第八話 元姫は運命を忘れられない立場を改めて自覚する
朝が来た。
アダムは宿屋の裏で水桶に汲みおかれた清澄な水を両手で掬うと顔にばしゃりとかける。
水の冷たさに頭がしゃっきりと覚醒する。
顔を上げ、ふーっと息をつくと、朝露と草の香りが辺りに満ち満ちていた。
すばらしい朝だった。
リーリア姫はまだ寝床だろうか。
そう思いつつ何気なく辺りを見回す。
宿屋の裏庭にいるのは町娘が数人、たらいの中の洗濯物を足もあらわにバシャバシャ言わせながら踏みつけて洗濯している――。
姫様?
アダムは驚いて駆け寄る。
「ひめ……お嬢様! 何をされてるんです!?」
彼の尊い姫様は洗濯に精を出していた。
本来はるか下の身分の者たちと一緒になって。
元勇者は驚きのあまり口を開けっ放しに閉じることも忘れる。
姫はスカートをたくし上げて、すべすべした膝も腿も見せつけるように外気に晒していたのだった。
すらりとした、王族にふさわしい高級な靴を履く以外役目を追ってはならない純白の御御脚。
それが今は刺すほどに冷たい水にさらされる。
くるぶしから先がいささか赤く染まっていた。
「ああ、アダム。おはよう」
「お、おはようございます。何をしてらっしゃるのですか?」
周りにいた数人の町娘――もちろんリーリア姫のように懸命に足踏みによる洗濯に精を出している――がケタケタと笑う。
リーリアはさも当然と言った風に答える。
「何って、見てわかりませんか? 洗濯ですよ。自分の分くらい自分で洗いませんと」
「いえ、そういうことではないのですよ……」
そう言ってアダムは今一度彼の大事な大事な姫の姿を眺める。
長い金髪を市井の流行りのスタイルに束ね、袖も裾もたくし上げ、一心に足踏みでの洗濯にいそしむその姿は一国の姫のものとはとても思えない。
いや、見るものが見ればその中に気品を見い出す余地はちゃんと残っている。
生まれながらの高貴さは決して完全には隠しえない業のようなものなのだ。
「とにかくそういう真似はおやめください! 私が代わりにいたします! ……ちょっとお手を拝借」
アダムは彼の姫の手を掴むと強引にたらいの中から連れ出す。
急に引っ張り出されたものだからリーリアは声も上げられずにされるがままに建物の影へ。
濡れた裸足が草むらを踏んでこそばゆい。
しかしともかくこんな風に扱われては仕事を買って出た自分の立場がないので、誰からも見えなくなったところでアダムの手を振り払う。
「一体何だというのです!? 私はただ自分の仕事をしていただけですよ?」
「お嬢様、いえ、姫様はああいう真似をなさるものではありません! お立場を考えてください」
リーリアはつんとした様子でそっぽを向いてしまう。
「そんなに私が市井の者に混じって生活するのが気に食わないのですか」
「雑事があればお申し付けください。私は侍女ではありませんが、失礼にならない範囲でできることは精一杯やります」
「そんなに私の面倒が見たいのですか? あなたとて従者ではなく勇者でしょう? たとえ私が姫だろうと私自身の雑事を追う責務はないはずです」
「そうかもしれませんが、しかし高貴なお人にこんなことはさせられませんよ」
二人はしばらくじっと見つめ合うことでお互いの意地をぶつけ合う。
結局、折れたのは身分の尊い方だった。
リーリアは微笑する。
元勇者は美しい少女にまじまじと見つめられながら笑みを向けられ、つい胸がときめく。
客観的に見てもこれは反則級であろう。
それほどまでに彼女の笑顔には人を魅了する力があった。
いや、女の子の笑みとはそういう物なのだが、やはりリーリアのそれは特別に思えた。
自身、それを意識しているのかいないのか……。
アダムにはそこがわからなかった。
わかりました、とその唇が動くをの見つめる。
「そこまで言うのならいいでしょう。勇者殿。では洗濯の続きをお願いしますよ」
そう言うとリーリアは履物を取って来て、自室へ下がっていった。
洗濯の続きを引き継いだ元勇者は、朝食の時間までにたらいを二個、踏み抜いてしまった。
「夕に田畑に敷かれる橙色の絨毯よ、なぜあなたはそうも美しく世界を染め上げるのか。ああ、私は地平線が憎い、美しい時間をとく締めきってしまう無粋なる一本線が~っ!」
やんややんやの喝采が叫ばれる。
昨日の夜から泉の清水湧き出るがごとく詩を吟じ続ける詩人は、今や宿屋の外からも人を集めていた。
そんな陽の気溢れる喧騒の中、食堂の隅、満ち足りた気持ちで食事を摂る元勇者と元姫の姿。
城を追われて以来色々なことがあった。
まだもう実時間の何倍も旅をしていた気がする。
そんな中で久しぶりの安らぎの時間とも言えた。
中々に素晴らしいじゃないか。
アダムは騒がしくも心地よい場の雰囲気をその身一杯に感じる。
隣を見ると彼の姫様もまた目を閉じて詩吟と聴衆の声に聞き入っている。
ふと、ガタ、という音が入り口から聞こえた。
その場の全員がその方向を見る。
一心不乱に声を発していた詩人までもが黙ってしまった。
そこには右腕をなくした女戦士がいたのだ。
昨日までのにやにや笑いは消え失せ、この世の終わりのような表情を浮かべている。
彼女は宿屋の入り口の階段を上がる際にバランスを崩して柱に寄りかかっていた。
無事な左手を掲げる。
「邪魔するつもりはなかったよ。続けてくれ」
みんな数舜そのまま彼女を見つめると向き直ってまたバカ騒ぎを続けた。
詩人は先ほどまでと比べてなお生き生きと詩をその口から生み出し続けた。
女戦士はアダムとリーリアから一番離れた席にどっかりと座ると、酒を注文した。
二人はなんとなく気まずい思いをしながら食事を続けるのだった。
随分居心地のいい宿であった。
つい二、三日、逗留を続けてしまったある日の夜。
あの日以来、宿屋の中の雰囲気は変わっていない。
詩人を中心に浮かれている男たち。
その輪から外れて一人暗い顔で酒をあおる女戦士。
そう、宿屋の中の様子に異常はない。
だが今日だけは何か違和感があった。
つまりアダムは宿屋の外部に異変を感じたのだ。
動体検知魔方陣があろうとなかろうと、百戦錬磨の彼は建物の中にいながらにして外の殺気を捉えることが出来た。
危険が直前に迫るその瞬間すら感知できるのだ。
「全員! 伏せろ!」
アダムの声に反応できたのは女戦士だけだった。
大きな音と共に宿屋のすべての窓が割られると手に持つ弓に火矢をつがえた黒装束の男たちが顔をのぞかせた。
ぴう、と空を切って多数の炎の矢が建物の中に飛び込む。
アダムは咄嗟に風の守護魔法を唱え、自分とリーリアに向かってくる矢を叩き落とす。
幾人もの客が、宿屋の給仕が、その身から炎を上げながら矢に射殺されていた。
「クソ、この状況……姫様を守りながら脱出できるか!?」
それは難しい状況であった。
風の守護も、障壁魔法も、動きながら発動できる魔法ではない。
動けば必ずリーリアを矢に晒しながら、となる。
それに出入り口が固められている可能性も高い。
時間もなかった。
火の手はすでに一階の天井に達しているのだ。
リスクを取って斬りこむしかないか……。
アダムは決断を迫られる。
その時だった。
「あたしが外に行く! その隙に逃げろ!」
女戦士だった。
彼女が梅雨払いを買って出てくれるというのだ。
しかし利き腕をなくしたその身では……。
思わず二人は訊く。
「大丈夫なのですか!?」
「そんな、その腕じゃ無理だろう!?」
「大丈夫だ。左だけでもあたしは戦える!」
そう言うと左手で腰のサーベルを抜き、宿屋の入り口に吶喊するのだった。
女戦士の雄叫びが聞こえ、窓から矢で狙う気配も混乱し、一瞬の隙を見せる。
――今だ。
アダムは彼の姫をその背に隠すと剣を構えながら女戦士の後を追う。
果たして、宿屋からの脱出には成功したようだった。
出口には数体の死体が転がっている。
女戦士が切り伏せた刺客だった。
彼女自身は更に数人の刺客と剣を交えている。
どう見てもこれ以上持ちそうにない劣勢だった。
アダムは叫びながらそこに突進する
「俺が代わる! お前は下がれ!」
だが女戦士は助けを拒否した。
苦しそうな形相でこちらを振り向くと叫ぶ。
すでに助からないであろう傷を負っているのだ。
「来るな! 行け! 行ってしまえ! そこに私の馬がある! 乗れ! 行くんだ!」
「そんな……」
リーリアが悲しそうにうめく。
アダムは迷わない。
踵を返すと繋がれた馬の方へ向かう
無論、リーリアを抱えて。
途中、黒装束が一人姿を現し、弓を構えた。
十歩の距離。
元勇者は的確に取るべき戦術を選択する。
すなわち、攻撃魔法。
精神統一の後、術式に必要な呪文をつぶやき、リーリアを抱えていない方の手で敵を指し示す。
ドン! と爆音がした。
尋常の物理法則を無視して中空より発生した雷が刺客を体を焼いたのだ。
一瞬で意識を失い崩れ落ちる彼だった。
二人は無事に馬の下へたどり着く。
もはや宿屋は天高く燃え盛る業火を上げている。
リーリアを馬に乗せ、アダム自身も蔵にまたがろうとした瞬間、ガタン、と炎の中から間一髪、火傷を負いながらも命に別状はない様子の詩人が現れた。
「はあ、はあ、待ってくれ、一つだけ言わせてくれ」
詩人の言葉を待つアダム。
弓を持った刺客がいつこちらに現れるかわからない、一刻の猶予もない状況だったが、これだけは聞かねばならない気がしていた。
詩人は荒い呼吸を正すとこう言うのだ。
「ありがとう、本当にありがとう。あんたらのおかげで俺はどれだけ救われたか……さあ、追われてるんだろう? それじゃ、生きてまた会おうな!」
「あなたも、早くここから離れて、危のうございます!」
リーリアがそう言い終えるが早いか、アダムは馬をいななかせると風のようにその場を去った。
その身を闇夜の影に隠しながらいつまでも見送る詩人であった。
二人は今のところ知る由もなかったが、方々の町に散っていた賞金稼ぎに姫の暗殺指令が出ていたのだ。
依頼主は新政府。
王族の存在を旧時代の残滓として、また内戦の火種として警戒する急進派の工作によるものだった。
なぜこの町にいることがばれたのか。
アダムが即時転送魔法を使うのを見た者がいたのだった。
その者はその意味するところを知っており、賞金稼ぎに情報を高く売った。
そういう状況はどの町でも起こり得るだろう。
二人に安息の地はないのだ。
「人を巻き込んでしまいました、わたしのせいで……」
可能な限りの速度で走る馬の背に揺られつつ、元勇者の背中にしがみつきつつ元姫はつぶやく。
「あまりしゃべると舌を噛みますよ。余計なことは考えないことです」
アダムは直接的な言葉は使わないまでも気にしないようにと伝える。
リーリアは弱気にとらわれることなく、前向きな提案をする。
「魔界へ向かいましょう。さすがにそこまでは……」
「それしかないでしょうね」
アダムは自分の使命の成就に近づいていることを自覚する。
すなわち、魔王の討伐。
しかしそれは、なにを意味するのだろう。
戦乱が治まった時代に、そんな行為に何の意味があるのだろう。
むしろ害しかないのではないか。
答えが出ないまま、彼らはそこへ到達する道筋に着くのだった。