第八話 邪悪の影
エルジエはうきうきとクローゼットを開いた。この宝箱の中にはバートリーがくれたドレスが何着もしまわれている。
「どれにしようかな?」
せっかくお出かけするからには特別可愛いドレスを着て行きたい。しかし動きやすく、かつ洗うのがそこまで大変でないものを選ばなければならない。前に連れて行ってもらったときはドレスの裾に泥がついたり料理の食べこぼしがついてしまったりして、バートリーが大層難儀そうに洗濯していたのだ。失敗は反省し次に生かさなければならない。
「ううん……こっちを着たいけど、こっちの方が洗いやすそうだし……」
そう、今夜は約束の夜、バートリーにまたあの食堂に連れて行ってもらう夜なのだ。晩餐会に連れて行ってもらえない埋め合わせだが、バートリーと外出できるだけでもエルジエには充分の幸せだった。
「エル、エルジエ、準備はできたかい?」
「もうちょっと待ってー!」
いよいよバートリーから催促の声がかかる。エルジエは慌てて選んだドレスを手に姿見の前に立ち、靴やアクセサリーと見比べる。良い感じに見えるけど、バートリーはどう思うだろう? 急いでドレスに袖を通し、およそ二時間ぶりに部屋を出た。
「バートリー! 見てみて!」
「エル」
バートリーはとうの昔に用意を終え、応接間のソファに腰掛けてエルジエを待っていた。ふんわりと華やかな、それでいて動きやすそうなドレスに身を包んだエルの姿に顔をほころばせかけたバートリーだったが、しかし。
「……誰だろう? まさかラヴァルじゃあないだろうな……」
ドアノッカーが打ち付けられる音が響く。どことなく不吉さを感じる音とバートリーの口から出た名前にエルジエは思わず身を硬くした。
「バートリー……」
「見てくるよ。単なる人間のいたずらならいいけれど、大事な来客だったら大変だ」
だからここで待っておいで、と言うバートリーの後ろ姿にエルジエはなんとなく不安になった。もしそんな来客だったなら、約束の外出はどうなるのだろう? そんなことを口に出してしまえばバートリーを困らせてしまうのはわかっていたが……。
そんなエルジエの気持ちをまったく知らないバートリーも決して呑気な気持ちで玄関へ向かったわけではなかった。もしこんなときにラヴァルが来ていつものように口喧嘩を始めてしまうような羽目になってしまえば外出どころではない。そもそもバートリーの抱える《秘密》を知っている数少ない者のひとりである彼が来るたび、怒りに任せてエルジエの前で口を滑らせてしまわないか不安でひやひやする。もしも来たのがラヴァルならば、今夜はきっぱり追い返そうと心に決めたバートリーだったが、しかしその決意は空振りする結果となった。
「やあ、久しぶり」
と、扉の前に立っていた男の姿にバートリーはしばらく呆然と立ち尽くした。硬直するバートリーに、彼は少し不安げに顔をしかめて訊ねる。
「……ごめん、もしかして迷惑だったかい?」
「い、いや、そんなことはないさ! ……久しぶり、サンジェルマン」
金髪紅眼の吸血鬼サンジェルマンはその言葉に安心したように顔を緩めた。
「手紙の返事もああだったし、もしかして嫌われたか……まさか忘れられてしまったんじゃないかって心配だったんだ」
「まさか! 君のことを嫌うわけ……まして忘れるわけがないじゃないか。あれだけの恩を貰っておきながら……」
「バートリー、そのひとだあれ?」
真後ろから聴こえてきた声に跳び上がりそうになる。エルジエ! 待っておいでと言ったじゃないか! そんなバートリーとは裏腹に、サンジェルマンは幼い少女の姿に目を細めた。
「君も久しぶりだね、エルジエちゃん。少し背が伸びたかな?」
「……だあれ、あなた」
「エルは覚えていないみたいなんだ、君のことを」
じいっと不審げにサンジェルマンを睨むエルジエの前にさりげなく立ち塞がりながら言うバートリー。無論彼が子供の一挙一動で機嫌を損ねるような男ではないとよく知っているが、せっかく久々の友との再会に水を差すようなことを起こさせるわけにはいかない。
「エル、彼がほら、前に手紙を送ってきてくれたサンジェルマンだよ」
「だからそんなひと知らないってば」
「少しだけ……彼と話がしたいから、部屋で待っていてくれないかい?」
バートリーの言葉にエルジエはぎょっとする。バートリーの「少しだけ」が本当に「少し」だったためしはない。しかしバートリーのお決まりの次の言葉にエルジエはいつも黙らされてしまうのだ。
「お願いだ、エル。良い子だから」
「……はあい」
バートリーはエルジエに良い子であることを望む。『良い子』のエルジエが好きなのだ。
「入ってくれ。大したもてなしはできないけれど」
エルジエがおとなしく自室に戻ったのにひと安心し、バートリーはサンジェルマンを中に入れる。そんな様子に「ごめんね」と呟くサンジェルマン。
「やっぱり、なんだか邪魔しちゃったみたいだね」
「気にしないでくれ。君と僕との仲じゃないか」
「ありがとう、嬉しいよ」
サンジェルマンは勝手知ったるといった風に客用の椅子に腰掛ける。せめて血の一つでも出そうかと思ったが、サンジェルマンから丁重に断られる。
「君の前で飲むのは君に悪いよ。……それより、どうしてあんな返事を?」
みなまで言う必要もなく、例の手紙のことだと気づく。ゆっくり自分の椅子に腰掛けながら、バートリーは目を伏して答えを探した。
「……誘ってくれたのはとても嬉しかったよ。行けないのが本当に残念だ」
「君がこの手のが苦手なのは知ってるけど、さすがに今回参加しないのはまずいんじゃあないかな? 何せ主催はあのカミラ姫だ」
もちろん、バートリーだって今度の晩餐会がただの仲良しパーティでないことは重々承知している。ブラムの直系、姫将軍、貞淑たるカミラがこうも大規模にパーティを開くのだ。政治的な意図がどのようなものであるにしろ、サンジェルマン経由であれ誘われたものを断ればこの先どんな扱いを受けても文句は言えないだろう。しかし元々はぐれ者、失うものは大してないのだが。
「断るのならせめて理由が知りたいな。ぼくが誘うと言った以上、ちゃんとカミラ姫には説明しないと……」
「………………」
困ったように前髪をいじるサンジェルマンに気づかされる。そうだ……この誘いで潰れるのはバートリーの面子だけではない。仲介者であるサンジェルマンの顔も少なからず潰してしまうことになるのだ。
「……心配なんだ、彼女が」
「彼女?」
エルジエだ、とか細い呟きにやっと得心したらしい、サンジェルマンは「ああ」と頷く。
「連れてくればいいじゃないか。それで機嫌を損ねるほどカミラも狭量じゃあないはずさ」
「………………」
「何か問題でもあるのかな?」
サンジェルマンの大きな瞳がバートリーの顔を覗き込む。眼窩に指を入れられ裡を探られるような錯覚を覚え、気づけばほとんど無意識のうちに吐き出していた。
「……君も知っているだろう? 彼女が元は《何》だったか」
「そうだね。でも、今は立派に君の《家族》だ」
「僕達にとってはそうでも……そう思ってくれない輩はどうしたっているじゃないか」
ラヴァルのように。
喘ぎ喘ぎ、やっとのことで口にしたバートリーに、サンジェルマンはふうむと顎に手を当て考えるそぶりを見せ、やがて彼が言わんとしていることをまとめあげる。
「つまり、怖いんだね? エルジエちゃんを連れていって、万が一彼女の秘密が露見してしまうことが」
「………………」
「ううん……でもさ、バートリーくん」
と――サンジェルマンは手を伸ばし、震えているバートリーの両手を包み、絡める。バートリーははっとサンジェルマンを見た。
「だからって、逃げていれば解決するような問題でもないんじゃあないかな?」
「か……解決」
「そうだよ。いくら何をやったって、エルジエちゃんの過去が変わったりなくなったりするわけじゃないんだから」
バートリーの震えは収まらない。どころかなお強くがたがたと震えるのを押さえつけるように、サンジェルマンはしっかりとバートリーの手を握った。
「それにさ、エルジエちゃんもいつまでも子供ではいられないよ。どれだけの時間がかかるかはわからないけれど、いずれは大人になるんだ」
「え……エルは」
「ね、バートリーくん」
サンジェルマンの声がいつの間にか耳元で聞こえるようになった。それでようやくバートリーは、自分の震えが全身に及び――それを収めるためにサンジェルマンに抱きしめられていることに気づいた。
「君が心配するべきなのは、エルジエちゃんの過去じゃなくて未来の方だ」
「エルの……未来?」
「エルジエちゃんはいつか大人になる。君との家族関係はそれでも変わらないだろうけれど、今みたいにずっと一緒にはいられなくなる夜が来るんだよ」
金の髪がバートリーの視界を覆う。サンジェルマンは幼子をなだめるようにバートリーの頭を撫でながら、白銀の髪を指で梳いた。
「そんな夜が来る前に、君にはエルジエちゃんを立派な吸血鬼に育てる義務があるんだ。君がいない夜が来ても、彼女がひとりで生きていけるように」
「僕が……いなくなっても……」
口元をサンジェルマンの髪が覆い、息苦しさが増す。
「良い機会だと思うよ? エルジエちゃんもそろそろ『世界』を知るべきだ。それとも君は、君とエルジエちゃんがブラムの元へ還る夜までずうっと彼女を籠に閉じ込めておくつもりなのかい?」
ね、バートリーくん。
白髪が指に弄ばれ、絡め取られる。言葉を失い、息をする方法すら忘れたかのように口を中途に開け荒く不規則に呼吸するバートリーをサンジェルマンは赤い瞳でじっと、じいっと見つめながら辛抱強く待ち続けた。
「た……確かに、君の言う通りかもしれない。いつまでも避けて通れる問題じゃないのは、わかっている」
「うんうん」
子供の話を聞くように優しく相槌を打つサンジェルマン。
「やっぱり……エルは連れていくよ。せっかくの誘いを断るのはきみにもカミラにも悪い」
「いいんじゃないかな? 君が自分で考えて決めたことなら」
「……サンジェルマン」
と、バートリーがサンジェルマンの手を握り返す。
「ありがとう。君のような友達がいてくれて、本当に良かった」
「言い過ぎじゃないかなあ」
サンジェルマンは照れ臭そうに否定した。
「君が知らないだけで、ぼくより良い奴なんて沢山いるんだからさ」
「いや、君は僕の無二の友達だよ。君がいてくれなかったら、あのときだってどうなっていたことか……」
「君のことだから、ぼくよりずっとましな奴に助けられてたんじゃないかな?」
「謙遜しないでくれ……!」
ふたりの会話はそのまま思い出話に切り替わる。やれあのときのバートリーはどうだっただの、十年前のエルジエのことだの。そして花を咲かせるふたりの吸血鬼は扉の外で溜め息を吐く少女に気づかない。
「……バートリー」
扉にもたれ、エルジエはぎゅっとドレスの裾を掴む。せっかく着替えたこの服もどうやら無意味に終わりそうだった。エルジエとの約束をすっかり忘れ、得体の知らない男と笑っているバートリーだ。
「……行きたかったな。ご飯、バートリーと」
少女の心はバートリーには届かない。小さな呟きは笑い声に掻き消された。
◆
薄眼を開くとろうそくの頼りない灯りでは照らしきれない暗い天井が目に入る。そして背中に感じる硬い感触に、またギルドの床でごろ寝してしまったことに気付いてクレスニク・フォン・ヘルジングは舌打ちしながら体を起こした。
そばに転がしておいた酒瓶を煽りながらがやがやと騒がしい方を見る。またあのいけすかないガキが騒ぎを起こしているらしい、ネッサローズと何やら言い争っているカンタレラが目に入る。どうして奴はここに来るたび騒ぎを起こすのだ、と中途半端な覚醒による頭痛でいらつきながら胡座を組む。
「お前さんも気になるかい?」
「……じじい」
クレスニクに声をかけたのは相変わらず隅の暗がりで何やら得体の知れない紫煙を吸っている老人だった。カンタレラから貰ったらしい、白パンと柔らかそうな肉を時折千切って食んでいる。
「一体どうした、あのクソガキ」
「さあねえ。爺の耳は遠いから」
とぼける老人に二回目の舌打ちをしながら向こうの会話に耳を澄ます。雑音に紛れ聞き取りづらいが、「ハイド」という単語が頻繁に聴こえてくる。
ハイド。魔女狩り将軍。暴虐者のハイド。仇討ち殺し。
「あの子もハイドのせいで《こっち》に堕ちてきたクチらしいからねえ。それでも五年、よく我慢がもった方さね」
「もう少し賢いと思ってたがな」
復讐の為だとかなんだとかほざいて彼がここに訪れたのが五年前。まだ母親の乳の味も忘れられていなさそうなガキがよくよく長生きしたものだと感心しそうになる。
「死ぬのが五年も遅れたと言うべきか」
「止めてやらないのかい?」
「あ?」
と――老人はにやにやと、にたにたとクレスニクを見る。
「死にたがり野郎がやっとくたばるだけだろうが。止めたところで、伸びる寿命なんてたかが知れてんだろ」
「随分熱心に見てるから、てっきり心配なんだと思ったがね」
このじじい、ついに目まで駄目にしやがったか。いわれのないからかいに腹が立ち、老人からパンを一切れ奪って食べる。
「およよ」
「あんなのはさっさとくたばっちまった方が良いんだよ。無駄に長生きすればその分面倒が増す」
「お前さんみたいにかい?」
「てめえみたいにだ。……あとは、ドミニコとかな」
くあ、と欠伸で開いた口に酒を流し込む。しけたパンの味を誤魔化すには物足りない口当たりだった。
「そうだ、さっさと死んじまえ」
階段を上がっていくカンタレラに向かって、再び床に横になりながら呟いた。
「くそー、あいつどこ行っちゃったんだ?」
焼いた腸詰肉を齧りながらロムルスは街中を彷徨う。クローゼンブルクの街は広く、人ごみの中になかなか捜し人を見つけることができない。
ことの始まりは数日前。とある女吸血鬼を退治しに行った――退治し終わったところからだ。その吸血鬼が死の間際、何やら別の吸血鬼らしい名前を口にして、そこから捜し人ことヤンの様子が一変した。
元々無口な彼がさらに石のように押し黙り、なのに今にも自決しかねないほど思いつめた表情で、『センパイ』がくれた手配書もほっぽりこの街まで一心不乱にやってきたのだ。何かあったのか、ハイドって誰だ、一体何をするつもりなんだ。そんなロムルスの問いにもろくろく答えぬまま、彼の姿は人ごみの中に紛れてしまった。
「なんか……ほっといたらまずい気がするんだけどなあ」
呟きながら腸詰肉を食べ終える。栄えた街だけあって料理もなかなかに美味しい。もう二、三本くらい買っとけば良かったな、ヤンもきっと食べるだろうし……腹の具合を見ながら考える。ヤンを探しながらもう散々食べ歩いたはずだがまだまだ胃は満ち足りない。どころか、ぐううと催促するように鳴る有様だ。
「くそー、また減ってきちまった」
そんなことをしている場合ではないと重々承知の上で、しかし腹が減ってしまうのだから仕方がない。気づけば無意識のうちに近くに立つ酒場の方へ、夏の夜明かりに群がる虫のように引き寄せられてしまう。
「あれ? アンタってアレだよね、コーハイクンの」
そして酒場の扉に手を伸ばしかけたまさにその瞬間、聞き覚えのある声がロムルスを引き留めた。振り向くと確かに見覚えのある顔だ、女みたいな髪型の、この地方には珍しいデザインの洒落たチュニック……。
「えーと、あんたは……シャルルだったか、アンリだったか……」
「シャルル=アンリ、シャルル=アンリ・ナヴァールだよ、ロムロムクン」
と、あのとき『カンタレラのセンパイ』を名乗っていた男は笑う。
「ろ、ろむろむ?」
「ロムルスだからロムロム。オレって結構センスいいでしょ」
どうかなあ、なんだか赤ちゃん言葉みたいだ。浮かんだ感想をそのまま口にできるほどロムルスは愚かではなかった。
「こないだはごめんねー? あのときのビールさ、お詫びになんか奢ろっか。ちょうど今おカネ貰ってきたとこでさー」
「マジで!? いいの!?」
「コーハイクンの友達ならコーハイもどーぜん、ってことで! それにオレ、気になってたんだよねー。ロムロムがどうやってコーハイクンと仲良くなったのか、さ」
「へ?」
首を傾げるロムロムもといロムルスに、シャルルアンリは頬に貼ったつけぼくろを指で撫でながら苦笑する。
「ほら、コーハイクンって人見知りじゃん? 超見知ってるじゃん?」
「あー、見知ってる見知ってる。めっちゃ見知ってるよな!」
「オレなんか最初話も全然マトモに出来なくってさあ、アンタがコーハイクンと会ったのって結構最近っしょ? のわりに妙に仲良いじゃん」
「そうかあ?」
話しかけても大概無視され、たまに返事を貰ったと思えば「うるさい」「黙れ」な関係を仲がいいと言っていいのかわからないロムルスだった。
「返事が貰えるだけ充分じゃん? ……そういえばコーハイクンは? 今日は一緒じゃないんだ?」
シャルルアンリに指摘されてはっと思い出す。そうだ、今は彼に奢られている場合ではなかったのだった。
「へー、はぐれちゃったんだ」
「そうなんだよ! 吸血鬼にハイドだかハイジだかがどーのって言われてからすっかり様子が変わっちまってさ……あんたは心当たりないか?」
ロムルスの言葉にシャルルの顔色が一瞬変わる。すぐさま笑顔に戻るものの、どこかあまり思わしくない顔つきだった。
「まあ……あるけどさあ……あそこ行ってるならアンタ連れてくわけにはいかないかな……」
「なんでだよ?」
「さすがにハンターでもないパンピーさんを連れてくのはマズイってか……つか、ハイドってマジ話? コーハイクン、ハイド追おうとしてるワケ?」
やけに食いつくシャルルに戸惑いながら「う、うん」と頷くロムルス。しかし肝心のハイドがなんなのか知らない彼には事情がよくわからない。
「なあ、ハイドってなんなんだ? 吸血鬼なんだよな?」
「んー……めっちゃ雑に言うと、『超強くて超残虐な吸血鬼』なんだけどさ……」
「吸血鬼ってみんなそんな感じじゃね?」
「ハイドはマジダンチなの。……あ、そうだ。コーハイクン、確かちっちゃい頃にハイドに襲われたらしくてさ、そんときは村人皆殺し、家という家に火がついてたってさ」
「へー……って、えーっ!?」
あまりに軽薄に告げられたヤンの過去にロムルスはぎょっとする。
「み、皆殺しって……あいつの家族は!?」
「さーね。一人で吸血鬼ハンターなんかやってるってことはそういうことじゃん?」
肩をすくめるシャルル。そういえば、と前に弟の話をしたときになんだか普段より冷たい反応が返ってきたことを思い出す。今思うとひどく残酷な話をしてしまったのかもしれない。
「もしホントにコーハイクンがハイドを殺すつもりならマズいかもね。ハイドはマジシャレにならないからさ、コーハイクン返り討ちにされちゃうかも」
「返り討ち……」
「いくらカンタレラの毒があっても相手が悪すぎなんだよねー」
「と、止めなきゃだろ、それ! 頼む、教えてくれ! ヤンはどこにいるんだ!?」
あたふたしながらロムルスはシャルルに頭を下げる。しかしシャルルは未だ渋い顔だ。
「教えたげたいけど、それとこれとはまたハナシが別ってかさ……」
「キャアアアアアアアアアッ!」
「い……今のなんだッ!?」
突如聴こえてきた悲鳴にすぐさま臨戦態勢を取る二人。声の大きさからしてそう遠くはなさそうだ。くんくんと匂いを嗅ぐロムルスに対し、シャルルははっとしたように空を見上げる。
「曇ってるってことは……やっぱりアレか」
「おい、血の臭いがするぞ!? やばいんじゃないかこれ!」
随分鼻が良いなと思わないでもなかったがとりあえず脇にやり、悲鳴が聴こえてきた方向へ急ぐ。
「ドミニっち!」
「げ、こいつら……!」
ひと気のない、少し開けた裏通り。そこには無数の屍食鬼がうごめき、白い修道服を着た青年がうずくまる二人の女性を庇いながらそれらに杖を振るっている。
「ドミニコです、シャルル=アンリ。……その方は」
「コーハイクンの友達! それより状況は!?」
シャルルの言葉に少し顔をしかめたものの、ドミニコと名乗る青年は手近な屍食鬼の頭を殴りつけながら答える。茶色の髪を短く刈り上げ、晒した額には十字架めいた傷が刻まれている。屍食鬼を倒すより礼拝堂で祈りを捧げている姿が似合うだろう、いかにも真面目そうな青年だった。
「警邏をしていたところに悲鳴を聞き駆けつけて、着いた時には既にご婦人が……」
悔やむように女性達を見るドミニコ。震えてしゃがみ込む女性とその隣で倒れ伏し血を流している女性。どうやら既に命はないようだ。あともう少し早く来ていれば、とロムルスは小さく歯噛みした。
「それ以外の被害は現在確認できていません」
「オッケー、とりまちょちょっとこいつらボコって親玉探そっか、ドミニっち!」
「ドミニコです」
屍食鬼が自然発生することはありえない。どのようにしてこのクローゼンブルクの街に侵入させたにしろ、そのように支持した屍食鬼達の主人――すなわち吸血鬼がいるはずなのだ。そして今日の天気は太陽のない曇り空、吸血鬼が人間に紛れるには絶好のチャンスだ。おそらく十中八九、既に街の中に潜んでいるだろう。
「ロムロム、アンタはそっちのお嬢さんと一緒に逃げてて! こっちはオレとドミニっち」「ドミニコです」「でなんとかするからさ!」
「お、おう! 行くぜ、おねーさん!」
ナイフを取り出しドミニコに加勢しはじめたシャルルに自分も戦おうかと思ったが、確かに一般市民らしい女性を放っておくわけにはいかない。呆然とシャルル達と屍食鬼の戦いを見て震えている女性に声をかける。
「で、でも、ヘルガが……!」
「……あんたまで死んだらヘルガさんだって悲しむって! 今はとにかく逃げよう!」
腰が抜けて足に力が入らないらしい女性に手を貸しどうにか立たせながらロムルスはシャルル達を見た。なんとかする、とは言っていたが遊び人風の若者に修道士青年、戦えるのか少し心配だ――もっともその心配はすぐに霧消することになったが。
「あんまりハデにやんないでね、ここ街中だからさ!」
「可能な限り善処します」
現在動いている屍食鬼は十体ほど。そのうちの大半は仲間を次々倒していくドミニコに集中していたが、のろのろとなかなか動かないロムルス達を絶好の獲物と捉えたか、何体かがそちらに向かおうとする。すかさずシャルルは持っていたナイフをその先頭の屍食鬼に投擲する。額に刃が突き刺さり、バランスを崩して転倒した屍食鬼の巻き添えになったり倒れた仲間に足を引っかけたりと、屍食鬼達は面白いように倒れていく。
「雑魚狩りは好きじゃないんだけどねー。歯ごたえなさすぎで全然つまんない!」
「悪を滅することに楽しみを見出すのは褒められたことではないと思いますが、シャルル=アンリ」
と言いつつ自分の肩に噛みつこうとしてきた吸血鬼の頭を杖の先端で殴打するドミニコ。高僧が持つような金色の錫杖を容赦なく敵を害する為の武器として使う行為は罰当たりにすら映るが、しかし本人にはその意識はないようだった。
「善良にしてか弱い人々の代わりに世に蔓延る邪悪を滅するのが私達の役目です。それをお忘れなきよう」
「ハイハイ、ホントマジメだよねー、ドミニっちは」
「ドミニコです」
平坦な口調で言い返しながら、倒れた屍食鬼の喉笛に杖の石突を振り下ろすドミニコ。どうやら屍食鬼にされて間もないらしくほとんど人間と変わらない姿の敵を、しかし容赦なく倒していく。その背後に忍び寄った別の屍食鬼を、シャルルが炎めいて禍々しい形の刃のナイフで袈裟切りにする。
「すっげ……」
そんな様子を女性を避難させるのも忘れぼうっと見惚れてしまうロムルス。手慣れているらしく二人とも動きに一切無駄がない。戦闘経験がろくにないロムルスにも彼らが自分やヤンより遥かに強いであろうことがはっきりとわかった。
「もー、逃げてって言ったじゃんロムロムー」
最後の一体の首をかき切りながら、結局その場から微動だにしていなかったロムルス達に溜め息をつくシャルル。
「わ、わりい……」
「まあ、無事で良かったけどさ。だいじょぶ? お嬢さん」
「は、はい……」
シャルルに手を差し伸べられ、女性は顔を赤らめながらその手を取る。あれ、オレのときとなんか反応違くね? とロムルスは内心疑問に思った。
「助けてくださってありがとうございます……何かお礼が出来たらいいのですが……」
「あー、いいからいいから、そういうの! お友達は助けられなかったし……これ以上変なことに巻き込まれる前に早く帰りなよ!」
「そうですね。早く帰った方がいい」
と、ドミニコも女性に歩み寄る。
「お前がいるべき地獄の底へ」
「な……なにすんだお前ーッ!?」
一欠片の躊躇もなく女性の頬を杖でしたたかに殴りつけて転倒させたドミニコに愕然とするロムルス。予想すらできぬほど突飛で残虐な行動するのが遅れた……倒れた女性を介抱するべきかドミニコの胸倉を掴むべきか悩んでいるうちに、倒れた女性が呻きながら立ち上がろうとする。
「な、なぜわかった!? 血袋のくせに……!」
「え、え!?」
「あーなるほど、そーいうことね」
起き上がった女性の顔は通常人間にはありえないような動きでぼこぼこと膨張と収縮を繰り返し、顔の形ごと変形させることで負った傷を塞ごうとしていた。叫んだ声も女性の声ではなく野太い男のそれに代わり、体格も気のせいか少しずつ大きくなっていっているように見えた。
「こいつが雑魚共の親玉だったってワケね。さっすがドミニっち、オレなんか全然気づかなかったわ」
「大方屍食鬼を囮にギルド本部に侵入するつもりだったのでしょうが、この私を欺こうとは千年程早かったですね。見た目は麗しくともその吐息、邪悪な瘴気がまるで隠せていない」
終始冷静だったドミニコの口調に怒気がはらむ。そして杖を上下逆に持ち替え、先端部分を剣の柄のように握り、引き抜く――杖だったはずの物体の中から白く光る刃が現れた。仕込み杖のようだった。
「邪悪、死すべし」
「……クソがァ!」
すっかり男の姿に戻った吸血鬼がヤケクソとばかりにドミニコに飛びかかる。ドミニコは仕込み杖の鞘部分を一旦落とし、半身に構えて剣を振り上げる。腰から肩にかけて、逆袈裟に斬られる吸血鬼!
「ぎゃあああッ――」
「はい、おーわりっ」
と、いつのまにか吸血鬼の背後に立っていたシャルルがその首にナイフを深々と突き刺し付け根まで押し下げる。悲鳴を上げられなくなった吸血鬼は魚のように目を見開いて口を開閉し、そのまま倒れて息絶えた。
「ごめ、我慢できなくてトドメ取っちゃった」
「いえ、ありがとうございます」
血飛沫を浴びながら舌を出して笑うシャルルに律儀に腰まで曲げて礼を言うドミニコ。対し、事態を呆気にとられたまま見守っていたロムルスは、自分の靴が吸血鬼の血で濡れそうになっていることに気づきやっと我に返った。
「す……すっげえな、あんたら……えっと、ドミニッチだっけ?」
「ドミニコです。ドミニコ・ベネデッティ」
「ドミニコ・ドミニッティ?」
鞘を拾い、杖を元に戻しながら再度「ドミニコ・ベネデッティです」と訂正するドミニコ。
「ドミニっちはマジすげーからね。ウチじゃクレっさんの次くらいに強いから。ナンバーツーだよ」
「凄くはありませんよ。……あのご婦人も、救うことができなかった」
吸血鬼に殺されただろう女性の亡骸を悲しそうに見つめ、ドミニコは十字を切って弔いの聖句を唱えた。
「えっと……じゃあドミニっちも吸血鬼ハンターなのか?」
クレっさんって誰だろうと思いながらロムルスは相槌を打った。
「ドミニコです。ええ、不肖ながらハンターとして勤めさせていただいております。確かあなたは、カンタレラのご友人でしたか」
カンタレラ、とドミニコが口にした瞬間、彼の眉根にわずかだがしわが寄った。しかしロムルスがそれを見咎める前に彼の顔は天使像のように硬く凛々しい無表情に戻る。
「何分未熟者故、この先ご迷惑をおかけすることがあるかもしれません。どうかご寛大に見てくださると幸いです」
「う、うん……」
「そうだドミニっち、コーハイクン見てない? こいつ、コーハイクンとはぐれちゃったらしくてさ」
思い出したようにドミニコに訊ねるシャルル。ああそういえば、とドミニコは額の傷を指でなぞりながら答える。
「確か半刻ほど前、街の正門から出て行くのを見ました。手配書を持っていましたしまた狩りに行ったのでしょう」
「あー……その手配書って……」
「あいつもう出てっちゃったのか!?」
完全に置いてきぼりにされたらしいことを悟ったロムルスは途端に浮足立つ。シャルルの話はよくわからなかったが、ヤンが無茶しようとしているらしいことはなんとなくわかっていた。早く追いかけて止めなければ!
「ありがとな、シャルルにドミニっち! また会えたら飯でも食おうぜ!」
「ドミニコです」
「ちょ、コーハイクンがどっち行ったか知らないっしょ? 追いかけられんの?」
と、シャルルが引き留めようとしたときには既にロムルスは姿を消していた。足早いなあいつ、と思わず感心してしまう。
「……カンタレラの、友人」
ロムルスが走っていった方向に向かって、ドミニコが渋い顔で呟く。
「いやいや、良かったじゃん。あんな見知りぼっちっちに友達が一人でも出来たんだからさ? センパイとして祝福してあげようぜ?」
なだめすかすようなシャルルの言葉に、しかしドミニコは渋い顔を変えずに忌々しげに言った。
「呪わしき邪悪にはいつか天罰が下ります。願わくば彼まで巻き込まれなければ良いのですが」
「邪悪……ねー」
シャルルアンリはその言葉を否定せず、ただ少し悲しげに――あるいは自嘲するように苦い笑みを浮かべた。
吸血鬼大全 番外編 将軍
三百年程前に起きた《白きもの》との戦い、通称《大厄戦争》において多大な戦果を挙げた吸血鬼の俗称。
吸血鬼世界における身分とは一切関係のない、あくまで大厄における戦果を称える敬称でしかないが、将軍のほとんどがその実力により多くの信頼を勝ち得ており、《ブラムの直系》とはまた違った意味で特別視されることが多い。ハイドの魔女狩り将軍、ローゼンクランツの裏切り将軍のような「二つ目の二つ名」がその証である。
現在生存しているとされる将軍は魔女狩り将軍ハイド、物怖じ将軍カミラ、色好き将軍オベロン、裏切り将軍ローゼンクランツ、雲隠れ将軍スタルヴリング、墓荒らし将軍シンベリン、串刺し将軍テペスの七名。当初は八名いたと言われているが、その一名の詳細は不明である。