第二十八話 彼に免じて
「あの少年を今すぐ粛清すべきです」
ドミニコ・ベネデッティは極めて落ち着いた様子で言った。
「地上の様子を見たでしょう。あの惨状は、すべてあの少年のせいでもたらされたのです」
「ハイドとその一味がやったって話じゃなかった?」
「ええ。ハイドの侵攻こそ、あの少年の仕業によるものです。数ヶ月前、彼はハイド狩りに手を出していたでしょう。そのせいで挑発されたハイドが報復に来たのです」
「ずっとこの調子なんですよう」
食料の整理をしながら、ジュビアは弱り果てたようにシャルル=アンリに言った。
クローゼンベルクは教会地下墓所――ハイドの襲撃をかろうじて生き延びた吸血鬼ハンターと町民達は現在ここを拠点として生活していた。ハイド達はとうに去ったものの、あの恐怖の一夜を忘れられない人々は地下に籠り、ハンター達が食料調達の合間に回収してきた身内の亡骸の近くで無気力にうずくまっていた。
「本当にひどい有様だね」
外にいるよりは、とシャルルに連れられてきた老婆ゼルマはこの悲惨な光景を前にそう呟いた。
「あたしの村とどっちがひどいやら。ここにも人狼が来たのかい? それとも竜でもやってきたかい」
「そんなところかな」
シャルルアンリは上の空で答え、ドミニコを見た。彼がおかしいのはいつものことだが、今回は一段とタガが外れているように見える。ハイド一味との交戦で何かあったのだろうか?
「ハイドがカンタレラを探してる口ぶりだったみたいなんですよ。ドミニコさん、それ聞いてカンタレラのせいだーって思い込んじゃってるらしくて……」
「確かコーハイクン、ハイドにボコボコにやられて見逃されたって聞いたけど。一度逃した獲物をまた狩りに来たってこと?」
「吸血鬼の考えることなんてわかりませんよう。こっちは他の人の気持ちだってわからないのに……」
ジュビアは怯えきった様子でドミニコの顔を窺いながら言った。何があったにせよ、面倒な状況になっているのは事実だった。
(それがマジなら、ハイドはまたカンタレラを狙って攻めてくるかもだよな? ドミニっちもドミニっちでカンタレラにブチおこみたいだし……一回コーハイクンと合流して隠れさせないと……)
しかしちょうどそのとき、地上に繋がる階段から数人が降りてくる足音が聞こえてきた。クレスニクの「戻ったぞ」と酒焼けした無感情な声が響く。ドミニコの視線も自然とそちらに向いた。
「お帰りなさい、クレスニク。……彼らは」
クレスニクは面倒臭そうな舌打ちで答え、気だるげに床に座り込んで革袋を下ろした。中では泥で汚れた人形――もといネッサローズが微笑みを浮かべている。クレスニクに続いて降りてきた不安げな顔のビーチェと仏頂面のヤン、気まずそうな笑顔のロムルスが地下墓所の人々の視線を浴びる。
「あわわわわ……」
これから起きるであろう惨劇を想像してか、ジュビアが顔を青ざめさせる。
「カンタレラ」
ドミニコが静かに呟く。しかしその顔に浮かんだ表情は怒りではなく困惑だった。
「……その姿は」
「魔女との契約が切られたのですわ」
ふいにネッサローズが鈴を転がすような声で言った。
「魔女にもたらされた魔法も消え、カンタレラ様は正真正銘、汚れなき人間に戻ったのです」
ネッサローズの言葉に、ドミニコはらしくもなく目を瞬かせ、上ずった声を出した。
「人間?」
「何わけのわかんねえこと言ってんだ? ヤンは人間に決まってるだろ。魔女とか、そんなの関係ないじゃねえか」
首を傾げるロムルスをよそに、ドミニコは開いたままの唇をわなわなと震わせた。顔からどんどん血の気が引いていく。
「人、間――」
「ドミニっち?」
顔を土気色にしたドミニコは、そのままばったりとその場に倒れ込んだ。
「縛り上げてどっかに寝かせとけ」
クレスニクは簡潔に指示し、再び酒をあおった。
「ドミちゃん、ここのところずっと働きどおしで全然休んでなかったものね。寝るどころかほとんど飲まず食わずで動いて、生き残った人を探したり食料を集めたり……」
「ありがたいですけど、さすがに働きすぎでしたよ。だから今日くらい休んでもらおうとしたら、今度はカンタレラさんがどうこうって言って暴れ出すし……もう、本当に大変だったんですよう!」
ハイドの襲撃がクローゼンブルクの街にどれほど甚大な被害を与えたのか、地上の有様と地下に隠れる人々を見れば充分すぎるほど理解できた。
途中で見た何人もの屍。跡形もなく倒壊した馴染みの店。すべてが、たった一日で失われてしまったのだ。……吸血鬼ハイドの手によって。
なぜハイドが? 俺のせいだと言っていたか? ハイドが俺に報復しにきたのか?
俺のせいで、クローゼンブルクの人々は街ごと殺されてしまったのか?
「おい、ヤン……」
ロムルスの声に我に返る。ロムルスの顔色もあまり良い物だとは言えなかった。
「とりあえず、用件は済ませなきゃいけないだろ。ネッサローズ、だったよな? 魔法の手がかりを持ってるかもしれない奴って……」
「ああ。……だが」
すっかり干からびた干し肉を噛みながら辺りを見る。地下墓所の中央広場には即席の寝台や藁が並び、家をなくした住民達の仮住まいとなっている。ハンターの生き残り、ビーチェやジュビアはそんな住民達や意識を失ったドミニコに甲斐甲斐しく世話を焼いていた。だが、その中にネッサローズとクレスニクの姿はない。二人はいつのまにか別室に籠ってしまったらしい。二人きりで一体なんの話をしているのだろうか。まさか、ハイドとヤンの一件ではあるまいか。
「おい、どうしたんだよ。顔が真っ白だぜ?」
「カンタレラの血が抜けたからな」
「そうじゃなくって……さっきから黙りこくってるしさ」
「元からだ」
「そうじゃなくってさあ……」
ロムルスは困ったように頭を掻いた。そしてしばらく迷うように視線を泳がせたあと、意を決したように息を吐いた。
「なあ、ヤン、オレ……」
「ぎゃあ! なんだい、このじじい!」
どこからかゼルマの悲鳴があがる。見ると、腰を抜かしたゼルマの横に男か女かもわからぬほど老いた老人が這いつくばっていた。
「そこに薬があるのさあ。取っておくれよう」
「何言ってるんだい、どこにあるっていうのさ! ええいあっち行ってよ、気味が悪いね!」
「じいさん」
見慣れた姿に思わず駆け出す。目は虚ろで、最後に会ったときよりも痩せ細っている。だが、生きている!
「じいさん!」
「なんだ小僧、あんたの知り合いかい?」
「おお、お前さんかい」
ヤンが手を取ると、『じいさん』はしわだらけの顔を歪めて笑みを作る。それを見たヤンは街に戻ってきて初めてほっとした気分となった。
「じいさん……」
「また背が高くなったねえ、クレスニク」
にこにこと笑う『じいさん』が口にした言葉に、ヤンは言葉を失った。
「……じいさん、俺は」
「少しやつれたねえ。ちゃんと休んでいるのかい? アルトゥールから手紙が来ていたよ、たまには遊びに行ってやったらいいのに」
「もう駄目だ。イカレちまってる」
後ろからクレスニクの声が聞こえる。
「クスリにやられたか、どっかで頭を打ったかしたんだろう。もう一人でメシも食えなくなっちまった。吸血鬼共に食われるよりかはマシだろうがな」
「クレスニク……」
『じいさん』はクレスニクの言葉が聞こえていないのか、笑ったままヤンの手を握りしめている。ヤンが硬直したまま動けないでいると、クレスニクが頭をはたいてきた。
「来い、クソガキ。てめえのほうから話があるんだろうがよ」
「……ああ」
「お、オレも行くからなっ!」
慌てるロムルスにクレスニクは小さく舌打ちし、黙って歩きだす。ヤンは微笑む『じいさん』からそっと手を離してその後を追った。
クレスニクは広場を抜け、薄暗い通路を少し歩いて広場の半分ほどの部屋に入った。祭壇や長椅子が並べられたそこはかつて礼拝堂だったらしい。ネッサローズは部屋の奥の祭壇に人形のように腰かけている。その光景にふと嫌な記憶を思い出し、ヤンは顔をしかめた。
「あれ? ロムロムクンも来たの?」
シャルル=アンリも呼ばれていたようで、長椅子に行儀悪く腰掛けながらヤン達に手を振った。
「ご自慢の毒血がなくなっちまったんだとな」
クレスニクが横柄に言った。
「魔女との契約が断たれたのです。今のカンタレラ様の血液にはなんの力もありません。吸血鬼に浴びせても美味しい食餌になってしまうだけですわ」
「さすがー、全部お見通しなんだね、ローズちゃん」
軽薄な口調とは裏腹にシャルルの眼差しは険しかった。
「やっぱりわかるんだ? 魔女とか魔法のこと。キミが『魔女人形』だから?」
「本物の魔女には敵いませんわ。わたくしにはカンタレラの毒を扱うことはできません」
ネッサローズは愛らしい声で答える。
「ですが――カンタレラ様が毒血を取り戻せるように力添えすることは可能です」
「てめえがどうなろうと知ったことじゃねえがな。てめえの毒血がねえと面倒だ。ハイドを仕留められるたった一つの武器だからな」
「お、おい、今なんてった!? ハイドの奴を……仕留めるだって!?」
「まあ、そうするしかないよね」
仰天するロムルスに困り顔で溜め息をつくシャルルアンリ。
「ハイドはコーハイクン目当てで来たんでしょ? ハイドが人間一人のためにここまでするなんてそうそうないよ。完全に目ェつけられてんじゃん。コーハイクンがハイドに殺されるか、こっちがハイドをブッ殺して止めるかしないと、また同じことが起きるよ」
「また……沢山人が殺されるって言うのかよ……!?」
シャルルアンリの言う通りだった。ハイドの狙いがヤンならば、いずれまたヤンを狙って別の町や村を襲うだろう。そうしてその町もまたクローゼンブルクのように壊滅し――罪のない人々が殺されてしまうのだ。
ハイドを殺さなければ。そう考える頭とは裏腹に、ヤンの身体は震えていた。
「倒せるのか、ハイドを」
「ヤン……」
「誰が、あいつを倒す。あいつは怪物だ。カンタレラがあったって、あいつには効かない。一体、どうやって倒せばいい?」
ロムルスは信じられない思いでヤンを見た。ロムルスにとってもハイドは恐ろしい化け物だ。もし再び遭遇してしまったらと考えるだけで背筋が凍る。だが、ヤンもそうなのか? どんな吸血鬼と相対しても不遜な態度で「殺す」と言い放っていたあのヤンが、まるで怯えているかのように震えている。……いや、当たり前だ。あんな化け物に殺されかけて、怖くないはずがないのだ。まして、毒の血すら失ってしまった今のヤンならば。
「怪物を殺すのが俺達の仕事だろうが」
対して、クレスニクは平常通り据わった目で言う。
「殺せるかどうかなんて考えてるような場合か? 殺さなきゃ、てめえがおっ死ぬだけだ。それともハイドに殺されるのを待つってか?」
「ここでコーハイクンを始末しちゃうってのもアリじゃね?」
は、と息を吐く暇すらなかった。いつのまにか首筋に戦斧の刃がつきつけられている――シャルル=アンリが得物を抜いて、ヤンの後ろに立っていた。
「シャルル……アンリ」
「ハイドが倒せない、ならこうするしかないでしょ。カンタレラを殺して、ハイドの前にぶん投げておく。そのまま満足して帰ってくれれば御の字だし、失敗しそうだったらそれを囮に全力で襲い掛かる」
「何言ってんだよお前!? そんなこと……」
「あのねえ。ナメてんじゃねーぞ、お坊ちゃん」
ヤンからはシャルルの顔は見えない。血に飢えた吐息が耳や首にかかるのを感じるだけだ。
「わかってんだろ? そうだよ、オマエのせいなんだよ。お前が藪蛇突っついたせいでこんなことになっちゃってんの。それが何、『ボク戦うの怖いでちゅ』って? ふざけんな」
「………………」
「口つけた料理残して帰るなよ。金が払えないなら皿くらい洗ってけ。オマエにはハイドと戦ってブッ殺される責任がある。それが無理なら、今ここで死ね。元凶のオマエの首を晒しとけば、ドミニコも生き残った人達も溜飲くらいは下がるだろうからね」
耳元に吹きかけられる言葉とともに、シャルルアンリが昔語っていたことを思い出す。吸血鬼より人間を殺す方が楽しいという。人間は少し傷つけただけで泣き喚くから面白いと――
「本当にやめろっ! それ以上やってたら、オレがお前の首を噛み千切るからな!」
「そんなことできるの? 首輪なんかつけちゃって、躾られてるワンちゃんがさ……ま、別にいいよ? 多分それより早くコイツを殺せるだろうから……」
「わかった」
頷いたのはヤンだった。
「ヤン!?」
「俺はハイドを倒さなければならない。戦って、殺す」
そうだ……戦わなければ。勝てなくても、返り討ちにされるだけだとしても、ハイドと戦わなくてはならない。
復讐しなければ。
「茶番はもういい、シャルル。遊んでる場合じゃねえだろ」
「はいはーい」
クレスニクが気だるげに制止すると、シャルル=アンリはあっさりと得物を下ろした。しかし彼から漂う剣呑な雰囲気は未だ消えてはいない。
「今日のところはクレっさんに免じて許してあげるよ。また同じ弱音言うようだったら、そのときは今度こそ頭と体をバイバイさせてあげるけどね」
「ヤン! 大丈夫か!?」
「ああ」
頷くが、首筋に浮かんだ冷汗はいまだ引かない。
「だが……その前にカンタレラを取り戻さなければ」
「悪名高き大魔女、モルガーナのところへ行くのですね」
目の前で起こった修羅場がまるで見えていなかったかのようにネッサローズは微笑む。
「道案内はお任せください。魔女人形として全力を尽くして、魔女の結界を打ち破ってみせましょう」
◆
「やあ! 新生活は上手くいっているかい? ハイドの機嫌を損ねて頬をつねられたりしてない?」
サンジェルマンが訪ねてきたのはバートリーがハイド邸での暮らしに慣れてきた頃だった。
「あ、あの、サンジェルマン様……まだハイド様からの御許可が得られていないので、ひとまず客間の方へ……」
「大丈夫大丈夫。ハイド、まだ病気で寝込んでるんだろう? お伺いを立てに行っても機嫌を損ねて怒られるだけだよ。それに、ぼくはバートリーの友達だからね。バートリーが招いたことにすればいい」
ハイドの侍従(プールという、ルンゲより気弱そうな少年吸血鬼だ)の制止を振り払い入ってきたサンジェルマンは相変わらず馴れ馴れしかったが、慣れない環境に喘いでいたバートリーは懐かしさと心強さで胸がいっぱいになった。
「サンジェルマン! よくここがわかったな?」
「もっと早くに来れれば良かったんだけど、色々と支度にかかってしまってね。……エルちゃんは?」
「侍従達に遊んでもらっているんだ。最近は勉強が楽しいらしくてね、書き物をしたり、自分で本を読んだりしてる」
「きっと将来、きみに似て才女になるだろうね」
「よしてくれ」
ひとしきり旧交を温め合うと、サンジェルマンは真面目な顔になってソファに腰を下ろした。
「それで……ハイドの件はどうなったんだい?」
「いや、それが……」
バートリーは返事に窮した。ハイドの容態がなかなか快復せず、結局今宵に至るまで話すらできていなかったのだ。
「それは困ったな……このままハイドが床から出られなければきみはずっとここで籠の鳥になってしまうじゃないか。きみがここで暮らしていきたいっていうならそれでもいいけれど」
もちろんそれはごめんだ。ハイドの膝元にいて心が休まるわけがない。ハイドの本性を知ったらエルジエも怖がるだろう。バートリーだって早く用件を終わらせてここから出て行きたいのだ。
「ハイドの一刻も早い快復を願うばかりだよ」
「失礼いたします、バートリー様」
と、そこに侍従ルンゲがノックとともにバートリーの書斎へ入ってきた。
「おや、どうしたんだい? まだ食事には早いはずだけど」
「ハイド様がお呼びでございます」
ルンゲは嬉しそうな顔を隠せない様子でバートリーに報告した。
「ハイド様の御容態が快復しました!」
「悪かったな、『先生』? 何夜も待たせちまって……うちの奴らが迷惑かけてなきゃいいんだが」
久しぶりに顔を合わせたハイドは、最後に会ったときよりもやつれているように見えた――豹のようにしなやかな筋肉はここ数夜ですっかり落ちてしまい、着ているローブがだぶついてしまうくらい痩せていた。あまりに弱々しくなったハイドの姿にバートリーは驚愕に目を見張った。ハイドの『病』とは、ここまで重篤なものであったのか。
「見苦しいか、このナリが。ここんとこまともにメシが食えなかったもんでな? 食ったら元に戻る」
「ならいいんだが……」
「先生こそ、また痩せちまったんじゃねえか? うちのメシが口に合わなかったか?」
「と、と、とんでもない!」
大慌てで首を振る。下手なことを言ってハイドの機嫌を損ねれば自分の寿命が縮まるだけだ。
「僕は元々小食なんだ。体調が悪そうに見えたなら、もう少し食べるようにするよ」
「頼むぜ、先生。あんたが頼りなんだからなァ。……ところで」
ハイドがバートリーの後ろに視線を移した。そこには当然のごとくサンジェルマンが立っている。
「なんだてめえは。なんでここにいる? ホワイ?」
「気にしないで、帽子掛けか何かだと思ってくれればいいよ」
あからさまにサンジェルマンを不審がるハイドにバートリーははらはらする。サンジェルマンの親しすぎる物言いがハイドを怒らせなければいいのだが……。
「か、彼は僕の友達なんだ。僕の仕事が手伝いたいって言うんだけど……どうだろう?」
「……ハ、先生がそう言うなら仕方ねえな。黙って聞いてろ、ナッツヘッド?」
「はーい」
ハイドは舌打ちしながらグラスの血をあおる。グラスの飲み干したハイドの頬に血色が戻っていく。
「魔女のモルガーナなら俺様の呪いを解けるかもしれない。そう言ったな?」
「ああ。モルガーナは今生き残っている魔女の中でも最上位の存在だ。彼女なら、いかに強力な呪いでも対処できるだろう」
バートリーはペンを弄びながら答えた。
「だが……問題が一つあるんだ」
「なんだ?」
「モルガーナは自分の棲処に常に結界を張っている。招かれざる客を拒む結界だ。この結界を破らなければ、モルガーナを捕まえるどころか近づくことすらできないんだ」
「その結界はどうやったら破れるんだ?」
「それが……」
バートリーは言葉を濁す。その答えは、バートリーの『知識』においても解決しがたいものだったからだ。
「……魔法しかない。結界を破るには魔法を使うしかないんだ」
「……オーケイ」
恐ろしいほど長い沈黙のあと、ハイドが言った。
「つまりこういうことか? モルガーナをとっ捕まえるにはもう一人魔女が必要……しかも『最上位の魔女』の魔法を破れる奴を連れてこなければならねえ」
「あ、ああ。そうなんだ」
「そんな奴がどこにいるんだ? あァ?」
ハイドの額に青筋が浮かんでいる……! まずい、バートリーは内心慌てふためく。しかしそれがバートリーの導き出した最適解であり、それでいてハイドの指摘も正しいのだ。千年を生きる魔女の魔法を破れる魔女は果たして存在するのか? いたとしても、とうにハイドに殺されているか、モルガーナ同様結界を張って隠れているに違いないのに。
「や、やはり僕では君の役には立てなかったようだ……本当に、心から申し訳ないけれど……」
「ここにいるよ」
サンジェルマンがバートリーの言葉を遮った。ここまで『帽子掛け』に徹していた闖入者の発言にハイドも一瞬呆気にとられる。
「……ホワッツ? てめえ、今なんつった?」
「ぼくならモルガーナの魔法に対抗できるって言ったのさ。きみの呪いを解くことはできないけど、そのくらいならできる」
半ば放心状態のバートリーに向かってウインクしながら言う。あたかもそのために今ここに立ち会っているかのように。
「バートリーくん。彼とふたりきりで話がしたいんだ。少しだけ、席を外してくれるかい?」
いたずらっ子のように笑う彼に、バートリーはわけもわからず頷いた。
「どういう意味だ?」
バートリーが部屋から出て行ったあと、さすがに動揺を隠せないらしいハイドが言う。
「てめえは魔法が扱える……そう言ったのか?」
「うん。なんだったら、この場で見せてもいいけれど……」
サンジェルマンがそこで口を閉ざしたのはもったいぶったからではない。一瞬でハイドに喉を掴まれたからだ。
「――うぐッ!」
「愉快なジョークだな、リトル?」
サンジェルマンの喉に爪を立てながらハイドが笑う。サンジェルマンの命運が文字通り握られている状態だ。
「『魔女狩り将軍』の俺様に向かってなァ、あァ? 吸血鬼に魔法が使えるわけがねえ。吸血鬼には人間どもが持つ『魔力』とやらはねえんだからな。てめえがペテン師か、それとも魔法で化けやがった魔女だってことだな?」
「うっ……くぅうう……!」
ハイドの腕を掴み、サンジェルマンは必死で呼吸を試みる。この反応は予想できていた。しかし、ここで殺されるわけにはいかない。必死に力を振り絞り、手に力を込め、言う。
「い、れずみを……見て……」
「あァ?」
首を絞める力を弱めずにハイドは視線を自身の胸元に落とす。はっと息を呑むのが朦朧としてきた意識にも伝わる。ハイドを蝕む刺青の一部が消えていた。
「ぼくにできるのはこれだけだ……だけど、ぼくはきみの味方がしたい。話だけでも聞いてくれると助かるんだけど……」
「…………ちっ」
眉をひそめながらサンジェルマンを放すハイド。サンジェルマンはその場に崩れ落ち、ぜえぜえと呼吸を整えた。
「てめえはなんなんだ? 匂いは間違いなく吸血鬼だ。だが、マジに魔法が使えるらしい。一体どっちなんだよ?」
「吸血鬼……だよ。きみと同じ、ね……」
ハイドは喘ぎながら微笑むサンジェルマンを計りかねていた。魔女ならばのこのこと自分のところへやってくるはずがない。だが、吸血鬼ならばなぜ魔法が使える? こいつの真意はなんだ?
「バートリーくんのためだよ……彼を助けたいんだ。きみの願いを叶えるためには、彼の力だけではきっと足りないだろうから。ぼくは魔法が使える。呪いを解明したり、モルガーナを捕らえるのに絶対に役立つよ。どう、かな?」
「望みを言え。何が目的だ? 俺様の首級か?」
「バートリーくん達の、安全で幸せな生活、かな」
蛇に睨まれた蛙のように、サンジェルマンはその場でじっとハイドの回答を待っていた。すると、ハイドは自分の左手の中指を掴んだかと思うと、髪の毛をむしるような乱雑さでそれを引き千切り、サンジェルマンに向かって投げつけた。
「何を……ううッ!?」
先程まで中指だったそれは意思を持つかのようにサンジェルマンの体を這い回り、ハイドの掌の痕がくっきりとついた喉元に巻きついた。変形し輪上になってサンジェルマンの首にしっかりと巻き付いたそれは、傍目からは趣味の悪いチョーカーのように見えた。
「ミスター・バートリーに免じて、てめえの手を借りてやる」
なくなった中指をすぐさま再生させながらハイドが言う。
「だが、信用はしねえ。てめえが妙なことをしたときは、そいつで始末する」
「わ……わかったよ」
首元でどくんどくんと『ハイドの中指』が脈打っている。見た目も変化しており、一見しただけでは革製の装飾品のようにしか見えない。しかしそれがそんな生易しいものではないことが、首輪の裏から生えサンジェルマンの首に突き刺さった小さなトゲが物語っている。
「しっかり働けよ、リトルドッグ?」
「もちろん。きみのために全力を尽くすよ」
首輪に血を吸われ、顔を青ざめさせながらサンジェルマンは不敵な笑みを浮かべた。
「どうしたんだ!? その姿は……!」
部屋の前でやきもきと待っていたバートリーは、部屋から出てきたサンジェルマンの姿に絶句した。服が乱れ、顔は病にかかったように青ざめている。
「ハイドの怒りを買ったのか!? なんてことだ、僕が説得してくるから……」
「大丈夫。もう話はついたよ」
シャツの襟を正し、さりげなく首輪を隠しながらサンジェルマンはなんでもない風に言った。
「ぼくも一枚かませてくれるって。これからきみをしっかりサポートするから、よろしく頼むね」
「サンジェルマン……」
バートリーは困惑しきっていた。いくら優しい友でも、ここまでしてもらうのは心が痛む。どうして彼は自分にここまで尽くしてくれるのだろう?
「友達だからね」
バートリーの心を読んだかのようにサンジェルマンが言う。
「きみのためなら、ぼくは命だって惜しくないんだ。どんなことだってしてみせるよ。だから、ぼくを信じていてね?」
無二の友に対して初めて恐怖を抱いたことに気づかぬまま、バートリーはゆっくり頷いた。
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