第二章 亡国の王女 第二話
日が昇る前の薄暗がりの寝室で、シルヴァはそっと身を起こした。隣でぐっすりと眠る婚約者の頬に口付けると、起こさぬようにそろそろとベッドから下りる。まだ侍女も来ては居ない。手早く夜着を着替え、荷物を担ぐと王宮の裏手へと向かった。
春先の冷たい空気に吐く息が白い。シルヴァを見掛けて敬礼をする不寝番の衛兵と挨拶を交わし、練兵場に続く扉を開く。ここにもまだ誰も居ない。いつもの事だと気にもせず、柔軟体操をして筋肉をほぐし、ランニングで身体を暖める。一年三百六十五日、ただの一日も休まず行われているシルヴァの早朝訓練が始まった。
アルフリートが王位に就いてから三回目の春を迎えようとしていた。皇太子期間の真面目な勉強振りは閣僚にも好評であり、元老院からも最終的な承認を得る事が出来た。戴冠式を無事に終え、国王となった後も順調に職務をこなし、内政も外交も小憎らしい程冷静に捌いて見せた。ただ、行儀の悪さだけは次第に表に出始めてはいたが。
アンドリューは先王の義務として、退位後の半年程を後見人として勤めなければならなかった。しかし、真面目に執務室に顔を出していたのはほんのひと月程で、日が経つに連れその間隔が開き始めた。お終いの頃は週に一度顔だけ出しては「どうだ、やってるか?」と一言尋ねて去って行くというていたらくであり、執務室に居る間も息子の仕事振りをただ眺めているだけで、自分からアドバイスなど与えたりはしなかった。まさか後見人の事を『後ろで見ている人』だと思っている訳でも無いだろうし、アーロンなどは随分細々と口を出していたから、それが嫌だった経験がそうさせているのかも知れない。
アルフリートとシルヴァは、アンドリューの後見人の期間が終わった後に、国民に向けて婚約を発表した。一人前の王になる迄待ってからと、シルヴァがそのタイミングを決めたようだが、実際アルフリートは、その間も現在も全く変わらぬ仕事振りを見せていた。婚約発表と同時に、シルヴァは元帥位を得、軍務長官へと昇進する。前任のグレン元帥は以前より足の古傷が悪化し、杖無しでは歩けぬ程になっていた。「馬にも乗れぬ騎士が武門の長など笑い話にもならぬ」と、グレンは自嘲し、後任にシルヴァを指名しての勇退だった。
同僚の二人の将軍と、九人の准将全員の推挙があり、シルヴァは悩んだ末にその人事を受け入れた。二十一歳の軍務長官など、昇進の早いトランセリアと言えど前例が無く、二十九歳の宰相ユーストと共に、十八歳の国王アルフリートの左右に立つ若々しい彼等の姿は、新たな時代の幕開けを予感させた。
シルヴァの昇進が異常に早い理由として、騎士団でも指折りの実力とバーンスタイン家の血統、そして彼女が持つ独特のカリスマ性による兵からの支持、さらにはセリア山脈に伝わる戦の神が黒髪の女神であるといった縁起かつぎまでもが含まれていた。建国王アルザスの妻ラウラがまさにそういった人物であり、彼女はバーンスタイン家からアルザスの元へ嫁いだ、シルヴァからは大伯母に当たる女性だった。初代王妃の再来と言った声も聞こえていたが、シルヴァ自身は、自分が武官の長の地位にある事が、アルフリートを政治的にも実際的にも守ってやる事が出来ると考えての決意であった。戴冠式の最中にも、壇上で顔色一つ変えずに平然と儀式を行う恋人を心配そうに見上げ、シルヴァは気の毒な程緊張して終始落ち着かぬ様子を見せていた。
『才能という名の大地に努力と研鑽の岩盤を築き上げ、軍功の銀嶺を打ち立てる』そう評されるシルヴァの一日の始まりが、毎日の早朝訓練だった。昨夜は仕事が深夜にまで及び、自宅へ帰るのが面倒臭くなった彼女はアルフリートの私室へ泊まった。その為に王宮の練兵場での訓練になったが、普段は屋敷の中庭でそれを行っている。父を亡くしてからは、シルヴァはずっとそうして一人で修練を積み重ねて来た。三人の兄はいずれも騎士への道を選ばず、子供の頃はそれでも相手をしてくれたが、今の彼女では練習相手にもならないだろう。アルフリートが居れば体術の手合わせぐらいは出来るだろうが、騎士として経験を積んだシルヴァと彼との戦績は、男女の体力差を以てしても十本やって一本とれるかどうかといった所であった。
基本の型を大剣でさらうと、シルヴァは愛用の双刀に持ち替えさらに熱心に素振りを繰り返す。両手に持った双刀がまさにそのまま腕の延長でもあるかのように、剣の先端まで自分の感覚が行き渡り、寸分も太刀筋が狂っていない事を確かめる。
女の身ではどう鍛えても男以上の筋力を得る事など不可能だと悟った彼女は、大剣では出せない速度と剣筋を見切る眼力とを磨き上げた。大男の騎士が振り回す力任せの剣をいなし、相手の技を読んで見えないスピードの一撃を叩き込む。ひたすら高みを目指すシルヴァの目標は既にトランセリアの騎士団には無く、大陸全土での頂点に立つ事へと視線を向けていた。
日が昇る頃になると、他の騎士達もぱらぱらと姿を見せ始める。彼等のウォーミングアップが済んだ頃を見計らって、シルヴァは木剣を手にその指導に当たる。剣術師範達が居れば自分の相手をしてもらうのだが、今日は彼女との手合わせが出来そうな腕の人物はまだ居なかった。やがて准将や大隊長クラスの古参騎士が現れ、これでようやく自分も打ち合いが出来ると思ったシルヴァの元に、副官セリカ・トレディアが足早に駆け寄った。シルヴァは笑みを浮かべて先に声を掛けた。
「お早うセリカ。後でいいんだが少し相手をしてくれ」
「お早うございますシルヴァ様。残念ですがそのお時間は無さそうです」
長い付き合いの副官であり、女性ながら宮廷騎士団でも指折りの剣技を持つセリカなら、気合いの入った立合いが出来ると楽しげな表情を浮かべたシルヴァだったが、副官の台詞は彼女の表情を一転して厳しい物へと変えるに十分な内容であった。セリカは声を押さえて告げた。
「イグナート公国が隣国リグノリアの首都へ侵攻致しました。昨夜の事です」
「陛下には」
「ロベルトとディアナがご報告に向かいました。宰相閣下が御前会議を召集致します」
「分かった………。スコルツ准将、ボウハート、ルムズ」
その場に居た准将と大隊長を呼び寄せると、シルヴァは手短かに事態を告げ、いくつかの指示を出した。彼等は驚いた表情を見せてはいたが、無駄口など叩かずに軍務長官の言葉に耳を傾けている。
「……スコルツは至急会議室へ。私もすぐに陛下と向かう。昼には王宮から正式命令が出せるだろう。それ迄兵や市民に余計な動揺を与えぬように。憶測や流言にも気を配れ。以上だ」
「はっ」
踵を返し、歩き出そうとしたシルヴァが振り返って付け加えた。
「汗をちゃんと拭けよ、風邪をひくぞ」
どちらかと言えば余計なその一言に、隊長達の顔に笑みが浮かんだ。シルヴァ以上の軍歴を持つ彼等に、そのような心配は無用である事など彼女にも分かっているのだろうが、かつて小隊を率いていた頃の、あれやこれやと口を出して年上の部下の世話を焼く日々が身に染み付いてしまったのか、つい口を付いて出てしまうようだ。
廊下を足早にアルフリートの元へと向かうシルヴァに、付き従うセリカが現況を報告していた。王宮のあちこちからも、早朝とは思えぬ慌ただしさが伝わって来る。
「現在宰相府が情報収集に当たっています。戦略研究室からも偵察の増員願いが出されています。それから宰相閣下の指示により、リグノリア及びイグナート両国の大使館は監視下に置かれました」
国王の私室へと飛び込んだシルヴァに、アルフリートの声が掛かる。彼はクレイマン侍従長の手による着替えの真っ最中だった。
「お早うシルヴァ」
「お早うございます陛下、お話は後ほど。すぐに支度をします」
足を止めずに寝室へ直行しようとしたシルヴァの手を取って立ち止まらせると、アルフリートは素早くその唇にキスをして言った。
「慌てなくていいよ。いってらっしゃい」
かすかに頬を染め、無言で歩きながら訓練用の薄汚れた軍服を脱ぎ捨てたシルヴァは浴室へと駆け込んだ。汗ばんだ全身を手早く拭き浄め、待ち構える侍女達の手を借りて瞬く間に着替えを済ませる。居間に戻るとアルフリートが侍従達に指示を与えていた。
「会議室に簡単に食べられるサンドイッチか何かを出前してくれ。みんなきっと朝飯も食っちゃいないだろうからね。シルヴァ、支度はいいかい?よし、行こう」
何事も起きておらぬかのようないつもの足取りで、王宮の廊下を悠々と進むアルフリート。少し後ろを歩くシルヴァが、そっと顔を寄せて囁いた。
「公務中に人前でキスなんかしないの」
「いいじゃん婚約者なんだから」
反省の色の無い恋人に、周囲から見えないように素早く肘鉄を喰らわせ、シルヴァは真剣な顔になって言った。
「どっちかしらね、イグナート…」
「正規軍を動かしたんなら国王派。そうじゃなければ王弟派」
迷いもせず答えるアルフリートに、さらにシルヴァは問い掛ける。
「単独だと思う?」
「王宮が落ちてるから、恐らく奇襲だ。だとしたらどっかが……、てゆーか十中八九プロタリア絡みだろ」
「地形的にそうとしか考えられないものね、後はきっかけだわ」
「昔からリグノリアとはいざこざがあったしな。ただイグナートは内政が複雑過ぎて、実情が良く分かんないからなぁ…」
会議室へと向かう二人を、不安げな眼差しの侍女達が見送る。既に戦の噂が広がっているのだろう。就任二年目にして、始めての緊急事態を迎える事になったアルフリートが、果たしてどう動くのか。王宮のみならず国中が、いや大陸中がこの若い王の手腕に注目していると言ってもいいだろう。
ほぼ全員の顔ぶれが揃った閣僚の挨拶を受け、アルフリートは会議室の細長いテーブルの一番奥、上座になるいつもの席に腰を下ろした。国王の執務室に隣接するこの小会議室には、小さいながらも一段高い壇上に玉座がしつらえてあるのだが、アルフリートは初めての御前会議に一回だけそこに座ったきりで、「話が遠くてダメ」と、その後一度も使おうとはしなかった。
向かって右、武官の長の席に軍務長官シルヴァ、左に文官のトップである宰相ユーストが座る、御前会議のいつもの光景が現れた。一同を見渡し、国王はあっさりと言った。
「よし、始めよう。ユースト、まずは現状を」
早朝であるにも関わらず、ひと筋の乱れもない金色の長い髪をさらりと揺らし、宰相が小さく頷いて口を開く。
「はい、ご報告致します。昨夜、リグノリア王都及び周辺に軍勢が展開、王宮を制圧したとの情報がまず第一報として入りました。次いで宮廷の一部から火の手が上がった事、さらに旗印から軍勢がイグナート公国正規軍である事が判明致しました。総数は少なく見積って五万、若しくはそれ以上と見られています。国王、王妃を含む王族の所在及び生死は不明。有力貴族は一部脱出に成功したようですがこちらも子細は不明。現在王都は戒厳令下にあり、国境も次々と封鎖されているとの情報です。リグノリア騎士団は約半数が王都にありましたがほぼ壊滅状態で、残りも国境周辺に散在している模様ですが動向は不明です。我が国の駐リグノリア大使からも今の所連絡はございません。……現在は以上です」
「ディクスン。防衛状況を」
アルフリートの問いに、良く日に灼けて色の黒い、逞しい体躯の第一軍司令官が落ち着いて答える。
「は。リグノリアとの国境に第一軍二個大隊を展開中。以降一個師団まで増強予定です。念の為、グローリンド及びプロタリア国境も警備の増強を指示致しました。非番及び訓練中の各軍には待機命令を出しております。御命令頂ければ明後日には首都へ集結が可能です。予備役召集並びに義勇軍の募集は、現在の時点では保留としております」
「ヴィンセント、大使館は?」
返答する若き外務長官はさすがに寝不足のようだ。彼自慢の豊かな赤毛も少々乱れ気味である。
「各国の大使館は今の所沈黙しておりますが、恐らくプロタリア以外は情報を得ていない為と思われます。当該国のイグナート、リグノリア両国も同様です。イグナート大使は寝耳に水だったようでして、青い顔をしておられました。同情は出来ませんが。リグノリア大使ヒンシェル様は陛下に謁見を求められておられます。こちらもなかなか悲愴なお顔でございまして、お気の毒です。各国の声明もまだ何処からも出ておりませんが、これは我が国の対応が早過ぎるせいだと思われます。或いは、プロタリア、グローリンド両大国の反応待ちという可能性もございますが」
「ヒンシェル殿には会議が終り次第会おう。手配を。フランク、市民はどんな様子?」
壮年の内務長官は緊張した面持ちで丁寧に答えた。尤も彼は普段から会議中は上がっているのだが。
「はい、早朝という事もございまして、今の所目立った混乱はございません。話が伝わるのには昼過ぎごろまでかかりましょうと存じます。それ迄に王宮よりなにかしらの発表が出来ればと愚考致します」
「よし。午前中に閣僚全体の意見をまとめるとしよう。まずは、国民の保護を最優先に。リグノリア国内とイグナートに居るトランセリア国民に無条件の通行許可を。可能ならば騎士団による保護を行いたい。次に我が国に居るリグノリア国民の保護、イグナート国民には早急に退去命令を出した方が混乱を押さえられるだろう。彼等に臨時通行手形の発行を。両国の大使館は先手を打って騎士団で抑えてしまおう。文句は出るだろうけど何か起こってからよりもマシだ。予備役と義勇軍の召集は今の所無しで。勝手に来ちゃった人は防衛ラインの増強に回して。ただし、今後の状況如何では召集の可能性もあり得るので準備を。リグノリアからの避難民が我が国に入国を求めるだろうと思われるが、セリアノート市内に入れてしまうのはまずいだろう。混乱を避ける為に、首都以外の場所にまとめておきたいな。フランク、何処か心当たりあるかい?」
「少々お時間を頂ければ、郊外に場所を確保出来ると存じます。後ほど候補をお持ちいたします」
「分かった。騎士団の仕事になるが、避難民に対しては貴族も平民も同じ対応をするように徹底してくれ。これは我が国から諸国へのメッセージにもなる事を忘れないでほしい。市内のパトロールを強化して騒ぎを起こさないように、特にイグナート出身の者に対して風当たりが強くなるだろう、留意を。リグノリアからの輸入が止まるだろうから、市民生活になるべく不便の出ないよう、商業ギルドに協力要請を」
言葉ひとつひとつに閣僚達が頷く。緊急時にあっても普段と変わらぬ迅速な決断を見せる若き国王に、厳しかった皆の表情も次第に和らいできていた。アルフリートは一息付いて言った。
「……さて、ここからが問題だ。この件に関する我が国の対外基本姿勢を決めておきたいと思うが……。その前にユースト、なんか漏れは無いかな?」
「外交声明以外ですと……、予算の捻出が残っております」
冷静な宰相の一声に、アルフリート以下の閣僚全員が心持ち俯きがちになる。トランセリアではそれが最も困難な問題と言っても過言では無い。
「ああ………、そうだね………。リカルド、避難民対策と騎士団の補給に掛かる予算の見積りを…」
「恐れながら見積りを出すまでも無く……」
言い終わらぬ内に、痩せて小柄な主計局長リカルドが、黒い巻き毛の頭を振りながら辛気くさく告げた。アルフリートはしばらく天を仰ぎ、ちらりと横目でシルヴァを見てからため息混じりに言う。
「仕方が無い。セリアトンネルの開通記念式典の予算を回そう。それでも足りない場合は……いや間違い無く足りないだろうけど、あー……シルヴァごめん、結婚式の予算を削ろう。場合によっては延期も考えよう。どうだいリカルド、これでなんとかなるかな」
トランセリアの台所を一手に扱う主計局の締まり屋局長、リカルドであったが、さすがに自分の口から国王の結婚式を延期するとは言い出しにくかったのだろう。彼は明らかにほっとした表情で答えた。
「無い袖は振れませぬ。他に方法は無かろうと存じます。早急に計上致します」
「頼むよ。……ああ、せっかくあっちこっち節約して貯めたのになぁ……」
就任から二年、財政を細かく見直して、いざという時の予算のストックをちまちまと貯め込んで来たアルフリートとリカルドの努力も、この一件で水泡に帰す事になってしまった。シルヴァが小声で婚約者に耳打ちする。
「私の事は気になさらずに。今はこの事態に集中すべきです」
「分かってはいるんだけどさ……。あ、来た」
その時会議室に朝食が届けられた。大皿に山と盛られたサンドイッチが、湯気を立てるコーヒーと共にテーブルに並べられる。アルフリートは皆に告げる。
「取り敢えず腹ごしらえをしようか。みんな朝ごはん食べて無いだろう?」
言いながら早速サンドイッチに手を伸ばす国王に、閣僚達も付き合って食事を取り始めた。会議中に物を食べるなどトランセリアといえど行儀の良い事では無かったが、重苦しかったそれまでの雰囲気が随分と和やかな物になったのも確かであった。『人間腹が減っているとろくな事を考えない』というのが、アルフリートの持論でもあった。
口には出さなかったが皆空腹であったのだろう、サンドイッチの山は瞬く間に片付けられていく。得意の早食いで一足早く食べ終わったアルフリートは、コーヒーを手に言った。
「食べながらでいいから聞いてくれ。我がトランセリアとしては、他国に先んじてこの暴挙に対し抗議する意を表明したいと、俺は考えている。今回のイグナートの侵攻には恐らくプロタリアが手を貸している筈だ。そうでなければ地形的に奇襲など不可能に近い。従ってプロタリアは静観。グローリンドは例の通り他国の揉め事には口を出さないだろうし、両大国が動かなければ他の国もこれに習う可能性が高い。だが、それを良しとしてはならない。例え大陸で只一国になろうともこれを見過ごしてはいけないだろう。これが我が国の将来にとって吉と出るか凶と出るか今はまだ分からないが、こちらの有利に動くように持っていく事は出来る筈だ。諸君らの意見を聞きたい」
ユーロン大陸のほぼ中央に位置するリグノリア王国は、北のプロタリア帝国と南のグローリンド王国の二大国に挟まれた、歴史のある豊かな国だった。平坦で肥沃な国土は豊かな実りを産み出し、街道も整備され貿易が盛んに行われ、大陸諸国の交易の中心地となっていた。その為に商業的にも文化的にも発達しており、トランセリアからも多くの商人が出向いていた。
西のイグナート公国、そして東のトランセリア王国ともわずかながら国境を接しており、北のプロタリア、南のグローリンドの両大国の緩衝地帯のような役目をも果たしていた。ひと度戦乱ともなれば、地理的に真っ先に戦場となるであろう領土であったが、二十年前の大戦においてもほとんど戦火に晒される事は無かった。代々のリグノリア国王は巧みに諸外国の王族と姻戚関係を結び、他国の貴族との結びつきも強く、それが国の安全保障になっていた。文化と学問の中心地でもあり、貴族や豪商の子弟を多数受け入れている事が、国防に一役買っているのもまた事実であろう。
領土の北東にある王都は、華やかな貴族社会の象徴の地であり、若者達には憧れの都市だった。社交界へのデビューをリグノリアの王宮で行う事は、貴族の娘達にとっては人生で最高の栄誉であり、つてを求めた彼女達の親によってさらに富が集中する結果となった。ただ、それ故に、平民国家であるトランセリアに対しては、幾分冷ややかな見方をしているようでもあった。
沈黙する閣僚の中、宰相ユーストが静かに口を開いた。若い国王に対して、故意に反対意見を述べるのも自分の役割と彼は考えているようだ。
「イグナート、及びプロタリアに対して敵対行為を取ったと、彼等の侵攻の口実にされる可能性がございます。如何お考えですか」
「口では文句を言って来るかもしれないけど、実行には移さない。イグナートがリグノリアに軍を駐留したまま、我が国に攻め込むのは戦力的に無理だ。そんな事をすれば国が空っぽになっちまうからね。プロタリアにはその力は十分にあるけれど、それはイグナートに手を貸した証明になってしまう。仮にプロタリアがトランセリアに宣戦布告したとしよう、その瞬間にグローリンドが動く。勿論事前にそういう外交交渉をしておくべきだけど、隣接する二国にプロタリアの手が伸びたなんて事、あの国が許す筈が無い。ルーク王はそこまでお人好しじゃ無いだろう?ヴィンセント」
「おっしゃる通りかと。国境を接していない事こそ、あの二大国が共存出来ている大きな理由です。グローリンド国王陛下は慎重派ではございますが、決して事勿れ主義ではありませぬし。……陛下、プロタリアが絡んでいるという前提の根拠をお聞かせくださいますか」
外務長官のその問いを、アルフリートはシルヴァに答えさせた。
「私からお答え致します。イグナート軍が直接リグノリア王都に侵攻する事は不可能です。五万を超える軍が見晴しの良い平野を気付かれずに数日間に渡って進軍するなど、有り得ない事です。恐らく、いや確実に、北のプロタリア領内に兵を分散させておき、闇夜に乗じて一斉に国境を越えたのだと思われます。それ以外の方法となると、リグノリア騎士団の半数が敵国に寝返っていたと考えるぐらいしかございませぬ」
アルフリートが婚約者を援護するように言葉を引継いだ。
「騎士団を半分使えたら、他の国の力なんか借りなくったって王都を落とせるよ。今の所そういう報告は無さそうだしね。……分からないのはきっかけだ。何がこのタイミングでイグナートに事を構えさせたのかだ」
「それに関しましては現在調査中でございますが、噂程度なら情報を幾つか入手してございます」
「あるんだ。すごいねユーストの地獄耳は」
アルフリートの軽口に、一瞬だけじろりと視線を送ってユーストは続けた。
「リグノリア南西部の山中に、金の鉱脈が発見されたとの噂がございます。これが以外と規模が大きく、イグナートとの国境に跨がっているのではないかとの話もございます。原因の一つとして見てもよろしいかと存じます」
「若しくは、リグノリア王宮が王弟派に接近したかだな。そっちは?」
「可能性として無くはございませんが、その情報はございませぬ。元々リグノリアは主に正統な国王と外交関係を築いておりますし、貴族社会での巧妙な振る舞いはあの国のお家芸のような物でしょう。仮にそうであったとしたならば、プロタリアが協力する理由が希薄となりましょう」
「情報待ちって所だな。……他に意見は」
第三軍司令官、メレディス将軍が発言を求めた。軍人でありながら外交巧者との評価も高い壮年の将軍は、細い瞳をアルフリートに向けて問い掛けた。
「仮にその鉱脈がきっかけとなったにしても、今回の侵攻は唐突な印象を受けます。宰相閣下がおっしゃったように、リグノリアは社交で成り立っているような一面もございますし、イグナートとも細かな衝突はありますが古い付き合いでしょう。陛下はどう予想されますか」
閣僚達から次々と浴びせられる質問に、アルフリートは自分が試されているのだと感じていた。隣国の戦禍という緊急事態に、若い王が如何なる考えを持っているのか彼等は確かめようとしているのだ。他国の王宮ならば不敬にもなるであろうが、アルフリートは嫌がるどころがさも嬉しそうに答えを返した。
「これは外務庁からの話だけど、どうやらリグノリアの現王は上手くなかったらしいよ、外交が。ぼんぼんで上っ面の付き合いはそれなりにこなすけど、今回みたいにでかい儲け話が絡むと辛抱が利かないっていう噂があるらしいね。硬軟取り混ぜるとか清濁合わせ飲むとか、腹芸とか、苦手だったんじゃないかなぁ。イグナートのタヌキ兄弟と喧嘩でもやらかしたんじゃないの?…そうそう、交渉相手としたらウチの親父なんか一番嫌なタイプだったろうね、ウナギみたいで」
アルフリートの言う『ウチの親父』が、粘り強く且つくねくねと掴み所の無い外交手腕を得意とした、前王アンドリューであると気付くのに閣僚は一瞬時間を浪費した。にやにやと人の悪そうな笑みを浮かべる国王を、シルヴァは咳払いをして嗜め、ヴィンセントは(多分あんたの方が一番苦手な相手だったろうよ)と、彼に言わせれば褒め言葉をこっそりと思い浮かべていた。メレディスは苦笑と共に頷き、ユーストは場の取りまとめに掛かる。放っておくと話があらぬ方向へ逸れて行きそうだったからだ。
「如何でしょう、一両日中にはもう少し詳しい情報が入手出来ると存じますので、その段階でもう一度討議に掛けては?慎重にすべき問題でもありますし、それ迄に草案をご用意致しますので」
宰相の提案に閣僚は一様に頷き、アルフリートは賛成しつつ一つ注文を付け、会議を締めくくった。
「どちらにせよ我が国に居るイグナート国民の処遇が決まらない内には、やたらな発表は控えた方が良いだろう。ただし、王宮の対策も含めて、現状知り得た事実はなるべく正確にそして迅速に市民に伝えたい。尾ひれの付いた妙な噂が広がる前にだ」
『情報は隠すな』が、トランセリア閣僚の基本姿勢だった。人の口に戸は立てられず、内緒話もいつかは知られてしまう物だ。下手に隠せばおかしなねじ曲った噂が自らの首を絞める事にもなりかねない。最悪の場合、情報を隠ぺいした事実をも、隠さねばならない事態に陥ってしまう。
セリアノート市の中央広場の噴水前には、王宮からの発表の為に大きな掲示板が立てられており、毎日何かしらの知らせが張り出されていた。散歩がてらにそれを読みに来るのが習慣となっている年寄りなども居り、彼等の口から市内のあちこちに話が広まっていった。
正午近くに発表された隣国の戦の話は、瞬く間に市内全域に伝わり、読売屋は大急ぎで号外を刷った。その日の夜には、トランセリアの主要な都市に戦の話が伝わっていったのである。