者によって、意図的に起きたという意味になる。こんな死者の世界に来ることが可能な生者はいないはずだ。


(ん? 生者?)

「伍賀さん。もしかして、ちせちゃんは生者だったから記憶を無くしたんじゃないですか?」

「理由は?」

「いや、そこまでは。でも、俺達と違うところといえば、死者と生者。この世界に留まる者と、元の世界に帰った者。本来生者が来ることがない世界の記憶が生者自身にあると不都合があるとか……?」


 俺は口元に指を添える。


「まあ、不都合だらけだろうな。そもそもこの世界を形成した奴のことも知らんし、形成した意味も分からん。ただ俺らにこの世界のデメリットがない。だからといって、倫理的に、こんな死後の世界があるから、生きることに疲れたらおいでよ~という訳にもいかないだろうなぁ」

「この混沌の国には、目的がない人間はいませんしね。なにかしら生前に悔いや後悔があった人しか会ったことがありません。この世界に来る人間も無作為で選ばれた訳ではないでしょうね」

「じゃあ、ちせがこの世界に来たことも……しかも二回も来たことも、意味があるのかもしれんな」

「意味……それはまだ分かりそうにありませんが、もしかしたら本人に思い当たる節があるのかもしれませんね。九藤さんに聞いてみます」

「いいか。なにがあってももう香具山様には聞くなよ!」

「分かってますよ!」


 念押しをする伍賀さん。

 きっと、伍賀さんも気付いている。

 この世界とちせちゃんのことを香具山様は知っていると。直接の関与があるか否かは分からないが、仮にこの世界に来る人を選ぶ人選者がいるとすれば、それは香具山様しか思いつかない。最も謎の多い存在だから。

 だが、もしかしたら身近な人間の可能性もなくはない。香具山様の皮をかぶることもできるし、隠れ蓑にもできる。


(ああああああ、分からない。なにが分からないのかも分からなくなってきた)


 わざと大袈裟に溜息を吐いてみた。


「とりあえず、考察はもうやめだ。情報が足りない」

「承知しました」


 伍賀さんも思考を巡らせることに疲れているようだった。


「最後に一つ伺っても?」


 俺は伍賀そんをジトーッと見つめる。


「なにかな?」


 挙動不審になる。分かってるんじゃん。


「訓練はどうしたんです? 伍賀さん」

「…………」


 固まる伍賀さん。

 こりゃサボったな。


「……年を食うと、いらん知恵がな、働くもんなんだよ」

「いや、違うでしょ」

「ごめんなさい」

「よろしい」


 最初から素直に謝ればよかったのに。

 そう思うが、これを言ってしまえば、やっと素直になった伍賀さんがヘソを曲げてしまうので言わないでおこう。

 伍賀さんは、訓練をしているみんなのところへ走っていく。そして、ニノ中佐に杖で尻を叩かれていた。注意を受けたのだろう。痛そうだなぁと思うが、同情はしない。サボる奴が悪い。

 静かにみんなの様子を見ていた。

 なにか深く考えることもなく、ただ見ていた。

 冷たい風が吹く。

 空になった心を掃除するかのように、心も冷たくなっていく。

 このまま風に吹かれて、空気と同化するのではないかと思うほど、心の中は無だった。


「ちせちゃんは、もう………………」


 言葉は風と混ざり合い、音が消える。

 俺の本心なんて誰も聴きたがらないだろうから、それでいい。


「忘れてしまった君に会うくらいなら、出会わなければよかったのになぁ」


 目を閉じれば蘇る、ちせちゃんの笑顔。


「にゃー」


 返事をするかのように聞こえてきたのは、猫の声。

 気付けば、小柄の白猫が俺の足元にいた。くの字に曲がった尻尾と体を俺の足に擦り付けながら、グルグルと歩いていく。目を細め、そして立ち止まる時は大きな目をこちらに向ける。

 ゆっくりと、猫の顔に手を近づけると、猫はクンクンと匂いを嗅ぎ、そして顔を擦り付ける。


「君は人懐っこいね」


 首輪を付けていない猫を怖がらせないように抱きかかえた。

 抱えられた猫は逃げる様子はなく、俺のされるがままにされていた。大人しく、俺の腕の中にいる。優しく頭や体を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めた。


「俺の愚痴を聞いてもらってもいいかい?」


 俺は突然なにを言いだすのだろうと、思う。

 でも、一度吐き出した言葉は止まらなかった。


「短い間だったけど、ちせちゃんと過ごした日々はとっても楽しかったよ。弟の広次と遊んでいるみたいでさ。もし戦争がなかったら、ああやって広次と遊んでいたのかなぁ、て。些細なことで喧嘩をしたり、仲直りをして一緒に寝たり」


 瞼を閉じれば、蘇る微かな記憶。

 心をくすぐる、弟の笑顔。


「俺が死んでしまった限り、今更広次のことはどうにもできないと分かってはいたけど、やっぱり心の底では気がかりだったんだよね。ちせちゃんの笑顔は落ち込む気持ちを明るくしてくれた」


 猫の耳がピクッと動く。


「そしたら、急にちせちゃんがいなくなっちゃうんだもん。そりゃあ落ち込むよね」


 うっすらと猫の目が開いていく。

 俺は猫の変化に気づくことはなかった。


「あ」


 ふと、ある仮定が頭に浮かんだ。


「広次も……こんな気持ちだったのかな」


 俺が兵学校へ行くと決めた日。

 父に話した後、現れた広次の顔。

 不愉快そうにしているのかと思っていたけど、本当は勝手に一人で決めて、勝手に家を出ていく、俺のことを恨んでいたのかな。確かに、ずるいと言われても致し方ない。口には出していなくても、今の俺みたいな寂しい気持ちもあったのかもしれないな。推測の域を出ないが。


(少しは話を……いや、相談をしていたら、結果は少し違っていたかも)


 自由に生きたかったという言葉には、一体なんの意味が含まれているのだろう。


「にゃー」


 猫は鳴いた。

 猫に目を向けると、なにかを見上げている。

 その視線を辿ると、目の前に九藤さんが立って、俺を見下ろしていた。


「あ、ごめん。ちょっと物思いに耽って気づかなかったよ。俺に用かな?」


 全く笑わない九藤さんに笑いかける。


「その猫……」

「うん?」

「あなたの?」

「いや、違うけど」


 猫。

 そう言われて不意に思い出す、ちせちゃんがやってしまった行動。

 孤独により蝕まれた心が悲鳴をあげて、その矛先が非力な子猫に向かってしまった、悲しい出来事。子供らしくない虚ろな目で、小さな子猫の首に赤い紐を結ぶ。緩く結ばれているので子猫の表情に変わりはないが、鬱陶しそうに紐をかじる子猫。

 今になって、あまりにも鮮明に蘇ってしまい、口に出さずにはいられなかった。


「まさか、まだ猫に紐を……ッ」


 そこまで言ってから、九藤さんの顔が真っ青になる。


「どうしてそれを知ってるの……⁉︎」


 かなり動揺しているのか、顔をクシャクシャに歪ませ、驚きと不安、そして恐怖を混ぜたような表情をしていた。その双眸からも色濃く滲ませている。


「今まで誰にも言ってないのに!」


 泣きそうな顔をしていた。

 そして、この場から逃げ出そうと駆け出す彼女の腕を、咄嗟に掴んだ。


「待ってくれ!」


 彼女は俺の言葉を聞く様子はなく、がむしゃらになって腕を振りほどこうとする。


「いや! やめて! 離して‼︎」


 思わず俺は立ち上がると、猫は音を立てずに降りて、どこかへ行ってしまった。

 離さまいと掴む腕に力を込めた時、彼女の表情は苦痛に変わる。

 それに気付き、力を緩めたと同時に体の均衡が崩れる。倒れないように足を踏ん張ろうとしたが怪我の痛みに襲われ、そのまま倒れた。激痛が走る左足を抱え込み、歯を食いしばる。脂汗が滲んでくるのがよく分かった。


「……怪我、してたの?」


 俺の様子を見て、少し冷静になったのか、オロオロとしながら俺を見下ろしていた。ズボンの下で包帯を巻いているものだから、怪我に気づかなかったのだろう。あと、あまり俺を見ようとしなかったこともあるが。

 俺は精一杯笑った。彼女を怖がらせたくなくて。


「ちょっと左足をね。大丈夫だから気にしないでいいよ」


 しかし、脂汗が流れる俺の顔を見た彼女は、今にでも泣き出しそうな表情だった。


「ごめんなさい、怪我をしてるとは思わなくて」

「別に君のせいじゃないから。俺が九藤さんの腕を、掴まなければ……」


 痛みで足に力が入らない。

 俺は椅子まで這いずり、腕の力と怪我をしていない右足でどうにか椅子に座る。そして、そこで一息を吐いた。


(傷口開いただろうなぁ。また包帯を巻き直してもらおう)


 ズキズキと痛む。

 少し落ち着いたら医務室に行こう。

 そんなことをぼんやりと考えているて、九藤さんはすぐ傍までやって来た。


「あの、肩を貸すから、保健室に行こう?」

「保健室? ……ああ、医務室のことか。大丈夫。一人で行けるから」

「でも、痛くなる原因を作ったのは、わたしだから……血が出ちゃったかなぁ……」


 今ここで、ズボンの裾を上げ、包帯を取って確認しても良いが、本当に傷口が開いて、肌がパックリ割れた怪我を九藤さんに見せるわけにもいかない。


「俺のことは心配しなくていいから」


 こうやって話をするのは、嫌じゃない。

 やはり九藤さんはちせちゃんだ。

 忘れられていることは、とても辛くて悲しいことだし、今も心の引っ掛かりがある。でも、また話せることが嬉しいと、心の隅で感じている。その気持ちが、俺の口を動かす。


「でも、お言葉に甘えてもいいかな」

「うん」


 短く返事をした九藤さんは、そっと肩を差し出してくれた。

 背が大きくなった。そして、力を入れたら折れてしまいそうな細い体に腕、脚。顔も綺麗になった。声は高くなって、子供から女性になったと実感する。

 彼女の肩を借りて、ゆっくりと歩く。


(良い匂いがする。なんの匂いだろ)


 嗅いだことがない、少し甘くて、爽やかな良い香り。

 例えるなら、花の匂い。お香のようなくどい甘さはなく、ずっと嗅いでいられる。気持ちも穏やかになる気がして、むしろ好きな香りだ。

 長い睫毛、白い肌、良い香りに、女性なんだと意識させられて、頭がクラクラする。


(年頃の女性……いかんいかん。気をしっかり持て)


 この子からしたら俺は糞爺ぃと、頭の中で言葉を繰り返す。

 彼女の好意を無駄にしてはいけない。

 我を忘れるなど、言語道断だ。

 それから、会話らしい会話はなく、ただ黙々と歩みを進めた。

 そして、目の前まで医務室が見えてきた所で、九藤さんは突然足を止める。


「どうしたの?」


 彼女の顔が強張っている。


「ごめんなさい。これ以上はちょっと……」

「ああ、うん。ここでいいよ。ありがとう」

「あ! あの! 違うの。ちょっと怖くて……」

「怖い?」

「学校の保健室はまだ平気なんだけど、ここの保健室はなんか、こう、匂いが……」


 本当に近づきたくないようだった。


「匂い? あぁ、確かにアルコールの臭いがキツいかもしれないね」


 わざわざ鼻で嗅がなくても、アルコール臭は強い。

 しかし、怖いとはなんだろう。

 彼女の様子を伺っていると、不意にドアを開ける音がした。


「ちょっと、そこでなにを、て……トージ?」


 低い声色を持つ軍医の琴村ことむら大尉が出てきた。 この低音の声が堪らないと、女性によくモテる。らしい。目力が強く、少し怖い印象を抱かせるが、整っていることと肌の白さで緩和する。

 俺は痛みで顔を引きつりながらも笑ってみせた。


「傷が開いたかもしれない。すまないが、包帯を巻き直してほしい」

「ちょっと前に巻き直したばっかりじゃん。どんだけ激しい運動したのよ」


 わざとらしく長い溜息を吐いてくる。

 嫌味だ。これは嫌味だ。


「で、そこのお嬢ちゃんは?」


 琴村は九藤さんを指差す。

 すると、彼女は微かに体を震わせた。


「彼女は、九藤ちせさんだ。ここまで肩を貸してくれたんだよ」

「君ねー! 天から舞い降りた天女、て噂の」


 意味の分からないことをよく言う男だ。


「は? なにを言ってるんだよ」

「噂噂。みんな言ってるのよ。天女って」

「いやいや、人間だから」

「ヨッシーが言ってたけど、天女が落ちてきてから地面とぶつかる寸前に一瞬浮いたんでしょ? だから大きな怪我がなかったんだっていう噂が持ちきりよ」


 すかさず彼女を見ると、確かにどこにも怪我らしいものがない。


「怪我は、本当にない?」


 改めて尋ねると、九藤さんはゆっくりと首を縦に振った。


「ここで話すのもなんだし、さっさと中に入って包帯を変えちゃいましょうか」


 琴村はそう言って、医務室に戻る。

 俺は歩き出したが、やはり九藤さんは一歩も動かなかった。

 何故そこまで医務室を拒絶するのか。ただの病院嫌いだとか、そんな理由なのか甚だ疑問だ。


「包帯を変えてくるから。九藤さんは休憩室に帰る道、覚えてる?」

「うん」

「あと、ニノ中佐……は、今東部に出張でいないか。誰か偉い人と話はしたかな?」

「偉いかどうかは知らないけど、雛林ひなばやしって言う人とは話をした」

「雛林大佐……⁉︎ 分かった。じゃあ、休憩室に先に行ってて。今後について、少し話をしようか」

「分かった」


 素直に応じ、九藤さんは踵を返して、休憩室がある方へと歩き始めた。その足取りはどことなく軽く見える。

 それにしても雛林大佐と話をしたのなら、ある程度の話は進んでいるに違いない。

 包帯を巻き直したら、まず雛林大佐の元へ行って、九藤さんの事は俺に任せてほしいと頼んでみよう。


(憂鬱だー……)


 包帯を巻き直す際の痛み。

 そして、雛林大佐の所へ行くことが……いや、そんなことは言ってはいけない。身が引き締まる場に赴く事は良い刺激になる。キツめの刺激ではあるが。

 医務室に入り、ドアをガチャッと閉めた。

 琴村は包帯と消毒液、ガーゼなど、手際よく準備をしていた。

 丸椅子に俺は座る。


「はあ~」


 溜息を吐きながら、椅子に座るとギィィと鳴った。今にでも壊れそうな音だ。


「トージが溜息とか、珍しい~」


 鋭い目つきに、低い声、ぶっきら棒な面とは違って心配するような声かけ。女性はこんな奴が好みだったりするのだろうか。


「強面の琴村がどうして女性にモテるのか考えてた」

「強面は余計」

「軍医じゃなくて、絶対に最前線で戦ってる顔だよね」

「あ、分かる気がする」


 はい、怪我した方の足を出して~と言われて、俺はズボンの裾をめくり上げた。左のふくらはぎが完全に見えるようになるまで上げると、白い包帯が赤く染まっている。やはり傷口は開いてしまったようだ。

 そして、琴村が用意した椅子の上に足を乗せた。


「否定しないんだな」

「自分でもどうして軍医になったのかよく分からないからね。生きてた頃なにを考えたんだか」

「なにそれ」


 綺麗に巻かれた包帯をゆっくりと取り、テープで止められたガーゼを剥ぎ取る。血で染まったガーゼはそのままゴミ箱行き。

 少し肌に触れる度に、足に痛みが走る。


「琴村はさぁ、今まで何人の女性に想いを告げられたの?」

「ないよ。ないない」

「一人くらいいるだろ?」

「いや、誰もいない」

「えー、嘘だぁ」


 正直、嘘をついているようにしか思えない。


「女、怖い」

「え?」


 予想していない言葉を聞いて、正直戸惑う。


「大切なもん作って、壊れるのが怖い。目の前で何人、何十人、何百人と兵士を診てきて、何人が生き残ったと思うのよ」

「あぁ……」


 言葉を返せなかった。

 琴村の言葉は重い。

 外地に配置されていた琴村が怪我を治した人は、すぐに戦場に戻される。物資も滞り、過酷な場所だったと聞く。


「戦争が終わる頃には、何千人といた兵士が何十人しか生き残れていない。その中で俺が面倒を見た兵士は、たったの二人だよ⁉︎ 命って、いとも簡単に消えちゃうんだな、てさ。今も怖くて伴侶を持つ気にはなれないんだよね」

「そうだな……分からなくはないが、母ちゃんに心配はされなかった?」

「そりゃあね~。家を継がないと、子供を作らないとって、たまに帰った時にくどくどと言われたもんだわ」


 家を継ぐ。

 この言葉を聞いて、ハッとした。

 長男だった俺が死んで、高島家の後継は弟の広次になったのだろうが、どうなったのだろうか。あれから広次も戦争に赴いたのだろうか。

 なにもかも分からないことだらけ。


(俺は、自分の事ばかりを考えて、弟の事も、家の事も考えていなかった……?)


 それなら、何故父は一言も言わなかったのだろう。


「トージ! トージ!」


 琴村に名前を呼ばれて我に返る。


「あ、あぁ、すまん」

「どうしたの、悩み事?」


 気付けば、琴村が新しい包帯を巻き始めていた。


「悩みとまではいかないよ」

「そぉ? てっきりあのお嬢ちゃんの事で悩んでるのかと思ったわ」

「え? 九藤さん? どうして?」

「か、お! 今のトージ、しけたツラしてんよ」

「本当? うーん……」

「ほら! なにかしらあるんじゃん」


 琴村に指摘されるほど、顔に出ているのか。

 そして、あっという間に包帯は巻き終わっていた。


「さすがに早いな。ありがとう」

「包帯を巻くだけなんだから、時間がかかるわけないでしょ」

「そうか」

「言いにくいなら無理に言わなくてもいいけど、あまり溜め込まないようにね。体も心も蝕まれていくから」

「肝に命じておくよ」


 ははっと乾笑いをする。


「さぁて。そろそろ雛林大佐の所に行くか」


 傷に響かないように、椅子から足をそろりと下ろす。

 すると、汚れた包帯を片付けようとしていた琴村が慌てるように引き止めた。


「ちょっと待って!」

「ん? なに?」

「雛林大佐なら」


 琴村が言いかけたところで、奥の部屋から人が出てきた。

 軍人とは思えないほど華奢な体つき。が、打って変わって、その眼差しは日本刀の刃のように鋭い。一瞬でも気が緩んだら首を掻っ切られるのではないかと錯覚に陥るほど、戦闘狂の色を見え隠れしている。俺よりも若く見えるが、軍歴は俺よりも長い。この世界は見た目で判断できないことを重々承知しているが、頭が狂ってきそうだ。


「俺ならここにいるが」


 ビリビリと全身に電気が走ったのような緊張が走る。


「雛林大佐!」


 敬礼。

 これはもう条件反射だ。


「よいよい。手を下ろせ。あとはそうだな、そう緊張するな。怪我をしているのだろう? 無理をする必要はない」

「いえ! これは怪我のうちに入りません‼︎」


 あ、余計な事を言ってしまった。


「ほう?」


 敬礼の手は降ろした。

 が、要らない発言をした結果として、今現在、雛林大佐が包帯を巻き直したばかりの俺の左足を見て、不気味に口の端を釣り上げている。

 傍にいる琴村が「あ~あ」と声を漏らし、呆れた顔で俺を見ていた。

 コイツがなにを言いたいか、聞かなくても分かる。


(絶対なにかある。絶対なにかさせられる。今なら発言を取り消せないかな無理かなもう嫌だなどうしようあーあーあーやっちまったな二分前に戻りたいな戻れないかな畜生)

「高島」


 無駄に体が震える。


「っはい!」

「怪我ではないと、言ったな?」

「あ、あの、そ」

「言ったな?」

「はい……」


 発言を取り消させてくれない。


「じゃあ、走ってみろ」

「…………」


 嫌な汗が流れる。


「聞こえなかったか? 走ってみろ」

「は、はい」


 雛林大佐の目から楽しそうにしているのがよく分かる。


(走れるわけないじゃないかこちとら木の幹が足に食い込んで裂けたんだぞ走れるわけないじゃないか畜生)


 が、上官の命令だ。背くわけにはいかない。

 俺は、雛林大佐の前で走る為に進む先を見据えた。普段ならどうってことがない短い距離でも、今は違う。医務室の中がやけに広く感じる。

 息を呑み、もし走れなくてもなんとかなるだろ。さあ、走るぞ! と腹を括った時だった。徐に雛林大佐が口を開いた。


「もし走れなかったら、療養目的で南部の温泉地に行くこと。以上」

(コンニャローーーーーー‼︎‼︎)


 走れなかったらなんとかならないじゃないか。

 九藤さんのことを俺に任せて欲しいと言うつもりだったのに、今走れなかったら南部に行かなくてはならなくなった。これでは決して任せてくれないだろう。

 否応が無しに走らなくてはならない状況になってしまった。


(走ってみせる)


 口から息を思い切り吸う。

 大きく、長く吐く。

 肺の中にある空気を全て出し切るまで。頭の中にある無駄な思考を消し去るまで。

 そして、雛林大佐に乱された精神を整える。


(『心を燃やせ』)


 戦闘機に乗る時には、いつも決まった言葉を唱える。


(『決して振り返るな』)


 心臓辺りに手を添える。熱く燃えるような絵を頭に描く。


(『決して躊躇うな』)


 スイッチを付ける。


(『前へ進め。歩みを止めるな』)


 操縦桿を引け!


(『行け‼︎‼︎』)


 右足を前に出す。

 そして、左足を前に出す。

 痛みはない。

 〝痛みがあるわけがない〟。

 俺は走った。

 医務室の壁にぶつかるように走った。


「立ち止まれ! トージ! 壁にぶつかるって‼︎」


 琴村の声が耳に入らない。

 俺はそのまま走り、壁に向かって跳んだ。

 走る勢いを殺さないまま、壁を思い切り蹴り、一回転。そして、床に着地すると、次は後ろに向かって一回転をする。


「あの怪我で壁蹴りに、バク転……ヒュー……やるねぇ、トージ」


 怖れているような顔で琴村は呟いた。

 俺は、もう一回ほど一回転してもいいかと考えていたら、雛林大佐が止めに入る。


「もういい、十二分に分かった」


 その声で、やっと意識が外に向き出す。と、同時に足の痛みも帰ってきた。


「っ!」


 激痛で声が漏れそうになるが、口を真一文字に固め、耐える。


「なにをそこまで必死になるのか分からんが……いや、知っているが、そこまでしろとは言っていない」

「申し訳ありませんでした」


 痛みで震える足に力を込め、震えを少なくする。きっと雛林大佐に気付かれているだろうが、それでも震えていないフリをすることが必要だ。言い張る勇気も。


「確かに走れたな。約束だ。南部行きはなかったこととする」


 つまらなさそうに言う。

 この言葉を聞いて、俺は素直に安堵した。


「雛林大佐。俺から相談があるのですが、聞いていただけますでしょうか」

「言ってみろ」

「九藤ちせのことですが、俺に任せてもらえないでしょうか」

「何故だ」

(「何故」⁉︎……どう答えよう)


 考えていなかった。しかし、ここは素直に答えるべきか。


「昔、木佐ちせという子供がここに突然現れた時には、香具山から面倒を見るようにと言い渡されました。そして、今回来た九藤ちせは木佐ちせと同一人物だと本人の口から確認済みです」

「だから任せろと?」


 その威厳が恐ろしいとさえ感じる。だが、引くわけにはいかない。


「香具山の命令は、九藤ちせが木佐ちせである限り、未だに有効であると考えています」

「話から察するに、当時の木佐ちせが子供で、尚且つ両親がいなかった故の香具山の神託だろう?今は働くことが可能な歳だと聞く。今も尚、神託が有効かどうか、怪しいものだな」

「有効です」

「何故そう言い切れる?」

「香具山に言い渡された三つの条件。一、小秋と遊ぶ。二、俺が全ての面倒を見る。三、幸せを感じる。この〝条件が揃うまで、継続されます〟」


 一か八かだった。

 誰にも伝えていない、三つの条件を、嘘を織り交ぜて話す。


「ぁあ? その三つが揃うまでは九藤ちせの面倒は高島が面倒をみろと言うことか? 確かに今の九藤ちせは幸せな顔をしているとは言えないが、その条件は違和感がある」

「ならば、香具山に確認を取るべきかと思います」


 〝普通〟の人だったら、思いつきで作られた祥子ちゃんの禁忌によって香具山様に関わろうとしない。ということは、確認をとらずに、俺の言うことを鵜呑みにするほかないはずだ。


「この俺に確認を取りに行けと言いたいのか?」


 不味い。


「貴様は俺に行けと言いたいのか? この俺が? 貴様は俺の上官かなにかになったつもりなのか?」

(糞ッ、嵌められたか)


 額から冷や汗が流れる。


「雛林大佐、よろしいでしょうか」


 口を開こうとした時、琴村が先に声を出した。


「〝先程の運動〟が原因で高島大尉が怪我をしたようです」


 目を見開く。

 一体なんのことだろう。足首をひねってもいないし、怪我なんかしてない。


「血がズボンにまで染まっています。あれは深そうな傷ですね」


 琴村が言っているのは、訓練で負った怪我のことだ。

 訂正しようと口を開きかけたが、すぐに閉じる。怪我をしていないという証明の為に走ったのだ。自ら墓穴を掘るわけにはいかない。黙っていよう。


「こんな深い傷を持った部下がいるとなったら、〝雛林大佐もお困りになるでしょう〟」


 雛林大佐は間を開けた。


「それもそうだな。琴村、高島の手当てをしてやれ」

「はい、今すぐに」


 そう言って、奥の部屋に入っていった。

 二人の空間になる。なんとも言い難い重い空気だ。


「命拾いをしたな、高島」


 俺を見て笑う。

 本当に心臓に悪い。


「それにしても、琴村もよく言うもんだ。この国では、上官が部下に怪我をさせてはいけないという特例があるもんだから、上手く抑制したつもりなんだろうが」

(この人の前世、織田信長とかじゃないかな)

「今回はここで終わろう」

(助かった)

「だが、怪我が治っていないのに、よくあそこまで動けたものだ。感心する」

(気付かれてる)

「それに免じて、〝全ての狂言〟は見て見ぬ振りとしよう」

(全部……気付かれてるじゃないか。最悪だ)

「九藤ちせのことは貴様に任せる」

「ありがとうございます!」


 心が躍るようだ。


「せいぜい大切な女を守ってやるんだな」

(もう意味分かんない、この人)


 そう言って、雛林大佐は医務室を後にした。

 その瞬間に訪れる、緊張からの解放。

 体から力が抜けるようだ。

 椅子に倒れるように座った。

 すると、新しいガーゼと包帯を持ってきた琴村がやって来る。


「あれ、雛林大佐は?」

「帰ったよー。もー全部気付かれてたよ」

「そりゃそうでしょ」

「あの様子だと、香具山様に提示された三条件の嘘も気付いたんだろうなぁ」

「嘘だったわけ⁉︎」

「あれはちせちゃんが俺と一緒に居られる為の三条件であって、俺が面倒を見るまで続く三条件ではないんだよ」

「よく咄嗟にそんな嘘つけるよね」

「琴村に言われたくない」

「あー、俺達、嫌な人に喧嘩売っちゃったな~」


 俺の前で座った琴村の目は遠い空を見ていた。


「ニノ中佐、早く帰ってこないかなぁ」

「恋しくなるね、ニノ中佐」

「うん、本当に」

「早く足出して。包帯を替えられない」

「あ、ごめん」


 赤く染まった、ズボンの袖を捲り上げる。

 それにしても、どっと疲れた。

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