韜晦亭奇譚 其の参
まだ夜も浅いうち、他の客もいない韜晦亭にて、俺と一人の老人がテーブル席で向かい合っている。
老人は日本人離れした彫りの深い顔立ちに、多くの皺を刻んでいる。
本人いわく世が世なら某国の男爵家を継ぐべき血筋らしいのだが。
日本のサブカルチャーに傾倒し若き日に出奔、日本に渡り以後自堕落に数十年を過ごしてきた筋金入りのダメ人間。
俺を含む韜晦亭の常連達は皮肉をこめて「ホラ吹き男爵」と呼んでいる。
だいたい爵位というのもがどのあたりまで世襲制なのかも俺は知らないし、この老人が日本語以外を話しているのを聞いたこもない。
普段どのように生活しているのか分からない国籍不明住所不定無職の自称発明家は、生活には困らないほどの特許料を得ている、
とのことらしく、実際金銭に窮している様子はない。
そして、困ったことに俺の勤めるディレッタント通信社は「市井の発明家」と称して。
男爵のような素人発明家を取材していたりする。
仕事でなければ到底かかわりあいになりたくなどないのだが、男爵は韜晦亭だけでなく、ディレッタント通信社の常連でもある。
今までもろくな発明品を持ってきたこともなかったのだが、先月、ついに会社の応接室での取材中に小火騒ぎを起こし出禁にされた。
それでも、発明に対する情熱は消えないらしく、、次々と危険物を社に持ち込もうとし。
こうして新人の俺が社外で相手をさせられているという訳だった。
「男爵。もういいかげんにしてもらえませんか、こうやって韜晦亭のマスターにまで迷惑かけて、場所を借りてまで、
なぜディレッタント通信社に発明品を持ち込む必要があるのですか?」
言外に「あんた才能ないし」という意味を匂わせながらも、ネタとしては結構面白いので編集長も採用してんだろうなと
あきらめ半分に訊いてみる。
以前、頭の良くなる薬と称して怪しげな飲料を飲まされたことがあるが、幸いなんの効果も副作用もなく、数日後男爵に成分を問うと
「あれは只の栄養剤だ。薬を飲んだぐらいで頭が良くなるわけはなかろう。ほれ、これで一つ賢くなったな」
との事…いやまあ素人の持ってきた薬をホイホイ飲む俺もどうかしていた。韜晦亭には変人が多いせいか常識が疑わしくなったりするから、
それも含めて二つ賢くなったと自分をごまかすことにしたが。
「発明こそが我が生きがい、どこにいようがこればかりは捨てきれぬ性である。」
男爵は大仰にいうが人に迷惑をかけてはいかんだろうと俺は普通に思うのだが…。
「しかしそれも遂に今日までだ、先日、実家に所在が見つかり迎いの者が来た。数日のうちにつもどされてしまう。
この発明が日本での最後の作品になる」
「家族の方が迎えに来てくれたんですか、良かったですね」
俺がにこやかに言うと、男爵は頭を振り心底家には帰りたくないという風に
「今回の発明品を知れば、私がどれほど優秀な発明家というのが分かろうというもの、是が非でも引きとめたくなるだろう。」
といった。
俺達、韜晦亭の常連が引きとめても仕方ないだろうに、家族の処にかえってやれよ…いやどの道連れ戻されるのだったか。
「で、その発明品とは?」
俺の言葉に男爵は足元の鞄から四角い箱型の物体を取り出しテーブルの上にのせた。
それは、一言で表すなら蓄音器というのが分かりやすい形状のものだった。
黒く塗りつぶされた20センチ四方の箱の横に手動レバーらしきものがあり上部からはラッパのような管が飛び出している
まあコレがただのレコーダー的なものだったらどんなに気が楽か。
「これこそ私が長年にわたり研究を続けてきた、幻聴演奏機だ。」
「?幻聴って、あれですよね、聞こえちゃぁいけない類の…」
妙な薬の類だったら通報しようと考えつつ男爵に尋ねると
「君は共感覚というものを知っているかね。」
更に質問でかえされた。
「色を音として聴いたり、音を味覚として感じたりと。五感の感じ方が混じってしまうようなことですよね?」
うろ覚えの知識で答えると男爵は頷きつつも
「人の脳の働きは電気信号で測定するすることができるというが、其の実。
神経細胞の情報のやり取りは、体内で造られる物質の化学反応だ。物質在りき電気信号はその付属物にすぎない」
「そして五感のなかで体内に外部からの物質を取り入れることにより機能するものは味覚と嗅覚。
特に嗅覚は望む望まざるにかかわらず、呼吸とともに体内に異物を取り入れざるを得ない。
そこで私は考えたわけだよ、嗅覚神経から直接、脳への命令を書き込めないものかと」
おもむろに男爵は幻聴演奏機のレバーを回しながらラッパのようなものを俺に向ける
「この装置は私の脳の記憶野にある楽曲の情報を他人の脳内に疑似的に造り上げるための物だ。ボックス内で造られた物質は
君の鼻孔から吸収され、脳神経を刺激し聴覚情報に書き換えられる。」
「さあ!音楽が聴こえて来ないかね?」
「………」
俺はふむと考え込んだ、店内には俺と男爵そしてマスターの三人のみ、
マスターはカウンターの向こうでグラスを磨きつつもこちらに気を向ける様子もなく異常はでていなさそうだ。
目の前の男爵はレバーを回しながらじっと俺の変化を観察している、そして俺は。
「何も聴こえません」
そう何の変化もなかった、男爵の解説を訊いた時は当時、なにかと騒がれていた環境ホルモンとかが思い浮かんだが。
嗅覚にも異常はなさそうで、不快感も違和感もない。内心ほっと胸を撫で下ろしつつ
「男爵。やはりあなたは故郷に帰るべきです」
ハッキリといった。
「聴こえないのか?この旋律が、頭蓋の内に響く交響曲が!」
かなり興奮気味にしゃべる男爵には鬼気迫るものがあったが、逆にこっちは冷静になるばかりだ。
結局小一時間にわたり男爵は発明品の操作と説明を続けたがなにもおこらず。
他の常連客がちらほらと来店する時刻になると遂に諦めて帰路についた。
その後数日が経ち、俺はあの日、男爵がいたテーブル席で安酒を飲んでいる、時刻もまだ宵の口で他の客もいない。
テーブルの上にはやけに毒々しい色合いの花がクリスタルの花瓶に活けられているが、
この花は男爵が帰国する直前に韜晦亭に持ってきたものらしい、
実は男爵の実家は代々続く造園業者。草花の品種改良も手掛けているとの事で、幼少の頃からの英才教育に嫌気がさし、日本に逃げてきたらしいのだが。
そんな男爵が日本でただ一本だけ造り出した花が、いま俺の前にある毒々しい色彩の花らしいが、観賞用とは言い難いほどの代物というのが素人の俺の感想だった。
しばらく花を見つめ続けていると、どこからともなく微かなメロディーが流れている事に気がつく。
しかし、店内には俺とマスターしかおらず、しかもマスターは店の奥にある年代物のジュークボックスのレコード盤を入れ替え中で。
ラジオも、かかっていない。ではどこからこのメロディーが流れているのかと店内を歩き回っていると在ることに気がつく。
微かな旋律は耳に聴こえているわけではない、何となく頭の中で聴こえてきているような気がするのだ。
そして男爵の持ってきた花の周囲でしか聴こえて来ないということだ。
「嗅覚神経を刺激し疑似的な聴覚情報を脳に錯覚させる…」
男爵が言っていた言葉を思い出すしつつ、その毒々しい花を手に取り調べてみる。
しかし、花はもとより花瓶にも何の仕掛けも見つからなかった。
まさしく今、俺は花の香りを音としてを聴いているわけか…。
他の常連が集まりだし店内が騒がしくなってくると音は聴こえなくなったため。
その日は早めに帰路に着くことにした、あの日去りゆく男爵の小さな背中を思い出しつつ、先ほどまで聴いていたメロディーを口ずさんでみる。
そしてふと気付く
「ああ、これがホントのハナ歌だな」