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青の時代 2  作者: 森 鉛
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第二章 亡国の王女 第一話

 最初に男の目に映ったそれは銀色の固まりだった。

 川沿いの岩場を苦労して登り、近付いてみてやっと長い髪をした少女だと判った。身に着けた大層高価そうな薄物の夜着はあちこちが破れ、血と泥に汚れた銀髪が所々陽の光を受けて光っている。透き通るように白く華奢な肢体に、豊かに波打つプラチナブロンドが絡み付き、まだ十代の半ばだろうと思われる少女は目を閉じたままぴくりとも動かない。

 覗き込んでまだ息がある事を知ると、彼はその小さな身体を抱き上げ、元来た道を戻って行く。驚く程軽いその身体中に擦り傷が残り、腹の傷からじくじくと血が滲んでいる。それは明らかに刀傷だった。どんな事情でこのような怪我をしたのか知らないが、厄介事を背負い込んだ事だけは間違い無かろうと男は思った。

 自らの住処に戻る途中で何度も振り返り、人影が無い事を確認すると、彼は小さくため息をつき、此処まで自分を導いた飼い犬に声を掛けた。

「お前の所為だぞ、面倒なもん拾っちまった」

 耳の垂れた大きなその犬は、彼の言葉など意に介さぬかのように、ひょいひょいと岩だらけの川原を飛び越えて、さっさと元来た道を戻って行く。男はそれきり口をつぐむと、ただ黙々とその後を歩いて行った。


 少女が目を覚ますと粗末な天井が目に入った。目だけで周囲を見回し、自分があばら家のような、ひどくみすぼらしい小屋に居る事を知る。固い寝台に寝かされているらしい。ずきずきと身体のあちこちが痛む。特に右の脇腹から激しい痛みが続いていた。手足を動かそうとするが、何か紐のような物で縛られているらしく動く事が出来ない。かろうじて動かせる頭を起こして、自分の身体を見てみる。何も身に着けていないようだ。全裸の上に、あまりきれいとは言えないシーツが掛けられていた。シーツからはみ出した手足のあちこちに、包帯やらガーゼやらが見える。

 視界の隅に動くものを見つけて少女は身を竦ませる。ぼんやりとした茶色い物が左右に揺れている。ちゃっちゃっちゃっという音と共に近付き、ベッドに手を掛けて立ち上がったそれは大きな犬だった。

「…きゃっ!」

 驚いて思わず叫び声を上げてしまう少女。犬はしばらくじっと彼女を見つめ、ふんふんと匂いを嗅ぐと、少女の白い顔をべろりと一舐めして去って行った。舐められた頬がひんやりと冷たい。だ液が不快で顔を拭いたいのだが、動かせない手足ではそれも出来ず、少女は再び目を閉じる。頭がぼうっとして何も考える事が出来ない。全身がずしりと重く、何をするのも億劫に感じられた。


 物音に気付いた少女が目を覚ます。知らぬ間にうとうとしてしまったようだ。きしんだ音と共に扉が開き、外からの光に一瞬目が眩む。扉が閉じた後に男が一人立って居た。うす暗い部屋の中で表情はよく判らなかったが、背が高く、逞しい男だった。手入れなどしていなさそうな金髪が肩のあたりまで伸び、顎に無精髭が生えていた。横を向いた時、ちらりと頬に大きな傷が見えた。男は手に持った荷物をどさどさと床に置くと、ベッドに近付きながら言った。

「目が覚めたか。傷は痛むか?」

 そう言うと男は何の躊躇もせず、少女の身体に掛けられたシーツをばさりとめくる。裸身をあらわにされ少女が悲鳴を上げる。

「…きゃあッ!……な、ななな、何をするのですっ!無礼な!」

「何って傷の具合を見るのさ」

「つっ!……」

 少女はふいに訪れた痛みに背中を反らせ、呻く。男がガーゼを少しめくった為だった。時折肌に触れる男の指の感触に、少女は顔を背け、唇を噛み締めて耐えた。その大きな青い瞳の端に涙が浮かび、細い手足が小刻みに震える。男はしばらくあちこちの傷を見て回ると、シーツを掛け直し、ベッドから離れようとして気付いた。

「…おっと、もうほどいてやらねぇとな」

 男の手が少女の四肢を拘束していた紐をほどく。全ての作業を終えると少女の顔を覗き込み、低い声で言った。間近に近付いた男の細い瞳の奥にかすかな殺気を感じ取り、少女は身体をすくませる。

「まだ身体を起こすなよ。傷口が開いてはらわたが飛び出るぜ」

 脅すような男の口調に、ぞっとした少女の背筋を冷や汗が伝う。男が部屋の隅にある椅子に腰を下ろすと、少女は横たわったままそっと腕を持ち上げ、自分の手首をさすった。そこにはかすかに縛られた赤い痕が残っていた。手足を縛めていた紐には、良く見れば柔らかな布が幾重にも巻き付けられている。それが自分の細い手足に傷を付けぬように、男が工夫した心配りだと少女が気付くまで、随分と時間が掛かった。背中を丸めてなにやら作業をしている大きな後ろ姿を眺め、少女の恐怖がほんの少し薄らいだ。


「……ここは、…どこ?」

 暖炉に薪をくべ、湯を沸かし始めた男に、少女はおずおずと問い掛ける。

「悪いがそれには答えられねぇ」

 男は素っ気無く答える。少女は次の質問を口にする。

「…あなたは?」

「俺はウォルフ、ここに住む鍛冶屋だ」

「ウォルフ……わたしは…どうして…ここ…に………。………この……きず……。…………あ、………あ、……ああ、…あああーっ!!」

 少女はいきなり半身を起こして絶叫する。髪をかきむしり、指を噛み、身体を震わせた。限界まで見開かれた瞳が宙を睨む。ウォルフと名乗った男はあわてて立ち上がり、ベッドに駆け寄る。

「おいっ!動くな!起き上がるんじゃない!」

 少女の肩を掴み、ベッドに押し戻す。華奢なその身体は、男の逞しい腕の力でたやすく押さえ付けられた。少女は両手で顔を覆い、大きな瞳から涙をぼろぼろとこぼし、うわ言のように呟いた。

「…父様が…母様も……姉様達も…みんな…みんな……ああ……殺され…て、……血が…火が…みんな…死んでしま……あああっ!……みんなっ!……みんなぁっ!!」

「落ち着け!お前は生きてる。お前はまだ生きてるんだ。…暴れるなっ!」

 再び絶叫へと変わっていくその言葉を封じ込めるように、ウォルフは少女の小さな頭を抱え込み、広く分厚い胸に抱き締めた。力の加減が分からず、最初は苦しそうにもがいた少女だったが、男が力を抜いて髪を撫でてやるとやがておとなしくなり、そのまま男の胸で泣きじゃくった。ウォルフは少女の嗚咽を聞きながら、長い間そのままの姿勢で小さな身体を抱き締めていた。

 家族でも無い男の胸に抱き締められるなど、初めての事だった。むっとする男の体臭が少女を戸惑わせたが、不思議な程不快感は無かった。大きな手で頭を撫でられ、耳に伝わる心臓の鼓動を聞いていると、少しだけ心が落ち着いた。背中に手を回しても届かぬ程厚い男の胸に顔をうずめ、少女は涙を止める事の出来ぬまま、自分を襲った恐怖の記憶と闘っていた。


 少女はとある王国の王女だった。広大な王宮で何不自由無く育てられ、優しい父王と王妃、美しい姉達と暮らしていた。まだ見ぬ将来の夫を夢想して心を踊らせる、ごく普通の少女だった。

 だがその夜の惨劇が少女の人生を一変させた。予期せぬ他国の夜襲を受けた王宮は、炎と血の地獄と化した。少女の目の前で切り倒される父と母、二人の姉達の身体が血のドレスを纏い、床に崩れ落ちる。侍女と衛兵に急き立てられ、少女は暗闇を必死で逃げ惑った。叫び声と血の匂いに追われ、煙に咳き込み、馬を駆る衛兵の背中にしがみつく。

 わずかな数の兵士に守られ、どれ程夜の闇を走り続けたろうか、突然少女は馬から振り落とされる。追い付いた敵兵と衛兵との間に乱刃が交差し、けたたましい馬のいななきと兵士の絶叫に四肢がすくむ。絶命した兵士の身体を震える手足で乗り越え、激しい痛みに耐え、少女は森に逃げ込んだ。「殺せ!」追いすがる叫びに死を感じ取った瞬間、ふいに足元が失われる。無限とも思える落下感が、激痛と入れ替わりに途切れると、少女の意識は失われた。



 ウォルフは少女が泣き止んだ事を確かめると、そっと身体を離し、部屋の隅でしばらくごそごそと何かやっていた。涙の跡を拭おうともせず、少女はただぼんやりとその背中を見ていた。

 やがてウォルフは椅子をベッドの横に寄せると、少女の唇に吸飲みをあて、少しづつ水を飲ませてやった。無骨な指で頬を乱暴に擦られ、少女は顔をしかめる。それから男は碗とスプーンを手に取り、不器用な手付きでスープを飲ませてやる。王族の少女にとってそれは、とても料理と呼べた代物では無かったが、暖かい食べ物が胃に収まる感覚は心地良かった。ウォルフはスープを口に運んでやりながら、静かに話し始めた。

「食いながらでいいから聞きな。お前さんはこの先の崖から落っこちたらしい。あの高さから下まで落ちて命があるなんて、運が良かったぜ。傷は脇腹のやつが一番ひどいが、他はたいしたこたぁ無い。若いから腹の傷もすぐに治るだろう。さっき見たら化膿もしてなかったから、後は寝てれば治るさ。ただ傷は残っちまうと思うが…、若い女には気の毒だが、命があっただけでも有難てぇって思わなきゃな。…お前さん歳は?」

「……十…四…」

「そうかい、名前は…上のだけでいいぜ」

「クレア……クレア・グリ…」

「よせっ」

 ふいに強い声で言われて少女は身をすくませる。男はすぐに元の口調に戻って言った。

「…いいのかい?お前さ……クレア。お前さんのフルネームには、特別な意味があるんじゃないのか?」

「……あ、…はい」

 クレアは不思議に思った。この人は何故そんな事を知っているのだろう。緑色の大きな瞳がじっと男の顔を見つめる。暖炉の炎と小さなランプに照らされた彼の顔は、ほんの少し微笑んでいるように見えた。そうしていると目がとても優しく感じられた。頬以外にもあちこちに傷が残る目の前の男に、少女は何処かしら高貴な雰囲気を感じ取っていた。貴族には見えなかったが、逞しい体格から騎士ではないかとぼんやりと思った。クレアの心の中から、最初に感じた野卑な印象は消え失せ、小さな親しみの感情が芽生えた。


 やがてクレアはぽつぽつと小さな声で話し始めた。

「…助けてもらって、…傷の手当ても…ありがとう。……今は…何も言わないようにするわ。……いつか…この礼はするから。……ウォルフ…ありがとう」

「もう寝ろ」

 ウォルフはそれだけ言うと紐を手に取った。クレアはびくりと身体を震わせて訊ねる。

「それ、どうして縛るの?」

「……クレア、お前さんは丸三日眠っていたんだ。その間に熱が出て、何回もうなされて暴れるんでな。傷がくっつくまで身体が動かないようにしとかねぇと、死んじまってたからさ」

「もう暴れないから、縛らないで。お願い」

 ウォルフは少し考え込んだが、手に取った紐を置くと言った。

「分かった。俺はまだ起きてるから、その間にまた暴れたら今度は縛るぜ、いいな」

「…はい」

「よーし、早く寝ろ」

 そう言うとウォルフは、クレアの頭を二、三回撫でてから部屋の隅に戻って行った。彼の手が触れた部分が暖かく感じられた。クレアはしばらく食事をする男の姿を眺めていたが、やがて眠りについた。


 ウォルフは考えていた。自分はクレアの素性を知っているが、この先何が起こるかは分からない。この娘が気軽に姓を口にしないよう、言い含めておいた方がいいだろう。ひょっとしたらいつか自分のように、名前を捨てなければならない日が来るかもしれない。いずれにしろ用心するに越した事は無い。ウォルフは過ぎ去った苦い過去を思い出していた。



 クレアは夜中に目が覚めた。辺りを見回すと、暖炉の前の椅子に座ったまま、ウォルフが眠っているのが見えた。そこで初めてクレアは、自分が彼のベッドを奪ってしまっているのだと気付いた。思い切って声を掛ける。

「…ウォルフ、…ウォルフ」

 彼はすぐに目を覚ました。

「…んあ…なんだ、傷が痛むのか?」

「ううん、…ウォルフもベッドで寝て」

「……なんだそんな事か。駄目だ、俺は寝相が悪いんだ。そんな狭いベッドに二人で寝たら、お前を潰しちまう」

「でも、椅子の上で寝るなんて…」

「うるせぇなぁ、いいから寝ろよ」

「……ウォルフ、一緒に寝て」

 クレアはいつの間にか涙を流していた。男に冷たく言われたからか、申し訳ないという気持ちからか、それとも寂しかったのか。自分にも理由が分からなかった。ウォルフは何かぶつぶつ言いながらベッドに潜り込み、クレアに告げた。

「まったくしょうがねぇなぁ…俺が潰しそうになったら起こすんだぜ」

「うん。…ありがとうウォルフ」

 クレアはそう言うとウォルフの身体に細い裸身を擦り寄せた。自分が何一つ身に着けていない事も気にならなかった。幼い子供のように、ウォルフの胸に顔をこすり付け、男の心臓の鼓動を聞きながら眠りについた。

 暖かな体温が伝わり、恐怖と不安に押しつぶされそうだった心が次第に安らぐ。その夜クレアは初めてうなされず、ぐっすりと眠る事が出来た。



 目が覚めると一人だった。もう外は陽が高くなっているようだった。首を動かしてウォルフの姿を探す。部屋の中に彼の姿は見当たらなかった。少し心細くなって、そっと身体を起こしてみる。思った程傷は痛まなかった。ベッドから降り、裸のまま部屋を歩く。壁に掛かっていた洗濯物らしきシャツを借りて羽織る。ドアを開けて外に出ると眩しくて一瞬目が眩んだ。すぐに犬が駆け寄って来て、クレアの匂いをくんくんと嗅いで回る。手を伸ばして頭を撫でてやると、嬉しそうにその手を舐めてきた。昨日は不快に思ったその行為が、何故か今日は心地良く感じられた。近くの畑に居たウォルフがクレアを見つけ、何か言いながら近付いて来る。クレアは小さく手を振った。

「おい、起きて大丈夫か。ちょっと見せてみろ」

 そう言うとウォルフは、クレアのシャツの裾をめくる。明るい陽の光の下で、下着も着けていない身体を見られるのは恥ずかしかったが、じっとしていた。しゃがんでいたウォルフが立ち上がり、クレアの頭をぽんぽんと叩いて言った。

「傷は開いてないみたいだ。走ったりしたら駄目だぜ、自分でも気を付けて見てろよ」

「うん」

 クレアは素直に頷いてウォルフを見上げた。並んで立った彼は大層大きく、クレアの頭が胸の辺り迄しか届かなかった。ずっと顔を見上げていると、首が疲れてしまいそうだった。ウォルフはぽりぽりと顎を掻きながら、ぼそりと言った。

「昼飯にするか」

 クレアは初めて彼と一緒に食事を取った。


「この子、なんて名前?」

 山羊の小屋の入り口に粗末な木箱を置き、ちょこんとその上に腰掛けたクレアが犬の名を訊ねる。

「ラウ」

 ぶっきらぼうに答えるウォルフ。クレアはラウの頭を撫でてやりながら、畑仕事をするウォルフの姿をじっと見ている。何が楽しいのか、昼食の後、クレアはずっとそうして木箱に座ったまま、男を目で追っていた。

 時折無感情な視線が宙をさまよい、握りしめた手が小さく震え、涙をこらえているように見えた。それでも我慢出来なかったのか、大きな瞳から幾筋かのしずくがこぼれ落ちる事もあった。ウォルフは気付かない振りをして、黙々と作業に精を出した。

 陽が傾き、クレアの身体が夕日に赤く染められていく。湯も使えず、わずかに身体を拭っただけの少女の銀髪は、乾いた血と泥がこびりつき、重そうに細い身体にまとわりついていた。それでもウォルフは、その姿を美しいと感じていた。

 すらりと真直ぐに伸びたしなやかな四肢と、ウォルフの半分も無さそうな細い身体の上に、小さな形良い頭が乗っている。王族の姫君としても十分に美しい整った容貌は、こんな事が無ければ、さぞかし華やかで幸福な人生を送っていただろうにと、ウォルフは不憫に思った。だが、少女の肉親の最後を思えば、まだしも幸運だといえるだろう。

 ウォルフはクレアの事情をあらかた知っていた。この先彼女をどう扱ってやればよいのか、答えの出ない問いを先送りにして取り敢えず傷が完治する迄は、このまま何も言わずにいようと決めていた。



 朝が来ると目を覚まし、日がな一日農作業をするウォルフを眺め、夜には彼の身体にすがりつくように眠りに就く。逞しい腕に抱き締められている間だけは、少女の心を蝕む重く暗い恐怖を忘れる事が出来た。

 うなされる事は無くなったが、夜ふと気付くと涙をこぼしているクレアの姿が男の目に留まる。ウォルフはそ知らぬ振りをし、見ないようにしていたが、ある夜、そっと頭を撫でてやった事があった。クレアは顔をくしゃくしゃに歪めて男の身体にしがみつき、堰を切ったように声を上げて泣きじゃくった。細い身体を膝に抱え上げ、腕の中に優しく包み込んでやる。胸に顔を押し付けて泣く少女の姿は、全てを捨てて来た男に、遠い過去を思い起こさせた。


 泣くだけ泣いて少しは気が晴れたのか、クレアはウォルフに小さく礼を言うと、ぽつぽつとしゃべるようになった。目覚めた夜から、少女は感情と言う物をほとんど表さなかった。懐いてくる犬のラウに対して、かすかに微笑みらしき物を浮かべる事があるぐらいだった。その夜からクレアは、少しづつ喜怒哀楽を見せるようになった。

「……ありがとう、ウォルフ。…少し…すっきりしたわ」

「…いや。……お前、泣くの我慢してたのか?」

「…うん。…泣いてもどうにもならないって、…思ってたから…。でも…我慢出来なくて…」

「そうか…」

「ウォルフ、…国がどうなったか知りたいの。…あなたは判ってるんでしょ…わたしの事」

「……ああ。……ちっと待ってろ」

 そう言うとウォルフは立ち上がり、部屋の隅にある箱の底から、何かを取り出して来た。手に持ったそれは、小さなペンダントだった。薔薇の紋章の周囲に細かな宝石をあしらった、手の込んだ細工が施されていた。

「…これ、…わたしの。……無くしたと思ってた」

「すまなかった。お前の首から外して隠しておいた。……理由は判るな?」

「この…紋章が…、わたしが誰だか判ってしまうから…」

「そうだ。……今お前の国はそういう状態だ。俺も詳しくは判らんが…二、三日待ってくれれば、話を仕入れて来る事は出来る…」

「……お願いしてもいい?」

「…いい話にはならんと思うぞ」

「かまわないわ、耳を塞いでいても現実が変わる訳じゃないもの。……これ、やっぱりウォルフが持っていて」

 ペンダントを差し出すクレア。ウォルフはそれを受け取り、頷いた。

「わかった、…お前は強いな、クレア」

 頭を撫でた大きな手の温もりに、クレアはかすかに微笑んだ。


 粗末な夕食を終えたクレアがぽつりと言った。

「…お風呂に…入りたい」

「そんなもんは無ぇが…。そうだな、そろそろ痒いか」

 傷のせいもあったが、クレアは一度も身体を洗っていなかった。濡らしたタオルで、身体や髪を拭く程度の事はしたが、王室育ちの彼女がここまで耐えた事の方が奇跡と言えた。クレアがここに担ぎ込まれてから、かれこれ一週間が経とうとしていた。

「ウォルフはどうしているの?」

「俺はちょこちょこ川に行ったりしてるなぁ」

「冬は?」

「え?冬も」

「…………」


 ウォルフは大振りのたらいを引っぱり出して来ると、湯を沸かし、クレアの為に小さな風呂桶を用意してやった。いくら小柄なクレアといえど、たらいの風呂はさすがに使いづらいらしく、苦労して身体を洗っていた。ウォルフは傷を擦らぬようにと言いながら、少女の髪を洗ってやった。大きな手で乱暴に髪を掻き回され、少し痛そうに顔をしかめるクレアだったが、それでも随分と楽しそうに湯を使っていた。

 タオルで身体を拭きながら立ち上がったクレアの裸身をしげしげと眺めて、ウォルフは言った。

「綺麗になったじゃねぇか。そうしていればちっとは色気も出て来るってもんだな」

 汚れの落ちたプラチナブロンドが、水に濡れてきらきらと輝き、細く白い裸身に絡まるその光景は、確かに大層美しかった。ウォルフのからかいの言葉に頬を赤く染め、タオルを引っ張って身体を隠すクレア。今まで傷の手当てでさんざん裸の身体を見られているのだが、あらためてそう言われると、全裸で男の前に立っている恥ずかしさがこみ上げてきた。部屋の隅でこそこそと服を身に着け、赤い顔をしてウォルフに言った。

「ウォルフ、まだお湯が残ってるから…髪を洗ってあげようか?」

「え?いいよいいよ俺は」

「……でも、ウォルフ頭臭いわ」

「……そうか?」

 そう言ってぼりぼりと頭を掻くウォルフ。たらいの前に膝を付き、頭を突っ込んだウォルフの髪をクレアはていねいに指で洗い流す。さらに彼女は男を椅子に腰掛けたさせ、タオルで髪を拭いてやり、裸の上半身を拭ってやった。ウォルフはさかんに遠慮するのだが、彼女なりのお礼のつもりなのか、熱心に大きな身体を擦った。下半身まで拭こうと、ズボンに手を掛けた所でウォルフが逃げ出し、その場はそこまでとなった。ウォルフのその姿を見て、クレアがくすくすと小さく笑った事に、彼は少し安心した。


 ベッドに入ると、いつものようにウォルフに身体を擦り寄せて来るクレア。ウォルフの大きなシャツを羽織ってはいるが、下着は着けていなかった。クレアの服は全てぼろぼろに破れ、血と泥が黒くこびり付き、使い物にならなくなっていた。ウォルフは繕ってやろうとしたが、クレアはその服を見るのが嫌なのか、二度と袖を通す事は無かった。

 薄い布地越しに感じるウォルフの体温は、クレアの不安や恐怖をずっと和らげてくれていた。特に今日は身体を綺麗に洗ったせいか、クレアは小さな頭を猫のように擦り付け、ウォルフに甘えているようだった。

「……ウォルフ、…ちょっといい?」

 遠慮がちに話し掛けるクレア。ウォルフは相変わらずぶっきらぼうに答える。

「なんだ、早く寝ろよ」

「…ウォルフ、……今なら、わたし身体きれいだから…」

「………」

「…わたし、ウォルフになんにもお礼出来ないから。…この身体しかないから。だから…」

「莫迦やろう…。子供が何言ってやがる。いいから寝ろ」

「でもウォルフ…命を助けてもらったのに、……わたしなら…いいから」

「俺はお前みたいな子供を抱くような趣味はねぇよ」

「……わたし子供じゃないもん…」

 拗ねたようなクレアの言葉に、思わずウォルフは少し笑った。

「なんだ、今時のお姫様は、その歳でもう男とやっちまってるのか」

 ウォルフのストレートな物言いに顔を赤くして反論するクレア。

「し、失礼なこと言わないで、わたしはまだ処女です。……あ」

 顔を手で覆って真っ赤になったクレアを面白そうに眺め、ウォルフは優しい声で言った。

「そらそうだろうさ。まぁ気持ちはありがたくもらっとくよ。もうちっとおっぱいとケツがでっかくなったら抱いてやるからよ。さぁもう寝ろ、俺は明日早いんだ」

 そう言って向こうを向いてしまったウォルフの背中にしがみつき、小さな声でクレアは言った。

「……でも子供じゃないもん」

 確かにクレアはそのスタイルを見れば子供とは言えなかった。手足がすらりと伸び、華奢な体つきではあったが、胸も小さく膨らみ、ウエストは細くくびれ、尻も小ぶりながら形良く丸みを帯びていた。ウォルフにしてみても、長く女など抱いておらず、少しは気になっていたのだが、三十を半ばにもなろうという彼から見れば、やはり十四歳のクレアなど子供以外の何者でも無かった。

 やがて彼の背中で小さな寝息を立て始めたクレアを起こさぬよう、ウォルフはそっと寝返りを打って少女を胸に抱き締めてやる。王族の姫といえば、わがままで人の事など考えぬ女ばかりだと思っていた彼は、クレアの気持ちを知り少し意外に感じていた。



 翌朝、日の出とともに起き出したウォルフは、鍛冶場に入り朝から鎚を振った。夕刻までに数本の鎌を打ち出すと、夜は柄を削り、その日の内に鎌を完成させていた。クレアは一日中ウォルフの傍を離れず、飽きずにその作業を眺めていた。作業を終えたウォルフは、物珍しそうに見ていたクレアに問い掛けた。

「見てておもしろいか?」

「うん、初めてみたわ。……ウォルフってほんとに鍛冶屋さんだったのね」

「畑仕事ばっかりしてたから百姓だと思ってただろう」

「……うん」

「こんな田舎じゃそんなに鍛冶屋の用もねぇからな、普段は百姓だ」

「これ、どうするの」

「街道沿いに宿屋があるんだ、そこに置いてもらうのさ。ぼちぼち売れるからな。…明日は留守番してろよ」

「……あ、…うん」

 クレアは少し淋しそうな顔をした。ウォルフも可哀相に思ったのか、ベッドに入るとクレアを抱き締め、頭を撫でてやりながら静かに話をした。

「なぁクレア。お前が色々と考えてくれるのは有難いが、とにかく今は傷を直す事に専念するんだ。この先どうするかは俺もちょっと悩んでるんだが、いずれにしろ身体が元通りになってからの事だ。そうすれば他の所にも連れてってやれるし、この先に川があるからそこで遊んでもいいしな」

「…うん、ありがとうウォルフ。…明日はちゃんとお留守番してるから」

「いい子だ」

 優しくされて嬉しかったのか、素直にクレアは眠りに就いた。


 ウォルフは一人で街道まで出掛けて行った。他の人間が来た時に隠れる納屋の穴をクレアに教え、家から外に出ないよう言い含めると、頭を軽く撫でてから出て行った。クレアは扉を少しだけ開き、視界から消えるまでその後ろ姿を見つめていた。一人になると急に淋しさが押し寄せ、嫌な事が思い出されて少し涙がこぼれた。ラウの身体を抱き締め、一日中ウォルフが歩いて行った先を眺めて過ごした。


 夕刻近くになり、遠くにウォルフの姿を見つけたクレアは外に飛び出すと、大きく彼に向かって手を振った。手を振り返す大きな身体にクレアは走り出す。小さな荷を担いだウォルフは、勢い良く飛びついて来たクレアを抱きかかえ、ラウと共に家に入った。

「走ったら駄目だろう、傷は痛くないか?」

「ごめんなさい、嬉しくて。傷は大丈夫、……淋しかったから、ごめんなさい」

 クレアはウォルフの胸にしがみついたまま離れようとしない。片手でクレアを支え、片手で荷物を解くとクレアに差し出した。

「みやげだ」

 一つは粗末な綿の肌着だった。男女兼用なのか、大きさもクレアには少し大きかったが、彼女はとても喜んだ。もう一つは石鹸だった。クレアが王宮で使っていたようないい匂いのする物などではなく、ただの茶色い固まりだった。ナイフで削って使うのだとウォルフは説明した。クレアは何度も礼を言い、さっそく肌着を身に着ける。少しごわごわしたが、それはとても暖かく、クレアはまたウォルフに抱きついて喜んだ。


 夕食を終えてウォルフが話を始める。今日宿屋で仕入れた情報をクレアに聞かせた。クレアはしっかりとウォルフの手を握り、じっと耳を傾けていた。

「お前の国…リグノリアは今、完全にイグナートの占領下にあるそうだ。周辺の国もまだ静観しているようだ。たぶん何がしかの交換条件が出てるんだろうが…」

「王都は…王宮はどうなってるのかしら…」

「首都も制圧されているだろうな、街道も封鎖されて入国は事実上不可能らしい。それと……」

 口籠ったウォルフに、良くない話の予感を感じとったクレアだったが、覚悟を決め、彼を促した。

「ウォルフ…いいから続けて。……わたしなら平気だから」

「……王弟が殺害されたそうだ。……家族もだ。……イグナートは王の血族は残らず殺す腹づもりらしいな」

「……叔父様…、……ご…五歳になる従兄弟が…いるの……あの子も…」

「……ああ」

 クレアの目から涙が溢れ出す。唇をきつく噛み締め、声を殺し、少女の頬を幾筋もの涙が伝う。男の手を固く握りしめ、肩を震わせて泣く少女をそっと抱き寄せると、ウォルフは話を続けた。長引かせても同じ事だと考えたのだ。

「他国に嫁いだ者にまで手は出して来ないとは思うが…、リグノリアはここ数十年王族を嫁がせてはいない筈だ。……名のある将軍もほとんどが敵の手に落ちたらしい。軍がどの程度外に逃げおおせたかは判らなかった。ダルガル将軍は落ち延びたという噂もあるみたいだが…噂でしかない。……今日聞いた話はこんな所だ。……クレア、落ち着いたか?」

 クレアはウォルフの胸に顔をうずめたまま、かすれた声で呟く。涙は幾分治まったようだ。

「…なんて、ひどいことを。……女や子供を…なんて………どうして…」

「ここ二十年でかい戦は無かったが…、まぁ小競り合いの類いはあったが、何故イグナートが…。きな臭い国ではあるが…、リグノリアと何かあったとしか…考えられないな…。周辺国家が静観しているのも、事情を掴み切れていないせいか…。プロタリアがどう出るか…それを見極めているのか……」

 次第に独り言になっていくウォルフの言葉が耳に入っていないのか、クレアはただ彼の腕の中で震えている。今や少女がリグノリアに残されたただ一人の王族だった。

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