第六話 身の程知らず
『お前は醜い』
ふう、と息とともに囁きが耳に吹き付けられる。幻覚だ、幻聴だ、錯覚だ。そうわかっているはずなのに、この幻は消えてくれない。
『意地汚く浅ましい愚か者。そんな姿でおめおめと生き永らえる、なんと卑しい厚顔無恥』
『家族? 吸血鬼でありながらつがいを得て子を成したいとでも? 身の程知らずにも程がある』
「ぅ……ぁあっ」
声と共に粘着質の手が闇から伸びてバートリーを絡め取ろうとする。手がバートリーの肌をかすめるたびに本能的な恐怖を感じた。あれに捕まってはいけない。バートリーは必死で蜜のようにどろりとした闇の中をひた走った。
『醜い裏切り者め。仲間を裏切って得た幸せなど一瞬で終わる』
『いずれすべて知られよう。お前が犯した罪を余さず一切』
「嫌だ……やめてくれ……!」
しかしついに片脚が手に捕まえられ、バートリーはその場につんのめった。途端手が次々とバートリーへと這い寄りその身に絡みつく。声が粘性の液体と共にバートリーに降り注ぐ。
「ひぃっ……!」
『出来損ないめ。身の程もわきまえられぬお前に生きている価値はない』
『いずれお前は何もかもを失う。丈の合わぬ幸せを求めたお前への罰だ』
『誇りも掟も何もない、お前は最早吸血鬼ですらない。人間になることもできぬ、醜く愚かな人間もどき!』
「違う……違うんだ、僕は……!」
無数の手を無理やり振り払い、バートリーは震える足を動かしがむしゃらに走る。逃げなければ。でも、どこへ? どこへ行けばこの苦しみから逃れられる? 手と声に追われながら闇雲に駆けるバートリーの目に、やがてか細い光明が映った。
「ラ――」
ラヴィー、と呼びかける声が掠れる。鎖帷子とマントの軍人めいた姿、後ろになでつけた短い茶髪に右眉を裂く傷跡、菫色の眼。堅物で偏屈なかつての友の姿がそこにあった。
「ラヴァ……」
「……裏切り者め」
バートリーが伸ばした手を、しかしラヴァルはすげなく振り払った。
「え……」
「俺の言葉を聞かず、俺を裏切り、掟を破った。それがお前の答えだろう?」
ラヴァルの猛禽のごとく鋭い双眸がバートリーを軽蔑の眼差しで睨みつける。射抜かれたバートリーはその場に立ち竦み――無数の手に絡め取られていく。
「ならば望みのままに堕ちていけ。それがお前、裏切り者にふさわしい末路だ」
踵を返し去っていくラヴァル。待って、行かないでくれ。追いすがる声は手に塞がれて出なかった。口の中にどろついた苦い液体が広がり、バートリーの中を侵食していく。手足は最早動かない。幾十幾百に増えた手がバートリーをしっかりと捕まえ、より深い闇へと引き込んでいく。
ラヴァルの姿が闇の向こうに消えていく。バートリーの眼は体ごと闇に飲まれ、今現在自分がどうなっているのかすら映さなくなっていた。狭く湿った暗がりの中、いくつもの声がバートリーを嘲笑し侮蔑する声が何重にも響く。
「……ぅ、ぁああああああああああああああぁ……!」
そして――バートリーは自らの叫び声で目を覚ました。
「あ……ぁ、あ……?」
身を起こし、喘ぎ喘ぎ周りを見る――蝋燭の柔らかい灯火に照らされる、バートリーの書斎である。闇も、恐ろしき声も手もどこにもありはしない。
悪夢に埋もれかけた記憶を掘り起こす。書き物の途中で居眠りをしてしまったらしい。突っ伏していた机の上に広げていた羊皮紙によだれが垂れてはいないかと目をやり、そこにあったものに身を凍らせた。
『裏切り者』 『人間もどき』
『お前は醜い』 『浅ましい身の程知らず』
『すべてを失う』 『出来損ない』
悪夢で《声》に囁きかけられた罵声が書き殴られている――バートリーははっと気づいて羽ペンを握ったままの己が手を見た。無意識に自分で書き記してしまっていたのだろうか? なんだか恐ろしくなり、慌てて羊皮紙ごと丸め潰してくず入れに捨てる。
「……なんて夢だ」
再び机に突っ伏して溜め息をついた。悪夢を見るのは久しぶりだ。ここ最近――この古砦に引っ越してエルジエとふたりきりの生活を始めてからはめっきり見なくなっていたというのに。瞬きするたび、耳に吹き込まれた声が、肌に張り付く手の感触が、口に広がった苦い味が蘇ってくる。
「バートリー、大丈夫……?」
ノックと共に控えめな声が扉の向こうから聴こえてくる。エルジエだ、まさか今の悲鳴が聴こえてしまったのだろうか。慌てて明るい声を作り、扉を開ける。
「ああ、心配ないよ。虫が出てきて、驚いてしまっただけさ。……エル、それは?」
自分と同じ白髪碧眼の《家族》、少女吸血鬼エルジエが手に小さく丸められた羊皮紙を持っているのに気づく。エルジエは顔色の悪いバートリーを心配そうに見上げながら手紙を差し出した。
「さっき、コウモリが運んできたの。バートリー宛だよね?」
よく見ればエルジエの肩には少し大型のコウモリがつかまっている。可愛いエルのドレスにフンでもしたらただじゃおかないぞと顔をしかめつつ、バートリーは手紙を開いた。
「これは……!」
バートリーを吸血鬼達の晩餐会に誘う内容の、つまり非公式な招待状である。バートリーがこういった社交場に姿を出さなくなって久しいが、現在でもときたまこういった書状が届くことがある。しかし彼が驚いたのは手紙の内容ではなく、その送り主だった。
「僕のこと、覚えていてくれていたんだな……しかもこんな誘いまで……」
「だあれ? バートリーの友達?」
目を潤ませ、じんと熱くなった胸をおさえていると不思議そうな、あるいは不審そうな顔をしたエルジエに訊ねられる。
「ああ。君も会ったことがあるんだよ。だいぶ前の話だけれど……覚えていないかい?」
「知らないもん。覚えてない」
自分の知らない、あるいは覚えていない相手からの手紙にバートリーが喜んでいるのがなぜだか無性に面白くなく、エルジエはぷうっと頬を膨らませた。バートリーはその理由がわからず困り顔で首を傾げた。
「それで、なんの手紙だったの?」
「晩餐会に来ないか、という話さ。誘われるのは久々だ」
「晩餐会!?」
ぱっと目を輝かせるエルジエ。しまったと内心バートリーは呟いた
「行きたい行きたい行きたい! わたしも行っていいよね、連れてって!」
ついさっきまでの不機嫌も忘れ、エルジエはバートリーの上着を掴んでせがんだ。バートリーの言いつけであまり外に出られず内遊びばかりのエルジエは外の世界に興味津々なのだ。美味しい食べ物が食べられて、色んな吸血鬼と話が出来るとなると興味を示さないはずがない。参ったなあ、とバートリーは頭をかく。
エルジエの秘密を知る者はごくわずかである。人間から吸血鬼になった少女。今でこそエルは異能こそ使えないものの見た目も心も吸血鬼そのものだ。しかし万が一その秘密がばれてしまえば……バートリーはもちろんのこと、エルジエもただではすまないだろう。特に恐ろしいのはシャイロックだ。かつて人間だったエルジエをバートリーの元へ連れてきた吸血鬼。彼は親切だが抜け目がない。もし彼も晩餐会に招かれていて、エルジエの姿を見てしまえば、髪の色が変わったエルジエでもすぐに正体を見破ってしまうかもしれない。
エルジエの正体がばれてしまえばどうなるだろう? 本来、人間を吸血鬼に変えるのは掟破りに値する。ラヴァルと同じくらい強く恐ろしい実力を持つ掟番達がバートリー達を追ってくるだろう。バートリーはまだいい。しかし異能が使えず戦う力もないエルジエは……? 掟番の手にかかるエルの姿を想像するのは先程見た悪夢よりも怖かった。
かといってエルジエを置き去りにして行くのも躊躇われる。エルジエを留守番させて出かけたことは幾度となくあるが、絶対にその夜のうちに帰れぬ場所には行ったことはない。晩餐会の会場は女吸血鬼カミラの館……この古砦からはあまりに遠い。バートリーの不在中にエルジエの身に何かあったらと思うととても行く気にはなれない。そもそもバートリーはあまり社交的な性格ではないのだ。
「いや……晩餐会には行かないよ。この誘いは断る」
「ええーっ!? なんでーっ!?」
バートリーが出した結論にエルジエは再び頬を膨らませた。
「随分遠いところでやるみたいじゃないか。そんなところにまで行くのは大変だよ。それにエル、君は誘われていないんだ。誘われていない者を連れていくのは礼儀に反する」
「そんなの、馬に乗ればいいじゃない! それに……晩餐会に誘ってくれたひとにお願いできないの?」
バートリーの返信を待っているコウモリを振り落とさんばかりに体を揺らしてエルジエが言う。コウモリがきい、と不満げに鳴いてエルジエにしがみつく。聡く物分かりが良い子だけれど、やはり子供なのだ。
「わがままはいけないよ、エル。わかるだろう?」
「でも……」
「良い子だから、言うことを聞いておくれ」
「……はあい」
むくれながらも頷くエルジエ。バートリーはほっと胸を撫で下ろし、屈んで目線をエルジエに合わせる。
「代わりに、もっと素敵なところに一緒に行こう。晩餐会よりずっとずっと、素敵なところに」
「じゃああそこに行きたい! 前に行った、ご飯が美味しいところ!」
テュバルの店のことだろうか。あそこで食べた料理がよほど美味しかったのか、あの後何度もまた連れて行ってほしいとせがまれたものだ。
「ああ。そこだけでいいのかい?」
「他のところも連れてってくれるの!? えっと、じゃあね、じゃあね……」
一生懸命行きたいところを考えるエルジエの頭を優しく撫でながら微笑むバートリー。エルジエの肩でコウモリがきい、と鳴いた。
◆
「おっちゃーん! こっちのでかい肉ちょうだい!」
「あいよー」
クローゼンブルクの街から遠く離れた、とある中規模な街。カンタレラとロムルスが歩く通りは左右に様々な出店が立ち並び、無数の旅人や観光客の舌を喜ばせている。
「おっ、うっめえ! タレが効いてるな、さすがおっちゃん!」
「お世辞が上手いねお兄ちゃん、もう一本おまけしとくよ」
「いいの!? サンキュなおっちゃん!」
「………………」
「ほらカンタレラ、お前も食えよ! すっげ美味えぜ!」
うるさい。
と、口に出すか出すまいかカンタレラが悩んでいる間にロムルスがまた別の出店に向かっていく。握っている金はつい先日カンタレラが手切れ金として渡したはずのものである。
「ほい、これも美味いぞ!」
「………………」
カンタレラの手にまたしても得体の知れないグルメが渡される。一方のロムルスは両手に串だ包みだのを抱えながらむしゃむしゃと物を頬張っている。
「おし、じゃあ次は……」
「待て」
またも次の出店に向かおうとするロムルスの腕を、ついに耐え兼ねたカンタレラが掴んだ。
「ん、どした? なんか不味いのあった?」
「金を、返せ」
「え?」
心底不思議そうなロムルスに、カンタレラは深く溜め息をついた。
「……え!? これあれだろ、せっかく楽しそうな街に着いたしぱーっと遊ぼうぜってやつ!」
「年下に小遣いをもらうのか、お前」
あげたのはカンタレラの方ではあるのだが。どっと気疲れしたカンタレラはロムルスの暴走を止めるべく引っ張り込んだ酒場のテーブルに頬杖をついた。黒い肌の少年に総銀髪の青年、奇異な外見の二人を他の客が興味津々で見ているが、外見に注目されることに慣れた二人は平気で受け流している。
「だってお前、あんなに美味そうなもんが沢山あるのになんにも買わずに通り過ぎるなんてナシだろ? 食べないのかよ、それ」
「………………」
「……食べていい?」
さっき食べた物は一体胃袋のどこにやったのか、早くもお腹を鳴らしはじめたロムルスが未だカンタレラの手の中にある食べ物類を指を咥えて見つめる。カンタレラはそれらすべてをロムルスに突き出すと、酒場の主人に飲み物を注文した。
「……いつまでついてくる気だ、お前」
「いつまでって……え? 俺達別れんの?」
「その金も、そのつもりで渡した。それだけあれば一月は不自由しないはずだ」
つい先程見せつけられた恐ろしい程のハイペースな浪費を考えると少し自信がなくなってくるが、これだけ渡せば放っておいても野垂れ死ぬようなことはあるまいと思って金を渡したはずだ。決してロムルスの美食珍道中を支える為ではないはずなのだ。
「確かに、一晩を共にしてもいいとは約束した。一週間も一緒に旅しろと言った覚えはない」
「でも、楽しかったろ?」
「なぜついてくるんだ、お前」
いまいち噛み合わない会話にカンタレラがしびれを切らし、無理矢理本題に向かわせる。
「なんでって……」
「お前、旅人だろう。目的があって旅をしているんじゃないのか。なんで俺についてくる。不愉快だし、邪魔だ」
まくし立てるカンタレラに水が運ばれてくる。水を一息で飲み干し、少し躊躇ってからカンタレラは続けた。
「……俺のしていることを見ただろう。つまり、その……人が死ぬし、殺すし、殺されるかもしれない。そういうことだ」
「吸血鬼だろ?」
と、カンタレラが避けようとしていた単語をあっさり口にしたロムルスに、カンタレラは飲み込んだはずの水を吐き出しそうになった。
「そんなのわかってないはずないだろ。わかってるから一緒に来たんだ」
「……な、」
「お前は吸血鬼と戦ってる。どんな事情があるのかはわかんないけど、吸血鬼が敵だと思ってる。そうだろ?」
目を丸くするカンタレラに、串焼肉を頬張りながら自分も飲み物の注文をし、しかしロムルスは真剣な顔で言う。
「俺も、吸血鬼は敵だと思ってる。奴ら人間を馬鹿にしてるし、平気で人間に酷いことするしな。狼人間だって吸血鬼が作ったんだろ? だったら尚更許せねえよ。だからさ」
だから……とロムルスが続けようとした矢先、ぽんとカンタレラを何者かが叩いた。
「!」
「あっ、やっぱりコーハイクンじゃーん! こんなとこで会うとかマジ奇っ遇ー♪」
外套に隠した『裏切』の柄に手をかけすぐさま振り向くカンタレラ――しかしその影はさりげなくその腕をおさえて抜刀を妨げる。亜麻色の長髪を女のように編み込んだ洒落た服装の青年。快活に笑う顔の頬にハート型に切り抜いたつけぼくろにカンタレラは小さく舌打ちした。
「? 誰そいつ、お前の知り合い?」
「……知らん」
「えーっ!? ひっでー、センパイコーハイの仲じゃーん!」
顔を背けたカンタレラの肩をばんばん叩きながら空いた椅子に腰掛け、ロムルスに運ばれてきたホップビールを手に取った。
「センパイ? カンタレラの?」
「そ! アンタも聞いてんだろ? カンタレラクンのお仕事、吸血鬼ハンター。オレは同じギルドに属してるセンパイってワケ」
「へー……あ、オレはロムルス。あんたは?」
「………………」
カンタレラは忌々しそうに乱入者を見ながら席を立とうと腰を浮かしかける――しかし短刀に伸ばしたままの利き腕が未だがっちりとおさえられていた。
「シャルル=アンリ。シャルル=アンリ・ナヴァール」
「ふーん、シャルル……って、あーっ! オレのビール!」
「あ、ごっめん♪ ゴチになりまーす!」
ようやく自分のビールを取られたことに気づいて抗議の声を上げるロムルスにウインクしながらジョッキを傾けるシャルル=アンリ。カンタレラが再びため息をつく。
「……なんの用だ」
「べっつにー? たまたま会ったから声かけただけってーかー? あ、なんかお邪魔しちゃってた?」
「お前自身が邪魔そのものだ」
「おいおい、センパイなんだろ? その態度は良くないと思うぞ。……オレのビール取ったけど!」
ジョッキを傾けるシャルルをにらみつつカンタレラをいさめるロムルス。「まーまー、コイツも素直じゃないからねー」とシャルルはカンタレラの腕に置いていた手をその腰に回した。カンタレラは不愉快そうに身じろぎした。
「ま、せっかく会えたんだし、ちょっと頼まれごとしてくんない? そんな大変なコトじゃないからさ!」
「なんだ」
じろりと半目を向けてくるカンタレラに「これこれ」と彼が見せたのは吸血鬼の手配書だった。
「なんだこりゃ、吸血鬼?」
「うぃー。オレが昨日まで追っかけてた奴なんだけどさ、あともうちょいってトコで取り逃がしちゃったんだよねー」
「珍しいな、お前が」
《例外の五指》の一人が獲物を取り逃がすなんて……とカンタレラが物珍しげな顔をすると、シャルルはひらひら手を振りながら苦笑する。
「コンビ組んでる奴らだったんだよ。さすがに二対一ってなると面倒でさ、しかも奴ら二手に分かれて逃げやがってさー? どっちから先に追おうかって悩んでるトコにコーハイクンだよ、マジ助かるわー」
「……まだ、やってやるとは、一言も」
「確か片方は白い髪の奴だったかな? 二枚目の手配書に書いてあるほう。だらだら伸ばしたのをだっさく縛った男でさー」
「!」
シャルルの言葉にカンタレラが目の色を変え、ロムルスに渡された手配書の一枚を奪い取る。その様子にシャルルはにいっと口角を吊り上げた。
「吸血鬼なんだろ? 取り逃がして大丈夫なのか?」
「ほっといてもくたばるくらいには追い詰めたし? 一応、念の為ってこと。それに片方はコーハイクンが追ってくれるしー?」
「え――カンタレラ?」
と、ロムルスが顔を向けたときには既にカンタレラの姿はそこにはなかった。空のグラスの横に置かれた銀貨や銅貨はお代だろうか。
「な、なんだよ置いてくなよ……寂しいだろ……」
「追ったげたらー? トモダチなんでしょ?」
「お、おう! だよな!」
慌てて立ち上がるロムルスにシャルルは「あっ、そーだ」ともう何枚か手配書を取り出す。
「ここらへんに近いところにいる吸血鬼の情報、あいつに会ったら渡しといて? オレが狩ろうかって思ってたけど、あんまり楽しそうな感じしなくてさー」
「渡せばいいのか?」
「あと、『今度また一緒に遊ぼうぜ』とか?」
「おう、伝えとくぜ! ……ん?」
シャルルから手配書を受け取りながら、ロムルスはふと顔をしかめた。
「どったん?」
「いや……オレの気のせいかもしれないけどさ。なんかあんた、嫌な匂いするな?」
「…………」
ロムルスの言葉にシャルルは寸の間押し黙り、
「……えーっ!? 何それマジ傷つくー! 今日のコロンお気になんですけどー!?」
「あ、いや多分気のせいだから! 外の匂いとかの勘違いかも!」
おどけて悲しむそぶりにロムルスは慌てて訂正する。シャルルは苦笑したまま肩をすくめた。
「ったく、気をつけてよねー。そんなんじゃ女の子にモテないよ?」
「うるせえやい! 悪かったってば!」
思い当たる節があるのか顔を赤くしながら酒場を飛び出していくロムルスに笑いかけていた顔をふ、と消して立ち上がる。
「……さーって。オレもそろそろ行くかなー?」
飲みかけのビールを空け、ばかに大きい荷袋を背負うとシャルルも酒場を出た。
◆
『a……Aaaargh……』
腐臭を撒き散らしながらこちらへ寄ってくる屍食鬼は近隣の村のかつての住民だろうか。土気色の肌が纏うまだ真新しい衣服に苦い気持ちを覚えながら、カンタレラはその首めがけ手斧『逆賊』を振るった。
「……多いな」
倒れ伏した屍食鬼の腰骨を踏み降りながら呟く。手配書の情報とシャルルの話を合わせて割り出した吸血鬼の潜伏予想場所は先程の街から二マイル弱離れた林の中である。見当の通り、カンタレラの血を嗅ぎつけて屍食鬼達が林の奥からやってきた。しかしいかんせん数が多い――ざっと数えて十五、六匹。木々が密集しているおかげで一斉に襲いかかられる心配はないが、それでもカンタレラ一人で切り抜けるには厳しい状況だった。
(一旦撤退すべきか? ……いや)
一瞬浮かびかけた案をすぐさま否定する。日没まで時間がない。敵は負傷しているのだ、夜になれば傷を癒す為に人間を襲い血を吸うだろう。そしてまた新しい屍食鬼を作るかもしれない。これ以上吸血鬼の為に犠牲にされる人間を増やすわけにはいかない。それに、シャルルの言っていた通り、この奥にいるのが白髪の吸血鬼ならば。ヤンの妹を手にかけた例の吸血鬼なのだとしたら。
「……逃がすわけには、いかない」
殺す――と呟いたカンタレラの背後、首筋に向かって食らいつこうとする屍食鬼。間一髪で気づいたカンタレラはその鳩尾に肘鉄を浴びせつつ飛び退く――しかしその先にも屍食鬼!
『Aaaaaaaargh!』
「くっ!」
カンタレラに組み付こうとした屍食鬼の腕を『裏切』で切り裂く。しかしその間にも死角から寄ってきた屍食鬼がカンタレラの腕を掴む。それに対応していればまた新たなる屍食鬼――いたちごっこ、きりがない!
『Ghhhhhhhh!』
「ぐぁあッ!」
と――ついに屍食鬼の一体がカンタレラの肩に牙を立てた。吸血鬼ならば一口味わっただけで死んでしまうカンタレラの猛毒血――しかし人間の死体たる屍食鬼達にはまったくダメージを与えることができない! 痛みで思わず動きを止めたカンタレラに次々屍食鬼達が群がり貪り食らうべく組み付いてくる。このままでは……! 屍食鬼達を振り払おうともがいていると、状況にまったくそぐわぬ素っ頓狂な声が聴こえてきた。
「な、なんだこいつら!? 人間……じゃねえ!?」
「……ロムルス……!?」
ロムルスに気づいた屍食鬼が何体か離れ彼に寄っていく。また追ってきたのか? いや、今はそれより……! カンタレラは自由になった腕を振るい肩に噛みつく屍食鬼を斬りつけた。
「げ、寄ってくんなよ!? うえー、くせえ!」
「ロムルス!」
「カンタレラ! こいつらなんなんだ!? なんかくせえし、腐ってるし!」
呼びかけられてこちらに気づいたロムルスは腐臭に鼻をつまみながら群がってくる屍食鬼を振り払い近づいてくる。
「屍食鬼だ! 人間の死体だ、吸血鬼の命令で襲ってくる!」
「よくわかんないけど敵なんだな!? うーくそ、南無三!」
死体と聞いて若干怯むが、しかし襲ってくるからには倒さねばなるまいと判断したのだろう、掴みかかってきた屍食鬼の一体を殴りつけるロムルス。しかし相手は屍、多少の傷ではまったく動きを止めない。
「うー、あんま気は進まないけど…………変身!」
伸びてくる屍食鬼の腕を振り払いながら叫ぶ。まさかまた人狼に変身する気か? 人狼に変身する際服を破いてしまったせいで人間に戻ったときいらぬ苦労をかけられたカンタレラは屍食鬼を斬りつけながら顔をしかめた。だが、ロムルスの体はあのときのように骨格を変形させ筋肉を増大させることはなかった。
「へへ、こういうのだってできんだぜ! がるるっ!」
耳が伸び、口が裂け、獣めいて毛だらけになった顔。しかしそのシルエットは人間の時とほとんど変わらない。どうやら狼化する程度を控えめにしたようだ。鋭く尖った爪で屍食鬼の喉を切り裂きながらもう片方の拳で他の屍食鬼を殴りつける。どうやら半人狼化しただけでもその腕力は人間離れするらしい。
「こいつらの親玉はどこだ!?」
「まだ日がある、どこかに潜んでいるんだろう……先にこいつらを片付けなければ」
区別が出来ないのか、屍食鬼達は半人狼状態のロムルスにも平気で襲い掛かる。が、おかげでカンタレラ一人に集中していた攻撃が半分になり格段に戦いやすくなった。掴みかかってきた屍食鬼の手を『逆賊』で切り落とし、正面から突っ込んできた屍食鬼の胸に『裏切』を突き立てる。後方ではロムルスが屍食鬼を逆さに持ち上げて振り回し、他の屍食鬼達を薙ぎ払っていた。その勢いでこちらに飛ばされてきた屍食鬼をカンタレラは油断なく斬りつける。
「がうっ! がるるるッ!」
『Aaaaaaaaaa……』
「はああッ!」
カンタレラ側の屍食鬼がすべて倒れ伏した頃、ロムルスが武器代わりに振り回していた屍食鬼を砲丸投げの要領で投げ飛ばす――最後に立っていた屍食鬼と衝突し、二体ともその場にくずおれた。当面の敵がいなくなったことにより、二人は息を吐いてしばし体を休めた。
「……こいつら、死んだのか?」
「死体は死なない。しばらくすればまた動きだす」
「じゃあ、早く親玉を探そうぜ! 親玉を倒せばこいつらももう動かないよな!?」
「ああ……」
『裏切』と『逆賊』を油断なく構えながら屍食鬼達がやってきた方向へ向かう。そして当たり前のようについてくるロムルスに違和感を覚えた。
「……お前」
「ん? 何?」
「どうして、ついてきた」
振り向いたカンタレラにロムルスは不思議そうな顔を向ける。
「どうしてって……なんか理由いるのか?」
「………………」
「だってさ、さっき言っただろ? オレもお前も、吸血鬼は敵なんだ。で、オレ達は敵じゃない。だったら仲間になる方が楽しいだろ?」
「楽しい……?」
吸血鬼殺しの旅に楽しいも何もあるものか。顔をしかめるカンタレラに「それにさ!」と続ける。
「お前、なんかほっとけないんだよな。いつもつまんなそうな顔で辛そうにしてるし」
「………………」
「あ、そうだ! そんなに別れたいんならさ、お前がもっと楽しい顔するようになったらってのはどうだ!? そしたらオレも安心してお前をほっとけるから!」
「うるさい」
と、無理矢理話を打ち切ったのはそれらしい場所を見つけたからだった。打ち捨てられてかなりの年月を経たのだろう、すっかり荒れ果てた粗末な小屋が木々に隠れるように建っていた。壁や屋根が腐り、ところどころ崩れているが、日光を遮るには充分そうだ。
「あそこか……?」
「静かにしろ。様子を見てくる」
「あ、おい! 一人じゃ危ないぞ!」
「静かにしろ」
息を潜めながら小屋へと近づく――今のところ気配は感じられない。しかし油断はできない、日中であろうと闇さえあればそこは吸血鬼の世界だ。扉の横に立ち様子を窺う。入るべきか? 逡巡していると、中から声が聴こえた。
「そこに……いるのか……? 血だ、血の臭いだ……!」
「……!」
「何をしている……早く、持ってくるんだ……血だ、血を……!」
勘付かれたかと一瞬焦ったが、どうやら配下の屍食鬼と勘違いしているらしい。屍食鬼達に人間を狩るように命じていたのだろう。先程の戦闘でカンタレラは屍食鬼の血をたっぷり浴びている。ならば――カンタレラは外套のフードを深く被ると、扉をゆっくりと開け屍食鬼のようにのろのろと小屋の中に入る。
「なんだ……血は持っていないのか……? 早く、早く狩ってこい……! 足りないんだ、これじゃ全然……!」
うわごとのように血を催促する吸血鬼はカンタレラの正体に気づいていないようだった。しもべの見分けもつかない程負傷しているのか? カンタレラはフードが脱げないよう注意しながら床に座り込んでいる吸血鬼の姿を確認し、思わず絶句した。
「――――!」
「……どうした……何してる、血だ、血を、早く、早く……!」
その吸血鬼は息も絶え絶えに呟きつつ、屍食鬼達に狩らせたらしい人間の腕を噛み血を吸っている――しかしその血は飲み込まれることはない。下顎から首の付け根にかけて喉がぱっくりと切り裂かれており、そこから飲んだ血がどんどん下に零れ落ちていくからだ。それに気づいているのかいないのか、吸血鬼は必死で吸血している。シャルルの言う通り、確かに白髪である。だがその顔は十年前にカンタレラの脳裏に焼き付けられたものとは違っていた。
(……シャルル=アンリ)
内心で呟く。なるほど、これなら放っておいても数日で果てるだろう。ただしその数日間、無意味な吸血の為に何人もの人間が殺されるだろうが……ふいに湧き上がってきた吐き気を堪えながら、カンタレラは隠していた『裏切』を抜いて自分の腕を浅く斬った。
「……? なんだ、お前……!」
ようやく異常に気づいた吸血鬼に飛びかかり、その胸を毒血つきの刃で貫く。悲鳴を上げる暇もなく、その吸血鬼は息絶えた。
「終わったのか?」
小屋から出てきたカンタレラに訊ねるロムルス。無言で頷き、来た道へと歩きだす。
「なんだよ、なんか嫌なことでもあったのか? さっきよりもっとしょぼくれた顔してるぜ?」
「……うるさい」
すげない返事をしたカンタレラに、しかしロムルスはめげずについてくる。
「まあ、さ。一仕事終わったことだし、さっきの街で美味いもんでも食おうぜ? さっき良さげな宿屋も教えてもらったしさ!」
「………………」
「やなことがあったときはとりあえず美味いもん食うんだよ。それからあったかいベッドで寝て、また朝美味いもん食えば大体忘れちゃうんだ。な!」
人狼化を解き、すこしほつれてしまった服を気にしながらロムルスは笑って明るい話をする。ロムルスも屍食鬼の血をかなり浴びていた。
「……この格好じゃ街に入れてもらえないかもなあ。これじゃあ駄目にしたのとほとんど変わんねえや」
「………………」
「どうする、カンタレラ? 服の予備持ってる?」
「…………ヤン」
「え?」
沈黙を破り、唐突に口を開いたカンタレラにロムルスは少なからず驚いた。
「……ヤン。俺の名前だ。カンタレラじゃない、本当の」
「……そっか!」
突然の告白を、ロムルスは穏やかに笑って受け入れた。
「ヤン、ヤンか。なんだよ、良い名前じゃないか! カンタレラよりずっと良いぜ!」
「……うるさい」
「でさ、ヤン、服の予備持ってる? やっぱり血まみれで街に入るのはまずいって!」
「………………」
「え、まさか持ってない? やばくねこのままじゃ?」
「……やあれやれ」
歩いていく二人の後ろ、木々の一つの枝に座った黒猫が二人を見下ろし欠伸混じりに笑った。
「吸血鬼殺しの復讐鬼、独りぼっちのヤン坊やが友達ごっこときたかい。身の程ってやつを知らない子がどうなるのか、教えてあげた方が良かったかねえ……?」
いっひっひ、と不吉に笑い、黒猫は空に姿を消した。
吸血鬼大全 番外編 屍食鬼
強力な催眠能力を使うことができる吸血鬼が作るしもべ。
強い催眠をかけられた人間が死後もその死に気づかず、催眠をかけた吸血鬼を主として従っている状態。吸血鬼によっては人間以外の生き物も屍食鬼にすることがある。
見た目は屍そのもの。動作は緩慢だが力は生前より強くなっており、手練れの吸血鬼ハンターでも大勢の屍食鬼に囲まれれば命が危うい。主の命令が続く限り動き続け、体を切断しようと足の腱を断とうとほんのわずかな時間稼ぎにしかならない。殺すことは出来ず、完全に無力化するには主である吸血鬼を殺すしかないが、ごく稀に体の腐敗が進み過ぎて動けなくなってしまうことがある。
元が人間の死体である為、吸血鬼殺しの猛毒「カンタレラ」の効果はない。かつて吸血鬼と魔女が戦争していた時代にカンタレラ対策として発明され、今もなお吸血鬼ハンター達を苦しめている。




