第十六話 元勇者と元姫は貴き人に会う(1)
魔王城に直接乗り付けた青の鱗の背から降りた二人は、旅の汚れにまみれた靴で降りるのにはあまりにもったいないほどの真っ白な大理石の間に通された。
完全な賓客扱いだった。
それもそうだろう。
ドラゴンがその背に乗せてくる存在が並大抵のものであるはずはない。
野卑な服装をしていても、本質はおのずと分かろうと言うものだ。
何の準備も先触れもなくいきなり乗り込んだというのに、二人は自由に振る舞うことを許された。
貴賓を扱う際の基本的な応対で。
普通の人間や魔族ではおいそれとは入れないような部屋もあてがわれた。
上下水道完備の久々の文明的な一時に心身を癒す二人だった。
来訪の目的を聞かれたのはその後であった。
二人は正直に告げる。
魔王に謁見することを許してほしいと。
少し待ってほしいと告げられた。
それもそうであるのだ。
二人は数日の間、王城に逗留することを許された。
「なんだか大変丁重な扱いを受けてしまいましたね」
高い天井からシャンデリアの下がる談話室で二人は出された紅茶を飲みながら言う。
リーリアのいた城でもこう高級な部屋はありはしなかった。
「ええ、とても意外です。まあ、青の鱗の口添えもあったのでしょうが」
「そういえば、彼は私たちの正体を口にしたでしょうか」
「それはないでしょう。魔王側が王族や勇者に敵対心をもっている可能性は十分あります。そう軽々しくは言えないはずです」
「正体がばれても取って食われはしないという確信があるからこそ青の鱗は私たちをここへ連れてきたのではないでしょうか」
「そして、我々が魔王を討たないことを確信しているから……」
アダムはふーっとため息を吐く。
「元勇者と知っているものを魔王城へ連れてくるなんて肝が据わっていますね、あのドラゴンは」
「そうかもしれませんね」
二人の間に沈黙が下りる。
かねてからの懸念に思い至ったアダムは、それを口にする。
「何もわからない今の状態のまま彼の者を討つ、わけには参りませんしね」
「そんなことにはなんの意味もない、いえ、害悪しかないと賢者殿に教えていただいたではありませんか。もしそれをすれば青の鱗さんの顔も潰すことになります。いえ、彼に対する討伐隊すら差し向けられるでしょう」
「それもそうですね。そもそも当初の予定では私は討つ姿勢を見せるだけで実際には討たないという話でしたし」
リーリアは怒ったような目をして訊ねる。
「本当は討ちたいのですか? 魔王を」
アダムは首を振る。
「わかりません。でも今までずっとそのために物心ついたときから頑張ってきたんです。受け入れられないんです。今の状況を」
リーリアは彼のことを憐れんだ。
「結局、私たちは何の心の準備もないまま来てしまったというわけですか」
憮然とした様子でぽつりと言う。
「そうなりますね……」
その時、謁見が許されたことを伝える侍従が現れた。
あっけなく、それはなされた。
魔王ヴォルフガングの前に通された二人であった。
勇者は膝をつき、姫はお辞儀をする。
顔を伏せっていたアダムはちらりと玉座に座る彼の者の姿をうかがう。
小男だった。角が生えている以外は人間と変わらぬ見た目で、宝石の沢山埋め込まれた華美な服装をまとっていた。
「ようこそ、おいで下さいました」
丁寧なあいさつだ。
リーリアと同種の柔らかかつ存在感のあるオーラを纏った魔王は言葉を続けた。
「あのドラゴンは千年を生きる高貴な竜です。人間を背に乗せるなど何年ぶりかもわからないことでしょう。あなた方の存在はそれだけで信用できると言うものです」
不思議な響きの声だった。
リーリア姫と比べても数段、なにかこう、高貴さよりもまたレベルの高い崇高さのような……。
これが魔王なのか。
勇者は認識を新たにする。
邪知暴虐を絵に描いたような暴君だったらどれだけ救われただろうか。
そうではないことは事前にわかっていたのだが。
「お初にお目にかかります。リーリアです。かつて王国の姫の地位にありました。こちらは勇者アダムです」
アダムは心底驚いた。
明かしてしまうとは。
それはヴォルフガングも同じであったようで、少なからず動揺していた。
「それはそれは……」
魔王の両側に控えていた巨躯を誇るアークデーモンの衛兵が勇者という言葉に反応し、槍を鳴らしながらこちらを向いた。
「おじょ……姫様! なぜ!?」
理解できなかった。
人間界の姫であることはまだしも(それでも政治的には不味い状況だろうが)
アダムが勇者であることを明かすことにはデメリットしか感ぜられない。
「左様ですか。それで、あなた方の望みは何でしょう」
アダムは彼の姫に期待の視線を向ける。
それにしても魔王は自らの命を狙う宿敵である勇者が目の前にいるというのに大した肝の据わりようである。
彼もまた知りたいのだ。
彼女の考えを。
「正直申しまして」
リーリアは自らの考えを言葉にし始める。
「私達は明確な目的もなくここまで来てしまいました」
嘘偽りはない。
だがアダムは少々落胆する。
リーリアがこの旅の答えを用意していると思っていたからだ。
「ですが」
続ける。
「一つ、光明が見えた気がします。ヴォルフガング様。どうか今の世の王族の存在価値をお教えくださいまし」
――なるほど。
頭を垂れようというわけだ。
勇者は歯噛みした。
彼の姫様が魔王に下手に出ようなど……。
理性では受け入れられても感情では到底……。
「いきなりですね」
ヴォルフガングが言った。
「まあそう結論を急がずに、何があったか話してくれませんか。気になっていたのです。人間界の王族のことは……」
姫は旅のことを話した。
革命で追われて以来、何を見、何を思ったかを……。
「世の人々はみな惑っています。人間も魔族もそうです。私は王族の役目はそう言った人々の道しるべとなることだと考えています。しかし今の世が王族を不要と見做すのはなぜなのでしょう。こんなにも人々の心は荒れていますのに」
あの日、賢者に問われた問いの答えだった。
「人より豪奢な生活をすることが許されるのはなぜでしょう、人より尊く扱われるのはなぜでしょう。それは人より多くの倫理的責任を負っているからです。人々の規範となる生活をするためです。今の時代、どうすればそうなれるでしょう。ヴォルフガング様ならお分かりいただけると思い、参じた次第です」
「なるほど……」
ヴォルフガングは困った。
道徳的判断には尖ったセンスを発揮するリーリアも政治的な常識はまだまだだった。
「どうすれば王族に戻れるのか」
そんなこと応えられるはずないではないか。
――クーデター。
そういうものが彼の心に思う浮かぶ。
もちろん彼女がそんなものを望む人間でないことは話を聞いていてわかっていた。
しかし共和国が追う人物が講和したての彼の魔界の国の中枢にいるというのに、捕らえて引き渡さないだけでも外交問題なのだ。
青の鱗はそういう事情を分からなかったはずもない。
それでもヴォルフガングなら悪いようにはしないだろうとの心があったらしかった。
事実、このまま彼女をだまして人間の国の処刑台に送るような真似だけはしたくなかった。
だが他にどうしていいか処理に困るのも本当なのだった。
「リーリア姫」
彼は語り掛ける。
「あなたは本当に王族の地位を回復して共和国を王国に戻すおつもりですか?」
「はい」
「血が流れますぞ?」
「そうならない方法を探しているのです」
この愚かな姫は色々なものに縛り付けられているのだな……。
ヴォルフガングの心には憐憫の火すら灯る。
「例えば、余があなたの復権を提案するという方法もあります」
リーリアの顔が明るくなった。
アダムにはそう上手くいくものでもないことはわかっていた。
「しかしそうする政治的に合理的な理由がありません」
「それは……」
「せっかく講和したばかりの微妙な力関係の国と国との関係にそのような重大な内政干渉はリスクが大きい。せめて共和国が公式にあなたの命を狙っているという状況でなかったなら……今こうして謁見しているだけでも重大な政治的綱渡りなのですぞ」
形式上、彼女は人間の元姫でありながら魔王の庇護を求めてきたという風にも見えるのだ。
人間の民草がそれをどう思うか。
人間の政治中枢の急進派がどう思うか。
そのままなら革命の処刑台で首と胴が離れていたはずの姫。
いっそそうして死んでいた方が全てが丸く収まっただろうに、厄介なことだ。
ヴォルフガングは少しだけ心にそんな残酷な思いが去来する。
なぜならそうして過去を完全に清算できていれば新時代が何の苦もなく始まっていたからだ。
王族を不要とする新しい時代が。
魔界はいい。自分は政治的決定権をすべて剥奪され、名ばかりの王になることでその存在を許されている。
だが人間界は革命によって完全に王族という存在にノーを突き付けているのだ。
時代から考えても政治的に考えても人間の国にはもう完全に姫の存在を許さない状況があった。
いくら王の道徳的価値に共感できても……。
アダムが口を開く。
「僭越ながら……」
ヴォルフガングはこの元勇者の方を見やる。
勇者、元勇者……。
かつては絶対にこうして敬意を表された状態で言葉を交わすなどあり得なかっただろう。
もしかすると今でも内心では斬りかかりたい衝動があるのかもしれない。
しかし姫の手前それができない、と考えることもできるか。
果たして、半分正解であった。
勇者はいまだ魔王討伐希求の炎をその身に宿していた。
かつての宿命を決して忘れられぬ愚かで哀れな二人であった。
アダムが言葉をつづけた。
「魔王陛下、リーリア姫はなんとしてでも人の上に立たなければならないお方なのです。私は旅の途中、姫がその貴いお心の輝きを発揮される場面を幾度も見てきました。そんなお方が人民を導いたならば、きっと人間たちはよりよい道徳心を獲得し、平和を愛し、講和は確固たるものとなるでしょう」
「なるほど……」
ヴォルフガングは思案した。
もともと彼が一番望んだことが講和だった。
いたずらに彼の愛する魔族たちの血が流れる惰性の戦争に嫌気がさしていたのだ。
だがリーリア姫の復権はどう考えても講和破綻のリスクの方が大きいように思えてならなかった。
ふと、彼はこの二人が政治的センスを欠いているわけではないのではないかと気づいた。
無理をわかっていてなんとか自分の運命を通そうとしているだけなのではないかと。
哀れだった。
運命の奴隷だと彼は思った。
「少し」
そう思いつつ口を開く。
リーリアとアダムはついヴォルフガングを見上げる。
「考えさせてください。いい方策が見つかるかもしれません」
「ありがとうございます」
割り当てられた部屋へと再度通される二人だった。




