第七話 熱血
人肌よりやや熱めに温められた血をグラスに注ぎ、数種類のハーブと果汁を混ぜたものを数滴加える。多量に摂取すれば毒に変わるものも、量を慎重に加減すれば最上のスパイスへと変わる。紅色を透かすグラスから立ち上る香ばしい匂いを嗅ぎながら、女吸血鬼カミラはこのような血液の調味法がなかなか吸血鬼達に浸透しないことを心から残念に思った。午前零時、カミラはもっぱらこの時間に食事を嗜む。
「良い香りね。ネリッサに任せて良かったわ」
「あ、ありがとうございます!」
カミラの微笑みに、侍従のネリッサは顔を赤らめながら手製の給仕服の裾を掴みぎくしゃくとお辞儀した。本来ならばその実力でもっと高い地位に立てるはずを、カミラを慕って侍従に甘んじ続ける彼女のことがカミラはいとおしくて仕方がない。
グラスを緩やかに傾けながら窓の外を見る。そろそろ雨期が近づいてきたが、黒天に浮かぶ細切れの雲は煌々と輝く三日月を恐れるかのようにその姿を遮らない。こんな夜には屋敷の外を気の向くままに歩きたくなるものだが、そんな牧歌的な考えをあざ笑うかのように窓ガラスが割り破られる。テーブルまで飛んできたガラスの破片にさすがのカミラも眉をひそめる。
「まあ」
「何者!?」
エプロンからナイフを取り出し身構えるネリッサ。カミラはグラスを置き、外界から飛来し窓ガラスを割った物体を見やった。散々な扱いのせいで顔が潰れ判然としないが、長い髪は人間の女の物だろうか? カミラに対し生首を投げるような狼藉を働く者はそうはいない。割れた窓をさらに蹴り破るように入ってきた男にカミラはため息をついた。
「ハウ・ドゥー・ユー・ドゥ? お姫様ァ?」
「ご足労されるのでしたら、もう少し礼節のある入室をしていただけませんか? ハイドさま」
「あァん? 土産は気に入らなかったか?」
にやにやと下卑た笑みを浮かべて入ってきた男――暴虐者ハイド。白いローブを血で染めた彼が引きずり回している手足のかつての持ち主はそこの生首だろうか。ハイドの闖入に表情を険しくしナイフを強く握るネリッサを手で制しながらカミラはつとめて穏当に口を開く。
「大したもてなしも出来ませんがどうぞおかけくださいな。ネリッサ、血の準備を」
「カミラ様!?」
退室するよう命じられ大声を上げかけたネリッサもカミラの目つきには黙り込んだ。今ネリッサに出来ることは早急に部屋を出、カミラ達の会談を邪魔しないよう時間を見計らいながらハイドの血を用意することだけだった。
「またろくでもないこと考えてるらしいな? ええ?」
ネリッサが去ったのち、ハイドはカミラの向かいにどっかり腰を下ろして長い脚をだらしなく投げ出しながら持参の『おやつ』を貪りつつ、そう切り出してきた。カミラは顔色一つ変えず「なんのことでしょう?」ととぼけた風に微笑む。
「聞いたぜ? 掟番、それもよりによって朋殺しを仲間に引き入れようとしているらしいなァ? 《物怖じ将軍》が随分大胆にやるじゃねえかよ。『お兄様』と戦争でも起こす気か?」
ハイドが口にした、もう幾分長い間使われていない名にカミラは微かに眉をひそめつつ、悟られぬよう微笑みを保ちながら切り返す。
「貴方が協力を今ここで確約してくださるのなら、具体的に示すことができるのですが」
割れた窓から隙間風が舞い込み、二人の間を駆けるように過ぎ去る。微かに波紋が立つグラスの中の血を少し口にし、卓上に戻す。ハイドが骨をごりごりと噛み砕く音がグラスに響いた。
「…………てめえの下につけってかァ?」
次にハイドが出した言葉は明らかに剣呑な響きで紡がれていた。いえいえ、まさかそんなとカミラは穏やかに首を振った。ハイドの元にもそれなりに配下と呼べる吸血鬼がいるはずだが、ハイドの下にいるという時点でそのお里は知れたものだ。まかり万が一ハイドを取り込んでそんな輩まで抱える羽目になるのは少々避けたいところだった。
「そういえば、ご病気のお加減はよろしいのですか? ここ最近はあまり思わしくないようでしたけれど」
カミラの『攻め』にばき、と骨が砕ける嫌な音が返された。ハイドが手にしていた人腕がへし折れ、赤黒く変色した血液が白いテーブルクロスを汚す。ハイドのこめかみが微妙にひくついているのが見えたが、カミラとて今夜の彼の所業がトサカに来ている。ごろりと転がったままの生首が虚ろな虹彩をカミラに向けていた。やがてハイドが挑発的な笑みを浮かべた。
「……あァ、お陰様で絶好調だぜ」
「それは、何よりですわ」
ハイドの『病気』が無事快癒することを願いながらそう答える。ちっ、と小さい舌打ち。
「てめえの目的は知らねえが、まとも話す気がねえなら付き合ってやる義理はねえな? 『病気』もいつ悪化するかわからねえしよォ?」
「そうですわね。貴方の事情も顧みず、気に障ることを言って申し訳ありません」
「……オーケイ・オーケイ」
平に頭を下げると同時にハイドが乱暴に席から立った。ああ、これでこの方が不要にちょっかいを出すことが無くなれば良いのですけれど、と去るハイドを見送りつつ頬に手をやり願った。
「あれ、あのクソやろ……ハイド様は?」
しばらくして戻ってきたネリッサはいつの間にかハイドの姿が影も形も失せていることに目を白黒させた。割れていたはずの窓ガラスは綺麗に元通りになっており、優雅にグラスを傾けるカミラの姿を見ていると幻でも見ていたかのような気分になってくるが、しかし床に転がる生首の存在がその考えが否であると告げている。
「ハイドさまったらせっかちに行ってしまわれたわ。せっかくネリッサの調合した飲血をハイドさまにも味わっていただきたかったのに」
「あ、あんな輩にカミラ様と同じものは相応しくありません!」
せっかく愛する女主人の為に心血を注いで(無論、ネリッサの血ではないが)開発したというのにあんな野蛮な男に飲まれてはたまったものではない。立場も忘れてハイドを罵るネリッサにカミラは微笑ましく苦笑する。
「そうだ、悪いのだけどもう一つ頼まれてくれないかしら。これをハイドさまに返してきてほしいのだけど」
と、カミラが指し示したのは床に転がったままの生首だった。さすがに生娘のように叫びはしないものの、腐敗が始まり悪臭を漂わせ始めた頭部に触れるのは抵抗がある。おのれあのケダモノ男め、そもそもカミラ様になんてものを投げつけたくなるんだと叫びだしたくなるのをぐっとこらえ、生首をおそるおそる拾い上げて再び退室した。
「まったくあの腐れとんちきめ……いつか痛い目合わせてやるんだから」
ぶつくさ言いながら館内を探すが、カミラの館はかなりに広くなかなか見つけることができない。そもそも先程カミラの私室に向かう途中ですれ違わなかった時点でハイドが屋敷内にいる可能性は低い。入ってきた通り窓から出て行った可能性に気づき、渋々門の外に出る。少し歩いて、見つからなければこんなもの放り棄ててさっさとカミラ様の元へ戻ろう、悪いのはすべてあのドグサレ男なのだから。ラヴァルとかいう掟番も嫌いだが、ハイドのことはそれ以上に気に食わない。
「あああーっ! もうっ! むかつくむかつくむかつくーっ!」
「わひゃあっ!」
いらいらのあまり叫び出したネリッサに驚いたような声がどこかから上がる。反射的に見るとそこには返り血のついた白ローブ――しかしすぐさまぬか喜びへと変わった。小柄な細身、あの豹めいた男とは明らかに違うシルエット、少年である。
「ええっと、あんた……」
「あ……私はシーカーです」
確かハイドの『弟』だったか……雰囲気はまるっきり違うけれど、炎色の髪や独特の眉の形は確かに似ているように見える。もちろん、吸血鬼にとって外見などなんの意味もないのだが。
「ちょうど良かった。今、あんたの『兄さん』を探してたの」
「兄さんが何かご迷惑を?」
青ざめるシーカーに生首を突き出す。ぎょっとした顔のシーカーに早く受け取るよう身振りで示すと、こわごわといった様子で生首の長い髪を手にした。
「こ……これを、兄さんが?」
「よりにもよってカミラ様のお部屋の窓に投げつけてきたわ。まったく礼儀正しく素敵なお兄さんをお持ちね?」
「すみません! 本当にご迷惑をおかけしました……!」
あの憎ったらしいハイドとは違い、血に頭をこすりつけんばかりに平謝りしてくるシーカーに嫌味をぶつけても面白くないことに気がつく。用も済ませることができたのにいつまでも油を売っていても仕方がない。
「とにかく、それはそちらのものなんだから、責任持ってきちんと処分してよね」
「え、えっと……どうしたら……?」
「知らないわよ! 煮るなり焼くなり食べるなり埋めるなり好きにしたら!?」
人肉食文化など今では珍しくもないが、さすがに腐りかけで丸のままの頭部を食べるのは抵抗があるのだろう、おろおろと生首とネリッサを見比べるシーカーを捨て置き、ネリッサはさっさと屋敷へと戻った。それにしても、あんな柔弱でとてもハイドとは似つかない男がハイドの『弟』だなんて、あの暴虐吸血鬼の目にどんな涙があったのだろう?
◆
荒涼としたこの山道も元は森だったのだろうか。枯れ落ちたり伐り倒されて切り株だけを残した木の残骸があちらこちらに点在している。時折ぱき、と足元に感じる感触はまるで骨を踏んでしまったようでどことなく不愉快だ。
「なあ、そろそろ休憩しない?」
と、山に入ってからずっと黙っていたロムルスがついに音を上げたように声を出した。
「もう一時間以上歩きっぱなしだろ? いいかげんしんどくならないか?」
「ならない」
短く断り、歩みを続ける。しかしヤンが微かにふらついたのを見逃すロムルスではなかった。
「あ! 今ふらってしただろ! やっぱり休もうぜ、な!」
「うるさい……」
引きずられるように近くの倒木に座らされる。水筒に詰めた水はすっかりぬるくなって不味い。一方のロムルスはどこから取り出したのか干し肉をちぎって水で戻しながら噛んでいる。「食うか?」と差し出されたが丁重に断った。よく食べる奴だ。
「……そういや、ずっと気になってたんだけどさ」
唐突にロムルスが切り出した。ヤンは相槌を打たなかったが、構わずに続ける。
「お前の血が黒いのって……お前の血って確か、吸血鬼に効く毒なんだよな」
「………………」
水筒を持つ手に、自然力がこもる。
「生まれつきそんな血持ってる奴なんて、やっぱ『ない』よな? お前、一体どこでそんなの……」
「………………」
ヤンはなかなか答えない。しばらくして沈黙に耐え兼ね、「こ、答えづらいなら言わなくてもいいぜ!?」とロムルスが問いを翻そうとしたとき、口を開いた。
「……お前は、どうして人狼になった」
「…………!」
「生まれついての人狼などいないはずだ。それに、人狼には普通理性がないと聞いている。……お前は、なぜ」
ロムルスという男はヤンが今まで出会った中で一番饒舌な人間だった。しかし今の問いに対してはなぜか言葉を返さず、落ち着かなげにばつが悪そうに頬をかいている。首輪めいたチョーカーについた金属のペンダントトップがちゃり、と音を立てた。
「……行くぞ、そろそろ」
ロムルスが答えるのを待たずヤンが立ち上がる。「あ、ちょっと待って!」とロムルスも慌てて立とうとしたが、膝に乗せていた干し肉が弾みで地面に落下する。泡を食って拾っているうちにヤンはどんどん歩いていく。
「ちょ、ちょっと待ってくれよお!」
歩くうちに、木々がまばらながらも増えていき、段々鬱蒼とした雰囲気に変わっていく。肌にまとわりつく不快な湿り気。そこに少しずつ血の匂いが混じっていき、この先に敵がいることを確信させた。
ヤンとロムルスが向かっているのは吸血鬼の根城である。先輩吸血鬼ハンターのシャルル=アンリから貰った手配書によると、数十年前打ち捨てられた貴族の館に吸血鬼が潜伏しているらしい。地の利を考えるといささか面倒そうな敵ではあったが、意外にもロムルスが積極的に襲撃を推した。
「人間を食い物にするだけじゃ飽き足らず、おもちゃみたいにする奴等をほっとくわけにはいかないだろ!?」
とのことだ――概ね同意できるが、しかしなんだか面白くない。
面白くない、と言えばだ。
「………………」
ヤンはふと、後ろから来るロムルスを振り返った。先程よりはしおらしく黙っているものの、その足取りに疲れはまったく見られない。人狼は体力も底抜けらしい。一方のヤンは休んだとはいえそろそろロムルスの言うところの「しんどい」になってきているところだった。
特に気にしている様子はなかったが、やはりロムルスも『血』のことは気になっていたらしい。当たり前だ、生まれつきこんな血を持つ人間がいるものか。魔女モルガーナに魂を売ることで手に入れた吸血鬼殺しの猛毒。魔女に魂を売って……
「汚らわしい。お前は呪われている」
と、言ったのは誰だったか。《突き尽くす示指》と呼ばれたあの男――彼の言葉がなければ忘れてしまっていただろう。魔女が嫌われている存在だということを。
かつての《魔女の子》、ヤンがそうだったように。
なんのつもりだかヤンにつきまとうロムルスも、そのことを知ったらきっとヤンから去っていくに違いない。そうなればどんなに楽だろうと思った。もうロムルスにあちらこちらに引きずられたりついてこられたり、どこぞから拾ってきた食べ物を押し付けられることはないのだから。
なのに、なぜか口が動かなかったのだ。
「……な、なんだありゃ!? おい、ヤン……!」
と――考え込んでいたせいかロムルスの言葉になかなか気づくことができなかった。はっとして顔を上げると、かなり密集してきた木々の隙間から蔦が――いや、あれは蔦なのか? 植物に似ているが明らかに太く、ゆらゆら意志を持つかのように揺らめきながら森の奥から飛び出してくる。何かの話に聞いた、尾鰭の代わりに八本の長い脚を持つ魚のそれのようだ。ぐねぐねとうねうねと、見るものに不快感を与える動きでやってくるそれが、ヤンの鼻先に――!
「危ないッ!」
「ぐえッ!」
しかしロムルスがとっさにヤンを突き飛ばした。ヤンはごろごろと地面を転がりながら蔦がロムルスを捕えたのを見た。腰、肘、肩、膝を封じるように素早く絡みつきロムルスの動きを封じて絡みつく。
「づ、ぐ……!」
「ロムルス!」
みしみしとロムルスの体が軋む。主要な関節を抑えられたせいで身動きが取れないのだ。たとえ怪力を持つ人狼でも……ヤンはよろけながら立ち上がり、腰から『裏切』を抜く。しかし蔦の方が早かった。
「くそっ、離せ! このやろッ……!」
もがくロムルスを蔦は森の奥へと恐ろしい速さで引きずっていく。間違いなく吸血鬼の仕業だ。この森に棲む吸血鬼はあんな風に狩りを行っているのだろうか。だとするとこのままではロムルスは……考えている暇はない。蔦の消えた先へと走った。
やがてそれらしい館の前に辿り着いた。館といってももう何十年も放置されたそれは屋根や壁が崩壊し人ならばとても住めるような場所ではなくなっていた。辛うじて崩れていない壁には先程の蔦そっくりな植物が這いまわり、地面には枯れ枝に紛れて人骨らしいものが散乱している。うっかり踏んでしまいそうになり慌てて避ける。湿り気に血の匂い、そして腐臭。自然と吐き気がこみ上げてくる。
「……殺す」
もちろん立ちすくんでいる暇などない。意を決して館の中に入る。いつまたあの蔦が襲ってきてもいいよう気を張りながら進むが、意外にもあの蔦は来なかった。不気味な程の静けさがかえって警戒心を強める。
寸の間足が止まった。歩いていた廊下の最奥に開け放たれた扉を見つけたからだ。直感する、あそこにロムルスと吸血鬼がいるのだと。だが……あまりに怪しすぎる。なぜ何も罠が張られていない? この状況こそが罠ではないのか?
「みいつけ、た」
しかしその逡巡こそが仇になってしまった。
「がッ!?」
蔦が矢のごとく伸びヤンに絡みつく。とっさに『裏切』で斬りつけようと構えるが、振り上げた腕にもまた蔦が絡む。蔦によってあっという間にがんじがらめにされたヤンはそのまま奥の間まで引きずり込まれる。
「っ……ぐぐ……!」
「か、かかカンタレラ……ここここぉんなところで、あえあえるなんて……」
女の声。蔦はヤンを床に叩きつけるようにして解放し、主のところへ戻っていく。振り落とされた弾みでもんどりうちながらもようやく立ち上がったヤンが見た吸血鬼の姿はあまりにおぞましいものだった。
「……!」
「うふ、ふふ……あなアナタ良い子ね、ちちちち血も美味しくて、おお、おまけにカンタレラまでつつ連れてるなんててててて……良い子良い子してあげるぅ……」
「がぁああッ……!」
逆さ吊りにされたロムルスが腹部を蔦めいた捕食器官によって貫かれ苦痛に呻く。そうして血を吸い上げながら女吸血鬼は薄暗い笑みを浮かべた。胴体や頭部は辛うじて人型を保っているものの、両肩から先は腕の代わりに何本もの蔦が生えてうねうねとおぞましく蠢かせている。下半身に至ってはそれそのものがなく、腰から生えた根めいた何かが朽ちた椅子に絡みついて吸血鬼を支えていた。今まで見たどの吸血鬼よりも禍々しい姿にヤンも直視できなかった。
「ロムルス――!」
「だだ、だめよぉち近づいちゃあ……」
女吸血鬼――宿り木のアーシュラはロムルスに駆け寄ろうとしたヤンを制するかのように蔦を動かした。細い蔦がロムルスの首を撫でるように絡む。拘束され、血を吸われ続けているロムルスは抵抗できない。
「ままままだこの子ここ殺したくないものぉ……あななアナタの友達なんでしょうう……? ちがちがちが違うんだったらいい今殺しちゃうけれど……」
「やめろッ……!」
「あ、アナタカンタレラよねえ……吸血鬼をこここ殺すカンタレラぁ。しし、知っているのよアタシ……コスタードさまをころ殺したんでしょぉ……?」
アーシュラの声は震えてかすれ、どもりがちで何を言っているかもよくわからないような有様だった。しかしわずかに聞き取れた『コスタード』という名前にヤンが反応したのに胡乱な瞳を細める。
「そうよぉ……素敵なコスタードさま。いいい、偉大なる百頭落とし……そそそんな方を殺すだなんててえ、許されるわけないわよねええ……? ここで会ったのもなななにかの縁だわあ……」
「俺を恨むか、吸血鬼風情が」
裏切を持つ手に力がこもる。しかしアーシュラはこれみよがしにロムルスを揺らす。
「っ!」
「ああアタシのことも殺す気? べべべ、別にいいわよ……そのまえにきっと、この子がしし死ぬでしょうけど……。あああ、美味しいわぁ……じ人狼の血が美味しいって本当だったのね……」
しまったとヤンは歯噛みする。わずかでもヤンが不審な動きを見せればこの吸血鬼は即座にロムルスを殺すだろう。人質さえいなくなれば戦うことも出来るが、しかしそれは……! 迷い身動きが取れないヤンへ蔦が鞭めいて飛んでくる。
「ぐぁあっ!」
「あああ安心して……? アナタのことはすぐにはここ殺さないから……いい痛んで擦り切れて、雑巾みたいにななななるまで可愛がってあげる……」
ふらふらと立ち上がるヤンだが、今度は頭を蔦に殴打される。再び起き上がろうとしてもその背中に一撃。かと思えば足を掴んですくい上げられ、上下をひっくり返されてまた地面に落とされた。さながら小さな子供が虫や蛙で遊ぶかのようにヤンの体は散々に引きずり回される。
「ぐッ……ぁああっ……!」
「うふ、うふふふ……まだししし死んじゃだめよぉ……? もっともっと、もぉぉぉっと……お思い知ってくれなくちゃぁ……あたあたあたたたアタシの恨みぃいい…………」
「うら、み……?」
ようやく立てたところに腹部を打たれ倒れ込んだヤン。しかしその言葉を聞き逃すことは出来なかった。恨み……恨み? 蔦で全身をはたかれながらヤンは思う。恨み、何が恨みだ。
「げぼッ!」
またも腹を殴られ黒い血が混じった胃の中の物を吐き出す。何が恨みだ。朦朧としていく意識の中、思い浮かぶは十年前の記憶。吸血鬼にわけもわからぬまま散々にいたぶられ、挙句の果てに妹までも奪われた。恨みだと? 何が恨みだ、いつだって人間を好き放題に弄ぶ貴様らが! 怒りがふつふつと湧き、同時に体内で何かがぐつぐつ煮えたぎる感覚を味わう。ヤンは裏切で自分の腕を斬りつけた。沸き立った血が傷口から噴き出し瞬時に固まる。石筍のようになった血をナイフに見立てて握りしめ、裏切と同時に構えた。
「……ふざけるな!」
そうして飛んできた蔦を右手の裏切で切断し、その傷に左手に持つ血のナイフを突き立てる。体温でナイフがわずかに溶け、血が蔦の中に入り込む。傷口からどんどん腐っていく蔦をアーシュラは慌ててちぎり捨てた。
「ななっ……何するのッ!」
ヤンは答えずアーシュラに向かって駆け出した。無論蔦がそれを阻むべくやってくるが、そんなものは的にしかならない! 猛毒の血で出来たナイフと刃に血を塗った裏切で蔦を次々斬りつけていき、アーシュラの蔦はどんどん数を減らしていく。そうこうしているうちについにヤンはアーシュラに肉薄した。
「わわわ忘れちゃったのこの血袋っ!」
しかし――アーシュラはまだロムルスを捕えているのだ。がんじがらめにされたロムルスの姿を見せつけられヤンの動きが止まる。アーシュラはまだロムルスの血を吸っている!
「い、いいわよアナタがそのつもりなら……だって、ここの子が死んでもいいんでしょう? だったら、今殺したっていいいいいわよねええ……!」
「………………!」
「……やってみろよ」
と、応えたのはヤンではなかった。意識を取り戻し、自分の腹に刺さった蔦を掴みながらロムルスがアーシュラを睨みつけている。身じろぎするアーシュラにロムルスは啖呵を切る。
「オレがお前なんかに殺されるわけないだろ。オレは不死身の狼人間なんだぜ?」
「なな、なななな……!」
「もしも死んだってお前みたいな根性曲がりに殺されるのはごめんだ! なあ、お前だってそうだよな、ヤン! だからお前も戦ってるんだろ!?」
蔦をどうにか引き抜こうとしながらロムルスが叫ぶ。そしてヤンははっとする――アーシュラはロムルスに気を取られヤンのことをすっかり忘れてしまっている。今しかない!
「……殺すッ!」
裏切に血を塗りこめながらアーシュラに飛びかかる――ぎょっとした顔でヤンを見上げるその胸に裏切の刃を深々と突き立てた!
「ぎゃぎゃぎゃああああああああああッ!」
絶叫と共に鮮血が吹き上がる。ロムルスを捕えていた蔦が力を失い、ロムルスはその場に落下する。
「うぎゃ!」
「ぁあ……あああああっ……!」
そしてアーシュラの体がどんどん腐っていく。蔦ならまだしも、胸のど真ん中に毒を注がれてしまえば逃れることはできない。死にゆくアーシュラは最後の力でヤンを睨みつけた。
「か、カンタレラっ……いま忌々しい魔女の犬ぅ……! あああアナタなんか、いずいずいずれ《魔女狩り将軍》が……はハイドさまがっ……!」
「ハイド?」
魔女狩り将軍・暴虐者ハイド。数多の人間と魔女を虐殺してきた最も凶悪な吸血鬼のひとりであり、そして何よりかつてのヤンを襲った吸血鬼!
「お前……ハイドを知っているのか!?」
「あああ……あはあはあはははは……!」
問いただそうとするヤンにアーシュラは哄笑する。その喉が、舌が、目鼻が頭がどんどん腐っていき、ついには原型をとどめなくなってぼろぼろと崩れ落ちた。アーシュラの死体の残骸から裏切を引き抜きながら、ヤンは小さく舌打ちする。
「いてて……くそーあの女、好き勝手ちゅーちゅー人の血吸いやがって……なんかふらふらするぜ……」
ゆっくり塞がっていく腹部の傷をおさえながらロムルスがヤンに歩いてくる。しかしぼうっとアーシュラの残骸を睨みつけたままのヤンに眉をひそめた。
「……ヤン? どうかしたのか?」
「……ハイドだ」
「ハイド?」
ヤンは裏切を鞘に納めくるりと踵を返し、荒々しい足取りで出口に向かって歩きだした。放り捨てた血のナイフはあっという間に溶けて床のしみと化す。
「お、おい待てよ! どうしたんだよ、なんなんだよハイドって!?」
ヤンは答えなかった。しかしもしも口を開いていたなら、そこからは長年くすぶり続けていたかの吸血鬼への怒りと怨嗟が呪詛めいて吐き出されていただろう。体内では未だ血が煮えたぎっていた。殺せ、殺せと斉唱するあぶくの音が聴こえてくるようだった。
殺さなければ。今こそ奴を、ハイドを。
「…………殺す」
今にも血の熱で弾けそうな体を抑え込むように、ヤンは口癖となった言葉を小さく呟いた。
吸血鬼大全 Vol.163 宿り木のアーシュラ
かつてハンターによって切断された手足の代わりに植物の蔦や根に似たものを生やす女吸血鬼。そのおぞましい外見から仲間にも疎まれ、隠遁生活を送っている。
昔ハンターに殺されかけたところを救ってくれたコスタードを病的なほど尊敬している。手足の代わりに蔦を生やしたのもコスタードの真似。しかし残念ながら最後までその好意を気づいてもらえなかった。
動き回るのが苦手で狩りもなかなか行えない為、一度捕まえた獲物はすぐには殺さず何年も生かし、衰弱死して血が枯れ果てるまで「可愛がる」のが彼女のやり方である。