第二十五話 暴虐者ハイド
その夜、ジュビアは初めて『地獄』というものを目の当たりにした。
クローゼンブルクの街が燃えている。いぶされ、家から命からがら逃げだした女子供が、げらげら笑う怪物達に捕らえられ、生きたまま喰われている。武器を取り必死で抵抗する男達が容赦なく殴り殺され、そのまま血を吸われている。足を折られて泣き叫ぶ若い男女が無造作に馬車の荷台に積まれていく。
吸血鬼達による虐殺が行われていた。
「喰らえ! 殺せ!」
炎色の髪を持つ男が火の粉に染まった夜空に叫ぶ。
「カーニバルだ! 俺様が許す、したい放題食い散らかせッ!」
家を焼き、死体の山を築いておきながら、それでもまだ足りぬとばかりに手下の吸血鬼達に命じる――暴虐者ハイド。
まさに蹂躙だった。
「おっと、ただしカンタレラ、あいつだけは駄目だ。あいつがいたら俺様に寄越せ。直々に八つ裂きにしてやなきゃあな――」
カンタレラ!? 瓦礫の陰でジュビアは思わず声を上げた。
ギルドに所属している人間にカンタレラを知らぬ者はいないだろう。黒い髪、黒い肌、そして黒い血を持つ不気味な少年。魔女に呪われているだとか、吸血鬼を一撃で殺す毒だとか、妙な噂は常に絶えない。それらが事実なのかどうなのか、実際吸血鬼の討伐数も『五指』並だというし、吸血鬼から恨みを買っていてもおかしくはない。しかし、まさか、それであのハイドがここまで攻めてきたというのか!?
「あん?」
と――ハイドがジュビアの隠れる瓦礫の方へ振り向いた。しまった、気づかれた! 慌てて逃げ出そうとするも、足が震えてまったく言うことを聞かない。誰ぞからもいだ腕を軽食のように齧りながらハイドが近づいてくる。
「ワオ、まだ活きの良い奴が残ってたか」
「ひっ……!」
ジュビアにとってこのときほど吸血鬼ハンターになったことを後悔したことはなかった。使命感だとか正義感なんて今すぐ放り捨てて、吸血鬼とは無縁の平和な村でずっと布団を被って寝ていたい気分だった。お守りのように握りしめていたナイフや弓矢も、ハイドの前では玩具の代わりにもならないだろう。
「イイねえ、気分がノってきた! 久々にあれで遊ぼうじゃねえか、ハイド・アァンド・シィィィク! 逃げてみろよ、ピグレット!」
「う、うわあああああ!」
ジュビアはハンターとしての誇りも恥も捨て、無様な格好で必死に逃げた。ハイドは捕食者だ、人間に相手できるような存在ではない。恥知らずな振る舞いでも、卑怯であっても、生き延びたければ逃げるしかない。
しかし。
「あァん? それで逃げたつもりかァ?」
「ひッ!?」
しばらく走り、振り向いてもハイドの姿が見えなくなって、ようやく安心しかけたその瞬間、声が前方から聞こえてきた。ジュビアはいよいよ腰を抜かす。目にも止まらぬ速さで先回りし、にやにやと笑っているハイドにジュビアは気づいた。いいや、そもそも、彼から逃げることなんて不可能だったのだ、と。
「い、いやだ、助けて……!」
「なんだよ、もう終わりかァ? まだまだ遊び足りねえだろうがよ?」
みっともなく泣きながら命乞いをするジュビアにハイドはつまらなそうに目を細めながら右手を掲げ、不気味に蠢かせさせたかと思うと――
――その右手が、唐突に飛んだ。
「……あん?」
さしものハイドも戸惑ったようだった――手首から先を失った右腕を一瞥し、傷口から噴き出した血を頬に浴びながら後ろを振り返る。そこにいたのは細剣を構える修道服の青年。
「邪悪、死すべし」
「ドミニコさっ……!」
快哉を叫びかけたジュビアはしかし彼の姿を見て絶句する。白かったローブは激しく損傷し、自身の負傷とも返り血ともつかない血にまみれている、腕も顔も傷だらけで、不自然に閉ざされた片目には何があったのか、ジュビアは顔を青ざめさせるしかなかった。
「ご無事で何よりです、ジュビア。早く安全な場所へ。奴は私が」
「そ、その傷……!」
「はっ、てめえが噂の『ライオン』か」
傷口から瞬く間に新しい手を生やしながらハイドが狂暴な笑みを浮かべた。
「話に聞くよりキュートだなァ? ライオンじゃなくて子猫って名乗った方がいいんじゃねえか?」
「私はドミニコ・ベネデッティだ」
ドミニコは眉一つ動かさない。
「邪悪、死すべし」
「ハハ、可愛いねェ。傷だらけのくせににゃあにゃあ鳴いて、カラスにさらわれたいのかよ? もう片方のお目々も食ってやろうか、プリティ・キティ?」
からかうような口調だが、油断しているそぶりは一切ない。瞬く間に再生した右手には禍々しい爪と無骨な鱗が生えている。ジュビアは尻餅をついたまま震えた。
「だ、駄目ですドミニコさん、逃げましょう!」
「臆することはありません、ジュビア」
対して、ドミニコは奇妙な程落ち着き払っていた。
「かの邪悪もいよいよ主の裁きを受けるときが来たのだ。奴を地獄に送るためならば、たかが目の一つや二つ」
聖句をそらんじるように淡々と語りながら細剣を半身で構えるドミニコにハイドは楽しげに哄笑する。
「ハハハハハ! イイねェ、やってみろよ子猫ちゃん!」
「ドミニコ・ベネデッティだ」
ハイドの首めがけ、ドミニコが細剣を振るう――不意打ちとはいえハイドの片手をやすやすと切断せしめた剣筋だ。ジュビアには疾風が吹いたようにすら感じた斬撃だったが、ハイドは表情一つ変えず新たな右手でこれを受け止めた。
「ハッ! そんなもんかァ!?」
右手に生えた金属質の鱗が鎧のように刃を受け止めている。このまま剣を握られようものなら力任せにへし折られてしまうだろう。危険を察知し、ドミニコは素早くハイドから離れた。
「ドミニコさんっ!」
「ピィピィうるせえぞ子豚ァ! てめえから先に食われてェか!?」
「ひぃっ!」
ハイドに凄まれ、ジュビアは縮み上がって後ずさりする。ドミニコを助けたいが、ジュビアの実力では盾にもなれず足手まといになってしまうだろう。がくがく震える足を無理矢理立たせ、大慌てでその場を逃げ出した。
「今更慈悲をかけるとは。地獄に行くのが恐ろしくなったか」
冷たい声音で言うドミニコにハイドは鼻で笑う。
「腹はもう膨れてるからなァ。あんなのを食うよりてめえを轢き潰した方が面白ェだろ?」
ふ、と――ハイドの姿が視界から消えた。とっさにドミニコは剣を顔の前に構える。次の瞬間、ハイドの竜腕が刃と激突する。
「ぐっ……!」
「受け止めたかよ! じゃあ、こっちもできるかァ!?」
振りかぶる左手にもいつの間にか鱗が生えていた。ドミニコは空いた手を腰に吊るした短剣に伸ばしながら歯を食いしばる。
「らァ!」
腹部に衝撃が走った。思わず細剣から手を放し、胃液を吐き出しながら地面に転がる。一方、ハイドは少し驚いたように顔をしかめた。
「鎖帷子か? は、面白くもねえ小細工だ」
左拳の鱗の隙間から血が染み出す。修道士の分厚いローブの下には特殊な鎖帷子が着こまれていた。強い衝撃を受けると繊維の間から細かい刃が外側に向かって飛び出し、敵の肌に食い込むような。
「どうせなら毒でも塗っとけってのによ。それこそカンタレラの毒でも仕込んでりゃあ、俺様も一巻の終わりだったかもな?」
「カンタレラ」
息を整え、立ち上がりかけていたドミニコの目がすうっと細くなる。
「奴が、なんだと」
「どうもこうもあるかよ、吸血鬼殺しのサン・オブ・ザ・ウィッチ! 俺様が何の為に出向いてやったと思ってる!? 売ってくれた喧嘩を買ってやるっつうのに、一体どこへ行きやがった? あのヴェリィ・ファニィ・イディオット! 尻尾巻いてドブにでも隠れやがったかァ!?」
カンタレラ。ドミニコの胸に様々な想いが去来する。以前、ハイドを殺すと行ってギルドを飛び出していったこと。案の定返り討ちにされたか、おめおめと逃げ出した挙句に『将軍』級の吸血鬼とつるみ、助けられていたこと。その結果がこれか。自分の不始末を片付けなかったせいで街に災厄を呼び込み、数え切れないほどの無辜の人々が殺されることになった。
やはり彼奴こそ死すべき邪悪ではないか。
「そんなに奴と会いたいのなら、合わせてやろう」
立ち上がったドミニコは腰から短剣を抜き、構える。
「貴様を地獄に送った後にな。神の怒りの業火の中で、存分に殺し合うがいい」
「ハ、それよりてめえがおっ死ぬ方が早いだろうがなァ、子猫ちゃん!」
闘志を一層燃え上がらせたドミニコに自身も昂ぶったか、ローブを翻しながらハイドが跳ぶ。竜化した右掌に杭のような牙を生やした口が形成される。ドミニコは短剣でハイドの掌底を受け止めた。
「イィィィィィィィィィィット!」
「ッ!」
短剣に乱杭歯が突き立てられる。がりがりと不愉快な金属音が鳴り響く奇妙な鍔迫り合いを制するため、ドミニコは身を返してハイドの脇腹を踵で蹴った。しかし、既にそこにも鱗の鎧が形成されている!
「あァん!? ライオンにしちゃあぬるい蹴りだなァ子猫ちゃん!?」
右手で短剣に噛みついたまま、ドミニコの腕を左手で掴む。折られる! ドミニコは短剣を捨て、空いた手でハイドの腕を掴み返す。
「――はぁッ!」
「!」
そのまま力任せに後方へ背負い投げる――意表を突かれたハイドはしかしすぐさま空中で回転して体勢を整え、猫のように機敏に着地する。思わぬ怪力を見せたドミニコに思わず口端が吊り上がる。
「やりゃあできんじゃねえか。ええ?」
「……死すべし」
ハイドの言葉には答えず、静かに呟く。だが、その唇にハイド同様うっすらとした笑みが浮かんでいるのに、ドミニコ自身は気づいていなかった。
「イイじゃねえか! もっと遊んでくれよ、リトル・キティ!」
鱗と鎬、爪と刃、牙と切っ先。火花が散るほどの勢いで互いの武器をぶつけ合う。息もつかせぬ高速の殺し合い。だがしかし、両者の顔はどういうわけか遊びにふける子供のようにほころんでいる。
だが――そんなひとときは長くは続かなかった。妙な気配に気づいたハイドがドミニコとの打ち合いをやめ、飛来してきた物体を竜腕で弾く。ハイドの脳天めがけて飛んできたのは鋭い矢じりを持つ矢。さらに追い打ちをかけるようにしなる鞭を避けるため、ハイドは俊敏に後転した。
「何してる、ドミ。遊んでる場合か?」
「クレスニク――」
黒い革の鞭を携えるハンター、クレスニク・フォン・ヘルジング。時に吸血鬼と通じ、時に人間を捨て駒にして吸血鬼を狩るギルドで最も悪名高い男。無論、その実力も折り紙付きだ。既に何体か吸血鬼を始末してきたのか、服におびただしい血痕が付いている。だが……ハイドを射ようとしたはずの弓矢は所持していない。どこかに仲間が隠れ、ハイドを狙撃しているのだろう。
「殺せる相手くらい見極めろ。格上相手に遊んでもらって、いつからお前は赤ん坊になった?」
「――すみません」
クレスニクの冷たい言葉にドミニコは顔を赤くして頭を下げる。今の今まで打ち合っていたハイドは目にも入っていないようだった。
「邪悪の前に熱くなり、判断力が落ちていました」
「はん。いい、さっさと終わらせるぞ」
「チ――」
会話の合間にどこからともなくハイドを狙う矢が射られ続ける。どうやら少し離れた高台から撃ってきているらしい。こちらからの反撃は難しいか、とハイドは内心舌打ちした。
「やる気満々で結構、光栄だぜミスター? だが……子猫にドブネズミがついたくらいで俺様を殺れるかよ?」
「もうそろそろなんじゃねえか」
ハイドの挑発が聴こえていなかったかのように、どうでもよさそうな声音でクレスニクが言った。
「てめえにかかった魔女の呪いとやらの発作。そろそろ顔を出すんじゃねえのか」
「!」
驚き、思わず目を見開いた。ハイドが魔女に呪われていることは既に周知の事実だ。だが、発作の周期まで読まれているだと? ギルドのわりにはいやに歯応えがないと思ったら、まさか発作という好機を待っていたというのか。
「ドミのおかげで時間が稼げた。今ならこいつを始末できる。ハイドの首が獲れりゃあ街の一つなんておつりが出らあ」
「ぐ……」
事実――胸の刺青がぞわりと広がっていく感覚があった。呪いによる発作で、ハイドは間もなく見るに堪えないほど弱体化してしまうだろう。『五指』がふたりに、どこかから彼らを支援する射手。ハイドをなぶり殺しにする時を今か今かと待っている。
「――――舐めんじゃねえッ!」
もげ始めた竜爪を投げ矢のようにハンター達に投擲する。彼らがそれに気を取られている間、飛んでくる矢を避けながら燃え盛る家の壁に蹴りを叩きこむ。
「イート・ジスッ!」
「なっ――!」
壁が粉々に砕け、そこから新鮮な空気を手に入れた炎が爆発的に膨れ上がる。巻き上がった黒煙や灰塵に、ハンター達の視界が寸の間塞がれた。
「――待てッ!」
ドミニコが煙を切り払いながら追いかける。だが、既にハイドは影も残さず姿を消していた。
「……すみません。せっかくの好機を……」
「いや、いい。気にすんな」
失望に暮れうなだれるドミニコの頭をぽんと撫でるクレスニク。
「もうてめえの体はボロボロだろうが。ハイド相手にそんな体で持ちこたえただけ大したもんだ。大体、たとえ本当に魔女の呪いが出たとして、それでもハイド相手にたった二、三人で敵うわけねえだろ」
「クレスニク……」
冷酷無比のクレスニクが口にしたとは思えない優しい慰めと、それに感じ入り目に涙を浮かべるドミニコ。どちらも普段の彼らを知る者には想像できない、到底あり得ぬはずの姿だった。しかし、クレスニクの目はあいかわらず、乾ききった泥のような色をしていた。
「クレス、ドミニコちゃん!」
「良かった……! お二方、無事だったんですね!」
少しして、いつのまにか合流したらしいジュビアとビーチェが二人に駆け寄ってくる。それぞれ血を浴びたり傷ついてはいたが、さほど重傷ではないらしい。気づけば街の火事は少しずつ収まっていき、人の悲鳴や吸血鬼の怒声も聞こえなくなっている。地獄はこれで幕引きのようだった。
「ハイドは撤退した。その腰巾着共も大方始末した。あとは残ったノロマどもを片付けるぞ。こんな散らかった寝床じゃあ朝寝もできやしねえ」
「そうね。生き残ってる人達も探さないといけないし」
「生き残った人がいれば、ですけど……」
ジュビアは青ざめた顔で街を振り返った。段々白ばんできた空の下、クローゼンブルクの街は不気味な静寂に包まれていた。略奪と虐殺、蹂躙の限りを尽くされたこの街は、もはやそれそのものが屍のようだった。
「地下のギルド本部は埋められちゃったし、他のハンターちゃん達も沢山殺されちゃったし……アタシ達これからどうなっちゃうのかしらねぇ……」
物憂げに溜め息をつくビーチェに、ドミニコは小さく「カンタレラ」と呟く。狂気のこもった眼差しになにが映っているのか、気づいたものはいなかった。
◆
「バートリー、ご本読んで!」
「あ、ああ……」
大きな絵本を抱えたエルジエがソファで休んでいたバートリーの膝に座る。微笑み、エルジエとともに本を開くバートリーだったが、その心は未だ物思いに沈んでいた。
バートリーがシャイロックを殺めてしまってからもう幾夜過ぎたことだろう。今のところ、シャイロック殺しやエルジエの正体に気づいた掟番がやってくる気配はない――サンジェルマンがなんとか隠蔽し、誤魔化してくれたのだろうか。薄気味悪いほど穏やかな生活が続いていた。
「――子ヤギ達は扉の隙間から狼の黒い前足を見て言いました。『お母さんはこんなに真っ黒い足じゃないや!』そこで狼は前足に小麦粉をはたき、真っ白にしてから再び子ヤギ達に見せました。白い前足を見た子ヤギ達は今度こそ本当にお母さんが帰ってきたと思い、喜んで扉を開けてしまいました……」
「狼ってずるい奴ね! 子供を騙すなんて!」
絵本の中の狼に本気で憤るエルが愛おしく、バートリーは彼女の頭を優しく撫でた。絵本の中では狼の侵入に半狂乱になった子ヤギ達が大慌てで身を隠そうとしている。
「そうだね。どんなに言いつけを守って良い子にしていても、悪い奴は色々悪知恵を使って騙そうとしてくるんだ。ちょっとでも変だな、と思ったら、どんなことでも気をつけなければいけないよ」
「騙す方が悪いのに、良い子が気をつけなくちゃいけないの? 変なの……」
絵本が描く教訓は幼いエルジエには不条理に映るらしい。だが、現実はもっと残酷で理不尽なのだ。それをどう伝えたものか悩んでいるうちに、扉ががんがん打ちつけられる音がした。
「誰だろう」
「お客さん?」
察しの良いエルジエは絵本を閉じてバートリーの膝から飛び降り、普段の言いつけ通り自分の部屋へ向かう。しかし、バートリーには来客の心当たりなどない。サンジェルマンか、ラヴァルか……それともバートリーの罪を断じに来た掟番か。
「良い子に待っているんだよ。良いと言うまで、部屋から出てはいけないよ」
「はあい」
子ヤギに言い聞かせる母親ヤギのようにエルに言いつけ、玄関に向かう。どうか、最悪の事態が訪れてはいませんようにと願いながらおそるおそる扉を開けると、そこに立っていたのはまだ齢二十にも届いていないような痩せっぽちの少年だった。
「あのう、バートリーさんの御宅はこちらでしょうか?」
「君は?」
ぶかぶかのローブに染みついた血や、口の中から微かに香る人肉の匂いに、彼が吸血鬼であろうことは疑いようがない。だが、見知らぬ少年を手放しで歓迎できるほどバートリーも愚かではなかった。
「ぼ、僕はシーカーです。名前はありません。兄さ……ハイドのその、侍従をしています」
「ハイドの?」
思わず眉をひそめる。ハイドと言えば、おぞましいやり方で人間を食らう、バートリーにとっては残酷の化身のような男。目の前の少年があの暴虐者の配下であるようにはとても思えないが、一体何の用でバートリー邸まで来たというのだろう。
「あの、その……バートリーさんのお知恵をお借りしたいんです」
「どういうことだい?」
「え、ええと……」
シーカーは恥ずかしそうにもじもじしながら、ローブの中から書籍を取り出した。『魔法が絶滅に至るまで』……以前バートリーが記したものだった。
「僕、バートリーさんの本が好きで……この本を読んで、凄く感動したんです。こんなに物知りな方と一度会ってお話してみたいって……」
「あ、ありがとう」
顔を赤らめながらもきらきらと目を輝かせて語るシーカーにバートリーはなんだか面映ゆくなってしまった。自分の本の読者に面と向かって感想を言われるなんて初めてだ。今着ているジャケットが時代遅れに見えていないか、普段は気にもしないことを考えてしまう。
「あ、ええと、それで……バートリーさんにお聞きしたいことがあるんです。この本の、魔女のことについて、なんですが……」
言葉を切り、上目遣いでバートリーの様子を窺うシーカー。どうしたものだろうか。ハイドの配下、と聞いて身構えてしまったが、見る限りには大人しい、無害そうな少年だ。ハイドが掟番と通じているという話は聞いたことがないし、話を聞く程度なら問題はないだろうか……?
「あ、あの、もちろんお忙しいんでしたら結構です! 僕なんかがバートリーさんのお時間を頂くなんておこがましいこと……」
「……いや、大丈夫だ。僕で良ければ、ぜひとも。ここまでひとりで来たんだ、疲れただろう? 血の一杯でも飲んでいくと良い」
迷った末、年端のいかない少年を、それも自著の読者を無碍に扱うことはできない、と自分に言い訳をしながらシーカーを迎え入れることにした。緊張で強張っていたシーカーの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます……!」
思えば昔からの知り合い以外を家に入れるのなんていつ以来だろうか。とりあえず書斎に通したものの、書きかけの羊皮紙片が散らばった室内を見て冷や汗が出てくる。自分の部屋はこんなにみっともなかったのか。
「わあ……! これ全部バートリーさんが書いたものですか!? 凄い、読んでもいいですか!?」
「よ、よしてくれ。書き損じも混じってるんだ」
金銀財宝の山を前にしたように興奮して床に落ちた紙片を拾い上げようとするシーカーを慌てて止める。大急ぎで紙で埋もれたソファーを片付け、シーカーを座らせた。
「そこにある本なら読んでも構わない。血を持って来よう、少し待っていてくれるかい?」
「は、はい! 喜んで!」
バートリーの言葉にいちいち恐縮し居住まいを正す。もう少し肩の力を抜いてくれていいのに、と苦笑しながら地下の貯蔵庫へ向かった。幸い、最近は食料に余裕がある。ボトルの中身の液体が元が何であったかを考えないようにしながら書斎に戻る。
「……シーカー?」
しかし、そこにシーカーの姿はなかった――彼が座っていたソファには読みかけで開かれたままの本が放り出され、まるで読んでいる途中で急用を思い出し大慌てで出て行ったような有様だった。だが、どこへ? 部屋を出た気配などなかったはずだが……不審がるバートリーの頬を夜風が撫でた。窓が開いている。
「どこへ……?」
「ハロー、ミスター・バートリー?」
と、バートリーに答えたのはシーカーの声ではなかった。ぎょっとして振り返ったバートリーの口を素早く塞ぐ手。夜風に揺れるローブ。豹のように引き締まった体躯の長身の男。
「う、うわあああっ――――」
「叫ぶんじゃねえよ。うっかりてめえの舌を嚙み切っちまうかもしれねえぜ?」
恐怖に絶叫しかけたバートリーの口内に舌がねじ込まれ、バートリーの歯をざらりとなぞるように舐めた。あまりのおぞましさに体が竦む。何せ、その舌はバートリーの口を覆っている掌から生えているのだから。
彼が暴虐者ハイドであろうことは疑いようがなかった。
「落ち着けよ。別に取って食おうってわけじゃあねえ。ビー・クワイエット。オーケイ? アンダスタン?」
ハイドの声は穏やかだったが、バートリーの口には依然掌に開いた口が脅しつけるように押し付けられている。逆らったら殺される! 従順であることを示すため、バートリーは必死で首を縦に振った。
「よし。……悪かったなァ、手荒い真似しちまって。急ぎすぎて焦っちまった」
バートリーが頷いたのを確認すると、ハイドは手を放して空いたソファにどっかりと座った。一旦命の危機から解放されたバートリーは目を白黒させながらも現状を把握しようとする。シーカーはどこに? ハイドは何故、いつここに? 疑問だらけだったが、聞いたところでハイドが優しく答えてくれるだろうか。また得体のしれない口と口づけを交わす羽目になるだけなのでは? バートリーがおろおろ考えていると、ハイドの方から話し始めた。
「あいつ……シーカーからどのくらい聞いてる?」
「え、ええと……ここに来た用事のこと、か?」
「ああ」
だから、どうしてハイドなんかが僕に用事があるというんだ!? 叫び出したくなるのを堪え、バートリーは慎重に答えた。
「なんだか訊きたいことがあるとか……魔女がどうとか」
「おう、わかってんじゃねえか。そうだ、魔女の話だ」
何突っ立ってんだ、てめえも座れ、とばかりに手招きしてくるハイドに曖昧な笑みで首を振る。座ったらきっと、その瞬間にハイドに首をねじ切られてしまいそうだ。
「だから、つまり……君に魔女の話をすればいいのか?」
「正確に言うなら、『魔女の呪い』の話だ。魔女の呪いの解き方、てめえに知恵を借りてえ」
ハイドがローブを脱ぎ、胸に刻まれた禍々しい紋様の刺青を見せた。ハイドが魔女に呪いを受けた、とは聞いたことがあるが、まさか本当だったのか。刺青の紋様にはバートリーも見覚えがあった。確か、これは……脆弱と変容の印、だったか?
「てめえが書いたっていう本にも似たような呪紋が載ってたはずだ。わからねえわけはねえよな?」
「た、確かに少しくらいなら心当たりはあるが……さすがに解き方はわからない。呪いを解くのは、呪いをかけた魔女本人にしかできないから」
少しずつだが事情が呑み込めてきた。魔女に呪いをかけられ弱った末に、魔女についての知識があるバートリーを頼りに来たのか。
「どうしても解きたいっていうのなら、その魔女を探し出す以外にはないと思うが……」
「死んだ」
ハイドは短く答えた。
「死に際に呪いをかけてきやがったんだ。かけ終わった頃には既に地獄に逃げ帰っちまってたぜ。まさか地獄に行って探しに行けなんて言わねえよな? ああ?」
「そ、そうか……それはお気の毒に」
途端に胡乱な目つきになるハイドにバートリーの冷や汗は止まらない。しかし、ハイドが満足するような答えが出せるかと言われれば。
「しかし、それじゃあ打つ手は……命をかけて放った呪いなら尚更だ。きっとその刺青は、君が父祖の元に還るまで君を蝕むことだろう」
「はあん。じゃあ諦めて死ぬまでベッドの中で震えてろってか? てめえは?」
低い声がバートリーの貫く――しまった。
「そ、そんな、そういう意味じゃあ……」
「てめえは味わったことがあるか? 夜目覚めたら、体が思うように動かねえ。どころか、自分の意思とは関係なく勝手に動きやがる」
ハイドは俯いていた。しかしその両手は血を流すほど強く握りしめられている。
「体はどんどん小さくなる。力も弱く、走るのもままならねえ。ひとりじゃろくろく狩りもできず、ハンターが現れたら物陰に隠れてやり過ごすしかねえ」
「こうやっている間もいつ呪いの発作が出るかもわからねえ。どころか、最近どんどん『俺様』に戻る時間が少なくなってきやがった。そのうち俺様が俺様でいられなくなるかもしれねえ」
「てめえはあんのか? 自分が自分でなくなって、どんどん自分が削り取られていく感覚――呪いが解けねえから諦めろ? 負け犬らしくさっさとくたばれってか? ああ?」
心臓の鼓動が早まる。まずい、まずい、まずい――口を滑らせてしまった。あまりに迂闊だった。読者として慕ってくれたシーカーに浮かれていたせいか。このままでは間違いなくハイドに肉塊にされてしまう。なんとか、なんとかしないと。しかし、どうやって? 魔女の呪いを解くなんて――
「……ペンを持ってもいいか?」
「あん?」
気が付くと、バートリーの口からそんな言葉が滑り出ていた。意表を突かれたハイドをよそに、文机に転がしていたペンを拾い上げて握る。考えろ、考えろ。ハイドの呪いを解く方法――他者の呪いすらも解ける魔女。
「……かつての魔女王、大魔女モルガーナならあるいは、可能かもしれない」
「モルガーナ……? 千年も前にくたばったんじゃねえのか?」
「いや、彼女はまだ生きている。自分の魂を依り代に移し替えて、今もなお……」
大魔女モルガーナ。かつて吸血鬼と魔女が戦争していた時代に生まれ、魔女を率いて吸血鬼達に立ち向かった女傑。知らなかったはずの知識がどんどんバートリーの中に入ってくる。
「カンタレラを発明し、多くの呪いを使いこなした彼女なら……君の呪いを解くことも可能かもしれない」
「……カンタレラ、だと?」
ハイドが驚いたように眉を上げた。
「モルガーナがカンタレラを作った……てめえ今、そう言ったのか」
「あ、ああ……それが、どうかしたのか?」
「はん、なるほどな……面白くなってきやがった」
にいっとハイドが口角を上げる。バートリーは先程とはまた別の悪寒を覚えた。
「そいつの居場所はわかるか? ミスター・バートリー?」
「多分……割り出せると思う。大魔女を捕まえられるかはわからないが……」
「オーケイ。じゃあ話は早いな」
にんまり笑ったハイドはバートリーの腕を掴んだ。
「な、なんだ……?」
「てめえの『知恵』は使えそうだ。モルガーナを捕まえて呪いを解かせるまで、ちょっとばかし付き合ってくれや」
「なんだって!?」
それはつまり……ハイドの配下になれということか!? あの暴虐者、吸血鬼一残酷な男の!?
「い、いや、そんな……僕なんかが君の力になんて……!」
「何言ってんだ。今立派になってくれただろうがよ」
必死で謙遜するも、ハイドは手を放してくれようとしない。また下手なことを言えば先程の口がバートリーの腕肉を食いちぎるのでは、と思うと気が気ではない。
「で、でも……」
「シーカーの奴、てめえの本が好きなんだってな。てめえに色々話が聞きてえってはしゃいでやがった。てめえが俺様のところにくりゃあ、あいつも喜ぶんだろうな?」
「うっ……」
シーカーの純真な瞳を思い出す。あんな風にまっすぐに尊敬してもらえるなんて初めてだった。勉強熱心な子のようだったし、話したら楽しいだろうな……。断れば腕肉を食いちぎられて殺され、承諾すればハイドの庇護に入って可愛らしい少年の教師ができる。普通に考えればどちらを選ぶかなど迷うはずもない。
「……家族を、連れて行ってもいいのなら」
悩んだ末、結局バートリーは頷いてしまった。
「家族?」
「まだ小さい……女の子の吸血鬼なんだ。僕がいなくなったら生きてゆけない。彼女を守ってくれるなら、僕も君に従おう」
「……いいだろう」
ハイドがようやくバートリーの腕を放した。思わず出そうになった溜め息を堪え、ハイドの言葉の続きを待つ。
「三夜後、シーカーを使いに出してやる。それまでに荷物をまとめて、その家族とやらと支度をしておけ。それでいいな?」
「あ、ああ」
「オーケイ。助かるぜ、ミスター・バートリー。あんたが来るの、胸をときめかせて待ってるぜ」
と――ひらりと体を翻し、ハイドは窓から飛び出した。風のように去ったハイドに、バートリーは安心と茫然でその場に座り込む。大変なことになってしまった……。
「バートリー、お話終わった?」
待ちくたびれたらしいエルジエがノックと共に扉の外から声を投げかけてくる。ああ、終わったよ、と気の抜けた声で答えながら、窓を閉めて扉を開けた。
「ところでエル、引越しをするって言ったら、驚くかい?」
「え?」
きょとんと首を傾げるエルジエにどう説明したものか悩み、バートリーは複雑な笑みを浮かべた。
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