第二十三話 元姫は純潔の本当の価値に触れる(2)
「全く、勇者殿ったら」
誰にも聞かれないよう小声でひとりごちるリーリア。
外はもう秋に差し掛かり始めていた。
少し肌寒い。
彼女の心も寒さを感じていた。
男とはこういうものなのだろうか。
せっかく自分は……。
ふと見ると、男女一組が今しがた自分が出て来た宿の方へ向かっているのが見える。
どうも決意したような、怒ったような調子で歩いているから目についたのだ。
彼女はそういうものを目ざとく見つける目に長けていた。
「それでね、それでね、お父さんはあたしが嫌がるのに無理やり……」
ヴェルトゥとアダムは彼の部屋で語らっていた。
アダムは意図せずに随分深い部分まで話をさせてしまったと思った。
「だからね、いいんだ。こんな身体、幾ら汚れたって、もうどうだっていいんだよ。だから、ね? 優しくしてよね? 嫌な事忘れられるくらい……」
哀れだった。
憐憫の情がアダムの心に満ち満ちた。
(かわいそうだとは惚れたってことだ、とは、誰の言葉だったか……)
彼はつい、そんな感情を彼女に抱いてしまった。
ああ、自分には姫様が……。
しかし、一時、この愛すべき、愛されるべき女性に気をやったとして……。
彼の姫様を放っておいてコトに及ぶのは最低の気がしたが今更……。
その時だった。
バタン! と大きな音がしてアダムの部屋の戸口が開いたのは。
店主の怒号が聞こえるが、それより前に二人の男女が部屋に踊り込んできた。
アダムは追手かと剣に手を伸ばしかけたが、入って来たのは見知らぬ女性だった。
彼女こそがキャスティ、ヴェルトゥの姉だった。
「さぁ、帰るよヴェル。あなたはここにいちゃいけないんだよ」
「何しやがるお前! 離せ!」
「ちょっと待ってください、話を聞いてください!」
部屋の外で店主と男が揉み合っている。
声からすると先ほどのユーリだろう。
部屋の中には両姉妹と完全に蚊帳の外のアダムがいた。
「なにさ! 姉さんはあの時助けてくれなかったくせに! 隅で一人で震えてたくせに!」
「ごめんなさい、あの時私は死んでも、父を殺してでも止めるべきだった」
激しいやりあいだった。
アダムに口を出す余地などない。
「自分だけ幸せになろうなんてズルいよぉ!」
結局、ヴェルトゥが部屋から駆け出して行って事態が終わる、かに見えた。
「止まりなさい」
廊下から響いたのはリーリアの声だった。
凛とした、王族らしい、聞く者すべてがつい従ってしまうような。
本当に全員の動きが止まってしまう。
しかしヴェルトゥだけは止まらない。
アダムはそれを追って廊下へ出る。
逃げる彼女の前にリーリアが立ちふさがった。
「リーリア様!」
非力な彼の姫であったが、この時ばかりはがんばったらしい。
ヴェルトゥを押しとどめたのだった。
「離して! 離してよ!」
暴れるヴェルトゥ。
ユーリとアダムが駆け寄って彼女を落ち着かせるのだった。
「さて、みなさん、きちんと話し合いましょう」
何日か泊まる予定のリーリアの顔を立てる形で店主はこの話し合いの場を宿屋の食堂に設けることを許した。
本心ではかわいいトップのセールスを誇る娼婦に着いた悪い虫などとっとと払いたかったのではあるが。
席についているのはリーリア、アダム、ユーリ、ヴェルトゥ、キャスティの五人だった。
事のあらましは大体アダムの説明でリーリアも共有していた。
しかしはじまってすぐヴェルトゥはガタリと椅子を押して立ち上がる。
「こんなの無意味。それじゃ」
「待てって! この人の好意でせっかく……」
「ユーリは何もわかってない! 私は自分の意思で働いてるの! 何度も言ってるじゃん! どうしてわからないの!?」
「ヴェル、心配してるんだよ? 家を飛び出したのは気持ちわかるけど、それ以降連絡も何も……ここを見つけられたのだって偶然……」
「あんたはお父さんの共犯者だ! 私が家を出てからどんな思いで暮らしてきたか教えてやろーか!?」
「まあ落ち着いてください。私は全くの他人ですが、この話し合いで皆さんが何かいい方向へ向かえるようにしますから」
リーリアが興奮する三人をなだめる。
その落ち着いたオーラに三人は黙って席に着くのだった。
アダムはさすがだと思った。
これまでも発揮されてきたある種のカリスマが最近はとみに洗練されてきている気がする。
あの時、妖精神の洞窟に入って以来だろうか。
「まず、お辛いでしょうが、お父様との一件を改めてお話しくださいますか?」
キャスティが話し始める。
なるべくぼかしながら、ヴィルトゥが実の父親から暴行を受けた事件を語る。
自分が父親に矛先を向けられる恐怖から動くこともできず、結果妹を生贄に捧げることになってしまったことも。
その間ヴェルトゥは唇をぎゅっと噛んで耐えているのだった。
「あなたのたった一つの過ちがそれだったのですね」
「はい、だからこれを清算しないと私たち、幸せになっちゃいけないんです。結ばれちゃいけない……」
そう言ってキャスティは顔を覆う。
「その、今お父さんはどうしてらっしゃいますか?」
アダムが訊く。
「亡くなりました。この子が出て行ってから事故で……」
「そうですか……」
沈黙。
場が静かになってしまう。
やり場のない気持ち。
清算しようがあるのだろうか?
「あなたは、きっとこの仕事でトラウマを癒そうとしてらっしゃるのですね」
リーリアが口を開いた。
全員の視線が集中する。
「ヴェルトゥさん。きっとあなたはそうなのです。売春行為を繰り返すことで『自分はこれくらいのこと平気だ』とご自分に言い聞かせているのでしょう。しかしそれは却ってご自分の心にナイフを突き立て続けることなのではないでしょうか。よくないことです。きっと今頃内面はボロボロに」
「あんたに何がわかるんだよ! 部外者の癖に!」
ヴェルトゥが叫ぶ。
それもそうであった。
所詮アダムやリーリアは部外者。
説得する力に欠けるのは事実だった。
だがキャスティやユーリに働きかけることはできるのだった。
「そうなの? ヴェル……そういう気持ちだったの?」
姉のかける優しい調子の言葉に首を横にも縦にも振らない哀れな娼婦だったが、それは無言の肯定とも受け取れた。
キャスティは続ける。
「私、ヴェルのことどんなに汚れようが気にしないよ。さ、帰っておいで。こういう生活あなたには向いてないんだよ。だから……」
「あんただけ卑怯な真似してきれいなくせに好き勝手言うなよ! あんたもお父さんに犯されればよかったんだ! そうしたら許してやってもよかったのに!」
涙を浮かべながら叫ぶように言うのだった。
再び沈黙。
ヴェルトゥが立ち上がって去ってしまわないだけまだ希望はあると言える。
それまで黙っていたユーリが言う。
「ヴェル、どうしてそうなっちゃったかな。僕らは君を受け入れられるんだよ。どうしてわからないかな」
キッとにらみつけるヴェルトゥだった。
「そういう言い方はよくないですね」
と、リーリア。
また注目が集まる。
何だかんだ皆彼女の発言を一番気にしているのだった。
そのまま言葉を続ける。
「相手の全てを受け入れるような態度。どんなに汚れようが気にしない、という態度。これは相手がどんなに堕落しようが周りにどんな迷惑をかけていようが、それを止めたり諫めたりしないということと同義じゃないでしょうか」
ヴェルトゥは下を向いて何かに耐えるように表情をこわばらせている。
ユーリが訊く。
「つまりどういうことです?」
「ヴェルトゥさんを許さないで上げてください」
再び場を沈黙が支配するが、今度のは重苦しいものではなく、空白と言うべきものだった。
呆気にとられたというべきか。
「はは、何言ってんの? 許さないのは私の方でしょ? この卑怯な……もう姉じゃない、こんなの」
と、ヴェルトゥ。
「それとこれとは話が別です。ヴェルトゥさん。確かにあなたがつらい目に遭ったのは同情すべきものでしょう。しかしその後、勝手な行動でお姉さんやユーリさんに心配をかけたことは事実じゃないですか。お姉さんは何としてでもあなたが暴行されるのを止めるべきだった。それはそうでしょうが、今この場ではそれは置いておきましょう。問題は今堕落し続けているあなたです」
「娼婦は堕落なんかじゃないよ! 高貴な仕事なんだ!」
あたりから歓声が上がる。
いつの間にやら周りには客や娼婦が集まって話をじっと聞いていた。
「それはそうです」
リーリアが返答する。
「しかしあなたはご自分の仕事を自身の堕落の道具に使っていますよね? 職業に貴賤はないですが職業への姿勢には貴賤があるのですよ」
「そんなの知らないよ!」
ユーリが諭すように、
「ヴェル、もういいじゃないか。この人の言う通りだよ。もう辞めよう。この仕事は君には毒にしかならない」
「ふざけんな! 私が一番客をとれてるんだ!」
「その通りだ」
横から出て来たのは店主だった。
「これ以上勝手なこと言うのはやめてもらおうか。ヴェルちゃんはウチの大事な大事な稼ぎ頭なんだから」
キャスティとユーリは顔を見合わせて言うのだった。
「どうしても解放してはくれないのですか?」
「アホか。身請け金でも用意してから言えよ」
二人は意を決して様子で、
「実は、二人でお金を貯めたんです」
「これだけあれば足りるでしょうか」
と言って袋を出した。
そこには十分そうな量の金貨が……。
「こりゃあ……」
「それって結婚資金じゃないの?」
ヴェルトゥが驚いて言う。
「いいんだよ。君のためなら。ね? キャスティ?」
「ええ、結婚式も、日々の暮らしも、質素でいいから。あなたさえいてくれれば」
呆然とするヴェルトゥだった。
「ッチ……仕方ねえ。とっととどこへなりとも行きやがれ!」
とんとん拍子に話は進んだ。
ヴェルトゥはもはや娼婦ではなかった。
店主の方も名残惜しいのと、厄介な虫がやっといなくなってくれるのとの半々の気持ちで、みんなを送り出すのだった。
「そうだ、僕らの家に寄ってくださいよ。あなたからは話をまだまだ聞きたい」
「それがいいですわ」
「ありがとう」
アダムとリーリアはヴェルトゥと一緒にユーリとキャスティの家に招待されることになったのだった。
魔王からの使い魔が情報を運んでくるまでにはまだ間があった。




