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青の時代 2  作者: 森 鉛
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第二章 亡国の王女 第三話

 クレアがウォルフの元で暮らすようになって半月程が経っていた。何事も無く過ぎる日々に少女の傷もかなり回復し、脇腹以外の包帯やガーゼは全て外す事が出来た。クレアにも次第に笑顔が戻り、ラウを追い掛けてはしゃぐ姿は、少女が悲惨な過去を経験してきた事を、わずかだが忘れさせた。それでも夜になると、時折涙をこぼしてはウォルフにすがりつき、声を殺して泣いた。

 ウォルフはクレアに裁縫を教えた。最初は料理をさせようとしたのだが、クレアはナイフを持つのを怖がった。仕方なく針と糸を与え、ウォルフの古着を使って、クレアが着られるように仕立て直させた。少女はすぐにコツを覚え、短いズボンだの簡単なシャツなどを作り、ウォルフに着て見せては喜んだ。

 ウォルフは自分のサンダルを直し、クレアの足に合う履物を作ってやった。これで少し遠くまで歩けるようになった少女を連れ、谷を下り、小さな川に向かった。ウォルフが風呂代わりに使っている場所だった。

 クレアは嬉しそうに足を浸し、やがて服を脱いで身体を洗い始めた。ウォルフが石鹸を削って手渡してやると、川の中に座り込み、丁寧に髪をくしけずる。二人で並んで身体を洗い、タオルで水滴を拭きとると、日光で暖まった大きな岩の上に寝そべる。ウォルフは下履き一枚の姿で、クレアは何も身に着けていなかった。

 陽の光にきらきらと煌めく銀色の長い髪は、白く伸びやかな肢体を飾る高価な宝石のようだった。じっと少女を見つめるウォルフは、性的な物よりも何か荘厳な美しさをクレアの裸身に感じていた。ウォルフに見られている事を感じたクレアは、少しだけ顔を赤らめたが身体を隠す事はせず、じっとそのままの姿勢でウォルフの視線に自身をさらした。

 クレアはウォルフに好意以上の感情を持っていた。自分でもはっきりとは分からなかったが、それが恋愛にせよ、守られている安心感から来る依存心にせよ、少女にとっては同じ事だった。ウォルフの言う通りにする事が、彼女が生きていく唯一の手段であり、彼の傍に居る事こそ、クレアが正気を保っていられるたった一つの方法だった。今ここで身体を求められても構わないと思っていた。どちらにせよ逞しい彼の腕力に逆らえる筈も無く、拒む気も無かった。ウォルフは小さく声を掛けた。

「腹の傷はどうだ、痛まないか」

「うん、痛くない。……見る?」

 クレアはそう言うと自分で濡れたガーゼを剥がした。もう痛みは感じなかった。クレアの白い脇腹に赤茶色の傷が縦に走り、それは見るからに痛々しかった。傷を覗き込み、ウォルフはため息と共に告げた。

「…あぁ、けっこう残っちまったなぁ…。綺麗な身体なのに可哀相に。ちゃんとした医者なら、もっと目立たないように処置出来たかもしれんが、俺の腕じゃなぁ…済まなかったな」

「ううん、ウォルフが手当てしてくれなかったら、死んじゃってたんだから…。お腹の中味が飛び出ちゃったんでしょ?」

「……あれは嘘だ」

「えっ?」

「あれはお前をおとなしくさせる為に言った嘘だ。傷は内臓までは届いてなかったんだ。もしそうならお前は崖の下で死んでたさ」

「……そうだったんだ」

「ああ、悪かったな…」

「ううん、手当てをしてくれたのは本当だもの…、じゃあなんで縛ってたの?」

「暴れたってのは本当だ。こんな細い身体の何処にこんな力があるのかと思う程大変だったぜ。押さえ付けながらじゃ治療なんか出来ないからな」

「……ありがとう、ウォルフ」

 クレアの手がウォルフの頬に添えられ、そっとつややかな唇が重なる。ウォルフは面喰らったが動く事が出来ず、されるままに少女のキスを受け入れた。静かに唇が離れ、頬を染めたクレアはウォルフの首にしがみつき、囁くように言った。

「……ウォルフ、わたしどうすればいい?あなたに何もしてあげられない。…このままここに居てもいいのかなぁ…。国の事もどうすればいいのか分からないし…。……わたし、ほんとに何にもできない、何の役にも立たない人間なのね…」

「………」

 ウォルフは無言でクレアの髪をそっとなでてやり、少女の細い身体を膝の上に抱え、抱き締めた。男の裸の胸に素肌を重ね、クレアは自分の鼓動が早まるのを感じていた。ウォルフの身体にはいくつもの古傷があった。頬の傷と同じように、いくつもの真直ぐなその傷跡は、クレアにも刀傷である事が分かった。男がどんな過去を持っているのかを、それらは語っているような気がした。クレアは無性にウォルフが愛しくなり、男の過去を知りたいと思った。

「ウォルフ、あなたはここに来る前は何をしていた人なの?」

「……言わないと駄目か」

「ううん、ウォルフが嫌なら話さなくてもいいけど…。わたし…ウォルフが好きだから…、知りたい…」

 少し驚いた顔をしたウォルフだったが、すぐに笑顔になり、クレアの髪をくしゃくしゃと掻き混ぜ、言った。

「なんだお前、けっこう男のあしらいが上手いじゃないか…、ほんとに処女か?」

「何言ってるのよ、失礼ね。……もう、人が真面目に言ってるのに」

 からかわれた事よりも、本気で言った言葉を冗談でかわされた事に腹を立て、クレアは頬を膨らませた。ウォルフはにやにやと笑いながら、その頬にキスした。クレアの顔が赤く染まる。ウォルフは立ち上がり服を投げて寄越しながら言った。

「さて、そろそろ帰るぞ。ほら服を着ろよ」

「……はーい」

 帰りの道は昇りになる。ウォルフは軽々とクレアをおぶって、すたすたと山道を登って行く。大きな背中に揺られ、男の髪の匂いを嗅ぎながら、クレアの動悸はなかなか治まらなかった。



 数日後、ウォルフとクレアは街道にある宿屋へ向かう。情報収集のついでに、クレアに必要な物を買ってやる為だった。クレアが外に出たがった事も理由のひとつではあった。

 ウォルフは少女の髪を器用に三つ編みにしてやり、それを服の中に隠した。クレアは無骨な指で上手に髪を編んでいくウォルフを、感心して見ていた。宿屋で名前を訊ねられたら『ヒルダ』と名乗れと言い含め、二人は朝早く家を出発した。

 クレアの身体を考え、休み休み登って行った為、街道に出る頃にはもうすっかり陽が高くなっていた。肩で息をするクレアの手を引き、宿屋に向かう。小さなその店は食堂と雑貨屋を兼ねた、街道に良くある典型的な宿だった。

 年老いた亭主と挨拶を交わし、クレアを親戚の子供を預かっていると紹介すると、ウォルフは情報を集める為に世間話を始めた。クレアは物珍しそうに辺りをきょろきょろと見回している。それに気付いたウォルフが欲しい物を見繕っておけと、クレアを雑貨屋の方に行かせた。店の中には若い娘が一人居た。メアリと名乗ったその娘は十八歳だと言い、クレアにも訊ねてきた。

「いらっしゃい。ウォルフの親戚なんだって、歳いくつ?名前は?」

「あ、こんにちは。…ク…ヒルダって言います。…十四歳です」

「ふーん、なんか欲しいもんあったら言ってね。安くしとくよ」

「あ、はい」

 店の中を面白そうに見て回るクレアを、じろじろと遠慮無く眺めながら、メアリはなおも話し掛けて来る。

「親戚って言ってたけど…、何?姪?」

「はい、そうです。両親がしばらく…出稼ぎに出るので…」

 クレアは少し緊張してそう答えた。それはウォルフが作った嘘の事情だった。あまりここに居るともっと色々聞かれてしまうかも知れないと思い、外に出てウォルフが戻るのを待った。彼はすぐに食堂から出て来て言った。

「待たせたな、なんか買いたいもんあったか?」

「あ、…少し」

 クレアは下着とクシを買った。勘定を払うウォルフをメアリがからかう。

「ウォルフ、姪っ子なんて言って、ホントは自分の子供なんじゃないの?どうせどっかの女に押し付けられたんでしょ」

「ちげーよ。……まぁそれでもいいか」

 にやにやと笑い、クレアの手を引いて出て行くウォルフの後ろ姿を、メアリはため息と共に見送った。


 帰りは随分と楽だった。それでも足にマメを作ってしまったクレアをおぶって、ウォルフは山道を下る。歩きながら、背中のクレアに今日仕入れた話を聞かせてやった。

 食堂に居た行商人に聞いた所、リグノリアの街道封鎖はまだ続いており、国内の様子はほとんど分からないと言う事だった。最後の王族であるクレアには、賞金が掛けられていた。ただそれは彼女の遺体を見つけた者に支払われる事になっており、イグナートはクレアをもう死んだものと見ているようだった。同じく将軍ダルガルにも賞金が掛かっており、こちらはまだどこかに潜伏しているらしかった。

 北の大国プロタリアは既に不干渉を発表しており、徐々にこれに倣う国が出始めるだろうという話だった。唯一東の小国トランセリアだけが、正式に抗議文を送ったらしいという噂になっていたが、これも噂の域を出なかった。各国は国境を厳重に固め、往来が厳しく制限されていた。どの国も物々しい雰囲気で、商売にならないとその行商人はこぼしていた。

 ウォルフは、クレアが既に生きておらぬと思われていると知り、少し安堵したが、長居をするわけにはいかないと考え、そそくさと宿屋を離れたのだった。


 その夜、買ってもらったクシで髪をときながら、ウォルフに話し掛けるクレア。

「…あの、メアリって子…」

「おう、色々聞かれただろ。あいつはいい子なんだがおしゃべりが過ぎるんだ…まったく女ってやつは…」

「あの子きっと…ウォルフのこと好きなんだと思う」

「……おいおい、よせよ。あいつに手なんか出したら、宿屋の親父に殺されっちまう」

 げらげらと笑うウォルフを見て、クレアは思った。

(…鈍感)

 ウォルフを見つめるメアリの視線から、彼女の思いを察したクレアだったが、少女自身にも恋愛経験がある訳では無かった。広大な宮廷の奥深くに住まう王女が、歳の近い男性と知り合う機会などあろう筈も無く、どちらかといえば男性から遠ざけられて暮らしていた。未来の恋人に思いを巡らすにしても、具体的な対象となる人物がいる訳でも無かった。

 生活の全てをウォルフに依存し、彼の支えがたった一つの拠り所となっている今のクレアの気持ちが、初めての恋心なのかそれとも肉親に求める庇護に近い物なのかも、今の状況の彼女には判別が出来なかった。自分からウォルフに身体を差し出しまでしたクレアだったが、実際どのような行為をする物なのかについては、知識が乏しかった。

 少女が確信していたのは、今ウォルフに見限られたら自分は一日とて生き延びてはいられないだろうという事であり、絶望と孤独に一歩も歩む事すら叶わぬだろうと感じていた。それは幼い彼女が考え付いた稚拙な取り引きなのかもしれなかったが、クレアの中には初めに感じた彼に対する嫌悪感など微塵も残ってはおらず、日毎に親しみと愛おしさが積み重なっていた。

 日中はただ黙々と農作業に精を出すウォルフの姿が見える位置に腰を下ろし、少しでも彼の姿が隠れると途端に不安が押し寄せるのか、クレアは畑に飛び出して来た。始めの頃は用を足すのにまで着いて来ようとするクレアにウォルフは閉口し、今でも必ず一言告げてから便所へと向かうようにしていた。日が暮れると心細さが増すのか、彼のシャツの裾を握ったまま狭いあばら屋の中を何処へでも着いて歩いた。ウォルフは苦笑いを浮かべながらも決して拒む事はせず、家事の手が空けばクレアを膝に抱き上げて頭を撫でてやった。

 ウォルフの胸にすがりつき、自分に向けられる少し目尻の下がった柔和な瞳や、優しく髪をなぞる大きくて暖かな手の平が、クレアには宝物のように感じられた。耳を押し付けた時に聞こえる胸の鼓動や、良い匂いなどである筈も無い男の体臭までも、少女を孤独と不安から遠ざけていた。クレアにとって、ウォルフの存在そのものが、今や生きていく最大の糧となっていた。



 トランセリア王宮の国王執務室で、アルフリートはリグノリア大使との謁見を行っていた。外国の使節と王族との謁見は、本来ならば広間なりなんなりでそれなりの格式の元執り行なわれるべき物であったが、事態の深刻さと時にはかなり突っ込んだ話をしなければならない事もあって、アルフリートは自らの執務室に大使を招いていた。

 侵攻の第一報から半月程が過ぎていた。リグノリアの準貴族であるヒンシェル大使とは既に幾度も会合を重ねており、開戦当初の取り乱しようから比べれば彼も随分と落ち着きを取り戻したようであった。

「リグノリア市民を収容する施設は今後も順次増設する予定ですが、現在の所は足りているとの報告を受けています。この件はよろしいですか」

 書類を片手にソファーに座ったアルフリートが、向い合って座る壮年の大使に問い掛ける。幾分中年太りといった体格のヒンシェルは、春だというのにしきりとハンカチで汗を拭いながら答えた。

「は、陛下の寛大な御配慮には感謝の極みでございますが、その……」

「……貴族諸候からの要請の件でしたら、何度おっしゃられても方針を変える事はしません。我が国の理念の根幹に関わる事ですので」

「は、いや、陛下のおっしゃりよう誠にごもっともでございますのですが。そのぉ……、どうか伯爵様だけでも……」

「伯爵だろうが侯爵だろうがダメな物はダメ。病人や老人ならともかく、みんな怪我一つしてないし、ラクロ伯爵は三十代の若さじゃないですか。そもそも国の一大事にこそ、民に対して責任のある貴族階級が皆を取りまとめて混乱を抑えるべきだというのに、自分から問題を増やしてどうするの。文句があるなら直接言いに来いってんだ!」

 何度も同じやり取りをしてうんざりしているアルフリートは、語気も荒くヒンシェルに告げた。大使はぺこぺことひたすら頭を下げるばかりだ。

 開戦の日から、トランセリアにはリグノリアからの避難民が現れ始めていた。しかし、国境が厳重に封鎖されている為からか、その数は予想よりもかなり少なかった。騎士団は郊外に避難所を定め、天幕を張り、食料や毛布などを用意してその対応に当たった。傷病者の為に簡素な住宅を仮設し、軍医を派遣したりもしたのだが、真っ先にそこに落ち着いたのは大量の荷と共に逃げ出して来た貴族達だった。

 持病のある老人や乳飲み子を抱える母親などを収容する場所が足りなくなり、騎士達の説得にも彼等は耳を貸さず、食事や寝具など様々な不満を王宮に対して言い募り始めた。これが避難民全体に対する待遇改善の要求や、リグノリアとの国策問題ならば、まだアルフリートも応じたかも知れなかったが、彼等は自分の事しか言って来ないのである。その上、伯爵である自分が子爵と同じ扱いを受けるのは我慢ならんとか、貴族同士で張り合って次々と要求がエスカレートしていくのであった。

 さらにアルフリートが気に入らなかった点は、それらの要求が全てヒンシェルを通して伝えられる事だった。「文句があるなら自分で言いに来い」と、その度にアルフリートは言っているのだが、只の一人も王宮に交渉に訪れる人物は居なかったのである。平民国家のトランセリアに駐在するリグノリア大使など、彼等にしてみれば使いっ走りのような物なのだろう。うだつの上がらなそうな中年の大使は、毎日の様に避難所と王宮を往復するのであった。

 取り敢えず市内の宿屋に宿泊させてはどうかといった意見も、閣僚からは出されたが、それもまた別の混乱を巻き起こしそうであり、却下された。セリアノートも食料事情は決して良くは無く、王宮が厳密な公平さで管理をしている為に平穏を保っているのである。春先のこの時期に戦が起こってしまったことが、トランセリアには不運に働いた。冬を越えたばかりの国内には備蓄も少なく、各国の厳戒態勢で貿易も滞っていたのだ。

 我が儘放題の貴族達が大人しくごく普通の宿屋で満足するとは思えず、その宿にしてもいつも通りの待遇など出来はしないだろう。下手をすれば不便を託つ市民との衝突が起こる可能性がある。トランセリアの国民は身分に対する意識など希薄で、喧嘩沙汰など起これば後々外交問題に発展する恐れもあった。ヒンシェルの応対を国王自らがしているのもそういった事情からであり、多忙を極める王宮には彼等を迎える余裕など欠片も無かった。

 結局この事態は、状況をわきまえようともしない貴族達の態度に怒り狂ったシルヴァと、話を耳にして駆け付けたシャーロットの二人が、実力を行使して仮説住宅から彼等を追い出し、半数を病人用に開放する事でどうにか一応の解決を見たのである。国王の婚約者と元王妃の二人ならば、彼等もそうそう強い態度には出られないであろう。次々と家の扉から放り出されていく貴族達の姿は大層見物だったと、その場に居合わせた軍医は愉快そうに語った。

 口々に抗議を告げる彼等に「帰る国を失った民の不安を分からぬ者に、住む家など無い」と、戦場の只中に居るかのような凄まじい迫力の一喝がシルヴァの口から発せられ、腰を抜かす者まで出る始末であった。そのまま二、三人切り殺しそうな勢いであった彼女を、後ろからシャーロットが手に持ったお玉でこづき「それぐらいにしときな」とその場を収めた。刀に手を掛けた元帥に怖れ気も無く近付く老婆を、事情を知らぬ若い騎士達は口をぽかんと開けて眺めている。シャーロットはすぐに貴族達への興味を失い、早速炊き出しを始めると、お腹を空かせた子供達に食事を振舞っていた。


 シルヴァの怒りには理由があった。それは開戦から数日後に、宰相ユーストによってもたらされたリグノリアからの一報だった。

「リグノリア王都よりの最新情報をご報告致します。城壁に、王族の首が晒されているとの知らせが届きました。確認出来た方は、国王陛下、王妃殿下、第一及び第二王女殿下のお二人とも。王弟殿下、王弟夫人、王弟の御子息、こちらもお二人とも。現在分かっているのは以上です。……これで直系の王族は第三王女のクレア様のみとなりましたが、今の所行方は判明しておりませぬ」

 御前会議の席上で、淡々と手元の書類を読み上げるユースト。冷静な態度は普段と変わらないように見えたが、アルフリートにはほんのわずかいつもより声が低く感じられた。

 会議室を重苦しく沈鬱な空気が支配する。文官達は天を仰ぎ、小さく祈りを口にする者も居た。将軍達は皆表情を変えなかったが、むっつりと押し黙っている。シルヴァも同様であったが、細められた彼女の瞳は剣呑な光を湛え、ペンを握り締める手が白くなっている。やがて、そのペンがぱきりと折れる音が、静かな会議室に響いた。シルヴァは小さく「失礼」と一言だけ告げる。明らかに怒っている様子の彼女の、王宮では見せた事の無い戦場での殺気が文官達にまで伝わり、彼等の背中を冷や汗が伝う。

 室内の温度が一瞬下がったかと錯覚を起こすほどの気迫の中、不機嫌そうな顔で腕組みをし、椅子に沈み込むように座る国王アルフリートは、聞こえないぐらいかすかな声で「クソ野郎が」と呟いた。身体を起こして背筋を伸ばし、閣僚を見渡して彼は言った。その表情も態度も、もういつものアルフリートであったが、物言いは随分と違っていた。

「親愛なる我が閣僚諸兄に問う。余は直ちにイグナート公国に対して、正式な抗議を行う意向である。懸案であった文面は、草案の第三案を用い、大陸全国家にも同様にトランセリアの意志を通達する。抗議文の提出後、イグナート公国内の大使館を閉鎖、全ての大使館員、並びに国民を帰国させる。反意のある者は今この場で告げよ、如何か」

 それは事実上の国交断絶であり、敵国宣言と言っても良かった。ユーストの作成した三種類の文案の内、第三案は最も強い遺憾を示した物で、二国間の一切の交渉を断ち、リグノリアからの即時撤兵を要求した内容であった。

 将来の外交が一層困難になると考え、第二案を推していたヴィンセント外務長官は、自分の意見を述べるべきか迷ったが、結局何も言わなかった。アルフリートがこのタイミングで決断を迫った事が、この若き国王の内政手腕の巧みさだと感じたからだ。ヴィンセントは宰相ユーストと、閣僚中最高齢の筆頭将軍シュバルカの反応を注視した。この二人が何も言い出さなければ、恐らく他の閣僚から反対意見は出ないだろうと予想していた。

 彼の読み通り、老年に差し掛かった第二軍司令官は、逞しい腕を静かに上げて発言を求めた。禿げ上がった頭部とは逆に、黒々とした鬚を蓄えた口が動き、将軍の声が重く響く。

「陛下にお伺いしたい。第三案は、宣戦布告と受け取られる可能性が十分にあり申す。……お覚悟の程はお有りか」

 アルフリートは真直ぐにシュバルカの顔を見つめ、力強く言った。

「全ての可能性を考慮した。将軍の問いには、古式に則ってこう答えよう。腹は括った……と」

 祖父アーロンの口癖を真似て見せた若き王に、頑固な老将軍の口元が弛んだ。ゆっくりと右手を上げ、シュバルカは告げた。

「賛同」

 一瞬の間をおいて、シルヴァが同じ言葉を発した、二人の発言がきっかけとなったのか、閣僚が次々と同様に賛意を表わしていく。最後に残ったユーストが、全閣僚の視線を浴びながら言った。

「賛同致します、陛下」

 全会一致に満足げに頷き、アルフリートは命令を下した。

「諸兄の決断に感謝する。決定案を直ちに実行へ。同時に国境及び首都の防衛レベルを第一種に。トランセリアは現時点より準戦時態勢に入る」

「御意」

 口々にそう告げ、立ち上がって一礼する閣僚達。それぞれの職務に赴こうと動き始めた彼等に、国王は口調を和らげて声を掛けた。

「今回の騒ぎは確かに困難な事態だけれど、決して無謀でも、無茶な政策でも無いと思っている。君達が、普段通りに仕事をしてくれれば何も心配する事など無いだろう。この二年間で、俺はこの国の閣僚が大陸で最も優れた政治集団である事を確信した。……さあ、始めようか。『いつものように、いつもの仕事を』」

 にこやかに微笑みを浮かべ、腕まくりをしながらそう告げたアルフリートの言葉に、皆の顔にも笑みが浮かんだ。適度に緊張がほぐれ、どの人物も足取り軽く持ち場へと向う。この一言が、王宮を一つに纏め上げたとユーストは実感し、十も年下のはとこのこういった天性の持ち味を内心で評価していた。ただし、点の辛い彼がそれを口に出す事は無かったが。

 王宮の周囲には夜通し篝火が焚かれ、どの部屋の窓からも灯りの絶える事が無かった。昼夜を問わず人々が盛んに出入りしている王宮をセリアノートの市民は見上げ、国の一大事が起こっているのだと察するのだが、同時にそれは王宮が全力で事態に対処している事の証でもあった。三色宮はまさに『眠らない王宮』となっていた。


 イグナート王都のトランセリア大使館に、王宮からの使者が到着する。自国民の帰国手続きに追われていた老年の大使は、宮廷騎士から受け取った命令書を手に、小さくため息を付いた。前もって知らされていた事とはいえ、決してそれは気の進む仕事では無かった。国交断絶を告げに王宮へ上るなど、彼の長いキャリアをもってしても初めての事であったし、イグナート国王は贔屓目に見ても心の広い人物とは言えない。唯一の救いは、トランセリア国民の退去をほぼ終えており、国内には大使館員や駐在武官らが残っているだけな事ぐらいだろう。抗議文を提出に王宮へと向った大使が戻るまで生きた心地がしなかったと、セリアノートに引き上げて来た後に彼等は語った。

 リグノリア駐在の大使は既に帰国していたが、彼はもっと困難な道程を経て国民を救い出した。王宮に火の手が上がったその朝から、大使館にはトランセリアの商人や学生らが詰め掛け、大変な騒ぎになっていた。国へ帰ろうにも国境は封鎖され、一般市民は市外へ出る事も出来なかった。大使は彼等に外交特権を与える為に、全員を臨時大使館員として雇い入れ、数え切れないほどの身分証を発行した。右手が動かなくなるまでサインを書き続けたが、それでもトランセリアから嫁いだ者など、リグノリア国民になってしまった人間を救う事は出来なかった。

 開戦から数日後、最後まで職務を遂行した大使館員と数十人の国民を引き連れ、大使は首都を脱出する。市街はイグナート兵ばかりが目に付き、市民の姿はほとんど見当たらず、物騒な雰囲気が満ち溢れていた。護衛の為に残った騎士や、義勇を感じて留まってくれた傭兵達に守られ、途中幾度もイグナート兵からの誰何を受けながら、一行は命からがら国境を越えた。

 街道に待つ騎士団が掲げる、トランセリアの深い青の国旗を目にした時、大使は我知らず涙をこぼした。此処までの道程で彼等を守ってくれたのは、馬車に括り付けた自国の小さな国旗であったのだ。

 命を賭けて任務を全うした彼等を国王は手厚く遇し、ささやかながら恩賞が与えられた。傭兵ギルドに対してもいくばくかの謝礼が支払われ、市民にもアルフリートの評価は高まったようだ。こうしてトランセリアとイグナートは事実上の敵国となったが、この後も大陸でトランセリアに習う国は現れなかった。


 忙しく仕事に追われるアルフリートに、ラクロ伯爵が謁見を求めているという報告が届いた。シルヴァに追い出された文句を早速言いに来たのだろうと彼は思い、身構えて謁見の間へと向った。だが、そこに待っていたのは、ヒンシェルに支えられて立つ腰の曲った老人だった。謁見を申し入れて来たのは、爵位を息子に譲った前伯爵であった。

 老ラクロは国外脱出の馬車の旅で腰痛を悪化させ、避難所での騒ぎをほとんど知らずに寝たきりの日々を送っていたようだ。シルヴァやシャーロットも、立ち上がる事も出来ない老人を追い出すような真似はしなかったし、代を譲った息子と違って老人は領民にもそれなりに敬われていたようであり、手厚い看護を受けていた。どうにか痛みも薄れ、ベッドに起きあがれるようになった老ラクロは、息子の行いを知って王宮に謝罪に訪れたのであった。

 杖を手に立つ前伯爵は、大使に支えられなければ立っているのもやっとといった様子であり、アルフリートは急遽ソファーのある別室に謁見の場を移した。国王との面会に際して座る事すら失礼だと、頑に礼儀を優先する老人を説得し、ソファーに横にならせて話を聞く事となった。ヒンシェルの説明によると、ここまでも騎士に背負われて来たと言う事であり、歩いて広間に入るだけで数分を要したとの話だった。

「息子の非礼をまず詫びねばなりません、陛下。お国の都合がお有りでございましょうに、我が領民をお救い頂き、これ以上の我が儘など何一つ許されるものではございませぬ。あの愚息めは国外へ追い出しました故、どうかお怒りを鎮め下さいませ。何卒領民を、リグノリアの民をお守り下され」

 トランセリア国王の手を取って切々と訴え掛ける老ラクロを、アルフリートは率直に誉め称え、現在の状況と今後の方針を丁寧に説明した。伯爵は幾度も礼を繰り返し、再び避難所へと戻って行った。アルフリートは規則を曲げて、老人だけでも王宮へ迎え入れてはどうかと提案したが、老ラクロ自身がそれを良しとしなかった。

 領民の元へと戻った彼は、ベッドの上から素晴らしいリーダーシップを発揮し、烏合の衆であった数百名の民をまとめ上げる。トランセリアの騎士団に協力を申し出、仕事を分担させ、自分達の手で出来る事を増やしていった。伯爵の手腕により、避難民達に小さいながらも自治と言った物が生まれ、それは先の見えない生活を送る彼等にわずかながらも希望を生み出す事となった。


 老伯爵の話を知ったシルヴァは、再び避難所を訪れて老人を見舞った。どのような事情があったにせよ、貴族に対し暴力を奮った事を謝罪する彼女に、ラクロはこう告げた。

「我々貴族は領民に対し責任があるのです。何もせずに彼等を放っておいた輩など、尻を叩かれて当然でございます。それに、元帥閣下はわざと自分からそういった手を汚すお役目を、引き受けなさったのでございましょう?」

 国王の婚約者である自分ならば、後々外交問題に発展したとしても手の打ちようがあり、部下に責任を負わせずに済むと考えたシルヴァの思いを、老人は見抜いていた。為政者としての役割と言った物を、伯爵はきちんと理解していた。彼は命を奪われた幼い子供達に対しても、自分達に責任の一端があると告げた。それはシルヴァの考えに通じる物であった。

 伯爵や侯爵などの高位の貴族ともなれば、国政にも大きな発言力を持つ。今回の奇襲を予測出来なかったのも、またそれに至る外交交渉や政策の有り様にも、彼等は責任を感じて当然だとシルヴァは考えていた。にも拘らず我が儘な振る舞いをした貴族達に、彼女は怒りを隠さなかった。国王や王妃といった政治に口を出せる立場の者ならばまだしも、十代の少女や、ましてや十にもならぬ子供が、血縁があるという理由だけで戦争の犠牲者になるなど、決して許せる行為では無いとシルヴァならずとも思っていた。

 建国から百年も経たぬトランセリアは、未だに国民の独立心が強い。遊牧民の部族として暮らしていた頃の話も伝えられていたし、彼等は自分達で国を作り、王を認めたのである。国王と王妃、そして王宮には、国民と山とを守る義務がある。独立の際の戦にも、かつての大戦においても、一片たりともその領土を明け渡す事の無かった実績があるからこそ、民は王宮に忠誠を誓っているのだ。もし今後、国民の意に沿わぬ政治が行われたならば、彼等は遠慮無く国王に三行半を突き付けるかも知れない。

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