第九話 宿怨と灼炎
そろそろ限界がきている、と吸血鬼シーカー自身気づいてはいたのだ。
弱い吸血鬼達が最も頭を抱える問題は狩りである。大半の吸血鬼は常人の何十、何百倍もの身体能力を持っているが、その一方で人間並み、あるいは人間以下の能力しかない吸血鬼も存在する――ろくろく人間も襲うことのできない吸血鬼の為に『人間売り』『人買い』という職が成立してしまう程度には。ハイドの《弟》であるシーカーもそういった吸血鬼のひとりだった。
腹が減った。もう何日も血を摂っていないのだ。ぐううと鳴る腹をおさえ少しでも気配を消そうと躍起になりながらシーカーは夜道を歩く。以前は人買いのシャイロックに頼んで食料を用意してもらっていたが、ハイドにバレて大目玉を食らった上、「毎夜自分で人間を狩って血を吸え」なんてシーカーにとっては無理難題極まるようなことを言い付けられてしまった。無論シーカーも努力をした。努力を尽くした上で、こうして腹を減らしているのだった。
「うぅ……」
目をこすりながら呻くシーカー。空腹の上に、どうしたことか今宵は異様に眠いのだ。まだ夜明けには早すぎる真夜中だ、吸血鬼が人間でもあるまいし眠たがるなんて笑い話にしかならない。しかししかし、ああ、どうにも眠い! 腹ペコでさえなければさっさねぐらに戻って寝てしまうのに、腹の虫が寝させてたまるものかと暴れまわるのだ。食い気を眠気が妨げて、眠気を食い気が邪魔をする。もはやどちらによるものかわからない眩暈がシーカーの頭をぐらぐらと揺らす。
だから道端に旅人らしい行き倒れを見つけることができたのはまさに僥倖であった。木に体を預けるように倒れている、ぼろぼろの外套を着た小柄な男――彼を見つけることが出来なければ自分もこうなっていただろうと思い、シーカーは思わずローブの衿を正した。彼もお腹を減らして倒れたのだろうか? うつむいた横顔はシーカーとそう変わらないくらいの歳頃に見えた。
「可哀想に……」
などという言葉、本来これから腹に納めてしまう相手に対し言うべきではないのだが。脈を確かめる為にゆっくりと近づく――まだ生きている、だがそれよりも気を取られたのは臭いだった。遠くからではわからなかったが、こうして近づけばはっきりわかる。すぐにでもかぶりつきたくなるような甘くかぐわしい香り。彼の血の匂いだろうか? こんなに「美味しそう」な匂いを嗅ぐのは初めてだ。湧いてきた唾液がだらだらと口端から漏れ落ちる。
「た……食べたい」
食べたい。食べたい、食べなきゃ、食べて食べよう食べろ! 震える手で旅人の服を緩め首筋を露わにする。滅多に見かけないような黒い肌も気にならない。早く彼を食べなければ、早く、今すぐ、すぐにでも! 衝動のまま、シーカーは旅人の首筋に牙を立て――
「待て」
うなじに冷たい刃物を突き付けられ硬直するシーカー。しゃがれた低い声はシーカーの耳元で発せられていた。食い気も眠気も吹き飛ぶ。なんだ? 一体何が起こっている?
「動くな。少しでも動けば、カンタレラの毒が貴様を蝕む」
カンタレラ! その言葉にシーカーはようやく思い至る――小柄な体躯、人間とは思えない黒い肌、そして嫌が応にも食欲を掻き立てられる匂い! 話に聞いていた吸血鬼殺し、忌まわしき魔女の手先カンタレラそのものではないか! どうして気がつくことが出来なかったのか……憎たらしき仇敵に命を握られ冷や汗を垂らすシーカーをよそに、旅人もといカンタレラは続ける。
「お前、ハイドの手下だろう。ハイドの為に人間を狩りに来たか」
「………………」
「このまま首をかき切られたくなければハイドの元に連れていけ」
カンタレラをハイドの元に!? ふざけるな、そんなことするわけないだろう! そう怒鳴りたくとも首筋の冷たさに口が上手く動かない。
「どうなんだ。連れていくのか、いかないのか」
「……ぅ、ぁ……」
「お前をここで殺そうが、ハイドに辿り着く方法などいいくらでもある」
ぐ、と刃物に込められた力が強くなる。少しでも身じろぎすれば…………カンタレラの毒は一度体内に入れたが最後、全身が腐り落ちて死ぬという。恐怖にかられたシーカーの口は重いとは裏腹の言葉を発していた。
「つ、連れていく! 連れていくから……!」
「…………」
ゆっくりと刃物が首から離される。見慣れない形状の短剣にべったりと塗りたくられた黒い液体。カンタレラの血だろうか、あれが体内に入ってしまったら。シーカーは背筋を凍らせる。
「立て」
シーカーの腕を掴み、短剣を胸元に突きつけながら命じるカンタレラ。おどおどとシーカーが立ち上がると、カンタレラはシーカーの腕を掴んだまま彼の後ろに回り、再びうなじに刃を添えた。
「案内しろ。もしおかしな動きをすれば、わかるな?」
「う、うぅ……」
汗が噴き出る。吐き気を催し、空のはずの胃袋の中身を吐き出したくなる。このままなんとかハイドの元に連れていけたとして、そのあとシーカーはどうなるのだろう? 用済みとしてカンタレラに始末されるか、裏切りの制裁としてハイドに処刑されるか。いずれにせよ、無事に解放されることはないだろう。
(兄さん……ごめん)
もう何夜も会っていない《兄》に心の中で謝罪する。きっと赦してはくれないだろうと思いながら。
「……本当に、ここにハイドがいるのか」
「………………」
「どうなんだ」
いらいらとカンタレラはシーカーの肩を揺さぶる。根城に連れていかれるものと思いきや、辿り着いたのは林の中である――まさか騙して見当違いの場所に連れて来たんじゃないのか。問い詰めるカンタレラに、しかしシーカーの答えはあやふやだった。
「わ、わからない……もうだいぶ、会っていないから」
「なんだと?」
「ここに来るかもしれない……来ないかもしれない」
どんどんシーカーの声が小さく、おぼろげになっていく。見ると、眠たげに目をこすっている。
「眠い……眠いんだ」
「貴様……」
首に刃を突き付けられていながらシーカーは目を瞬かせ、今にも眠ってしまいそうに頭をこくりこくりと揺らしている。こんなときにふざけているのか、それとも本気で眠たがっているのか? 呆れかえったカンタレラはシーカーをその場に突き飛ばす。その場に崩れ落ちるシーカー。
「そんなに眠いのなら好きなだけ寝ていろ。目が覚めたとき、貴様の親玉は既に死んでいる」
「………………」
カンタレラが去っていくのをうずくまったまま霞んだ眼で眺めるシーカー。ハイドを探すつもりだろうか? 止めなければ……しかし体が思うように動かない。頭のてっぺんから足のつま先まで全身が睡魔に支配されたかのように。無論ハイドがカンタレラに負けるはずはない。けれど、あの猛毒……万が一ハイドがカンタレラの猛毒に蝕まれてしまったら? 血も凍るような恐怖を感じてなおシーカーの眠気が晴れることはなかった。
「にい……さん……」
『あーあー、地べたでみっともなく泣きべそかきやがってよォ。情けねえなあ、それでも俺様の《弟》かよ、ええ?』
意識を失いかけたまさにその瞬間聴こえてきた声に束の間だがシーカーの意識は覚醒する――兄さん、来てくれたの?
『まったくこの役立たずがよ。もういい、邪魔だ。てめえは引っ込んでろ。ドゥ・ユー・アンダスタァン?』
刺々しいハイドの言葉。しかしシーカーの胸は安堵で満たされた。もう大丈夫だ。兄さんが来てくれた。きっと兄さんがカンタレラを倒してくれる。兄さんならきっと――……緩んだ心にゆっくり睡魔が流れ込む。シーカーは抗うことなく、意識を闇中に溶かしていった。
◆
「……あいつめ」
林の中を歩きながらヤンは舌打ちをした。ハイドや他の吸血鬼の気配はない。やはりあの少年吸血鬼に騙されたのか。
「……殺す」
このまま歩き回っても埒が明かない。先程の場所に戻り、あの吸血鬼に尋問しなおそう。寝ていようが関係ない。なおもとぼけるようならそのまま殺してくれよう。ヤンは短刀裏切の刃を拭い、すっかり乾いて固まった血を落とした。吸血鬼殺しの猛毒もさすがにこうなってしまったら刃を鈍らせるだけである。
やれやれ、とヤンが踵を返したそのときだった。
「ナイス・トゥ・ミート・ユー、カンタレラァ?」
振り返りざまのその胴に鋭い回し蹴りが浴びせられる。勢いよろめくヤンにさらに追い打ちをかけるように胸倉を掴まれ手近な樹にしたたかに打ち付けられる。
「がぁッ……!?」
「よォ、俺様がいない間に好き勝手やってくれたらしいなあ。ええ?」
片手でヤンの胸倉を掴んで持ち上げ、ぎりぎりと締め上げながら肉食獣のように獰猛に笑う男。胸元に刺青を刻んだ豹のようにしなやかな身体に白いローブを纏う、炎色の髪の吸血鬼。
暴虐者ハイドだった。
「カンタレラなァ……噂に聞いちゃいたがマジにこんなチビだったとはなあ? こんなガキにやられるたァ、コスタードの野郎もヤキが回ったもんだ」
「ッぐ…………っ……!」
呼吸が妨げられ顔を赤くしながらもヤンは握っていた裏切を振るい、自分の手を斬りつける。
「ケッ、毒血かよ」
ヤンの行動に気づいたハイドはその体に蹴りを入れつつ飛び退くように距離を取る。磔状態から解放されその場に落下するも、すぐさま体勢を整えハイドと対峙するヤン。
「そんなちゃちな玩具で俺様をやっつけようってかァ? やってみろよ」
「…………!」
ヤンはジグザグ木々を縫うように蛇行しながらハイドへ向かう。ハイドはその場に立ったまま動かずにやにやと笑みを浮かべながらヤンを観察する。吸血鬼の異能を使うどころか片手をローブのポケットに突っ込みまるで歯牙にもかけていないような振る舞い。俺を侮っているのか。苛立ちながらハイドに斬りつけるヤン、しかし……
「まさか、それが本気ってわけじゃねえよな? リアリィ?」
「!」
胴に振り下ろしたはずの刃。しかしハイドは左手を軽く動かし手の甲でヤンの手ごと短刀の柄を打ち払う。まるでなんでもないことのように――ヤンの全力がたやすくいなされた。
「まさかその程度で俺様を狩ろうなんて思っちゃいねえよなあ――――ええ?」
「くっ……!」
衝撃に痺れる右手に顔をしかめながら腰に下げた布袋から手斧を取り出す。逆賊――それを見たハイドの目がほんの少し大きくなった。
「《露払い》。あいつ、首だけじゃなくてめえの得物まで取られてんじゃねえよ」
「べらべら、やかましいぞ……!」
右手に裏切、左手に逆賊。奇妙な二刀流を構えながらハイドに猛攻をかける。少しでもかすれば死を免れえぬ刃の嵐。だが、なかなかその一撃は訪れない――飄々と余裕の笑みを浮かべながらかわし続けるハイド。
「ヒャハハ、笑わせるぜこのド雑魚が!」
「ぐぅッ!?」
そしてその攻撃はヤンの目では捉えることが出来なかった――脳天に一撃、次に腹部に重い衝撃が走り、気がつけばヤンは後方に倒れ込んでいた。痛みに喘ぎ、咳き込みながら左手が空になっていることに気づく。ハイドに逆賊を奪われてしまった!?
「……あ? んん、この臭いは……」
と、逆賊の柄をくるくると回しながら何かに気づいたように鼻をひくつかせる。やがて得心したのかにやりと牙をむき出しにした。
「……思い出したぜ。てめえあれかァ? いつだったかのくせえ魔女のガキ……」
「………………」
「あーあーあーあー、なるほどなァ? よくある話だよなあ、昔の仕返し敵討ちで吸血鬼ハンターになるってよォ、ええ?」
「……う、るさいッ!」
起き上がり、再びハイドに裏切を振るう。だがその刃は容易く手斧の柄で弾かれ、嘲笑うハイドには届かない。遮二無二、短刀をこん棒めいて乱暴に振り回しハイドの頭めがけ落とした一撃でさえ、ハイドはひょいと避けてそれをどかすように手斧で払うのだ。斬撃してこようとしないのはカンタレラの毒血を警戒しているだけではないのだろう。
遊ばれている。
「それともなんだ、あのとき死に損なっちまったのが心残りだったかァ? だから大人しく寝床に潜って震えてりゃいいものをわざわざやってきてぶち殺されに来たんだよなァ!? ええ?」
「黙れッ……!」
刃につけられた血が乾く。補給の為一旦引いてハイドと距離を取ろうとするが、瞬きする間に再びハイドが眼前に立っていた。速い――――そしてハイドの拳が顔面に迫る!
「おいおいおいおい、まさか勘違いしてんじゃあねえだろうなあ。てめえまさか、万が一にでも俺様を殺せるなんて思ってるんじゃねえだろうな? ノォォォォォォット!」
反応する余裕すら与えてくれない! 頭部を手斧の柄で殴りつけられ、間髪入れずに腹部と胸部にそれぞれ一撃。さらにつんのめったところを足払いによってその場に転げ倒される。起き上がろうとするところを腹部を踏みつけられ、ぐり、と体重をかけられる。
「ぁがぁあッ!?」
「違うだろ違うだろ違うよなあ!? 俺様を殺すどころか玩具にされてるてめえがよお! 玩具にしたってつまらねえ、ノロノロ動いてぎゃあぎゃあ喚くしか能がねえ出来損ないが! 俺様を一体どうするって? ええ!?」
そうだ――薄々気づいていた。明らかに手加減され、生かされている。その気になればいつでも殺せたろうに、わざとヤンに合わせて手を抜いているのだ。
嬲る為に。
「つっまんねえなァ……カンタレラって言うからにはもっと楽しめるかと思ったんだがなあ!? あのときと大して変わんねえじゃねえかよ、それで仕返しできるくらい強くなったつもりか!? あァあん!?」
「……!」
ぐりぐりと腹を踏みにじられながらハイドの言葉にはっとする。同じだ……まったく同じじゃないか。十年前のあのときと。
べき、と肋骨かどこかが折れる音がした。違う。あれから十年も経った。もうあのときとは違うはずなのだ。なのに――どうしてヤンは倒れている? あのときと何が違う? ハイドの気まぐれな暴虐に振り回されて嬲られる、無力な七歳の子供と一体何が変わったというのか。
何が復讐だ。殺されに来たのと変わらないじゃないか。
「チッ……もういいや。つまんねーよ、てめえ」
動かなくなったヤンに飽きたのか、ハイドはつまらなそうに目を細めながら腹部を踏みつけていた足を離す。そしてその足をヤンの頭の上に移動させ、額に軽く乗せた。
「くたばれ」
じわじわと体重をかけられていく。踏み潰すつもりらしい――吸血鬼の力ならば人間の頭も果実のように容易く砕くことが出来るだろう。逃れなければ……だが心とは裏腹に体が動かない。こんなところで死ぬわけには……! 裏切を握り締めながら歯を食いしばる。動け、立て……せめてあと一撃だけでも!
「――がるるるるッ!」
「……ッ、なんだ!?」
頭が軽くなったのを感じた。見ると、今の今までヤンを踏みつけていたはずのハイドの姿が消えている。何が起きた? やっとのことで体を起こして周囲を見渡す。そして少し離れたところに倒れたハイドと、それに馬乗りになっている銀色の獣の姿を見つけた。……あれはまさか!?
「がるッ、ぐるるる、がるぅううう……!」
「……はん、人狼かよ。随分なじゃじゃ馬をペットにしてるらしいな? カンタレラァ……!」
四つ足でハイドをおさえつけ、牙をむき出しにして威嚇する人狼――いや、ロムルス! なぜだ、どうしてここにいる!? 混乱するヤンをよそにロムルスは大きく裂けた口で喋りにくそうに話しだす。
「オレには事情はよくわかんないけど……でも、ほっとけないって。あんな風にやられかけてたら、尚更……!」
「あん? 何言ってんだてめえ……まあいい、せっかくだからてめえが遊んでくれや、ワンちゃんよォ!」
四肢をおさえつけられた状態で、しかしハイドは思いきり身を反らし――唯一自由な頭部を跳ね上げるようにロムルスに頭突きする!
「ぐぇッ!」
「ヒャハ、滾るねえ! 人狼とやるなんていつ以来だァ!?」
のけぞったロムルスを蹴り上げ、そのままバク転で起き上がるハイド。ロムルスもすぐさま体勢を整えハイドに突進する。
「がるるッ!」
「っ、と――」
それを真正面から受け止めるハイド。長身のハイドでも身の丈七フィートを超す巨大な猛獣を凌ぐには骨が折れるらしい。荒々しく突いてくる拳を両腕でガードする。だがそこに焦りの色はなく、どころか喜色すら浮かんでいる。
「は、さすがにこのままじゃあきついかよ……らぁッ!」
腕を開き、ロムルスの拳を弾きながら後方へ下がる――その顔に血紋が浮かび上がる! ごきごきと骨格が変形する音が響き、筋肉が膨れ上がっていく。ロムルスが人狼に変身するときとよく似ていた――しかしその姿は狼ではなく、全身を強靭な鱗で覆う爬虫類めいたものになっていた。月の光を反射させ、赤い鱗が燃えるように輝く。ヤンはおとぎ話で聞くような竜を思い浮かべた。
「へ、変身した!?」
「てめえもしただろうがよォ……だらァッ!」
竜と化したハイドは長い舌でかつて唇があった場所をちろりと舐めロムルスに襲い掛かる。節くれだち、びっしりと鱗が生え揃ったいびつでおぞましい拳。胸を狙われたロムルスはとっさに腕でそれを受け止めた。だが直後、驚愕と苦痛の声をあげる。
「げッ!?」
見ると、ハイドの手に生えた鱗の一枚一枚がカミソリのように逆立ち、ロムルスの腕に食いこんで傷つけていた――だけではない! そうして流れ出る血を食い込んだ鱗が吸い取っている。吸血しているのだ!
「ボーッとしてる暇があんのかァ? ええ!?」
「ぐぁッ……!」
そして次の瞬間、ロムルスは背中を殴打されていた。ハイドは目の前にいるのになぜ? 目を白黒させながらハイドを見て疑問を氷解させる。いつのまにか腰の付け根から蛇革の鞭めいた尾を揺らめかせている。
「……気持ち悪っ! 化け物かよお前!」
「てめえが言うのかよ」
とにかく、ハイドの攻撃を受けるのは危険だ。ハイドの拳を振り払いながらロムルスは頭を回転させる。攻撃されればされるほど相手をパワーアップさせることになってしまう……!
「あん? さっきまでの勢いはどうしたよォワンちゃァん!?」
「っ、くそっ……!」
ハイドの回し蹴りを避けながら、二の腕に向かって拳を放つ。命中こそしたものの、その結果は芳しいものとは言えなかった。どころか先程同様鱗が逆立ち、ロムルスの拳に突き刺さっている!
「ち、ちくしょッ……!」
「ヒャハハハハァ! イート・ジス!」
痛みに顔を歪めるロムルスにひじ打ちを食らわすハイド。そしてロムルスが怯んだ一瞬の隙に長くしなやかな尾をロムルスの胴体に巻き付ける。そうして尾で軽々とロムルスを持ち上げると、地面に何度も打ちつけ始めた。
「ぎッ、ッぐぅ……く、くそッ……!」
呻きながらもがき、尾の拘束から逃れようとするロムルス。しかし巻き付いた尾の鱗が全身に突き刺さっており、そこから吸血されてしまっているらしい。暴れる手足の動きが段々弱っていく。
「イート・ジス! イート・ジスッ! ヒャハハハァ!」
「ろ……ロムルス……」
このままではまずい、ロムルスが殺されてしまう……! ヤンは悲鳴を上げている体に鞭打ち立ち上がる。上手く力の入らない手で裏切を握りしめ、後ろからハイドに飛びかかった。
「……あん? なんだてめえ、まだ生きてたかよ……」
毒血が塗られた刃は、しかし硬い鱗によって阻まれる。だがヤンの攻撃に気づいたハイドは鬱陶しそうに振り向くと、踵で土でも払うようにヤンを蹴りつけた。
「がッ!」
「ちっ……うっかりてめえの血まで吸っちまうのは面倒だな。仕方ねえ」
はあ、と溜め息をつくと左腕を掲げる。見る見るうちに鱗が抜け落ち、人間のそれと変わらない形に戻っていく左腕をハイドは右の手で無造作に掴んだかと思うと。
「おら」
「……!?」
ぶち、と毛でも引っこ抜くかのように肘から先を引き千切る――ぎょっと目を見開いたヤンに向かってそれを放り投げると、ハイドは何事もなかったかのように背中を向けた。肘から先をなくした左腕、しかしそこから血は流れず、傷口から新たに骨や肉が生えてきて左腕が復元されていく……!
「……ッ!?」
問題は千切られた方の左腕だった。ハイドから切り離されたはずのそれはまるで意思があるように地面を這いまわり、猫のように跳躍してヤンの首に飛びついた! ヤンの喉笛に指がぎりぎりと食い込む!
「ぐ、ッうう……!」
慌てて腕を引き剥がそうとするが、腕だけであるはずなのにその力は強く、なかなか振りほどくことができない。……そうだ、毒血! 裏切で腕を斬りつける。毒を吸って腐敗していく左腕、しかしなかなか首からは離れない……!
「ッ!」
と、ほとんど骨だけになりながらヤンの首を絞める左腕がついに喉に突き刺さった。溢れ出る黒い血に濡れながら、その傷を広げようと指先がどんどん傷口を抉ってくる。駄目だ……このままでは……。心なしか意識が遠のいていく。その場に膝をつきながらヤンはロムルスの方を見た。ハイドの尾に巻きつかれたまま、もうすっかりぐったりとしている。その顔は以前戦った植物めいた女吸血鬼にやられたときよりも青白い。……まさか、死んだ? 頭から血の気が引き、傷口から流れ落ちていく。
「貴方はきっと誰も守ることはできない。貴方の大切な存在は、みんな死んでしまう……」
いつか呪いのように告げられた言葉が脳裏を駆け巡る。違う……違う。違う! 否定しようと口を開くが、出るのはひゅうひゅうと滑稽な音ばかり。死ぬもんか。ロムルスが死ぬはずない……だって、だって、だって!
(ロムルスは強いじゃないか。俺が守る必要なんてないくらいに)
いや、違う。そうじゃないだろう。心に浮かんだ思いを、さらに別の言葉が否定する。
(弱い貴方をわざわざ守ってあげたから死んでしまうんでしょう?)
◆
「ヒャハハ、ヒャハハハハハ! ……あん?」
ロムルスで《遊んでいた》ハイドは自らの異変に気付く。変身を解いた覚えもないのに、体からぼろぼろと鱗が剥がれおちていく。ハイドは舌打ちをして自らの胸を見る。刺青が刻まれた部分が酷く痛む。《持病の発作》が訪れたらしい。
「ちっ……もうかよ。つまんねえなァ」
ロムルスをその場に捨て、そういえばカンタレラの奴はどうなったかと目をやる。千切った左腕はすっかり腐り落ちていたが充分にダメージを与えたらしくその場に崩れるように倒れていた。トドメを刺すか一瞬考えて、やめる。
「……まあ、いいか」
どうでもいいか、こんな奴。一瞥してそう吐き捨てると、ハイドは一際高く高く空飛ぶように跳躍して姿を消した。しばしの静寂のあと、げほげほと咳き込む音が夜闇に響いた。
「あ、あいつ……行っちまったのか……?」
狼と人間が入り混じった奇妙な姿になりながらロムルスは顔を上げる。だいぶ血を吸われたのだろう、頭がぐらぐらしてやけに重い。人狼でなければとうに命を失っていただろう、自らの体質の功罪に苦笑いする。
「……そういえば、ヤンはっ!?」
直後、ヤンのことを思い出し慌てて起き上がる。怪我と貧血でおぼつかない足取りでどうにかヤンの元に辿り着き、ぎょっとした。こいつ、こんなに肌白かったっけ? 黒い毒血によって黒く染められていた肌が大量に失血したことによりすっかり白くなっていた。脈はある、息もしてる、けれど……これ、絶対まずい!
「お、おいヤン! しっかりしろ!」
「そんなに揺さぶるんじゃないよ。本当に死んじまったらどうするんだい」
そんな中聴こえてきた声に仰天する。明らかにヤンではない、女の声だ。ハイドでもないよな、新手の吸血鬼か!? きょろきょろと辺りを見回すロムルスに「ここだよ」と声は上から降ってくる。
「……げえっ!? 浮いてる!?」
「そりゃあ浮くさ。魔女だからねえ」
目を剥くロムルスににやりと笑みを浮かべる、ぼろぼろのローブを纏った女。豊満な胸、つやのある唇、滑らかな髪――その女がロムルス達の上空をふよふよと浮かんでいなければ、別の意味で目を奪われていたであろう美女である。
「な、なんだあんた……魔女って!?」
「話はあとさ。それより今はやることがあるだろう? そこの困ったちゃんの坊やを助けてあげなきゃねえ、人狼の坊や」
「助けるって……」
「《カンタレラ》の製造責任者として、定期的なメンテナンスをしてあげるのも契約のうちだからねえ」
なんだかわけのわからないことばかり言う女――魔女。しかしヤン、もといカンタレラのことは知っているらしい。彼女にならヤンの窮地を救えるのだろうか?
「と、とにかく助けてくれるんだな!?」
「あんたが手を貸してくれたらねえ。婆の腕はか細いんだ、坊や一人持ち上げることすらできやしない」
「なんでもする! だからヤンを……!」
そこまで言ってロムルスははっとした。周囲の景色が一変している――月明かりが差し込む林の中だったはずが、ぐねぐねと奇妙に折れ曲がった木々が生え揃った薄暗い森に。ロムルス達がいる道の遥か先に奇妙な建物が見える。まるで木々がひとりでに体を曲げて作ったような小屋だ。気のせいか、小屋に生えた枝や葉がおいでおいでと手招きしているように見えた。
「ほうら、早く連れておいで。早くしないと坊やが死んじまうよ……」
いつのまにか浮かんでいたはずの魔女も消え、どこからともなく声だけが聴こえてくる。あそこに連れていけということか? わけのわからないことがいっぺんに起き、何がなんだかさっぱりわからないが……。
「……とにかく、行けばいいんだな!?」
幸い、体はまだ動く。失血のせいですっかり軽くなったヤンを背負うだけの体力はどうにか残されていた。ふらふらとロムルスの体が揺れるたび、背中のヤンが小さく呻く。
「ごめんな。あともう少しだからな」
背中に向けて小さく詫びる。その言葉にヤンが何か呟き返したが、ロムルスの耳には届かなかった。
吸血鬼大全 Vol.353 シーカー
ハイドの弟を名乗る弱小吸血鬼。特筆すべき能力も特技もない、ただの脆弱な吸血鬼。
魔女に呪われた《兄》の為魔女の研究をしているほか、持病の発作でなかなか外に出歩けないハイドの代わりに晩餐会や公的な会に出席している。
ハイドと同じ炎色の髪を生やし白いローブを纏っている。