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第四話 狩りと寝床

 その夜、掟番ラヴァルはいつも通り洞穴で目を覚ました。

 人間が使うような寝台や布団にはどうも慣れない。あんな寝心地の良いもので寝たら、有事の時目を覚ませられなくて大惨事になりかねんのではないか。かつての友にそう言って、「君は気にしすぎだ」と笑われたのを思い出す。最近流行っているらしい棺などは言語道断だ。蓋を締めれば確かに日光は防げるのだろうが、音に視覚、他の重要なものさえ遮ってしまう。棺で寝ていてハンターにやられたら笑い話にもならんぞ、と考えるラヴァルの頭は他と比べて古くて固いらしい。

 吸血鬼と言えば豪奢な館や城に住まっていると思われがちだが、地位や力のない者はこうして穴ぐらで眠るのが当たり前だ。ラヴァルもその気になれば館の一つくらいどうにでもできるが、掟番として各地を回っている彼に定住地など無意味だ。

「……ふん」

 凝った体を軽い運動でほぐしてから外を見る。静かな夜だ。遠くに見える月は三日月、美しさを遮るような雲もない。良い夜だが、あまり狩りに向いた天候ではない。幸い先日に『食い溜め』を済ませたばかりだ、今日は狩りはせず掟番として吸血鬼達の動向を探るに留めよう。今夜の方針を固めて洞穴を出ると、それを待っていたかのように鳥がラヴァルに向かって飛んできた。

「……なんだ?」

 常々威圧感を放つラヴァルに近寄る鳥など普通ではない。伝書鳥だろうか。彼の上司に値するところの吸血鬼ノスフェラトゥがよく『お願い』(つまりは、指令だ)をフクロウに持たせて送ってくるが、今度来た鳥は見覚えのあるフクロウではなく、利発そうな顔をしたミミズクだった。

「……カミラからか」

 ため息とともに呟くと、そうだと言わんばかりにミミズクがほうと鳴く。ラヴァルの腕に止まると、さっさと取れと羊皮紙のくくりつけられた片足を突き出してきた。

「なあ、お前の主人に伝えてくれないか。いいかげん俺を構うのはやめてくれと」

 どうせ言葉などわかるまいとミミズクにぼやくと、案の定ミミズクはほうと鳴いて首をくるりと回す。それよりもさっさと読んでしまえ、とラヴァルの腕を蹴ってくる。

「やれやれ」

 小さく畳まれた羊皮紙を開いて中を確認する。また晩餐会の誘いだ。同胞達――この場合はカミラを慕う吸血鬼『カミラ派』を指している――への連絡会を兼ねた大規模なものらしい。ラヴァルさまもお時間がございましたら是非ご参加ください、と書いてある。時間がなかろうと、カミラに誘われて断れるわけないだろう? とここにはいない彼女に向かって怒鳴りたくなった。

「まったく、お前の主人は何を考えているんだろうな。自分の立場と俺の立場、まさか忘れているわけではないだろうに」

 多くの吸血鬼の所属する派閥の長と、吸血鬼全体の動向を確認しときに制裁を下す掟番。そんな二人が不用意に親しくすれば今に厄介な問題になりかねない。ラヴァルよりよほど『政治』というものをわかっているはずなのに、こうして何度もラヴァルを派閥に引き入れようとするカミラの考えがわからない。まさかノスフェラトゥと、『兄』と戦争でも起こすつもりか? 立場の問題を抜きにすれば、カミラはとても良い吸血鬼だと思うのだ。ただ美しいだけでなく、よく考えて周りに気を回している。鬼付き合いが苦手なラヴァルも何度彼女にフォローされたかわからない。だからこそ自分の立場というものを考え、自愛してほしいのだ。

「……本当に、何を考えているんだ。あのお姫様は」

 はあ、と深いため息を吐く。いいからさっさと返事を書いてくくりつけろ、とばかりにミミズクがラヴァルの腕を蹴った。




  ◆




「おいおいちび助、どこ行くんだよ? そっちは街とは逆方向なんだろ?」

「うるさい」

「まさか森に行く気か? おいおい嘘だろ、もう夕方だぜ!?」

「うるさい」

「さては野宿する気だな!? いくら金がなくたってそれだけはやめとけ! お前みたいなちび助がそんなことしたらあっという間に山賊に身ぐるみはがされるぜ!? オレだって何回丸裸にされたか!」

「うるさい」

「なあ今からでも遅くないって! 一緒に街に行こうぜ、ちゃんとした宿屋で寝ようって! オレもそんな金ないけどなんとかなるぜ多分! な?」

 カンタレラ――あるいはヤンは、ここでいよいよ返事をするのをやめ、大きな溜め息を代わりに吐いた。

「あ、溜め息ついたな! やっぱり疲れてんだ、宿に行こうぜ! ベッドで寝ようぜ!」

 などと鬱陶しくカンタレラの周りにまとわりついてくるぼさぼさだらしなく伸びた銀髪を雑にくくった長身の青年は旅人であるらしい。ロムルス・ラベートと名乗っていたか――覚える気はないので間違っているかもしれないが――カンタレラよりも三つか四つほど年上らしく、自分より小さく見えるカンタレラの一人旅がずいぶんと心配のようだった。余計なお世話である。

「おいおい行くなって! あ、わかった、枕や布団が違うと寝られないタイプか!? 一緒にふわふわの布団がある宿屋探そうぜ!」

「……うるさい」

 こう返事するのも何度目だろうか。元々喋るのが億劫な性分だ、そろそろうんざりしてくる。はて、そもそもなぜ悪名高き吸血鬼狩りのカンタレラが夜にもならぬ時分から見ず知らずの旅人につきまとわれているのだろうか。カンタレラは淡々と森へと歩みを進めつつ、旅人青年が早く飽きてくれることを願いながら事の次第を思い返すことにした。



  ◆



 吸血鬼狩り達の相互扶助及び共存共栄の為の連合組合――通称組合(ギルド)。そんな組織がクローゼンブルクの街に存在することを知る人間はおおよそ『真っ当』な者ではない。

 その真っ当ではない人間であるところのカンタレラがギルドへ足を運ぶのは実に数ヶ月ぶりのことだった。一応は組合員であるものの、彼は人間づきあいの上手な人間ではない。おまけにギルドはその名前とは裏腹にとても『相互扶助』や『共存共栄』の出来るような環境ではなかった。金にも名誉にも興味がない彼の足が遠のくのは当たり前のことだった。

「いらっしゃい、注文は?」

 何食わぬ顔で酒場に入ったカンタレラを同じくとぼけた笑顔で出迎える女主人。ふっくらとした体型で使い古しのエプロンを纏う、どこの街にもいそうな中年女性である。見慣れた顔だが、カンタレラは彼女の名前を知らない。向こうも彼をカンタレラだとは知らないだろう。きっとその方が良いのだと彼は思った。

「……赤ワインを。純銀のゴブレットに注いだものを」

「あら、やっぱりそっちかい。たまには他のも飲んでいったらどう?」

「気が向いたら……そのうちに」

 気のない返事をするカンタレラを女主人は大柱の陰にある一角まで通す。そこに座るテーブルはない。代わりに酒瓶が詰め込まれた棚があり、女主人は慣れた手つきでそれを横からひょいと押した。棚に偽装された戸が開かれ、地下へと繋がる階段が現れる。カンタレラが口にしたのは注文ではなく、ギルドの組合員であることを示す合言葉だった。

「ありがとう」

 階段を降りながら女主人へと礼を言う。女主人はなんでもないように手を振りながら偽装扉を閉めた。酒場に偽装されたギルド本部の門番。彼女の人の良さそうな顔を見てその姿を想像できる人間はいないだろう。ある意味吸血鬼以上の食わせものだ、とカンタレラは思った。

 階段を降りきると、先程の酒場とほとんど変わらない広さ、外観の広場に出る。ただしここには窓がなく、石造りの壁に埋まった燭台の灯りで薄ぼんやりと照らされている。酒場よりどことなく暗く見えるのは灯りのせいだけではないだろう。あちこちのテーブルでごろつきや傭兵崩れのような格好の男達が酒を片手にぎすぎすと互いを睨みあっている。組合員の大半はこのような粗野な男達である。

「お久しぶりでございます、カンタレラ様」

 地下に似つかわしくないあどけない少女の声が響いた。その言葉にごろつき達がカンタレラの立ち入りに気づき、一斉に剣呑な視線を向けた。中には堂々と舌打ちをしたり、仲間と陰口を叩く者すら見える。カンタレラにとっては日常茶飯事だ、意に介することなく声の元へ突き進む。

「このたびは多大なるご戦果おめでとうございます。わずかながら報奨を用意させていただいたのでお受け取りくださいませ」

 大部屋の奥、司書机に似た半円形の縦長の机にちょこんと座る人形めいた風貌の少女。足の長い椅子に座ってなお小さく見える体、豪奢だが子供じみたあつらえのドレス。遠目に見れば本当に人形と見間違えてしまいそうなその金髪の少女の名はネッサローズ。設立者も長も知られぬこのギルドの会計係を務めているのが彼女である。カンタレラに悪意の視線が突き刺さる中、彼女だけは愛想の良い笑みを浮かべていた。

「少々お待ちくださいませ」とネッサローズが席を外したあと、カンタレラに対する静かな罵声がさらに増える。戦果だと? 報奨だとよ。ちびのくせに。あんなのが吸血鬼殺し? 魔女と契約したらしいぜ。魂を売ったとよ。気味が悪い。――どれもこれも耳にたこが出来るほど聞き飽きた。いちいち表情を変えてやるのも馬鹿らしい。

「お待たせしました。それではお受け取りくださいな」

 しかしネッサローズの抱えてきた金貨の袋にはさしものカンタレラも目を見開いた。ずっしりと中身が詰まった袋が二つ、十つ余り程の少女が持つには大荷物だろう。どん、と机に袋が置かれるのをきっかけにカンタレラへの罵声がやむ。皆が皆、わなわなと震えて呆然と金貨袋を見つめていた。

「……なんの冗談だ」

「いえいえ、カンタレラ様のご活躍に見合った正当な報酬でございます。何しろあの《百頭落とし》コスタードと《悪食》のペリゴールをお一人でご退治されたうえ、その他五匹余りの吸血鬼を討伐されたのですから。……まさか、ご不足に感じられましたか?」

 そんなわけがあるものか。これほど大量の金貨を目にするのは生まれて初めてだ。周りのごろつき達も同じようで、色めきたってカンタレラ達を見つめている。ギルドの掟で組合員への暴力、理不尽な搾取行為が禁じられていなければ、今頃カンタレラは滅多打ちにされて金貨の奪い合いが起きていただろう。

 吸血鬼ハンターがギルドの組合員になる目的は二つある。一つはこの報奨金の制度であり、もう一つは吸血鬼達の情報を手に入れることだ。ギルドでは吸血鬼を罪人に見立てて『手配』しており、吸血鬼を退治したものはその吸血鬼の強さに応じて報奨金を受け取ることが出来る。倒した吸血鬼が強ければ強い程報奨金の金額は上がり、いわゆる『名有り』のものであればそれこそカンタレラのように何十枚もの金貨が報奨となる。手配書が作られるような名有りの吸血鬼――色狂いのオベロン、暴虐者ハイド等がその筆頭だ――を退治して一攫千金を夢見るハンターは少なくないが、大抵は返り討ちにされてミイラと化すのがオチだった。

 ギルドはどうやって人間社会に潜伏している吸血鬼の情報を手に入れているのか? 会計係ネッサローズはどうやって大量の金を用意しているのか? それを疑問に思うのはカンタレラだけではないだろう。だが、詮索しない方が良いこともあるのだ。例えば、五年前カンタレラが組合員になったときから一切外見が変わっていないネッサローズのことだとか。

(吸血鬼……ではない、はずだが)

 にこにことどこか薄っぺらな笑みを浮かべるネッサローズの顔をまじまじと見つめる。魔女人形――誰だったかネッサローズをそう呼んでいた。魔女めいた人形。人形じみた魔女。なるほど、この女にぴったりなあだ名だった。

「どうされました? やはり何かご不満が?」

「………………、いや」

 逡巡した末に、一旦三分の一程を受け取り、残りはギルドに預けておく旨を話すとネッサローズは笑顔で(つまり、まったく表情を変えずに)快諾した。正直、もっと多く預けたいくらいだったのだが、金貨をぎらぎらと見つめる男達を挑発するような真似はすべきでないと判断した。カンタレラには金の使い方というものがわからない。宿を取ったり、食事を買ったり、服や武器の手入れをしたり、確かに街や村に居ればそれなりに使い道が発生するのだが、野宿が見に染みついた彼がその財産をそのような用途で使い切れるわけがない。結果、カンタレラの懐をただただ重たくするだけの荷物が溜まっていくことになるのだ。

「またいつでもお立ち寄りください。カンタレラ様の更なるご活躍をお祈りいたします」

 一体このネッサローズという女は同じことを何人のハンターに言っているのだろう。判で押したような美辞麗句を聞き流しながらカンタレラはろうそくの灯りの届かぬ隅へと向かう。報奨金を受け取ることでもなく、ネッサローズから軽薄な賛辞を貰うことでもなく、カンタレラが今日ギルドへ足を運んだ一番の目的だった。

「……おい」

 しかしそんな彼の前に立ち塞がる者が現れた。ごろつきの一人であるらしい。何度か顔を見た覚えはあるが、名前どころか会話も交わさぬような仲である。カンタレラを睨みつけているようでいて、その視線は先程金貨袋がしまわれた懐に刺さっている。なるほど。カンタレラはすべてを察した。

「なんだ」

「なんだはこっちの台詞だ。なんだそのつらは。ああ?」

 と、ごろつきはネッサローズに見つからないようカンタレラを彼女の死角へと引きずり込むと、軽く握った拳でカンタレラの脇腹を小突く。要するに自分よりちびで年下でありながら大金を受け取っているカンタレラが気に食わないのだろう。似たようなことは何回もあった。一度うんざりしてやり返したことがあったが、そのときは相手が悪くカンタレラが一方的に暴力を振るったように仕立て上げられた。あのときの始末での苦労を思えば適当に殴らせておく方がましなように感じる。

「つっ」

 だがやはり殴られればそれなりに痛い――周りの者達もカンタレラのうめき声に気づかぬはずがない。だがそれをかき消すように大声で何やら歓談をを始めるやら、何も見えていないように酒を煽るやら。結局行動に移さぬだけで皆同じ想いを抱いているようだった。カンタレラ達の足元で寝転がっていた別のごろつきがうるさそうに唸りながら寝返りを打った。寝るなら宿屋へ行けばいいのにと思う。

「……殴るならもっと目立たないところにしろ。痣が目立つと面倒だ」

「っ、てめえ!」

 男の拳の当たる位置が脇腹からどんどん上がっていくことに気づき、そう忠告した。ネッサローズに気づかれれば男の方が困るだろうと判断したのだが、無抵抗に殴られながらそんな言葉を吐くカンタレラがなお一層生意気に見えたのだろう。男の拳がカンタレラの鼻っ面にまで飛んできた。

「ぐ――!」

 真正面から殴られ、カンタレラの貧相な体はあえなく吹っ飛ばされた。酒樽にぶつかりいくつか倒しながら無様に尻餅をつく。さすがにこんな大騒ぎ、ネッサローズも気づかないはずないだろう。面倒なことにしてしまった、と鼻から垂れてきた血を拭いながら思う。

「生意気なんだよこのがきが! ふざけやがって――」

「――ふざけてるのはどっちだよ」

 と、言ったのはカンタレラではない――カンタレラが酒樽の山からよろよろ立ち上がろうとしていると、鈍器が骨を打つ重い音が響いた。カンタレラが殴られた音ではない。次の瞬間、ごろつき男が白目を剥きながらカンタレラの横へ倒れ込んでいた。

「…………!」

「人が気持ちよく寝てるときにぎゃあぎゃあ騒ぐんじゃあねえ。なんだ、いつからここは豚小屋になったよ?」

 空の酒瓶を片手にぼさぼさに伸びきった黒髪をぐしゃぐしゃと掻き毟る男――先程まで床に寝転がっていた男だ。くまが浮かんだ剣呑な目元、数週間は手入れをしていない無精髭、酒の臭いがこびりついた黒い外套。その顔を見てカンタレラはようやく彼が誰だか思い出した。

「……クレスニク」

「どうかされましたか? ……クレスニク様」

 と、ようやくネッサローズが騒ぎに気付いてとことことこちらへ歩いてくる。鼻血を流すカンタレラ、倒れたごろつきを見て目を見開き、眠たげに欠伸をするクレスニクを責めるように睨む。

「よくは知らんが、そいつらが騒いでうるさかったから黙らせた。真昼間からくだ巻きやがって、こっちは気持ちよく寝てたのによ」

「これで何回目です? 貴方様はあと何回罰則金を支払いになるおつもりですか? ……カンタレラ様も、クレスニク様が?」

 ネッサローズがカンタレラの鼻から垂れる血を見咎めて言う。言われたクレスニクはそれで初めてカンタレラの存在に気づいたように気怠げに視線を向け、面倒そうに舌打ちした。

「……ああ、そうだよ。全部俺がやった」

「…………何を」

「おい、てめえらも見てたろうが? このクソガキを誰が殴ったか、言えるよな?」

 否定しようと口を開いたカンタレラを遮るようにクレスニクは聴衆達に訊ねた。無論、クレスニクではないことは彼らもよく知っている――だがクレスニク自身にそう言われ、誰が一体否定できるだろう?

 戦績一位。ギルド開会以降最も多くの吸血鬼と人間を殺した男に。

「……だとよ。そういうこった」

 しんと何も語らぬ聴衆達がまるで肯定したように言ってのけ、唯一未だ否定を試みるカンタレラの鼻をつまみ上げる。

「うぐ……」

「おいクソガキ、いいかげんに『身の振り方』ってもんを覚えろや。またろくでもない騒ぎ起こしやがったら今度は鼻だけじゃ済まねえぞ」

 カンタレラが流す黒血――人間にはおよそありえぬ猛毒の血を忌々しそうに見ながらそう吐き捨てる。そこにネッサローズの叱責が飛ぶ。

「クレスニク様、こちらへ。お話があります」

「へいへい……」

 面倒臭そうに頭を掻きながらネッサローズについていくクレスニク。結局彼に何も言うことができなかったカンタレラは黙って鼻血を拭う。足元では相変わらずごろつきが白目を剥いて気絶している。起こしてまたいちゃもんをつけられては敵わない、放っておくことにした。

 今度こそ本題を果たすことにする――先程吹っ飛ばされたせいで床に転がった手荷物を拾い上げ、ギルドの隅にひっそりと陣取る『彼』の元へ向かう。

「……まだ生きてたか、『じいさん』」

「久しぶりだねえ、カンタレラ」

 向かいに座ると、奇妙な器具でおかしな色の液体の蒸気を吸っていた老人はしわくちゃの顔に笑みらしきものを浮かべてみせた。『じいさん』と呼ばれているその老人だが、実際は『ばあさん』なのかもしれない。しわだらけになり痩せ細ったその外見だけでは老人の性別を看破することはできない。彼(あるいは彼女)も元は吸血鬼ハンターであったらしいこと、呪術だか占術だかを扱う魔女もどきで他のハンターから疎まれていること、彼が愛飲している『クスリ』がどうやらろくでもないものらしいこと――カンタレラが『じいさん』について知っているのはこの程度である。

「ひひ……ちょっと待っておくれ。もう少ししたらこれを吸い終わるから……」

「…………」

 カンタレラは無言で老人からパイプと器具を取り上げて脇にどかす。妙に甘ったるい匂いに軽く頭痛を覚えながらテーブルの上に荷物を置いた。籠に入った瓶詰め牛乳といくつかの小さいパン。籠の中身を見て老人は不満そうに言う。

「酒はないのかい? ワインは」

「ない」

 わざわざ外で買わなくとも酒なんてここにはいくらでもある。しかしどういうわけか老人が食べやすいような食べ物はないのだ。老人は残念そうにため息をつくとパンの一つを手に取った。老人でも飲み込みやすい柔らかい白パンはそれなりに値が張る。老人がパンをゆっくり咀嚼し、ミルクを流し込むのをカンタレラは辛抱強く待った。

「……何か辛いことがあったみたいだねえ」

 パンを二つ平らげ、ミルクを三分の一飲み干して一旦満腹になったのか、老人が食事の手を止めそう切り出した。

「…………」

「さっきのことじゃあない。もっと前……十何日くらいは前だ。女の子との間に何か嫌な思い出ができてしまったね?」

 老人はどういうわけかこんな風に知らないはずのことを言い当てる。魔法なのか、占いなのか……ギルドに来て間もない頃のカンタレラの身の上をおおよそ言い当て、それ以来彼らの間に奇妙な関係が築かれるようになった。

「……いつものことだ」

「いつものことじゃないからそんなに落ち込んでるんだろう? あんなに殴られるなんてお前さんらしくないじゃないか」

 強がってみたものの老人には筒抜けのようだった。迷うような、しばしの沈黙のあと、カンタレラは口を開く。

「…………話すようなことじゃない。……話したくない」

「そうかい。余計なこと聞いて悪かったね」

 老人が再びパンを手に取り、千切って二つに分けた。そのうちの一つをカンタレラに差し出す。

「ほら、お前さんも食べるがいいさ」

「…………」

 受け取り、一口かじる。そういえば老人の為に買うパンを自分で食べたことはない。チーズが練りこまれたパンは驚くほどに美味しかった。それでも、あのときにもらったスープや水には及ばない気がした。

「……美味いな」

「お前さんが持ってきてくれたものだからねえ」

 そう言って、老人もパンを頬張る。会話が途切れ、そのまま二人でしばらくパンを咀嚼していた。その一瞬だけは、落伍者二人の為にある時間になっていた。

「……そうさねえ。お前さん、手配書は見たかい?」

 ふいに老人が口を開いた。残ったパンとミルクは後で食べるつもりなのかいつのまにか脇にやられ、再びクスリが蒸気化する器具を手にしている。

「まだだ」

「一番下の左端……新しく貼られたやつさ。今度狩りに行くときは、そいつを追ってみるといい」

 蒸気を吸い、自身の口から吐き出した紫色の煙を見ながら老人は言う。煙は何やら奇妙に渦巻き、雲のように形を作ってから溶け消える。カンタレラにはそれが犬の頭のように見えた。

「左端……」

「そいつを追えば、お前さんはきっと素敵なものを手に入れることができるよ」

「また占いか。もう金貨はうんざりだ」

「金貨じゃないさ。もっといいもの……今のお前さんが必要としてるものさ」

 ひひひと笑う老人にカンタレラは首を傾げる。カンタレラが必要としているもの……復讐か。しかし毎日毎夜行っているようなことを今更特別な風に言うのだろうか? 老人ははっきりと答えを教えるつもりはないらしく、目を閉じてぷかぷか紫煙を吹かし続ける。カンタレラは諦めて立ち上がることにした。

「……じゃあな、じいさん。次来るまで生きていろ」

「もう行くかい。お前さんこそ死ぬんじゃないよ」

 老人と別れ、手配書が貼り出された一角に行ってみる。一番下の左端……まだ新しい羊皮紙の手配書を取る。名有りではないらしい……派手にやったせいでギルドに見つかったのだろう。情報を見る限りでは少なくともコスタードよりは難敵ではないだろう。これを狩ることで何が手に入るのか、まったくもって手がかりは見当たらないが……。情報を丸暗記し、相変わらず剣呑な視線を向けてくるごろつき共を無視しながら階段を上がる。

「おや、おかえり。赤ワインは美味しかったかい?」

「……最悪だ」

 笑顔で出迎えた女主人にそう言うと、「だろうねえ」と笑って口直しを進められる。丁重に断り、カンタレラは酒場を出た。



  ◆



 吸血鬼は夜行性だ。昼間の内に念入りに下調べをし、待ち伏せの準備をしておかねばならない。

 手配書の情報によると、今回の標的は森で狩りを行うたちらしい。厄介である。夜行性とはいえ、陽射しさえ浴びなければ吸血鬼は充分に活動が可能だ。木陰に身を潜め、迷いこんだ旅人を襲うような輩も中にはいるらしい。調査とはいえ油断は禁物だ。もっともカンタレラの体質としては襲われた方が好都合、何も知らずに吸血して毒にやられてしまえば倒す手間が省けるのだが。

 腰に差した短刀『裏切』を意識しながらぐるぐると森を歩き回る。樹のうろや洞穴、吸血鬼が潜んでいそうな穴ぐらはないか。木々が生い茂って日光を完全に遮っている箇所はないか。ぐるぐるうろうろと歩き回る様ははたから見れば迷っているように見えるかもしれない。

「あ! お前も迷っちまったのか!?」

 迷っているように見えたらしい。

 森の奥からばたばたと走ってくる影――まさか吸血鬼か、と裏切に手をやるが陽射しを避けようともしないあたり違うらしい。短いチュニックの上に革のベストを羽織る、長い銀髪をくくった長身の若者。首にはおしゃれのつもりなのか、首輪めいた革のチョーカーを締めている。旅人にしては荷物も服装も軽い。なんだか妙な奴だ、と目を細めて警戒するヤンの元へ当たり前のように近づいてくる。

「いやー助かったぜ。街への近道になるかなーって入ったけど全然出口見つからないし。引き返そうにもどこから来たのかわからなくなっちまったし。一生ここから出られないんじゃないかって怖くなってきたところなんだ」

 いくらなんでもそれはない。

 という言葉が真っ先に浮かんだカンタレラだが、口には出さず銀髪青年をしげしげ観察した。とにかく妙な男である。老人でもないのに総銀髪など滅多にお目にかかれるものではない。最初に吸血鬼を疑ったのもそれが原因だ。目の色は金、よく動く口から覗く尖った歯、今まさに木漏れ日を浴びていなければ問答無用で裏切で斬りかかっていただろう。旅人にしても装いがどこか不自然だ。どこまで何をしに行くのか知らないが、外套も着ていなければ護身用に何か武器を持っているわけでもない。ろくろく金も持っていなさそうだが、こんななりでは襲ってくれと大声で叫んでいるようなものだ。不審げに観察されているのを知ってか知らずか、青年は飽くことなく喋り続ける。

「あ! オレはロムルス、ロムルス・ラベートって言うんだけど、お前は?」

「………………」

「さっきからやたらうろうろしてるみたいだけど、お前も迷ってたの? だったら一緒に探そうぜ、出口! 一人より二人で探す方が絶対効率いいもんな!」

「………………」

「それにしてもお前ちっさいなー。いくつ? 十五くらい? オレは二十一だからオレのが兄ちゃんだな!」

「………………」

「ん? お前なんか変な臭いしないか? なんか妙に甘い……コロンってやつでもつけてんの? 男だよな? 変わってるなお前!」

「………………」

 ああ、面倒な奴に捕まってしまったらしい。青年――ロムルスの口から雨あられのごとく降ってくる言葉にカンタレラはげんなりと眉をひそめた。




 そして、未だロムルスにまとわりつかれている現状に辿り着くのであった。

 黙りこくっているカンタレラに何が楽しいのかロムルスは辛抱強く話しかけ続けた。しかしカンタレラとて伊達に十余年寡黙を貫いてはいない、質問にはほとんど答えず生返事だけで通した。それで飽きてくれるかと思ったが、ロムルスの口はなかなか閉ざされない。ならばさっさと森を抜けさせてやれば別れてくれるだろうと思いきや、今度はカンタレラを心配しだす始末だ。

「おいちび助、いいかげんにしろって! 何意地張ってんだよ、お前もこっち来いってば!」

「…………俺は」

 ついに耐え兼ね、カンタレラは口を開く。

「ちび助なんて名前じゃない」

「だってしょうがないだろ、お前がいくら訊いても名前教えてくれないんだからな! ちびだし」

「ちびじゃない」

 確かに同年代に比べると決して高い方ではないらしいが、六フィート近い背丈のものから矮躯だどうだと言われると普通よりも腹が立つ。このまま延々ちび助呼ばわりされるよりは名前くらい教えた方がましかもしれない。

「……カンタレラだ。あと……十七歳だ」

「十七ぁ? うっそだお前、俺の弟よりちびじゃないか。お前とそんな変わんないけどもうちょっと大きいぜ? レミーは」

 聞いていない。もう背については放っておいてほしかった。

「カンタレラなあ……なんか女みたいな名前だな。ホントに本名?」

「………………」

 無論本名は別にあるのだが、そこまで教えてやる義理はないと思った。

「とにかく、やっと名前を教えてくれたな! これからよろしくな、カンタレラ!」

「よろしくしない」

「え?」

 そう、ロムルスとよろしくしている暇などないのだ、カンタレラには。

「……これから、やることがある。お前と一緒に街に行く暇はない。さっきから鬱陶しい、街に行くならさっさと行ってしまえ」

 ずっと言いたかったことをぶちまけ、今度こそと踵を返して元に戻る。もう夕方だ、日が暮れ始めている。この森に吸血鬼が潜んでいるのならそろそろ行動を始めていても不思議はない。急がなければ。さて、これだけ言えばいいかげんこの男も諦めてくれるだろう、たった数時間前に出会ったばかりの人間に夜まで構っているほど阿呆ではあるまい。そう高をくくっていたのだが。

「い、いやいやいや。待て待て待てって」

「え」

 がし、とカンタレラの肩が後ろから掴まれる。ロムルスが戸惑った顔でこちらを見ていた。戸惑いたいのはこちらである。

「なんだよやることって……もうすぐ暗くなるんだぜ? 真っ暗な森でやることってなんだよ。どうかしてるのか? お前」

「………………」

「お前はちびだから知らないかもしれないけど……夜は怖いんだぜ? 野盗とか、山賊とか……いや、それよりもっとおっかねえ、人間じゃないバケモンだってうろついてんだ。お前にどういう事情があるのか知らないけど、でも、それがそういうおっかないバケモンに襲われる理由にはならないだろ?」

 沈黙を続けるカンタレラにロムルスは拙く、しかし真摯に言葉を重ねた。ああ、そうか。カンタレラは思う。この青年はカンタレラが思っていたよりずっとずっと頭が悪いらしい。今日会ったばかりの人間の身をわざわざ心配してやるなど、余程の阿呆か物好きの変人だ。

「…………は、は」

「ん、どうした、カンタレラ」

 突然奇妙な声を漏らしたカンタレラにロムルスが説得をやめて眉をしかめた。

「……おかしい。……お前が」

 次の瞬間、カンタレラは裏切を抜き放っていた――隙だらけで無防備なロムルスの首へ、皮一枚ぎりぎりのところまで刃を近づける。

「――――なっ!?」

「俺が……そうだ。お前の言うところの、『おっかないバケモン』……だから夜の森へ行く」

 ぎょっとして凍りついたロムルスの首に刃をかざしながら淡々と言葉を重ねる。いきなり刃を向けられるとは思っていなかったのだろう、それまで饒舌だったロムルスの口は荒い息を吐くだけの器官に変わっていた。それでいい。押し黙ったロムルスにカンタレラは続ける。

「理由……というのなら。お前が俺につきまとう理由もないはずだ。何度も言わせるな。さっさと一人で行ってしまえ。さもなくば」

 ぴとり、と斬れない程度に刃を首に当てる。最大の急所だ、斬られれば人間なら毒血なしでもあっという間に死んでしまうだろう。……俺が殺すのか、と思う。しかしもしこのままついてこられればロムルスはどの道死んでしまうかもしれない。吸血鬼に襲われて、戦って。その中でただの人間であるロムルスを守り切れるほどの実力は彼にはない。カンタレラについてきたせいで吸血鬼に襲われて死ぬのなら、それはカンタレラが殺したも同然だ。

 白髪の吸血鬼に胸を裂かれた妹のように。神父を騙った悪辣な吸血鬼に食われた少女のように。

「……早く、行け」

 数十秒ほど考える時間を与えてからロムルスから裏切を離す。そうして短刀を鞘に納めながら踵を返し、迷うことなく森へと歩きだした。

 今度こそ、ついてくる足音は聞こえなかった。



  ◆



「い、いやいやいやいや!」

 ロムルスの硬直が解けたのはそれからたっぷり数十分は経った頃だった。

 おっかないバケモン? マジで? あのちび助が? 確かにやたらナイフを使いこなしてたけど……いやでもそんなバケモンには見えなかったぜ、肌色はちょっと変だけど! なんか変な臭いもしたし……。止まっていたロムルスの思考が一気に動き出し、脳が破裂寸前になる。

 自分の頭があまりよろしくないことはロムルス自身がよくわかっている。けれど、だから思ってしまうのだ。カンタレラと名乗っていた少年、彼が自分で言うほど悪い奴ではないんじゃないかと。

「あんな辛そうな顔でナイフなんか握ってんじゃねえっての……」

 自分を化け物だと呼んだ少年、彼がどうしても夜の森へと向かわなければならない理由はなんだろう? 自分から危険な場所に飛び込まなきゃいけない理由とは? 止めるロムルスに刃を向けてまで。確かめなければならないと思った。確かめて、なんだったら助けてやらねばと。その思考に根拠はない。ただの直感である。ロムルスは直感で動くことのできる人間だった。

「……つーか! あんなことしといてごめんもなしかっての! マジでちょっと怖かったんだからな!?」

 そしてようやくカンタレラに対する怒りが浮かんでくる。あの野郎、絶対会って文句言ってやるんだからな! 息巻いて森へと向かう。当てがあるわけではなかったが、カンタレラの特徴的な臭いを追っていけばすぐに見つかるだろう。

「それにしても妙な臭いだな……一体なんの臭いだ?」

 首を傾げつつ臭いを追っているうちに、それよりももっと妙な臭いを嗅ぐこととなった――錆びた金属にもよく似た、しかしそんなものよりもっと物騒な。

「――――血ぃっ!?」

 走る速度を上げる。間違いない、カンタレラの臭いと血の臭いは同じところから発せられている。一体何が!? まさか――ぞっとするような想像が頭によぎりかけたのを必死で振り払う。そうして見えてきた光景に思わず絶叫した。

「……何やってんだお前ッ!」

 血まみれになったカンタレラが誰かに馬乗りになって短剣を振り下ろそうとしていた。なぜとかどうしてとか考えている暇はなかった。とっさにカンタレラを突き飛ばし、のしかかられていた男を守る。ロムルスより少し年上くらいに見える程度の若い男だ。カンタレラに手ひどくやられたのか、カンタレラよりもひどく血まみれになっている。

「お前っ、人殺しを……!? おい、大丈夫かあんた!」

 ロムルスに全力で突き飛ばされたカンタレラは地面に転がり苦しそうに唸っていた。事情を聞くのはあとだ、とにかく今はこちらを……襲われていた男に目を向ける。

「あ、あ……大丈夫だよ、おかげで……」

「よ、良かったっ、無事か!」

「……栄養補給ができる」

「……え?」

 男の腕がロムルスの胸へと伸びた。そしてロムルスは呆然と自分の胸を見下ろす。なんで……そんな馬鹿な? なんで手が、まるでナイフみたいに胸に突き刺さってる?

「い……いてえッ?」

「は……ははははーッ!」

 ロムルスの胸をその手で貫きながら男は――吸血鬼は高らかに哄笑した! 彼の名はスナウト、肉体変化(メタモルフォーゼ)を得意とする吸血鬼である。彼が誇るのは自らの体を鋼鉄同様にまで硬化させる能力! この体を武器に何人ものハンターの刃をへし折ってきた彼は今に自分も『名』を持てると固く信じていた。どころか、『将軍』の地位も夢ではないと!

「残念だったなカンタレラ……これでまた形勢逆転ってわけだ! 俺にてめえの毒は通じねえ! てめえの薄っぺらい剣じゃあ俺に傷一つつけられねーんだからなあああああ!」

 ロムルスの胸から手を引き抜き、スナウトは付着した血をぺろりと舐める。しかし味が気に入らなかったのか、顔をしかめてぺっと唾を吐くと、どくどく血を流しながら倒れ伏すロムルスと地に這いながら睨んでくるカンタレラを見た。

「き、さまッ……」

「ったく、食事の邪魔するわその薄汚え血を飲まそうとするわ……てめえは楽には殺さねえぞ、すりつぶして切り刻んでクズ肉ミンチにしてやらあ!」

 カンタレラは立ち上がり、胸を貫かれたロムルスを見つめた。なぜついてきたんだ。あれほどやったのに? 胸から血を流す姿がかつて見た妹の最期と重なる。……今は悔いたり悲しんでいる暇はない。とにかく目の前の敵を倒さなければ。

「……殺す!」

 転がった裏切を拾いつつ腰に吊っていた手斧『逆賊』を取ってスナウトへと向かう。散々苦労して傷つけ弱体化させた体も先程の『栄養補給』で回復してしまったようだった。だが、倒し方は既に分かっている。硬質化したところで体から弱点が消えるわけでもなければダメージを負わなくなるわけでもない。できるだけ急所を狙いながら、手斧を鈍器として使いとにかく『叩く』。外傷ができなくとも、肉体にダメージが溜まれば肉体変化を維持できなくなるのだ。それを狙うしかない。

 だが。

「効くかよおおおお!」

「――っ!」

 硬い。明らかに先程、弱らせる前より硬くなっている――吸血したせいか。吸血鬼にとって人間の血はまさしく生命の源。吸血行為によって、他の生物が食事するよりもずっと顕著にその恩恵を受けることができる。逆賊でスナウトの腕を殴りつけるが、その硬さに衝撃が反射しこちらの腕がびりびりと痛くなってくる始末だ。

 ならば、と逆賊を素早く翻し、今度は脇腹へと打ち付ける。身を守る骨も筋肉も少なく、なおかつ臓器が近い部位――だがやはり硬い。叩けど叩けどまるで手ごたえがない。耳に痛い金属音ばかりが鳴り響く。この分では逆賊の方が先に刃こぼれしてしまいそうだった。

「くっ……!」

「どうしたそれで終わりか毒袋! 今度はこっちがお見舞いしてやるぜえ!?」

 一旦攻撃の手を止め後ろへ引いたカンタレラにスナウトはずんずん歩み寄り、金属的な光沢を放つ拳を振り上げる。全力の吸血鬼の力にあの硬さ。まともに食らえば殴られたところが吹き飛んでしまいかねない。カンタレラはとっさに手斧を盾のように構えた。

「ぐぁあああッ!」

 次の瞬間、カンタレラは手斧ごと後方へ十フィート近く殴り飛ばされていた。地面にしたたかに打ち付けられ、砂利が背中を削る。手斧を構えていた腕が痛みのせいか役目を放棄したように動かない。こうなるとスナウトの拳を真正面から受け止めた手斧の柄が折れなかったことが不思議ですらあった。さすがは吸血鬼由来の武器である。

「づ……っぐ……!」

「はははは、ざまあねえなあカンタレラ! てめえが倒したっていうコスタードもよっぽど雑魚だったんだろうなあ! てめえの首をカミラ様に差し出せば今に俺も『名有り』だあ!」

 起き上がろうとするカンタレラをスナウトはげらげら笑いながら足で踏みつけた。斬撃主体のカンタレラと硬化能力のあるスナウト、明らかに相性が悪すぎた。しかし何か妙だとも思うのだ。たった数滴血を舐めた程度でここまで能力が強くなるのか……? 大して美味そうなわけでもなかったが、とスナウトの踏みつけを耐えながら思考を巡らせ、スナウトが吸った血の持ち主を見る。見ようとした。

「…………な」

「遊びは終わりだ! くたばりやがれえええええ!」

 カンタレラが目を見開いたことに気づかず、スナウトは足を振り上げカンタレラに振り下ろそうとした――そしてその足がカンタレラに落ちる寸前に、背後からぶつかってきたものに思いきり吹き飛ばされた。

「ぎゃばあああああああああああ!?」

「へ……へへ、ざまあみやがれっ!」

「な……お前」

 スナウトの体は周辺にあった木にぶつかることによって停止する。硬化したおよそ百三十ポンド超の重さの物体にぶつかられた木は大きく軋んだが折れることなくスナウトを受け止めた。カンタレラは呆然とスナウトへタックルをかました人物を見上げる。ついさっき殺されたはずの男だ。

「……ロムルス」

「つーか、いってえええええ! マジ死ぬ、マジ死ぬ! 死なないけどっ! でも死ぬだろあれ、死んだかと思って気絶したし!」

 ロムルスは大騒ぎしながら先程大穴が開けられたばかりの胸をおさえた。……馬鹿な、ふさがっている? なぜ……吸血鬼でもないのに、どうして? 疑問を持ったのはスナウトも同様で、立ち上がりながらロムルスに向かって怒鳴りつける。

「……な、なんなんだてめえ! さっき死んだんじゃなかったのか!?」

「なんなんだはこっちの台詞だぜ……助けてやったのにいきなり殺してくる奴があるか!? カンタレラが殺そうとしてた理由がわかったぜ、お前が悪い奴だったんだな!」

 スナウト達の疑問に答えずロムルスは一方的にまくしたてる。いや、だからなぜ死んでいないんだお前は……ぐるぐる疑問を渦巻きにするカンタレラを尻目にロムルスはきっ! とスナウトを睨みつける。

「……あんまり気は進まねーけど、お前みたいな奴ほっといたら絶対駄目だからな。死んでもらうぜ、悪いけど!」

「な、何言ってんだてめええええ! くそ、殺し直してやる!」

 わけもわからないまま走り出したスナウトに、ロムルスはすうっと深呼吸して空を見上げる。月を映すその虹彩が瞳いっぱいに肥大化したのをカンタレラは見逃さなかった。

「――変身、だぁッ!」

 変貌していくロムルスの肉体。その変化をカンタレラは一生忘れないだろう。それはあまりにおぞましく、しかし神秘的な光景だった。

 ごきごきと筋肉を増大させながら変わっていく骨格。纏っていた服は一瞬で引き裂け、首にはまっていたチョーカーだけが名残のように残る。長かった髪が髪紐を千切りながらさらにどんどんと伸びていき、それに合わせるようにロムルスの全身に銀色の体毛がびっしりとくまなく生えていく。鋭く伸びた爪、大きく裂けた口からは獣のそれそのものの牙が覗く。尖った鼻づら、天を指す耳、腰の付け根から生えたふさふさとした尾。ああ、その姿は間違いなく。

「……人狼だとおおおおおおおお!?」

「失礼だな、狼人間って呼べ!」

 スナウトに向かって叫ぶロムルス――だった人狼。その姿は狼と人間を掛け合わせたような冒涜的な異形。しかし何事もなかったかのように、その人狼はロムルス同様の振る舞いをした。

 人狼。かつてモルガーナの手の内にいた頃聞かされたことがある。かつて魔女と吸血鬼が戦争をしていた頃、どちらかの陣営の変わり者が人間を元に造った生物兵器だと。人間の知能と獣の力を持つそれらは敵を容赦なく殺したが、ほとんどの個体に理性がなかった為味方まで襲いだし、追い詰められた両陣営は休戦して一時協定すら結ばれるような事態にまで追い込まれたと。目の前の人狼、ロムルスは理性をなくしたような様子はないが……。

「やべ、腹減ってきた。まず肉食いたい」

 なくしているかもしれない、理性。

「……くそ! 何がなんだかわからねーが関係ねえ! まずてめえから挽き肉にしてやらあ!」

 事態をまったく把握できていないスナウトは硬質化した手で貫手を作り人狼ロムルスへと迫る。またロムルスの胸に大穴を開けるつもりなのだろう。まずい、止めなければ! がくがくと力の入らない体をカンタレラは無理矢理起こす。

 しかし。

「がるるっ!」

「なッ!」

 ロムルスは貫手を素早く叩き落としスナウトの懐へ入り込む――ぐるぐると喉から唸り声をあげながら、限りなく前足に近づいた手で無理やり拳を握り、スナウトの腹部へ殴りつける。

「さっきの、お返しだぁっ!」

「ぐああああああッ!」

 ごぉん、とまるで鐘でもついたかのような音が響いた。スナウトの体は全身くまなく硬化していたらしい――しかしそんな体を殴りつけたというのにロムルスの顔色が変わった様子はない(カンタレラは元々狼の表情などよくわからないが)。逆にスナウトが体を九の字に曲げながら顔を苦悶の表情に歪めている。べきべきと、何かが折れているような音が後に続く。

「ぐ……て、てめえッ……」

「あと、これはカンタレラの分!」

「ごべらっ!?」

 続いてロムルスの左ストレートが容赦なくスナウトの頬へと叩き込まれる。硬化しているはずの顔が本来あり得ない形状に変形している。どうやら骨が折れたらしい。もしもカンタレラがカンタレラでなければスナウトに一瞬でも同情していたかもしれない有様だった。

「吸血鬼だかなんだか知らないけど、お前は多分人間の敵だ。人間の敵は、俺の敵だ!」

「ふ……ふざけんなあああああ! 何が人狼だ、血袋のくせにいいいいいい!」

「げっ!」

 と、顔面が醜く歪んだスナウトが最後の抵抗とばかりにロムルスの肩へと噛みついた。いくら剛力を誇る人狼でも血を吸われてただで済むはずがない。スナウトを引きはがそうとするロムルスだが、スナウトはまさしく必死に食らいついている。ロムルスの鼻面に次第にしわが寄り、息が苦しそうに荒くなりだした。

「く、そぉおお……!」

「このまま……ありったけの血を吸ってやらあ……!」

 ダメージで硬化が弱くなっていたスナウトの体に再び硬さが戻りはじめる。くそ、ミイラは嫌だな、早く離れろよ! 血を吸われていく感覚にぞわぞわしながらスナウトを剥がそうとしていた、そのときだった。

「……げがッ!?」

 何やらスナウトが奇妙な悲鳴を上げる――見ると、スナウトの首に後ろから刃が突き刺さっていた。見覚えのある刃だ、ロムルスの首にも突き立てられそうになった。

「……さっさと地獄に落ちろ、吸血鬼」

 自分で斬りつけたのか、腕からぽたぽたと普通より黒く見える血を流しながらカンタレラが呟いた。それと同時にスナウトの体が首を起点にどんどんと黒く腐っていく。肩にかじりついていた口や組み付いていた腕がぽとりとロムルスに落ちてきて思わず「うげ!」と悲鳴を上げる。

「が、あああああ……」

 最後に聞こえてきた断末魔ははたして幻聴だったのか、ついにスナウトは黒く腐り落ち原型をとどめなくなった。肩から血を流したままはあはあと息を吐くロムルスと、傷を庇いながら裏切を握るカンタレラだけが残される。

「………………」

「………………」

 そして、沈黙。

「…………お前は」

「ごめん、カンタレラ!」

 逡巡した末に口を開いたカンタレラを遮るようにロムルスが言った。出鼻をくじかれて再び沈黙するカンタレラに構わずロムルスは謝り続ける。

「とっさだったからびっくりして……お前が人間を殺そうとしてるのかって思っちまった! 事情も聞かずに突き飛ばしたりなんかして、ホントにごめんな!」

「………………」

「さっきの痛くなかったか? 痛かったよな!? わりと力いっぱい突き飛ばしたもんな! 本当にごめん!」

 カンタレラの言い分すら聞かずひたすら平謝りする人狼の姿に思わず力が抜ける。裏切を鞘に納めると、小さく「……もう、いい」と呟いた。

「え?」

「いい。……もう終わったことだ。……それに」

 俺もお前に、と言いかけ、ロムルスが何も気にしていないらしいことに気づいた。そもそも殺すと脅されながらなぜついてきたのだろう、この男は。そのうえそのことよりまず自分がしたことを気にするのか、少し誤解しただけの話なのに。なんだかどんどん力が抜けていく。

「それに、なんだよ?」

「………………」

 カンタレラは黙って歩きだす。

「あっおい待て! どこに行くんだよ!?」

「街だ」

「街?」

「用は済んだ。宿を探しに行く」

「や、宿って……」

「一緒に探してくれるんじゃあなかったのか」

 男と一緒の宿に泊まるような趣味はないが、礼代わりに一晩の宿代くらいは出してやろうと思った。ちょうど、金なら腐るほど持っていることだし。

「い、いいのか!? やったあ! ……あ、駄目だ、ちょっと待て!」

「なんだ」

 突然顔色を変えたロムルスに訊ねると、気まずげに頭をかいている。

「その、さ……服の予備とか、持ってたりしない?」

 人間に戻ったロムルスは、丸裸になっていた。


吸血鬼大全 Vol.338 スナウト

肉体変化によって自分の体を硬化させることを得意とする吸血鬼。まだ他の吸血鬼からの知名度は低く、二つ名はない。

自己顕示欲が強く、自分の実力は『将軍』にも劣らぬものだろうという驕りがあったが、カンタレラに目をつけられ、さらに人狼と出くわしてしまうという不運に見舞われ結局名を示さぬまま命を落とした。

彼の自己評価とは裏腹に、実情はカンタレラに傷をつけられず、どころかロムルスの手助けと吸血がなければ早々に死んでいた程度の実力しかなかった。名はその程度で貰えるほど安くはない。

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