第二十一話 元姫は本当の意味で神と出会う
旅には今度こそ明確な目的があった。
イステティズモを倒し、姫として復権する。
それこそが混迷する首都を救う道だと信じているのだ。
国にとって王族とは何か……。
王族が犬人の妖精神と同様、近づくだけで雲散霧消してしまう、そもそも存在すらしないような存在ならばそれは要らないだろう。
そうではない存在、それこそが彼女の目指すべきものだった。
そこにいるだけで、威光を示すだけですべてが丸く収まり、国が正しい方向に向かう、そんな存在に。
魔界を行くある雨の日の夕方、森に差し掛かったところである。
ある社があった。
神をまつるような木組みの社だった。
「今日はここを宿にさせていただきましょう」
アダムは御者席を降りると中を検分しに社へと入っていく。
中は意外にきれいだった。
崩れかけた外見からすればもっと荒れ果てているかと思ったのに。
アダムはまだここを使っている人がいるのだろうと思う。
リーリアと共に今日の食事を持って中に入る。
アダムはずっと幌のない御者席にいたのでずぶぬれだったから、服を脱いで軒下に吊るし、自分は毛布をかぶって戸口に腰かけた。
リーリアはそんな彼を尻目に社の奥で居住まいを正している。
膝を崩せばいいものを育ちの良さ故休む時でさえこんな調子だ。
「勇者殿、あなたもこちらへ来ればよろしいじゃありませんか。寒いでしょう」
社の中の方は不思議とポカポカしていて温かいのだった。
アダムは、
「いえ、誰か来ないか見張っていますから」
と、拒んだ。
まさか姫様の近くで下着一枚に毛布をかぶった格好でいるわけにもいかなかったからだ。
二人はそのまま静寂が自分たちを包むがままに任せる。
サァサァと雨粒が屋根に当たる音が心地よかった。
アダムはなんとなくこの静かな時間に幸福を感じるのだった。
どれくらいの時間が経っただろう。
アダムはいつの間にか眠りこけてしまっている自分に気づく。
リーリアはいつの間にか彼の隣にやってきていてうつらうつらしているのだった。
間抜けな寝顔を見られてしまっただろうか。
その意趣返しというわけではないが、アダムは正座のまま頭をこっくりこっくりさせているリーリアの顔をまじまじと見つめる。
やや疲れを感じさせる少女の白い顔にはなお若い力が宿っていて、尽きることを知らないエネルギーが奥底にあることを示していた。
微笑みの曲線がしっかり張り付いている。
彼女も静かな幸福を感じていたのだろうか?
アダムがそう思ったその時だった。
「かしこみかしこみかしこみ申す」
ガバッと飛び起きる。
まだ完全に夜にはなっていない薄暗さであったから、さほど時間は経っていないようだった。
リーリアも目を覚ましたようだが、毛布をはだけさせた、腰を覆う布以外何も身につけていないアダムの裸体を見て顔を赤らめた。
アダムは何事が起こったか確認する前にいそいそとズボンと上着を着用する。
声が聞こえてくるのは社の奥からだ。
先ほどまでリーリアがいたはずの場所なのであるからおかしな話だ。
二人が同時に眠った一瞬の隙に誰かが自分たちを無視して奥へ入っていったというのか。
「清き心をみなもとに、古き教えを守らんと」
やはり奥に誰かいる。
アダムはリーリアの方を見る。
リーリアもまたアダムを見ていた。
少々不気味な状況に軽い悪寒を覚える二人だった。
「人倫花開き、みなみな道に沿わんと願わん」
間延びしたような何事かを唱える声が聞こえ続ける。
アダムは意を決して社の中へと入っていく。
奥にはいつの間にか燭台が立てられ、壁がぼうっとオレンジにいろどられていた。
二つの燭台に挟まれた真ん中には白一色の服を着た女の姿が……。
読誦が、止まった。
「今宵の雨宿り客は少々礼を失しますね」
「も、申し訳ありません、勝手に建物で雨宿りをさせていただいて……。今日は誰も使っていないのかと」
咎めだてるような声にリーリアが慌てて弁明する。
アダムは口を開かず用心を怠らない。
女はゆっくりこちらを振り向いた。
真っ白な布地に長くまっすぐな黒髪が映える美しい女だった。
「誰も使っていない? あなたにはそう見えたのですか?」
二人はまた顔を見合わせる。
「ええ……。見る限りは誰もいませんでしたが……」
恐る恐るそう言うリーリアだった。
「まあ致し方ないことですね。例えあなたでも見えないというのは。リーリア姫」
「何者だ!」
アダムの大声が社に響く。
突如現れ、彼の姫の正体を知る怪しげな女……。
最大限の警戒を必要とする相手に思えた。
「私はただの巫女です。ただ単に人には見えぬものが見える者……」
「どういう意味だ!?」
アダムは決して油断せず剣の柄に手をかけたまま叫ぶ。
巫女はそれには反応しない。
「例えば、勇者と呼ばれたお方。あなたには強い守護霊がついております。ひげで立派な体格の……。お父様ですね」
ぞくり。
背筋を悪寒が走る。
当たっている、死んだ父の特徴。
アダムは萎縮する自分を感じるも、リーリアの手前怖気づいてもいられぬと強い態度は崩さない。
「それが何だというんだ、あんたは……」
「やめなさい、アダム」
リーリアが制した。
彼女は巫女の方へ一歩踏みでると努めて優しい口調でこう言うのだ。
「重ね重ねの無礼、お許しください。どうか今日一晩、この社で休ませていただけませんか」
巫女は間をおいて答える。
「いいでしょう、しかし、そのままではまずいですね」
「そのまま?」
聞き返すリーリアだった。
「はい。妖精が御身に付いたままではここに集った神と競合を起こしてしまいます。いたずらっ子の妖精様にはお帰り頂かねば」
「どうしてそのことを!?」
当然驚く。
なぜそのことを知っているのか、妖精が付いているとはどういうことか、など、百の疑問が思い浮かぶが、まとめて言葉にすることはできなかった。
「私には見えるのです」
巫女が言う。
「神の姿が」
「バカな」
アダムが言った。
リーリアが視線でそれを窘める。
――この方はきっと本物だ。
彼女の真剣な目はそう言っていた。
「さて、妖精様、帰り道はお分かりですね。はい。必ず伝えます。それでは」
リーリアはなにか体が軽くなったような感じを受けるのだった。
二人は社のなかをきょろきょろと見回すが妖精らしきものの姿を捉えることはできなかった。
「あなたが犬人(犬人)の集落で出会った神もまたちゃんとした神なのです。あなたに姿が見えなかっただけ」
巫女が話し始める。
どうやら完全に自分たちがどんなことをしてきたのかわかっているようだ。
もうそういうものらしいと無理に納得して巫女の前まで進み出て座る二人だった。
「いえ、こうも考えられます。あなたの身体を依り代として神が下りたのです。捧げものを不要と言ったのはあなたの意志ではなくまさに妖精神の意思」
「そうだったのですか」
アダムは驚く。
この少女の順応の速さに。
彼の姫様にはまったく驚かされっぱなしである。
それにしてもあれがリーリアの発案でなかったとは。
にわかは信じがたいことだ。
「あれは姫さまの考えたことなのでは?」
疑問をさしはさまれ、アダムの方を向く巫女。
「神とは人間を通して言葉を下すものなのです。自分では自分の言葉と思ってもそうではない場合がある、人間は言葉を『言わされる』ことがあるものなのです」
アダムはなおも食い下がろうと口を開こうとするが、リーリアの方が先に言葉を発する。
「おっしゃること、わかります。これまでの旅でも幾度となくそういう体験がありました」
「そういうものなのです」
アダムは黙るしかない。
本人がそう言うのなら。
「巫女様」
リーリアが言う。
「せっかくの機会なのでお尋ねします。常々の疑問だったのです。神はなぜ存在するのでしょう。なぜいなければならないのでしょう。なぜ人の集団は神や王を必要とするのですか? また、時にそれを捨て去るのでしょうか」
切実な質問だった。
リーリアが訊ねる相手もわからずにため込んでいた疑問だった。
アダムはこの問いを一緒に考えることすら許されなかった自分の不明を恥じる。
こういう問いを彼女が抱いていることすら知らないでいたのだ。
巫女は大いに熟考している様子で、押し黙ったまま答えない。
リーリアは辛抱強く待った。
巫女はついに応える。
「取りあえずの回答としては、人は神や王など、規範無しでは人たりえないからです。あなたはずっとそう信じてきたのでしょう? それは一面正しいのです」
「ではなぜ人は、私の国の民は王族を否定し追い出したのでしょう」
「人は王族と民の関係という一種の宗教以外の新たな物語を作り出したからです」
「それは……?」
巫女はリーリアの顔をじっと見つめる。
リーリアはたじろいでしまう。
彼女らしくもない。
アダムは思った。
それほどにこの巫女という女性には威圧感めいた威厳があった。
リーリアの持つ優しくも厳しいたおやかなオーラとはまた違った、厳しさばかりの雰囲気だった。
「人は自らの力のみを頼みにし始めたのです。この社の有様もその結果。ここは元は人間の土地でした。それが魔族に奪われ、聖地であるこの場所が放置されるに至っても、誰も奪い返そうとはしなかった。だからこその現状なのかもしれません。そういう心性がよくなかったのです。本当は何を差し置いても……神を優先すべきだった。忘れてしまっていいものではないのです。王も同じ……」
「それはどういう……」
巫女はさっと後ろを振り抜いた。
「今日はこれくらいにしておきましょう。奥に部屋が二つございます。今日はそこでお寝入り下さい」
二人は従うのだった。
「あ、そうそう」
巫女の言葉に足を止める。
「妖精様がおっしゃられていましたよ。本当にありがとうと。リーリア様、あなたはとても素直な、王になるべきお方だとも。このまま精進すればきっとそれにふさわしい方になるとも」




