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第三話 子羊に救いを

 ランプの灯と月明かりを頼りに青毛の馬は開けた林道をゆったり歩く。なんてことのない夜の風景も、外出を禁じられたエルジエには何もかもが新鮮だ。

「知らなかった! 馬って夜も歩けるんだね!」

「僕達ほどではないけれどね。ただ、馬は視界が凄く広いんだ。振り向かなくとも後ろが見えてしまうくらい」

「凄い! ねえねえ、わたしの顔も見えてる?」

「こらこら」

 馬の首を叩いて気を引こうとするエルジエをバートリーは後ろから諌める。馬はぶるぶる小さくいなないたものの、さほど気にはしていないようだった。ふたりを乗せたまま暴れ馬になったらたまったものではない。しかし、子供らしく楽しそうにはしゃぐエルジエの姿を見ていると自然と頰が緩む。

「ねえ、あとどのくらいで着くかな?」

「そろそろ見えてくるはずさ。……疲れたのかい?」

「ううん! とっても楽しい!」

「良かった」

 振り向き、笑顔を見せる彼女の頭をそっと撫でる。同時にエルジエがバランスを崩して落ちないようにそっと抱え直した。

 少し時間が早かったかと着いた時には思ったが、テュバルの店は既に賑わっているようだった。森の奥深くには不釣り合いな民家風の建物。もしも人間が迷いこめば酒場にでも間違えてしまうだろう。しかし入れば最後、自らが食材にされ調理されてしまうのだ。

「うわあ、美味しそうな匂い!」

 厩に馬を繋いでいると、エルジエがはしゃいで店の窓を覗き込む。美味しそうな……匂い。その言葉に一瞬硬直してしまったことをエルには悟られなかっただろうか?

「ね、バートリー!」

「……あ、ああ」

 新鮮な血の匂い。焼き焦がされる肉の匂い。人間の死体の香り。普通の吸血鬼なら、とてもとても甘美に感じられるのだろう。

 普通の吸血鬼ならば。

「どうしたの? 早く入ろう?」

「うん……入ろう」

 胃の底から這いあがる衝動。血肉の匂いに刺激されて催した吐き気を呑み込み、エルジエと手を繋いだ。



「あらま! お久しぶりですねバートリーさん! ……あらあら!? こちらの可愛らしいお嬢さんは!?」

 料理人テュバルの視線はあっという間にバートリーからエルジエに移る。吸血鬼はほとんどの個体が成体、あるいはほとんど成体に近い状態で《発生》するため、エルジエのように幼い吸血鬼はめったに見ることはない。感覚器官が鈍い吸血鬼ならば人間と勘違いしても無理はないだろう。

「エルジエ。僕の……家族だ」

「家族……へええ」

 微かに首を傾げたものの、すぐに納得したらしく愛想の良い笑みを浮かべなおす。吸血鬼に生殖機能や交配の手段はなく、通常人間が言うような《家族》関係は結ばれることはあり得ない。しかし物好きはどこにでもいるもので、師弟関係や友情を兄弟などと言い換える吸血鬼は少なくない。そも、吸血鬼はすべて父祖ブラムから生まれし兄弟姉妹なのだと主張する吸血鬼すらいる。見た目の幼い吸血鬼を拾って育てているのだろう。テュバルはそう結論付けた。

「そりゃ羨ましいなあ、こんな愛らしいお嬢さんが家族だなんて! エルジエちゃん、どうせならうちに来ませんか? 毎日美味しいご飯ご馳走しますから~!」

「テュ……テュバル」

「うーん、ご飯は食べたいけど……バートリーとずっと一緒にいるって約束したもん」

「あらまそりゃ残念! くぅー、憎いねえ、この色男っ!」

「テュバル……」

 肩をばんばん叩かれ思わずため息をつく。こういうからっとして裏表のない性格は知己としてとても好きなのだが、言ってしまえば根暗のバートリーには少々付き合いづらい面もある。失敗したかもしれない、と早くも思い始める。

「僕にはグラスを。エルジエは……」

「ねえねえ、何かおすすめってある?」

 席に着き、注文しようと口を開いた途端に身を乗り出してテュバルに訊ねるエルジエに驚く。女の子だからだろうか、ことに積極性においては既にバートリーを上回っている。

「そうですねえ、今晩は良いもも肉が手に入ったんですよ。ちょっと火を通しただけでとろけるくらいに脂がたっぷりのった特上品です」

「美味しそう! それにする!」

「はいはい。もも肉のステーキとグラス二つでよろしいですね?」

 注文を取り終え厨房へ向かうテュバル。その間にも注文が飛び、「はーい!」と元気よく返事をする。ひとりで切り盛りしているようだが、この賑わいでそれをまったく苦にしていないのはさすがだ、とバートリーは思う。

「シャイロックは元気にしているかい?」

 店内の客が少しずつ減り落ち着いてきた頃合いを見て切り出してみる。エルは既にステーキを夢中で頬張っている。

「ああ、あいつと何かあったんです? 前にぼやいてましたよ、『バートリーの旦那、最近ちっとも仕事をくれねえ』なんて」

「色々折が合わなくてな……彼には悪いことをした」

 実のところ、彼を避けている理由は目の前にいる家族にあるのだが、口にできようはずもない。「いずれまた機会があれば、と伝えておいてくれ」と曖昧に笑む。

「そういえば、どうしてまた店を移したんだ? 常連が通い辛くなるだろうに」

「いやあ、まあ……ほら、最近物騒でしょう? なんでしたっけ、噂になってる……カンタレラ」

 テュバルからその名を聞いたとき、自分でも自覚できるくらいに顔が青くなった。

「あ、ああ……噂の」

「前のとこの近くで、あれが出没してるって噂になりましてねえ。実際、来なくなった常連さんも出てきちゃいまして……商売も命あっての物種ってやつです」

 笑いながら皿を片付けているテュバル。テュバルやバートリーのように腕っぷしに自信がない吸血鬼は決して少数派ではない。しかしプライドや意地の強い者の多い中、商売よりも自分の身の安全を取れるテュバルはバートリーより遥かにしたたかに映った。

「そうだな……君の言う通りだ」

「バートリーさんも気をつけてくださいよ? お得意さんだったペリゴールさんがいなくなってからこっちもかつかつなんです。これ以上お客がいなくなったらたまりませんよ」

「ペリゴール?」

 テュバルの口から出た名前にどきりとし、腰を浮かせかけた。

「ペリゴール……あの悪食のペリゴールかい?」

「あらま、バートリーさんもご存知でしたか」

 身を強張らせるバートリーに気づかず、テュバルは嬉しそうに声を高くする。

「そうそう、あの食いしんぼさんのペリゴールさんです。あんなお方が二人も三人もいたらぞっとしますよ、おっかない!」

「だあれ? バートリーの友達?」

 こっそり耳をそばだてていたらしいエルジエがソースまみれになった顔を上げる。

「いや……ただの知り合いさ。もう随分と会っていないよ、百年くらいは」

 彼のことを思い出し、心なしか痛くなってきた頭をさりげなくおさえながらバートリーは言う。

「しかし、彼が行方不明? ハンターにやられるような男には思えないけれど……」

「うちもそう思いますけどねえ。気まぐれな方ですし、案外もっと良い店か狩場を見つけただけかも。だとしたらちょっと嫉妬しちゃいますけどね!」

「そう……だろうね。僕には彼が、殺したって死ぬようには思えない」

 そう言って、彼が姿を消した、と聞いて少し期待をしてしまったことに気がついた。正直なところ、ペリゴールとは良い思い出がない。同胞に対してこんな気持ちを抱くべきではないのだが、いっそ本当に死んでくれていた方が安心する。

「いやー、それにしてもびっくりですよ、バートリーさんとペリゴールさんがお知り合いだったなんて! お二方が一体どんな話なさるのか、ぜひとも居合わせたかったですねえ!」

「期待されるほど面白い話はしないさ……そもそも彼は、」

「おーい、テュバルちゃん! おかわりお願いしていいかなあ!?」

「はいはーい!」

 と、別の客に乞われたテュバルがそちらへ向かう。話がぶつ切りながらも終わり、バートリーはほっと息をつく。バートリー達が話をしている間にエルはすっかり食べ終えてしまったらしく、ナプキンでごしごし顔を拭いた。

「美味しかった! もうお腹いっぱい!」

「それは良かった。テュバルが聞いたら喜ぶよ」

「……バートリーは食べないの?」

 と、エルジエが指したのは、バートリーに運ばれてから一度も口をつけられることなく、なみなみと血が入ったままのグラスだった。

「食べなきゃお腹空いちゃうよ? お腹空いてないよ?」

「あ、ああ……そうだね」

 しまった、と思う。バートリーは普段、滅多にエルジエの前では食事を摂らない。少食だから、と言い訳をしてはいるが、わざわざ注文したものを手も付けずに残してしまえばさすがに怪しまれてしまう。何よりテュバルに失礼だ。注文を運んだ客とまた何やら話し始めたテュバルに気を払いながらワイングラスを取った。

「……ごめん、なさい」

 誰にも聞かれぬよう、口の中でその言葉を呟き、息を止める。なるべく味を感じないように舌の位置に気をつけながら、バートリーはぐい、とグラスの中身を飲み干した。



  ◆



 こんなはずじゃあなかったんだ、とクインスは胸中で毒づいた。

 彼と悪友のシャロウ、ニムは久々の狩りを楽しむつもりで森へ来た。街と街の間に位置するこの森は夜でも近道を企んで旅人や商人が出入りする。だからこの少年もその手合いだろうと、いつものように合図して通りがかった彼に向かって一斉に襲い掛かった。一人の血を三者で分けることになるのだが、友と遊ぶ楽しさがスパイスとなって独りで飲む血よりも美味しく感じられるのだ。

 だがどうだろう? 真っ先に少年を押さえつけたニムが一番乗りで彼の首にかじりついた途端、突然ニムがびくびくと痙攣しながら断末魔めいた悲鳴をあげたのだ。いや、実際それは本当に断末魔だったのだろう。悲鳴をあげながら、ニムの体は生きながらにしてどんどん黒く腐っていった。その光景にぎょっとし、クインス達は少年の首を見た。そこから零れる血はインクのように黒くどろりとしていた。

「カンタレラ」

 凍りつくクインス達に、羊に擬態していた狼は薄暗い笑みを浮かべて立ち上がる。

「貴様達を地獄に送る者の名だ……しっかり覚えておけ、腐るまで!」

 狩猟者と獲物が逆転する。

「畜生ーッ! ニムに何しやがったーッ!?」

 硬直が解けたのはクインスよりシャロウの方が先だった。物質創造(クリエイション)を得意とする彼は慣れた手つきで右手にナイフを生成しカンタレラに切りかかる。カンタレラはすかさず短刀を抜いて応戦する。それが遥か東の国より伝来した妖刀『裏切(ウラギリ)』であることは当然クインス達が知る由はない。

「落ち着けシャロウ! くそっ!」

 先走る仲間に舌打ちしながら、クインスも意識のスイッチを入れた。クインスが得意とするは超感覚(サイコキネシス)、例えるならば目に見えない自分の肉体をもう一つ作るに等しい。無論二つの肉体を同時に操るのは至難の技で、戦闘力の高くないクインスが今回のように人間と戦う際はニムとシャロウのサポートに回るのが常だった。しかしニムは生き絶えシャロウは冷静さを失っている。不可視の腕をカンタレラに伸ばしながら、クインスは知らず知らずのうちに焦っていた。

「この血袋があ! ニムを返せえッ!」

 シャロウはカンタレラに向かってむちゃくちゃにナイフを振り回した。顔に浮いた血管は能力を発動した際に浮き出る血紋だけではないだろう。シャロウとニムは人間で言うところの男女の仲に近い関係だった。いよいよ友としての関係に区切りをつけようと、今回の狩りもそれを祝す為に企てたのだ。ニムの男勝りながらも愛らしい姿は黒く朽ち果て見る影もない。シャロウの正気もきっと同じく朽ちてしまっただろう。

「快楽の為に罪なき人間を襲うクズ共め。貴様らは死んで当然だ」

「うるせえええええええッ!」

「そんなにニムが恋しいのなら、さっさと同じ地獄に落ちろ」

 ガギン、と刃と刃がぶつかり合い、反動で一瞬両者が弾かれる。カンタレラはその間に腰に吊った袋から新たなる得物を取り出した。かつての強敵コスタードから奪った手斧――カンタレラは『逆賊(ギャクゾク)』と呼んでいる――だ。再び襲いくるシャロウのナイフを左手に構えた手斧『逆賊』の刃で受け止めながら、カンタレラは『裏切』を逆手に持ち替え。

「なッ!?」

 自らの太腿をざっくり斬りつけた――当然太腿はズボンごと裂け、インクめいた血が噴き出す。何を考えているんだ、正気か? 吸血鬼達はカンタレラの突然の自殺じみた行動に混乱する。しかし黒血がべったり付着した『裏切』の刃をシャロウに向けたことで、クインスは彼の行動の意味を理解する。

「気をつけろシャロウ! それで斬られたら、きっとニムみたいに!」

「わかってんだよ!」

 無論シャロウとて愚かではない。ナイフをすり抜け執拗にシャロウを狙う『裏切』をかわし、空いている方の手にもう一本ナイフを出現させる。そうして襲いくる『逆賊』をいなすのだった。

「『あれ』まだか!?」

「そろそろ……いける!」

 不可視の手がカンタレラを捕えた。誰もいないはずの場所からあるはずもない手によって服を掴まれたカンタレラもさすがに動揺したようで、寸の間攻撃の手が止まり、『裏切』を取り落とす。その隙にクインスの『腕』がカンタレラの胴に絡みつき、シャロウが一気に距離を詰める。

「くっ……!」

「今だ! やれシャロウッ!」

「くたばれ血袋おおおおおおおおおおおおおッ!」

 ナイフがカンタレラの心臓へと突き刺さる。勝った、とクインスもシャロウも確信した。

 ――しかし。

「……それで、終わりか」

 心臓を貫かれたはずの――クインス達には確かにそう見えた――カンタレラは倒れるどころか不敵で薄暗い笑みを浮かべ、油断して力の抜けたクインスの『腕』を振り払う。

「なッ……ばかなッ!?」

 カンタレラの胸に突き刺さったままのナイフと彼を見比べ、シャロウは声を震わせた。

「心臓だぞ!? 生きてるなら死なないはずない、てめえなんでッ……!」

「貴様の目は毒を食らう前から腐っているようだ」

 挑発的な言葉と共に胸からナイフを引き抜き、ナイフによって出来た服の裂け目を思いきり破く。ナイフが刺さっていたであろう心臓部は、何やら黒ずんだ塊が装甲のように覆われていた。クインスははっとしてカンタレラの首を見る。ニムが噛みついた傷も同様の装甲によって塞がれている。あの毒の血が固まって鎧と化したのだ。

「まさか……自分で自分を傷つけて……? 自分の胸を……ッ!?」

「このッ、気狂い野郎!」

「気狂いで結構だ」

 引き抜いたナイフで自らの二の腕を斬りながら、カンタレラは自分に言い聞かせるように呟く。

「貴様ら吸血鬼を皆殺しに出来るのなら」

「この野郎ぉっ!」

 シャロウがヤケを起こしたようにもう一つのナイフでカンタレラを斬りつけた。それをあえて避けることはせず、肩口を斬られながら黒い血の付いたナイフを振るうカンタレラ。動揺ですっかり隙だらけになったシャロウの首筋にそのナイフはいともたやすく吸い込まれた。

「が……ァあ」

「シャロウ!!」

 毒血はあっという間にシャロウの体内に侵入していく。シャロウはぱくぱくと口を動かしたが、喉がどんどん腐っていく彼が悲鳴を上げられるわけはなかった。腐敗が頭部や全身に回るよりも早く首は腐り落ち、シャロウの頭はぽろりと肩から落下する。クインスは声にならない悲鳴を上げた。

「しゃ……シャロ……」

「吸血鬼のくせに仲間の死を悲しむか。安心しろ、貴様もすぐ同じ場所に送ってやる」

 黒色の悪魔が呆然と立ちすくむクインスにゆっくり歩み寄る。先程落とした『裏切』を拾い上げ、自傷によってその刃に毒を塗りたくり、笑う。

「三人仲良く、同じ地獄がお似合いだ」

 こんなはずじゃあなかったんだ、とクインスは胸中でうめいた。




「相変わらず無茶ばかりするんだからねェ、あの坊やは」

 樹上から一部始終を全て見守っていた魔女モルガーナは枝の上で丸まりながら欠伸をした。今宵の魔女は黒猫の姿を借りている。

「ついこないだあんな怪我しておいて全然懲りやしないんだから。ありゃあ生きてるんじゃなくて『死に急いでる』って言うのさ」

 下ではカンタレラがクインスの不可視の腕に首を絞められもがきながら、敵の首を掻っ切ろうと『裏切』を振るう。カンタレラの首が絞まるのが先か、クインスの首が斬られるのが先か。あんな無謀な戦いぶりでは負けてしまってもおかしくないだろう。ま、こんなところで死ぬのなら、所詮はその程度だったってことさね。モルガーナは猫めいて顔を洗った。

「どうせならもっと長生きしてほしいがねえ。この大魔女モルガーナと契約を交わしたんだ。生きて生きて、精々そのちっぽけな魂を真っ黒に汚しておくれ」

 いっひっひ、と笑いながら黒猫は溶けるように姿を消す。ちょうどカンタレラが『裏切』の刃をクインスの胸に突き立てたところだった。



  ◆



 追いかける夢を見ていた。

「ヤン! 助けて、ヤン!」

 助けを求めるグレーテの声を追い、ヤンは闇の中を走っていた。ここがどこなのかはわからない。ひたすらに暗い黒の中。走っても走っても、グレーテどころか微かな光すら見つからない。

「助けて! ヤン、助けて!」

「グレーテ! 今行くから!」

 グレーテが泣いている。早く助けなければ。ひた走るヤンの体はいつしか十年前の幼い姿に戻っていた。背も、手足も何もかもが小さすぎる。早く、早くと急いてもなかなかグレーテのところへたどり着けない。

「グレーテ!」

「ヤン!」

 ようやくグレーテの姿を見つける――しかし彼女は既にあの白髪の吸血鬼に囚われていた。吸血鬼が振り上げたナイフがグレーテの胸に振り下ろされる。

「いやああああああああああああああっ!」

「グレーテええええええええええッ!」

 すべてが暗い昏い闇の中に飲み込まれた。




「――――」

 目を開け、今の今まで見ていたものが現実ではないことを知る。ヤン――カンタレラは額をびっしょり濡らす汗を拭う。そして、ふと自分の見上げる天井がまったく見知らぬものであることに気づいた。

「……ここは」

 民家であるようだった。ところどころ朽ちた柱や隙間風の入ってくる壁を見るに、農民の、それもあまり裕福でない者の住居に見えた。ヤンが寝かされているベッドもわらが敷き詰められたとても簡素なものだ。もちろん、幼少期のヤンの暮らしに比べればこれでも贅沢なくらいであったが。

「あ、気がついたんだ!」

 ベッドから身を起こしぼんやりと辺りを見回していると、どうやらこの家の持ち主らしい女の声が聴こえてくる。見ると、テーブルの上に二人分の食事を用意する少女の姿があった。

「あ……」

 その姿を一瞬グレーテと見間違えたのはあんな夢を見たからだろうか? 長く伸ばした長髪を三つ編みにまとめたその少女はヤンとそう変わらないくらいに見える。グレーテも今頃はこんな風に……そう考えかけたかぶりを振り、少女を見直す。

「……きみ、は」

「まあまあ、まずは腹ごしらえしようよ。お腹空いてるでしょ?」

 訊ねかけたヤンを遮り、少女が微笑む。そして手振りでこちらへ来るように促してくる。わけもわからぬまま立ち上がり、そして首と胸の痛みに顔をしかめた。昨夜の吸血鬼達の戦いで負傷した箇所にはいつのまにか包帯が巻かれていた。この少女が手当てしてくれたのだろうか。そして自分の家まで運んでくれた?

「どうしたの? 食べないの?」

「……いや、」

 いらない、と言いかけようとして、ぐうう、と腹の虫が鳴き声を上げた。

「ほらやっぱり! とりあえず食べよう? 話はそれから!」

 少女に手を引かれるがまま、ヤンは椅子に座らされる。少女の屈託のない笑顔は、やはりグレーテによく似ていた。




 ゲルダ、とその少女は名乗った。

「あんたの名前は?」

「………………、ヤン」

「へえ、ヤン! 良い名前だね、かっこいいじゃん!」

 少女ゲルダが言うには、朝森の近くを食料の採集がてら散歩していたところ、倒れていたヤンを見つけたらしい。変な子だ、とヤンは思う。旅人の行き倒れなんて珍しくもない。誰かの助けを借りたにしろ、ゲルダの家まで運ぶのは大変だっただろう。血まみれで薄汚い男の旅人なんて拾ったってなんの得にもならないだろうに。

「だって、ほっとけないよ。あんなに傷だらけで、苦しそうで……さっきだって夢でうなされてたじゃない」

「…………」

「ほら、早くご飯食べて。せっかく作ったスープが冷めちゃう」

 言われて、ヤンは匙でスープをすくう。香辛料はもちろん、塩を買う余裕もないのだろう、野菜や肉の出汁の味しかしない。だが、とても温かかった。

「旅、してるんでしょ? どこに行くの? どこかあてはあるの?」

「…………」

 吸血鬼を殺して回る旅だ、と答えて信じてもらえるわけはない。少し考えて答える。生き別れになった妹を探しているのだ、と。

「……手当ても、食事もありがとう。もう、行かなければ」

 ゲルダの作った食事を食べ終え、ヤンは金貨をテーブルに置いて立ち上がる。しかしゲルダは金貨を受け取ろうとせず、どころか「待って!」と立ってヤンの手を掴む。

「……?」

「あんた……まだ傷治ってないじゃない。そんな体で旅なんて無茶だよ」

「いつもの……ことだから」

 そう呟いた矢先、動いた拍子に腕の傷が開きかけたのかヤンは急な痛みに呻く。「ほら、やっぱり!」とゲルダ。

「まだここにいなよ。……せめて、その傷が治るまで」

「……わかった」

 そういえば『裏切』や『逆賊』はどこへ行ったのだろう? 肌身離さず持ち歩いていたはずの武器が手元にないことに気づく。ゲルダがヤンと一緒に拾って、どこかへしまったのだろうか。ならば、武器を返してもらうにはゲルダに納得してもらわねばならないのか。ヤンは渋々――少なくとも、本人はそのつもりで――頷いた。




 ゲルダの住む村はかつてヤンが育った村よりも幾分か裕福に見えた。季節もあるだろうが、少なくとも貧しさに今日のパンにもありつけないような村人はいないらしい。

「……綺麗だ」

 小麦をそよがせる穏やかな風を見に浴びながらヤンは呟く。手入れの行き届いた畑、等間隔に並ぶ家々、遠くに見える教会の荘厳な影。ああ、村とはこういうものなのかと心の中で呟く。

「えっ!? そ、そう?」

 と、ヤンの呟きを聞き咎めたゲルダが何やら照れ臭そうに身をくねらせた。

「ああ。……綺麗な村だ」

「あ、ああ、村ね! そうよね、綺麗でしょ!」

「……?」

 今度は焦ったような安心したような複雑な表情で頷くゲルダ。ヤンはしばらく考え、自分の失言に気づいた。

「……その、君も綺麗、だと思う。とても……村より、ずっと」

「ええっ!? そ、そんなことないって!」

 真っ赤になって首と手を振るゲルダに、確かに違ったかもしれないとヤンは思った。この子は綺麗というより、可愛い。

 ゲルダに拾われてから二日程経った。本来ならば完治に一月はかかりそうな傷を負っていたが、猛毒『カンタレラ』の副作用か魔女モルガーナの恩恵か、もはやほんの少しの疼痛が残るだけだ。つい先日補充を済ませたので体内のカンタレラもまだまだ余裕がある。その気になればいつでも旅立てた。

 しかしヤンの決意はなかなかつかなかった。まだ傷が、とゲルダが引き留めるせいだけではない。穏やかな村の景色や、そばかすの残るゲルダの可愛い横顔を見ていると、それらをもう少しだけ見ていたくなるのだった。復讐鬼と化したはずのカンタレラには似合わぬ感情だった。

「おやおや、これは可愛らしいカップルだ」

 ごほごほ、という苦しそうな咳払いと共にそんな声が聴こえてくる。修道服を纏う長髪の青年が木陰からヤン達を目を細めて眺めていた。

「神父さま! お加減は大丈夫なの?」

「ええ。今日は日差しもありませんしね」

「…………」

 青年を訝しげに見つめるヤンにゲルダは語る。

「この方はここの神父さまよ。とっても優しいの!」

「……体が良くないのか?」

「生まれつきでして。ご心配には及びません」

 微笑む神父の肌は不健康に白く、もう何年も日に当たっていないのだと見て取れる。太陽が雲に隠れているのを確認し、神父はゆっくりこちらへやってきた。

「貴方が例の旅人の? お噂はかねがね伺っております」

「…………」

「ふふ、確かに肌色は変わっておられますが、なかなか端正な面立ちだ。ゲルダさんも素敵な婿様を見つけましたね。式までそうはかからなそうだ、今から準備をしておかなければ」

「む、婿なんて、そんな!?」

 再び頬を赤くするゲルダ。そんな彼女を微笑ましげに見つめた後、真面目な顔になる。

「しかし、ここ最近は物騒ですからねえ。貴女のお気持ちはわかりますが、あまり軽率な行動は控えた方が……」

「……神父さま」

「……すみません。余計なお世話、でしたね」

 顔を俯かせるゲルダに神父は頭を下げる。ゲルダは何も答えず、ヤンの手をそっと握ってきた。

「ともかく、どうか重々お気を付けください。旅人さんも……貴方にも家族がいるのでしょう?」

「………………」

「ありがとう、神父さま。でもあたし、大丈夫だから。……ヤン、行こう」

 答えられないでいるうちにゲルダが手を引いてくる。結局答えは思いつかず、曖昧に頷いた。

「どうか…………お気を付けて……」

 ゲルダに連れられ村の景色を歩きながら、ふと気づいた。

 まだ日も沈んでいないのに人の姿がほとんど見えないのはどういうことなのだろう?



  ◆



「……どこに行くんだ? こんな時間に」

 まだ明け方だった。物音に目を覚まして玄関へ向かうと、身支度を済ませたゲルダが農具を持って出て行こうとしていたところだった。

「起こしちゃった? まだ寝てていいよ、ちょっと畑いじってくるだけだから」

「一人で?」

 農民らしいゲルダの家の畑は決して小さくない。ゲルダのような少女一人で管理しきれるものだろうか?

「大丈夫だって。もうだいぶ慣れてきたし」

「………………」

 ヤンは黙ってゲルダから農具を取り上げた。

「わ、ちょ、ちょっと!?」

「……手伝う。ただ飯食らいは趣味じゃない」

 思えばゲルダに拾われてからの数日、何をやろうとしても「傷が」「まだ無理は駄目だよ」とろくに動くことも出来なかった。傷はとうに塞がっているのだ、何もせずゲルダの働く姿ばかり見ていては居心地が悪い。

「手当てに寝食に沢山世話になった。から、少しくらい返したい」

「……無理しないでね。辛くなったら、すぐ言って?」

 農具を手放そうとしないヤンにゲルダは困ったように眉根を寄せる。そこまでの心配はいらない、と笑おうとして、上手く唇が吊り上がらないことに気がついた。




「っ! ……っ!」

 思えば、農作業なんてするのは初めてだった。幼い頃に他の村人が畑仕事をしているのを見たことはあるが、鼻つまみ者でちびのヤンが仕事を手伝わせてもらえるわけがない。吸血鬼ではなく地面に鍬を振り下ろす感覚はなかなか新鮮だった。

 今日は畑を耕すだけでいいと言われたが、それだけでもなかなか大変な作業だ。重い農具を何回も振り下ろすのは少女の身には辛いのではないだろうか。もっと早くに気づいてあげられたら良かったな、と汗を拭いながら思う。

「ヤン、大丈夫? 傷は痛まない?」

「……平気だ」

 別の作業をしていたらしいゲルダが顔についた土を拭いながらこちらへ来る。ヤンが手を止めると、陶製の水差しとコップを差し出してきた。

「喉乾いたでしょ?」

「ありがとう……」

 コップを受け取り、唇を湿らせる。井戸からくんできたばかりなのだろう、よく冷えた水が作業で火照った体を冷やしていく。

「……凄く、美味しい」

「そう? ただの水だよ」

「君がくれたから、……かも、しれない」

「え!?」

 思ったことを正直に伝えたら、ゲルダの顔が急に赤くなった。熱いのだろうか、ゲルダこそ水分補給をすればいいのに。

「ああっ、もうやだ……顔だって泥まみれなのに……!」

「俺も、泥まみれだ」

「そういう問題じゃないの! ああもう、やだやだやだやだ……」

 顔を覆って恥ずかしそうに首を振るゲルダ。手だって土で汚れているのに、そんなことをしたら尚更顔が汚れてしまわないか。女の子は不思議だ。

「あ、あたし続きしてこなきゃ! ごめんねヤン、もう少し頑張って!」

「ああ……」

 凄い勢いで駆け出していくゲルダを呆然と見送る。少しして、「何か気を悪くするようなことを言ってしまったのだろうか」と気づいたが、その頃にはもうゲルダの姿は見えなくなっていた。




「おい……あれ、例の『黒肌』じゃないか?」

「ゲルダちゃんが拾ってきた? うわ、本当に黒い肌だ」

 慣れない作業だったがなんとか朝のうちに終わらせることが出来た。木陰に腰を下ろし休憩していると、どこぞからひそひそ話が聴こえてくる。単にヤンの耳が良いだけか、村人達がヤンが聴いていることに気づいていないだけか、ヤンの話題はそのまま続けられる。

「気味が悪い……あんな肌初めて見た。本当に人間なの?」

「まったくゲルダの奴も何を考えているんだか。ただの旅人だって面倒なのに、よりにもよって不気味な奴を拾ってきた」

「血まみれのぼろぼろだったってんだろ? 本当に旅人かね、盗賊だったらどうするんだ」

 薄々感じてはいたが、ゲルダ以外の村人達はヤンを歓迎してはいないらしかった。当然だろう、とヤン自身思う。素性が知れないうえに人間離れした黒い肌。不気味がらないゲルダの方が不思議に思えた。

「おとっつぁんがいなくなってからどっか気が触れちまったのかもしれないなあ。大変だろう、親なしの娘一人で暮らしていくのは」

「あんな男を連れ込んでちゃあ嫁入りも難しいだろうねえ。まったく可哀想な子だよ、親父さんを亡くしたばかりに」

「フランクさんの死体、見つかったのかい?」

「いいや。……まあ、生きては帰ってこないだろうなあ。娘さんをほっぽらかして何日も帰ってこないなんて普通じゃねえ」

「やっぱりフランクさんもやられたのかねえ、『吸血鬼』に」

 吸血鬼!? 聞こえてきた言葉に思わず立ち上がりかける。どうにか耐えて話の続きに耳を澄ます。

「ばか、吸血鬼なんているわけないだろう。気の触れた野盗か獣に食われたんだって神父さまもおっしゃってたじゃないか」

「野盗が人間を食べるのかい? 獣が血ばかり狙って啜るかい? それに、もう何人もやられているじゃないか。ありゃあ吸血鬼の仕業だよ、間違いないね」

「……もしかして、あいつがその吸血鬼なのかもしれねえな」

 話がそこで途切れたのは、我慢できなくなったヤンが村人達を睨みつけたからだろう。村人達はばつの悪そうな表情でそそくさと散っていく。溜め息をつく気にもならない。このくらいは十年前なら日常茶飯事だ。

 しかし、村人達の話でいくつか腑に落ちることがあった。吸血鬼。家の数に対して村人が少なく感じられたのはそういうことか。それに、ゲルダのことだ。

 一人で住むには広すぎる家。二人分の寝台、男物の服。それにゲルダ一人では管理しきれないだろう畑。疑問に思ってそれとなく訊ねてみたが、その度にかわされてしまっていた。そも、どうしてこんな得体のしれない人間をいつまで経っても家に置いておこうとするのか。すべての疑問がするりと解ける。

「父親」

 要は、代わりが欲しいのだろう。死んだのかもわからないまま帰ってこない父親の。村人達の話の通り、少女の一人暮らしは生半なものではない。男手は欲しいはずだ。いつまでもぼかさないで、はっきりとそう言ってくれれば良かったのに。助けてくれた恩もあるのだ、ゲルダの為ならば――そこまで考えかけ、はっとする。

「……そんな資格、あるのか俺に」

 ヤンは――カンタレラは復讐者だ。私怨がままに吸血鬼を追い屠る鬼だ。ゲルダに拾われる前の晩も吸血鬼を三匹ほど殺めたばかりである。仲間の死に怒り狂った吸血鬼を、仲間の死に呆然と涙した吸血鬼を、カンタレラは同情しようとは思わない。しかし、自分がしている行為がけして正義ではないことは理解しているつもりだった。


「奪われたことは奪っていいことの免罪符にはならないのさ。よく覚えておいで、坊や」


 ヤンと契約を交わした際にモルガーナが発した言葉だ。村を焼かれたこともこの身がいたぶられたことも妹を奪われたことも、怒りのままに吸血鬼達を殺していい理由にはなりはしない。それでもいいのなら復讐鬼になるが良いとモルガーナは何度も何度もヤンに言い含めた。それでもいいと頷いて、猛毒の血液をその身に注がせたのだ。

 ゲルダが、父親代わりの為の打算を抜きにしてもこんな自分を好いてくれているのはヤンにもわかっていた。しかしゲルダは知らないのだ、ヤンが今までどうやって吸血鬼達に『復讐』を遂げてきたかを。どんな風に奴等の首を断ち、腹を裂き、その身に毒を呑み込ませ腐り殺してきたかを。知らないから、あんな風に可愛い笑みをこちらに向けてくれるのだ。

「……汚いな」

 黒く汚れた掌を見、呟く。こんな体でいつまでもゲルダの隣にいるわけにはいかない。こんな手でゲルダに触れるわけにはいかない。いくら拭えど、その汚れはきっと落ちはしないだろうから。



  ◆



「ごめん、遅くなっちゃって……お腹空いたよね?」

 ゲルダが帰ってきたのは空が黄昏色に染まりだした頃だった。小さなパンが数欠片入った籠を抱えながら灯り一つ点いていない我が家を戸惑ったように見る。おかしい、ヤンはもうとっくに畑仕事を終わらせているはずなのに。不安に駆られながらろうそくに火を灯す。

「きゃあっ!?」

 灯りによって暗闇から浮かび上がった人影にぎょっとする。が、その顔がもうすっかり見慣れたそれであることに気づいてほっと胸をなで下ろした。

「なんだ、ヤン……もう、びっくりしたんだから。灯りくらいつければいいのに」

「………………」

 ヤンはひどく無口だ。こうして話しかけても返答を寄越さないのは珍しくない。だが、それは彼が口下手で、思ったことを上手く言葉にするのが苦手だからだとゲルダは理解していた。だから、今のそれもそういうことなのだと思った――彼の思いつめた顔を見るまでは。

「……ヤン?」

「世話になった。ありがとう。もう、ここを出て行く」

 最初に彼と食事をした日にも似たような言葉を聞いた。しかし今度のは以前のそれよりももっと真剣味が増しているように見えた。ふと見ると、テーブルの上に金貨銀貨が詰まった小さな巾着が置いてある。

「ど、どうしたの……? だって、まだ傷が……」

「平気だ。『裏切』……短剣と手斧を返してくれ」

「ま、待ってよっ!」

 とっさにヤンの腕を掴んだ。しかしヤンはその手を優しく引きはがす。

「……俺は、君とは一緒にいられない。君とは違うから」

「何それ……? どうしたの、他の人達に何か言われたの? あんなの気にしないでいいんだよ」

「俺は、君のお父さんの代わりにはなれない」

 再び伸ばしかけた手がヤンに届かず硬直する。

「……聞いたの? あたしのお父さんのこと……」

「お父さんがいなくなって大変な生活をしている、と。……でも、俺には代わりは出来ない。しなければならないことがある。代わりは……別の人を探すべきだ」

「――違うよっ!」

 衝動的に怒鳴っていた。ヤンの黒々とした瞳が寸の間小さくなる。

「代わりなんかじゃないよ……ヤンは、ヤンだから一緒にいてほしいの! ヤンが好きだから一緒にいてほしいんだよ!」

「…………でも、俺は」

「しなきゃいけないことって何? 血まみれで、傷だらけになって、夢でうなされて……それでもしなきゃいけないことなの!? そんなに苦しんでまでしなきゃいけない旅なの!?」

 ヤンの両手を掴み、ゲルダは思ったままにがなりたてた。ぽろぽろと涙を零すゲルダを、ヤンは答えが紡げぬままぼうっと見下ろす。

「お父さんとか、そんなの関係ない……ずっとじゃなくていい、傷がちゃんと治るまででいい。あたしと一緒にいてよ、その間だけ辛いことなんて忘れようよ……」

 ヤンはしばらく口を開かなかった。ゲルダの荒い呼吸に合わせるかのように、少しずつ息を荒げていくのがわかった。ゲルダは彼の胸に顔を埋めた。今、ヤンがどんな顔をしているのか、見るのが怖くて仕方がなかった。

「…………」

 微かにうめく声が聴こえた。見上げると、ヤンが自らの手の甲に爪を立てている。小さな傷から流れ出す血の色は。

「――――ひ、ぃ」

「……これで、わかったか」

 俺は化け物だ――――そんな言葉に返す声も出ず、ただただ後ずさる。ヤンの手から流れ落ちる血は、人間のそれとは明らかに違う、闇が溶けたような黒色で。

「なんで……だって、服についてた血は……!」

「あれは返り血だ。何せ沢山殺したから」

「ころし、た?」

 ……いや、本当はとっくに気づいていたのかもしれない。ヤンの傷にかさぶためいてはりついていた黒い塊。服には血痕の他に黒い飛沫が染みついていた。血がこびりついた短刀や手斧を見てそんな発想に至らない人間はいないだろう。……でも、しかし、けれども……。

「……う、ぁ、ああ…………」

「もう随分、沢山のモノを殺してきた。……君だって、殺せる」

 試してみるか、と――ヤンがぽたぽたと黒血を垂らしながら手を伸ばしてくる。黒い眼がいつにも増して黒々と闇を渦巻かせているように見えた。殺した。殺せる。……殺される? ヤンの言葉がぐるぐると反芻する。ゲルダへと伸びる手。そして――気がつくとゲルダは。

「あ…………」

 ぱしん、とその手を振り払い――ヤンがもらした声の正体が安堵のものかあるいは惜しむものかも確かめずに踵を返した。

 大好きだったはずの人の手に触れられるのが、今は何よりも恐ろしかった。




「はぁ……はぁ……」

 家を飛び出して走り、走り、気がつくと教会の前に立っていた。田舎の村にふさわしい慎ましやかな造りだがどこか荘厳な雰囲気を漂わせるここはゲルダのお気に入りの場所の一つである。かつて母も存命だった幼い頃、家族三人で日曜の礼拝に向かうのが何よりも楽しみだった。

「……お父さん…………」

 母が流行り病で亡くなって、打ちひしがれる父を支えながら働いてきた。父もやがては立ち直り、二人きりの生活にもやっと慣れてきた頃、突然父がいなくなった。立ち直ったように見えたのはゲルダを心配させぬ為で、やはりまだ母のことを気にしていたのだろうか? それとも噂の通り、おぞましい吸血鬼に食べられてしまったのだろうか。ゲルダにはわからない。危険を犯し、ただひたすらに森の中を探し回ることしか出来なかった。

 そんな折、森の中で倒れ伏すヤンを見つけたのだ。父母のいないゲルダの生活は決して豊かなものではない。素性のわからない旅人を拾って世話を焼く余裕など本当はありはしなかった。しかし――どうしても見捨てることが出来なかった。うなされ、誰かの名を呼ぶ彼の姿を見てしまったから。

『グレーテ……ごめん……』

 ああ、きっと、この人あたしと同じなんだ。ゲルダは直感した。彼も自分と同じように、いなくなった大切な人を探しているのだと。気がつくと村にとんぼ返りして人を呼んでいた。

「……なんで……」

 止まっていた涙が再び零れ出す。なんで、あんな風にしてしまったんだろう。ヤンがそんなことをする人じゃないってわかっていたはずなのに。血が黒いからなんだというのだ、本当にヤンがゲルダを傷つける気があったのならいくらでもチャンスがあったはずなのだ。きっと村人達の悪い噂を聞いて、村にいるのが嫌になってしまったんだろう。それでもゲルダが引き留めるからあんな風にしてみせたのだ。今ならそうわかるのに。

「……何か、お悩み事でも?」

 ふいに声をかけられ、はっと顔を上げた。教会の扉が開き、神父が心配そうにゲルダを見つめている。

「……ごめんなさい、こんなところで……」

「いえいえ、迷える子羊を導くのが私達の仕事です。何か思い悩むことがあるのなら是非いらっしゃってください。私で良ければいくらでも力になります」

「神父さま……」

 柔和な笑みを浮かべる神父に手を差し伸べられ、ゲルダはおずおずと教会の中に入る。祭壇の向こうで聖人の姿を描くステンドグラスが月の光を暗い教会の中へ差し入れていた。

「すみません、私も先程まで出払っていたもので。今灯りを点けましょう」

 扉を閉めながら、ゲルダの疑問に答えるように神父が言った。なるほど、と頷く一方でゲルダはなぜかぞくりと寒気を感じていた。夜の教会にやってくるのは初めてだ。だからだろうか、教会の様子が荘厳を通り越して冷たく感じるのだ。

「……ねえ、神父さま……」

「お父上のことは残念でしたね……」

 耐え切れず口を開いたゲルダを意図せずにか遮るように神父が言葉を放った。

「こんなお若いご息女を遺して去ってしまわれるなんて……貴女もさぞ大変でしょう? 貴女が気丈に振る舞うお姿を見ていると胸が痛みますよ……」

「……神父さま?」

 胸に手を当て悲しそうに話す神父に、しかしゲルダは違和感を覚えた。

「神父さま……あたしのお父さんは」

「ええ、遺体は見つかっていないのでしょう? ええ、ええ、きっと見つかりませんよ、これからも。見つかるはずがない……」

 神父はうつむき声を震わせている。しかしその様子は、涙をこらえているというよりは。

「神父さま……なんで、笑ってるの?」

「おや、笑っていましたか? いけないいけない、我慢が出来ないのは悪い癖ですねえ」

 ゲルダに指摘された途端、神父はこらえるのをやめ堂々と笑い声をあげだした。その異様な姿にゲルダは無意識に後ずさりする。しかしそこにあるのは出口ではなく、うっすらと埃が被った祭壇だった。

「ふふ、は、あはははははッ! ……ですが、心配することはありません。もうすぐお父上と再開できますよ。貴女はこれからお父上の元へ向かうのですから……」

「神父、さま……?」

「フランクさんは実に美味でしたねえ、喉笛に食らいついてもなお声を枯らして泣き叫んでいましたとも! 私には娘がいる、まだ死にたくないだとか! 『どうかゲルダだけは』? いえいえこんな美味なる血を受け継いでいるのです、誰がどうして捨て置けましょう!?」

「あ……あたしのお父さんに何したのッ!? 神父さまッ!」

 けらけらと笑うこの男に恐怖を抱かずにはいられなかった。叫んだゲルダに、神父――もとい、神父を名乗っていた男は「はて」ととぼけた風に言う。

「よおくよく思い出して御覧なさい……私がいつ『神父』だと名乗りました?」

「え……?」

「まったく、この村の神父もお可哀想だ。死んでもまったく気づかれることなく、どころか得体の知れぬ魔物に教会も衣服も盗まれて……。いくら敬虔に信じ込んでいたところで、『カミサマ』はちっともお恵みをくださらない!」

 言われてやっと気づく――この村の神父はもっとお年を召したご老体だったはずだ。礼拝のたび、幼いゲルダの頭を撫でてくれる優しい方だった。どうして今の今まで忘れていたのだろう? ……そして、神父を騙っていたこの男は『何』なのだ?

「ああ、貴女方は実に滑稽だ! 助けも恵みをくださらない、ありもしないものに祈りすがりつく!」

 けらけらと、くつくつと、実に愉快そうに笑いながら男はゆっくりゲルダに歩み寄る。その瞳は既に神父のそれではない、獲物に食らいつかんとする肉食獣のものと化していた。

「い、いやっ……いやぁっ……!」

「まさに子羊の群れ――丸々と太った愚かな家畜! さあ惑いなさい、迷いなさい、祈りなさい、恐れなさい! そうして流す苦しみの涙こそ、私にとっては極上のスパイスだッ! あは、あははははははははッ!」

 ゲルダは必死で逃げ道を探した。唯一の出口は目の前の男によって塞がれている。窓はどれも嵌め殺しだ。視線を彷徨わせるゲルダをおかしそうに見つめながら男は優雅に歩いてくる。その手に捕まれば命はない――せめてなんとかかわそうと身をよじらせるも、いつのまにか体が石になってしまったように動かなくなっていた。

「な、なんでッ……!?」

「さあ、最期のお祈りは済みましたか? 哀れな子羊よ……」

 男がゲルダの首を掴み、喉を親指でつう、と撫で上げた。嫌だ……死にたくない! 思いもむなしく、硬直した体は動かない。まだヤンに謝っていないのに……!

「主よ……天にまします我らが神よ! どうか私にお恵みを!」

「いや……いやああああああああああああああああああああああああッ!」

 吸血鬼の哄笑とゲルダの絶叫が礼拝堂にこだました。



  ◆



 これでいい。……これで良かったんだ。口の中で何度も呟き、荷造りを済ませる。

 本当はすぐにでも出発したかったのだが、しまわれていた『裏切』と『逆賊』を見つけるのに時間がかかった。武器なんてやろうと思えばいくらでも調達は出来るが、数多の吸血鬼の血を吸った刃をゲルダの家に置いておきたくはない。それに『裏切』は長年の相棒だ。簡単には捨てられないくらいの愛着はあった。

「……ゲルダ」

 泣いていた。……いや、ヤンが泣かせたのだ。しかしヤンにはあれ以上にどうやって彼女を説得したらいいかわからなかった。変に言い訳をしたらヤンを心配してしまうかもしれない。それなら、いっそヤンのことなど嫌って忘れてしまえばいい。

「………………」

 大丈夫だ、と呟く。ゲルダを心配している人は沢山いた。ヤンがいなくなってもきっとうまくやっていけるはずだ。大丈夫だ。そう何度も何度も自らに言い聞かせ、ゲルダの家を出る。

 その、瞬間。

「――――!?」

 ……気のせい、か? いや――確かに聞こえた。絹を裂くような、女の悲鳴だ。……まさか? 少し前に家を飛び出したゲルダ。村人を襲う吸血鬼の噂。悲鳴と二つが結びつき、最悪の可能性を思いつく。最早考えている時間はない。ヤンは声のした方角へ走り出した。

「――ゲルダッ!」

 どこだ。どこに? 勘に任せて闇雲に走る。やがて目に入ったのは教会の十字架。本来ならばありえない可能性だった。しかしヤンの直感がその足を教会へと導いた。

「おやおや、これはこれは。随分お早い到着でしたねえ」

 扉を開けた途端ヤンを出迎えたのは神父のにこやかな声と――生暖かく漂う血の香り。そしてヤンは見た。祭壇にぐったりと寝かされ首筋から血を流すゲルダと、彼女に屈みこんで口元を拭っていた神父の姿を。神父は――吸血鬼は紅く染まった唇をちろりと舐め、ヤンに笑みを向けた。

「……吸血鬼!」

「いやはや、驚きましたよ。まさか噂のカンタレラが実在し、よもや私の前に現れるとは」

 カンタレラが短刀を抜いても吸血鬼は余裕を崩さない。どころか、挑発するようにゲルダの頭を優しく持ち上げる。

「初めてお会いしたときは涎を堪えるのに大変でしたよ。何しろ噂通り、いいえ噂以上にかぐわしい香り! ああ、貴方が毒でさえなければ今すぐにでもその喉笛にかぶりつきたい! 彼女もなかなかに甘美でしたが、貴方の血はきっと苦悶の死に見合う味なのでしょうねえ……?」

 そうしてゲルダの首から流れ続ける血を舌先で舐める。ゲルダはまだ生きているのだろうか? もう生き絶えてしまったか? ヤンは考えることすらしなかった。『裏切』を逆手に構え吸血鬼に飛びかかる。

「まあまあ、そう焦らずに。あともう少しだけ、この哀れな神のしもべと話をしてくださいませんか?」

「!?」

 しかし――吸血鬼が顔を上げヤンと目を合わせた瞬間、ヤンの体は石になったかのように《停止》した。減速なしの急停止に慣性がヤンへと襲いかかる。弾き倒されるような反動を味わいながら倒れることもできず、復讐鬼は奇妙な体勢のまま苦悶した。

「っぐ……!」

「短剣だなんて! 怖い怖い、そんなもので刺されたら死んでしまいますよ。私はか弱い神父ですからねえ?」

「黙れ、何が神父だ! 薄汚い吸血鬼め……!」

「薄汚いとは失礼な。私には『ペリゴール』というちゃんとした名前があるのですが」

 悪食のペリゴール――ギルドの手配書で見た覚えがある。吸血鬼の異能のうち《催眠能力(ヒュプノシス)》に秀で、獲物に意識を保ったまま金縛りの暗示をかけ、獲物が泣き叫び苦しむ姿を見ながら捕食する最悪の嗜虐趣味を持つ吸血鬼。たちの悪いことに潜伏力も高く、催眠能力を駆使して周りに自分が吸血鬼であることを悟らせない。長年何人もの吸血鬼ハンターが彼を狙ったが、戦うどころか彼を見つけることすら叶わなかったという。

 ヤンがペリゴールに気づけなかったのは無理もない――人間は通常吸血鬼を判別する術を持たない。しかしその結果、ゲルダが襲われたのだ。

「……名前なんて知ったことか。吸血鬼風情がなぜ神父を名乗る。貴様のような下劣な獣がよもや天国にいけるとでも?」

「まさか。自分の子がどんなに泣き喚いても助けを差し伸べないような父がいると思いますか? 神も、神の国も、恵まれぬ人々が自分を慰める為の幻想ですよ。たとえいたとしても、きっともっと無慈悲で無造作な存在に違いない」

「…………」

 喋ることは出来ても体はまったく動かせない。睨みつけるヤンに、吸血鬼ペリゴールは笑って続ける。

「この格好の方がしやすいんですよねえ、狩りが。催眠にも限界はありまして、あまり派手にやるとバレてしまうんですよ。ところが、この格好で皆さんの安寧を祈ってさしあげるだけであっという間に信じ込んでしまう。目の前にいるのが仲間を食い殺した狼だとも知らず、本当に哀れな羊達だ」

「ふざけるなッ……!」

 どうにか硬直状態から脱せないかもがくヤンを尻目にペリゴールは実に美味しそうにゲルダの血を啜る。

「そうして裏切られ、騙されていたと知って絶望した人間の血の甘美なこと! 特に彼女のような未来ある若い少女のそれは筆舌に尽くしがたい味ですねえ。この白くほっそりした首筋、滑らかな肩、まだ口づけもかわしたことのないような唇……やはり初物は素晴らしい」

「やめろ……ゲルダにそれ以上触るんじゃあない……!」

「おやおや、心配ですか、この娘が。もう血もだいぶ抜けました、とうに手遅れですよ。それに……見ようによっては貴方のせいでしょう? この娘がこの薄汚い吸血鬼に襲われたのは……」

 ペリゴールがふいにヤンを射すくめるように見つめた。ヤンは寸の間、心臓すら凍りついてしまったかのような感覚を味わう。

「少し彼女の記憶見せてもらったのですがね……貴方、随分彼女を怖がらせたらしいじゃないですか。心配した彼女をすげなくして、どころか殺すだなんて脅して……そんな貴方がはたして彼女を心配する資格があるのですか? 貴方が無暗に追い立てたせいで、彼女はこうして食べられてしまったのに……」

「……詭弁だ。俺のしたことと、貴様がゲルダを襲ったことは、関係がない」

 否定する声は震えている。ペリゴールはそれをあっけなく見透かした。

「そうですねえ。そもそも貴方、彼女を殺そうとしたんでしょう? 貴方が彼女を殺そうと、私が彼女を食べようと、彼女が死ぬことには何も変わりがないはずだ。何をそんなに怒っているんです?」

「うるさい、黙れ!」

「ああ、そうかそうか! 貴方、彼女が好きだったんですね!?」

 ペリゴールがわざとらしく驚いた口調で言った。

「私の経験則では、吸血鬼ハンターになる人間はほとんどが身内を吸血鬼に食われた人間なのですが……さては貴方、以前にも大切な人間を吸血鬼に奪われたのでは? 今度こそはと思ったのでしょう? もう二度と同じ過ちはすまいと誓ったのでしょう? その結果が今宵のこれだ!」

「黙れ……黙れ黙れ黙れ黙れ!」

「図星なんですねえ怒らないでくださいよ! ああ、猛毒の血を持つ呪われたカンタレラ! いくら愛していようと、吸血鬼殺しの復讐の旅路にいたいけな少女は連れていけない! それで心を復讐鬼ならぬ鬼にして、愛する人を無理矢理遠ざけた! しかし皮肉にもそれが原因で彼女は憎き吸血鬼に食われてしまった! ああ、なんたる悲劇!」

 ゲルダから手を離し、ペリゴールは固まったままのヤンの顔を覗き込む。その顔は神父を装った柔和な笑みではなく、弱った獲物をいたぶる残酷な獣の表情だった。

「ああ、ああ、可哀想に! いくら猛毒を手に入れても大切な人一人守ることが出来ない! 呪われたカンタレラ、血を浴びることしか出来ない悪鬼! 子羊の群れにも混ざることができない哀れな子鬼!」

「だま……れええええええええええええ!!」

 ヤン――カンタレラが怒りに絶叫すると、その拳がぴくりと動き――それをきっかけに体の硬直が解けたのか短剣を握り込んだカンタレラの拳がペリゴールの頬に吸い込まれる。肉と肉がぶつかり弾ける音が響いた。

「おや、興奮で催眠が解けてしまいましたか。カンタレラは冷静沈着だと聞いていましたが」

「黙れ……さっさとそのこやかましい口を閉じろッ! さもなくば首より先にその舌を切り刻んでやるッ!」

「怖い怖い。生憎ですが私は手荒なことが苦手でしてねえ。こういうことは他の方に任せたいところです」

 ぱちん――とペリゴールが指を鳴らした。次の瞬間木の床が音を立てて割れ、無数の手が腐臭を放ちながら飛び出してカンタレラの足首を掴む。

「なッ……屍食鬼!」

 割れた床、地面に空いた穴から次々這い出してくるのは、おそらくはかつてペリゴールに食われた被害者であろう人間の死体である。催眠能力に長けた吸血鬼の中には死亡寸前の人間に催眠をかけ、自らのしもべにする輩がいる。強い暗示により心臓が止まり肉体の腐食が始まってからも自分の死に気づくことなく動き続け、主人である吸血鬼に従い続けるのだ。元は人間でありながらカンタレラの体に食らいつこうとしているのは主人の習性を真似ているのだろうか?

「……くそッ!」

 死後数日は経っているのだろう、屍食鬼達の腐敗はかなり進行し思わず顔を背けたくなるほどだった。しかしそれでも元は善良な人間だったのだ。得物を振るう手が鈍るカンタレラをペリゴールはさらに挑発する。

「ああ、なんて残酷な! 死骸とはいえ同族に刃を向けるとは! さすがは冷徹にして酷薄な復讐鬼!」

「うるさいッ!」

 敵、屍食鬼の数は五体。動きは死体だけあり決して早くはない。ゆらゆらと手を伸ばす屍食鬼を振り払い、膝や脚の腱を狙って攻撃する。いくら催眠で動いていようと、足が物理的に動かなければこちらへは近づけない。

「どうした……屍食鬼をけしかけて自分は見ているだけか!? 達者なのは口だけのようだな、俗悪吸血鬼が!」

 最後の屍食鬼をねじ伏せてカンタレラが叫ぶ。ペリゴールはやれやれといった風に首を振った。

「荒事は苦手だと言っているではありませんか……野蛮な方はこれだから」

「貴様が来ないならこちらから行くぞ!」

 『裏切』を自らの血で染めながら先程の続きとばかりに飛びかかるカンタレラ。その様子では催眠は効かないだろうと判断したのか、ペリゴールは懐から得物を取り出し刃を受ける。血を吸って黒く錆びついた屋根飾り用の銀の十字架だ。

「嗅げば嗅ぐほど狂おしい! ああ、一口でも味わうことが出来たなら!」

「そんなに食べたければ食べるがいい、貴様の全身で!」

 自身の言とは裏腹に、ペリゴールは決して非力な吸血鬼ではなかった。積極的に攻めてはこないものの、カンタレラの突きを巧みに得物で弾き返す。そうこうしている間に刃に塗った血が乾いてしまい、やむなくカンタレラは自分の肉を切る。ペリゴールからの攻撃を一つも受けていないのにカンタレラは既にいくつもの傷を負っていた。

「逃げるな! 俺と戦え!」

「お断りしたいところだと何度も申し上げたところですがねえ。……ところで」

 すっかり頭に血が昇り、怒鳴りながら額に向かって斬りかかったカンタレラの刃を十字架で受けながら、ペリゴールは意地悪くにんまりと笑みを作った。

「足元は、ちゃあんと注意を払った方がいいのでは?」

「な……」

 その言葉の直後、カンタレラは文字通り足元をすくわれていた――ペリゴールによるものではない、彼はカンタレラに対して慎重に距離を置いていた。ではなぜ? 尻餅をつく寸前自らの足を見、思わず悪態をついた。脚の腱を切られ倒れ伏していた屍食鬼達がカンタレラの足を掴んでいる!

「し、しまっ――!」

「敵に手心を加えてもろくなことにならない。良い教訓になったでしょう?」

 瞬く間に屍食鬼達が腕を伸ばし、カンタレラの体を床へとおさえつけた。死体とはいえ五人一斉に襲い掛かられればカンタレラといえども勝ち目はない。ばたばたと間抜けな体勢でもがくカンタレラをあざ笑いながらペリゴールはゆっくり彼に歩み寄った。

「ああ、ああ、残念でなりません! 猛毒とはいえこれほどまでに甘美な血を一口も味わうことができないだなんて! 天を仰ぎたい気分ですよ……ああ、神よ!」

「黙れ、冒涜神父……!」

 ペリゴールは十字架を上下逆に持ち替えた。本来なら天を指す部分を柄のように握り――さしずめ刀身のような長い部分の先、鋭く尖った先端でカンタレラの胸に狙いをつける。

「貴方も最期くらいは祈ってはどうです? 子羊ではない貴方も、案外救ってくださるかもしれませんよ?」

「……救いなんて、いるものか……!」

「おや、そうですか。それでは」

 逆手に握った冒涜的な短剣を、カンタレラの胸に振り下ろす。

「――精々、運命を呪うことですね」



  ◆



「――おや?」

 ペリゴールは首を傾げた。十字架は確かに深々とカンタレラの心の臓を貫いたはずだった。しかし手応えがない。臓物を貫く、あの性感にも似た恍惚とした快感が。

「……どいつも、こいつも、芸がない」

 そしてカンタレラは――確かに心臓を貫かれたはずのカンタレラは苦しそうに顔を歪め、喘ぎながらもはっきり喋ってみせた。

「心臓さえ潰せば死ぬと……心臓を狙えばこちらのものだと思い込んでいる。貴様もその類で助かった」

「な、に――!?」

 ペリゴールが思わず手放した十字架をカンタレラは自ら心臓部から引き抜く。しかしそこから黒い血が吹き出すことはなかった。ぽっかり空いた大穴から見えるのは、どくどくと奇妙に脈打つ、心臓によく似た黒ずんだ石めいた塊――!

「ば――馬鹿な! 貴方、その胸は――!」

「魂も、心も、心臓も。この身を手に入れる為にすべて魔女に売り払った。今更貴様に壊せるようなものは、ない」

 大きく空いた穴からやがて黒い粘性の液体が染み出し、傷を塞いでいく。そうしてそこは他の傷とほとんど変わらないような黒い装甲へと変わった。

「……わかっているのですか? 自分がどれだけ大切なものを捨ててしまったのか……!」

「知るか。貴様ごときが大切に思うようなもの、最初からろくでもなかったに違いない」

 ペリゴールが怯んだのに合わせたかのように屍食鬼達の手の力が緩む。その手を振り払って立ち上がると、カンタレラはこんな不意打ちが二度と出来ぬよう屍食鬼達の手を踏み潰した。

「運命を呪うのは貴様の方だ、悪食神父」

「……くっ!」

 『裏切』と先程心臓部を貫いた十字架で二刀の構えをするカンタレラ。一方得物をペリゴールはカンタレラを睨んで顔に血紋を浮かび上がらせる。しかし動揺している為か、はたまたカンタレラの凍りついた感情に邪魔されたか、催眠は一向にかからない! そうこうしているうちにカンタレラはペリゴールに飛びかかる!

「ぐっ!」

「お返しだ……!」

 ペリゴールを押し倒し馬乗りになったカンタレラはまず十字架をその胸に突き刺した。カンタレラ含め幾人もの人間が犠牲になっただけあり、その斬れ味は実に鋭い。あっという間にペリゴールの胸を貫通し、その体を床へと縫いつけた!

「ァっがああああァ……!」

 吸血鬼の肉体は人間よりもかなり丈夫だ。心臓を貫かれたとてしばらくは生き延び、回復能力が高い者なら自力で傷すら塞いでしまう。しかし痛みがないわけではないのだ。胸を裂かれる痛みに顔を歪め悲鳴をあげるペリゴールを見下ろすカンタレラの表情は、怒りでもなく、さりとて吸血鬼を殺す際に見せる歪んだ喜悦でもなく、ただただ無表情。ペリゴールという悪魔に対してどんな感情も向けたくないと思っていた。

「……俺の血が味わいたいらしいな」

 そしてカンタレラは空いた手の甲を『裏切』で斬る。黒い血がにじみ、つうっと流れだしたそれをペリゴールの口元まで持っていく。

「味わうがいい。死ぬ程に」

「ッ、――――!」

 ぽたり、ぽたりと血の滴がペリゴールの口へ、舌へ向かって垂れ落ちていく。カンタレラ、最も甘美なる猛毒――それを一たび口にすれば味わう前に舌から全身が腐敗するという。ペリゴールはとっさに口を閉じ、首を振って滴を避けようとした。しかしカンタレラによって顎ごとがっちり固定されている!

「ぐ、あ……ァあああああああああああ!」

 じゅう、と舌からしみるような焦げるような音を出しながらペリゴールが絶叫する。その間にも滴はぽたぽたとペリゴールの口内へと落ちていく。もちろん、一滴一滴が粘膜に触れた程度ではさしもの猛毒も吸血鬼を死に至らしめることは出来ない。血に染まったように黒ずんでいく舌や歯茎。今の傷口が渇いて固まってしまう前に、とカンタレラは腐っていくペリゴールをぼんやり見つめながら手の甲に新たに傷を作った。

「ぁあ……は、あは、ははははははははははははははは!」

 やがて、ペリゴールの絶叫が哄笑へと変わった。舌はほとんど黒くなり、もはやどうやって声を上げているのかわからない。しかしペリゴールは確かに笑って見せた。美食に舌鼓を打つ歓喜の笑みを。

「ああ、ああ、カンタレラ! 甘く美しく呪わしい! 神よ、今こそ貴方に感謝を告げましょう! 最期にこの悦びを与えたもうたことを!」

「………………」

「ああ、ああ、カンタレラ……哀れで愚かで、美味なる子鬼……」

 毒が回ってきたのだろう、黒ずんできた喉から掠れた声をあげながらペリゴールはカンタレラを見つめた。

「貴方はきっと……誰も守ることはできない。今回でわかったでしょう? 貴方の大切な存在は、みいんな死んでしまう……」

「……黙れ」

「ふふ、はは……自分がそういう人間であることを、決して忘れてはいけませんよ……」

 喉が完全に腐り落ち、腐敗が全身に及び始めても、ペリゴールは出ない声で嘲笑の言葉を吐き続けた。彼を睨みつけるカンタレラだったが、しかし死にゆく彼の瞳が奇妙な光を灯らせていたことに気づくことはなかった。




「おい、お前何してる!?」

 ペリゴールが完全に腐り果ててもしばらくカンタレラはぼうっと彼の残骸に座っていた。しかし教会のドアが開き、どやどやと何人かの村人が入ってくるのを見ればいやでも我に返らざるを得ない。ゲルダの悲鳴か、先程の戦闘による物音を聞きつけたのだろうか? 村人は各々農具や武器で武装していた。

「黒肌……お前ここで何を!?」

「お、おい見ろ! 死体だ、死体がいくつも!」

 床に転がる屍食鬼の残骸や祭壇に寝かされたゲルダを見つけ、村人達はすぐさま顔色を変える。カンタレラが血まみれの短刀を握り、さらにぼろぼろの修道服の上に立っていることに気づくのにもそう時間はかからなかった。辺りの惨状、服だけ残し消えた神父、凶器を握りしめるよそ者――誤解するに充分の材料だった。

「黒肌てめえ、なんてことを!」

「神父様をどうした!?」

「今まで殺された奴もお前の仕業か……!」

「や、やっぱりお前が『吸血鬼』だったんだ!」

 武器を手に詰め寄ってくる村人達をカンタレラは剣呑な瞳で見つめる。そしてそれらの問いの答えの代わりに、落ちていた手斧『逆賊』を拾い上げ、構えた。

「ひっ――!」

 すわ、まさか。これから起きることを想像して無意識に半歩引いた村人を尻目に、カンタレラはくるりと踵を返す。祭壇上のゲルダにちらりと一瞬だけ視線をやったあと、ステンドグラスに向かって駆け出した。

「な、おい!?」

 手斧によって破砕されるステンドグラス――聖人を描いていたガラスの破片を踏み割りながら、カンタレラは煌々と輝く月へと走っていく。神をも恐れぬような所業に村人達は追うのも忘れ呆然とその後姿を見つめていた。

「…………! ゲルダちゃん!」

 やがてそのうちの一人がはっとして祭壇に駆け寄る。祭壇を汚すほど血を流しているゲルダ……その体は既にぞっとするほど冷え切っている。しかしそれでも村人は祈るように彼女の脈を確かめ、快哉の声をあげた。

「……生きている! まだ、脈があるぞ!」

「なんだって!? ゲルダ!」

「と、とにかく、急いで手当てを!」

 喜びと焦りで混乱する村人達にかき抱かれながら、ゲルダはぼんやりと夢うつつに意識を揺らがせていた。

「……違うの、ヤンは何も…………行かないで、ヤン……」

 割れたガラスの向こう、月に向かって手を伸ばす。しかし既にそこにヤンの姿はない。ゲルダを嘲るように月は闇夜を照らし、彼女の頬に伝う涙を光らせた。

「ヤン……ごめん……」

 彼に何より言いたかった言葉は、月光にかき消されるように空に消え失せた。


吸血鬼大全 Vol.84 悪食のペリゴール

催眠使いの吸血鬼。獲物の動きだけを止める金縛りの催眠を好んで用いるが、催眠全般に秀でていたようだ。

彼以外の吸血鬼の名誉の為に補足すると、彼の『獲物が泣き叫ぶ姿を愉しみながら捕食する』スタンスは決して一般的なものではなく、他の吸血鬼からも悪趣味に思われていた。

通常催眠使いは獲物を捕食する際早々に相手を眠らせるかその意識を奪うのだが、『苦しめば苦しんだだけ獲物の血は甘美になる』という信念に従い、ペリゴールは決して獲物の意識を奪わない。どころか催眠で出来るだけ長く意識を保たせようとする。吸血もじわじわと時間をかける為、彼の餌食となったものは死ぬこともままならず苦しむことになる。

愛用していた修道服、十字架はかつてハンターに追い詰められ弱っていた彼を救った修道士を裏切った際に手に入れたものである。

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