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第二話 あの夜

 荷馬車の揺れが穏やかになった。ようやくあぜ道を抜けたのだろう、荷台に座り込んだ少年はほっと息を吐いた。見えるのは先程と大差なく草むらや森ばかりである。魔女の根城まで、あとどのくらいで着くだろうか。少年は外套の中に隠した布袋を抱き直す。

 荷馬車の主人は無口に手綱を取り続ける。が、ときたま振り向いては少年の様子を伺っていた。金貨につられて旅人を乗せたのは彼らしからぬ失敗だった。金貨におよそ似つかわしくない、黒く薄汚れたぼろぼろの外套に、煤にまみれたように黒い肌と髪。おまけに微かだが血の臭いを漂わせている。見た目は若いが盗賊の類かもしれない。ふと、少年と目が合う。闇を煮込んで焦がしたようなどろりと得体の知れない色。主人はぞっとし、前を向きなおした。

 一方少年は主人の顔を見て物思いにふけっていた。誰かに似ているような気がする。誰に似ているのだろう? 考えても思い出せず、やがて飽きてぼうっと揺れに身を任せ始める。負傷を負い疲労した彼が睡魔に襲われるまでそう時間はかからなかった。やがて荷馬車の揺れに身を任せて船を漕ぎ始めた。

「…………荷馬車」

 うわごとのように呟く。そういえば、前にもこうして荷馬車に揺られたことがあったような。いつだったろう……? 少年の思考は夢と溶け合い、やがて彼は静かに寝息を立て始めた。



  ◆



 限界が近づいている、と七歳の少年ヤンは確信していた。

 それはいつからだったろう? 村の徴税が厳しくなり、村全体が貧しくなってからだろうか。あれ以来、いつも優しかったおじさんが冷たくなり、余り物の野菜をくれなくなったのだ。

 冬が来てからだろうか。木々が枯れ、森で果物が取れなくなった。獣達もどこに姿を消したのかほとんど見つからない。今日だってそうだ。ヤンは袋に詰めた小ウサギの死骸を見る。半日以上森にいて、やっと獲れたのがこの一匹だ。こんな小さいウサギではヤンも妹も腹が満たされるはずがない。少し前までは鹿だって丸々太った鳩だって、いくらでも狩ることができたのに。

 もっと頑張ってみようかと思った。しかしもう夕暮れだ。あんまり帰りが遅ければ、妹のグレーテが心配するだろう。口から出たため息はすぐさま白く濁る。寒い、お腹も減った。憂鬱な気分で村へと急ぐ。

 何十分か歩いたところでようやく村が見えてきた。人目を窺いながらこそこそと家へ向かう。ヤン兄妹は村の鼻つまみ者なのだ、村人に見つかったら嫌味を言われ、もしかしたら夕飯の小ウサギすら奪われてしまうかもしれない。それだけは避けなくては。

「なんだよ、ドブネズミかと思ったらヤンじゃねえか」

 しかし、ついていない日は何もかもうまくいかないものだ。こそこそと忍び歩きしていたヤンの姿を見咎める者がいた。耳慣れた嫌味な声だ、ヤンはうんざりして振り返る。

「……ヨーゼフ」

「あーあーくせえくせえ。またごみ溜めで残飯でも漁ってたか? 今日はずいぶん美味そうなもん拾えたんだなあ」

 わざとらしく自分の鼻をつまみながらヨーゼフはヤンを小突く。不愉快だったがやり返さない方が得策だと知っていた。村長の息子だか知らないが、たった五つしか変わらないのにどうしてこうも威張り散らすのだろう? 毎日ご飯にありつけて、暖かいベッドで眠れて、まだ何か不満があるのだろうか。ヤンにはわからない。

「うるさい」

「ちっ……つまんないやつ。さっさと臭い豚小屋に帰っちまえ」

 いくら小突いてもじっと睨み返すだけのヤンに飽きたのか、ヨーゼフはふん、と溜め息をついてヤンを突き飛ばした。ヤンはウサギを抱えなおして家へと急ぐ。しかしヨーゼフに見つかったのがまずかった。他の村人もヤンの存在に気づいてしまった。


 ――おい、見ろよ。あのガキがいる――


 ――いやだ、最近見かけないからてっきり死んだのだと思っていたのに、まだ生きていたなんて――


 ――しぶといやつだ。さすが《魔女の子》、あの女そっくりだ――


 ――ふてぶてしい顔。本当、あの女によく似てる――


 ――あれ何? ウサギかしら、こんな季節に狩りを?――


 ――魔法を使ったのさ。さもなくば、あんなガキが狩りなんて出来るはずない――


 ――気味が悪い。早くいなくなってしまえばいいのに――


 村人達のひそひそ話が途切れ途切れに聴こえてくる。うるさい、うるさい、うるさい。手が塞がったヤンは耳を塞ぐことができず、頭を振って気を逸らそうとした。

 魔女の子。顔も思い出せないようなヤン達の母親は魔女と呼ばれ、村人達に嫌われていたらしい。ヤンとグレーテの父親も判然とせず、悪魔や吸血鬼とまぐわったのだと酷い噂を立てられていた。まだヤンも物心がついていないような歳に母親が流行病で亡くなってからもそういった偏見は消えず、成長したヤンに向けられるようになった。

 うるさい、何が魔女の子だ。ほとんどの村人から見捨てられたヤンは生き延びるのに必死だった。七つで狩りに習熟しているのも、ゴミ溜めでゴミを漁るのも、すべては自分と唯一の家族が生きていくためだ。しかしヤンが幼いながらに頑張れば頑張るほどに村人達はますます気味悪がりヤンを邪険にする。そしていよいよヤンも窮してきたのだ。

 うるさい。僕達がどんなに辛い時も助けてくれなかったくせに。僕達が何をしたんだ、盗みどころかみんなに迷惑をかけないように生きてきたのに。それなのにお前らは、母さんと僕を一緒くたにして、お前らは。

 お前らは!

「げっ!」

 村人の一人が怯えたように飛び退いた。どうやら無意識に睨みつけていたようだった。そいつが慌てて家に引っ込んだのを皮切りに、他の村人も蜘蛛の子のように姿を消していく。ヤンも母親のように魔法を使えると信じているらしい。馬鹿馬鹿しい、とヤンは思う。魔法なんて使えやしない、使えたらこんなに苦労して小ウサギなど狩るものか。

「……帰ろう」

 ただでさえ疲れているのに、ヨーゼフや村人のせいで心までくたくたになってしまった。早く帰って夕飯の支度をしなければならないのに。グレーテもきっと腹を減らしているはずだ。薄暗くなった村を小さいヤンはとぼとぼ歩いた。




「お帰り、ヤン!」

 古びてぼろぼろになった農具小屋が兄妹の住処だった。一つ違いの妹グレーテはやつれ痩せこけてなおもヤンを笑顔で迎え入れてくれる。たった一人の家族。幼いヤンの唯一の心の拠り所だった。

「今日は遅かったね。疲れたでしょ」

「……ごめん、グレーテ」

 ヤンは力なく頭を垂れた。

「今日は、これ一匹しか獲れなかった……ごめん、すぐに捌くから」

「ふっふっふー」

 だが、グレーテは落ち込むどころか不敵な笑みを見せた。

「じゃーん! 見てこれー!」

「! これって……」

 グレーテが取り出したのは干し肉だった。小さいが、小ウサギと合わせれば夕飯には充分な量になる。しかし、こんな物一体どうやって……? 目を丸くしたヤンにグレーテはえへんと胸を張る。

「隣のおばさんからもらったの、みんなには秘密ねって!」

「そうか……」

「渡る世間に鬼はなしってやつだね! みんながみんな、酷い人じゃないんだよ!」

 以前はよく野菜くずや干し肉の欠片を分けてくれたおばさんだ。村全体が困窮するようになってからはヤンもなるべく関わりを絶っていたが……そこまで考えて、ヤンははっとする。

「……お前、外に出たのか!? 危ないから出歩いちゃ駄目だって言っただろ!」

「だって」

 グレーテはぷうと頬を膨らませる。グレーテはヤンの妹、魔女の子だ。うかつに村を出歩けば村人に何をされるか。もしもグレーテの身に大事が起きたらと思うとヤンは気が気でなくなってしまう。

「ヤンばっかり頑張ってるのに、わたしだけ家でごろごろなんてしてらんないよ……それに、ずっと家にいてもつまんないもん」

「グレーテ……」

「心配させてごめんね。今度からは気を付けるから」

 言われてようやく気づく。グレーテは自分を心配してくれているのだ。ヤンの遅い帰りを不安になりながらも待ち続けてくれていたのだ。なぜだかずきずきと痛む胸をおさえ、ヤンは後ろを向く。

「ヤン?」

「……お腹、空いたろ? ご飯にしよう」

「うん!」




 慎ましやかな夕飯が終わり、粗末な布団に二人で入る。隙間風と地面からの底冷えでちっとも温かくなれないが、グレーテと一緒にいられるだけで心は充分にぽかぽかした。

「ん……ヤン……」

 グレーテが布団の中でもぞりと動き、やがてすうすうと静かな寝息が聴こえてくる。僕も早く寝なければ。しかし今宵は妙に目が覚めてなかなか眠れなかった。

 限界が近づいている、と七歳の少年ヤンは確信していた。

 このままこの村で過ごしていても未来はないだろう。そのうちに冬が明け春が来て、また森に獲物が出てくるようになるかもしれない。だが、その頃までに僕達は生きていられるのだろうか? 今日はなんとか夕飯にありつけたが、そのうちウサギどころかネズミ一匹捕まえられなくなるかもしれない。優しいおばさんやおじさんだっていつまでも干し肉をくれるわけはないだろう。あの憎ったらしいヨーゼフ一家以外はみんな自分の生活で精一杯なのだ。誰もヤン兄妹を助けてくれない。このままこの村にいたところで、狭い小屋の中、ひもじい思いをしながら凍え死んでしまうだけではないのか。

 確か、あの森を越えた先には大きな町があるらしいのだ。いつか聞いた噂話を思い出す。そこならきっと、今よりはましな生活を送れるんじゃないのか? 少なくとも魔女だなんだと言われて疎んじられることはないだろう。上手くいけば仕事をもらえて、毎日森に行ってグレーテを心配させるようなことはもうしなくて良くなるかもしれない。歳の割に成熟しているヤンだったが、それでも幼かった。あるかもわからない未来の希望に縋り、まだ見ぬ獣の皮算用をしてしまうのだ。

 町に行けばきっと今より幸せな生活が送れるはずだ。グレーテだってきっと…………グレーテ? ヤンははっとして眠るグレーテの横顔を見た。グレーテも町の方が幸せに暮らせる。……本当にそうなのか?

 昔のことを思い出す。まだヤンもグレーテも今よりずっと幼く、まだ窮していなかった村の住人達の助けを借りて暮らしていたときだ。《魔女》の母親に顔がよく似ているらしいヤンはその頃からあまり良く思われていなかったが、可愛らしいグレーテはいつもみんなに可愛がられ愛されていた。グレーテは魔女がどこぞからさらってきた可哀想な子、なんて噂すら立てられていたほどだ。

 ヤンが成長し、村八分が厳しくなってきてからはグレーテはなるべく外出しないようにさせていた。ヤンに向けられるような悪意や暴言から少しでも妹を守るためだ。……しかし、本当のところはどうなのだろう? 嫌われているのはヤンだけなのではないか? グレーテはまだ《可哀想なさらわれっ子》としか思われていないのでは……? 今日の干し肉だってそうだ。ここのところまともに顔も合わせていないおばさんだ、もしグレーテではなくヤンだったらもらえていたかどうか。

 もしかしたら、とヤンの身に外気によるものではない寒気が走る。自分がいるせいで、グレーテにさせなくてもいい苦労をさせているのでは? 嫌われているのはヤンだけならば、もしヤンがいなくなればグレーテは村の人に引き取られ、可愛がってもらえるんじゃないのか? もしそうなのだとしたら……。森は深く広い。町に辿り着くまで、下手をすれば何日もかかるかもしれない。狂暴な獣こそ今は姿を消しているが、この季節の野宿は過酷なものになるだろう。野盗の類だって潜んでいるかも。さすがに吸血鬼だの魔女だの狼男だののくだらないおとぎ話達はいないだろうけれど、楽で快適な旅にはならないはずだ。そんな旅に妹を同行させていいのだろうか。グレーテは村に残った方が幸せに暮らせるかもしれないのに。

 僕の身勝手でたった一人の妹をさらに苦しめてしまうんじゃないのか。ヤンの小さな胸がきゅうっと潰れそうになった。

「大丈夫だよ、ヤン」

 ふいに聴こえた声にどきっとする。寝返りを打つと、いつのまに起きたのか妹が微笑んでいた。

「グレーテ……」

「わたしのせいで、いつもいつも辛い思いばっかりさせてごめんね」

「そ、そんなことないっ!」

 ヤンは頭を振る。確かに辛いことは沢山ある。だけど、グレーテがいたから今まで生きてこられたのだ。もしも一人ぼっちだったら、《魔女の子》はとっくのとうに死んでしまっていただろう。

「お前が一緒にいてくれたから……!」

「じゃあ、これからもずっと一緒にいる」

 グレーテの腕がヤンに伸び、そっと優しく抱きしめた。ヤンの胸に頭をこすりつけながら、グレーテは小さな声で呟く。

「わたしはどこへも行かないよ。ヤンとずっと一緒にいる。だから、泣かないで」

 胸元がしとしと濡れる感触があった。グレーテの言葉が、まるで懇願のように聞こえる。お願いだからどこにも行かないで、と。

「……うん。僕もお前と一緒にいる。ずっと、ずっと」

 ヤンは震える腕でグレーテを抱き返した。ずっと、一緒にいよう。たとえ本当に血が繋がっていなくとも、この先どんなに辛いことがあろうと。グレーテと一緒にいれば、きっと乗り越えられるはずだから。

 震える二人きりの兄妹に優しい睡魔が降りてくる。やがて来る過酷な運命から少しでも守ろうとするかのように。



  ◆



「行ってくる。戸締りに気をつけて、出歩かないようにな」

「いってらっしゃい。ヤンも気をつけてね」

 いつも通りのやりとりをし、いつも通りに家を出る。

 まだ朝早い。この時間なら村人にもあの憎いヨーゼフにも出くわさずに済む。ヤンは早足で森へと向かう。今日はいつもより上手くいきそうだ、なんだかそんな予感がした。

 頑張らなければ。ヤンは思う。旅に出るならば支度が必要だ。細々とした道具はどうにか都合するとして、問題はやはり食料だ。一日二日ではたどり着けないだろうから、日持ちする食料を調達しなければならない。狩りでいつもより多く獲物を獲って干し肉にしなければ。ヤンはいつになく張り切っていた。

 それが功を奏したのかどうか、今日の成果は素晴らしいものだった。冬支度で丸々太った鹿を仕留めることが出来たのだ。この大きさなら今日の夕飯にして、いつも以上に沢山食べてもまだ有り余るだろう。ほくほくとした気持ちでヤンは鹿の死骸を引きずる。重くて運びづらかったが、それすら気にならないほどヤンはうきうきしていた。グレーテも喜んでくれるはずだ。久しぶりに我慢せずお腹いっぱいにさせてあげよう。

 今日はまだまだ何か良いことが起きるような気がした。早く帰れば、きっともっともっと良いことが起きる。そう思って足早に歩いた。

 村から上がる激しい火の手を見るまでは。

「……え」

 日が沈みすっかり夕闇に染まる空を焦がすように炎がいくつも村から上がっている。ヤンにはしばらく事態が飲み込めなかった。なんだこれは? しばらく惚け、やがて家で待っているはずの妹のことに頭がいく。何が起こっているんだろう、グレーテは大丈夫なのか!? 鹿を放り出して走りだす。

 村は酷い有様だった。家が何軒も燃え盛り、あたりには村人の骸が落ち葉のようにいくつも転がっていた。まるでおとぎ話の吸血鬼にでも襲われたかのようにからからに干からびた死骸だ。その中に隣家のおばさんによく似た屍を見つけ、ヤンの焦燥は強くなる。

「グレーテ……グレーテーっ!」

 なんだこれは。死の匂いと焦げ臭い匂いが混じり合って、地獄の中にいるようだった。なんだこれは……これじゃ本当に吸血鬼に襲われたみたいじゃないか。吸血鬼なんているわけないのに。人間の生き血を啜り、永き時を生きる邪悪な夜の種族。そんなものは大人が子供に言うことを聞かせるためのおとぎ話のはずなのに。

 グレーテはどこだろう。大丈夫、きっと言いつけ通りに家で僕の帰りを待っているはずだ。自分に言い聞かせる言葉も、しかし死骸の中に見慣れた顔を見つけるたび薄れていく。

「グレーテ……!」

 村中がめちゃくちゃで、もはやどこに小屋があったかも判然としない。立ち込める煙に鼻を覆いながら歩いていると、ふいに何者かがヤンの前にまろび出た。

「…………!」

「よ、良かった……まだ生きてるやつがいたッ……!」

 グレーテではない。煤にまみれたその顔はあの憎いヨーゼフだった。落胆したヤンに対しヨーゼフも相手がヤンだと気づくとがっかりしたように顔を曇らせたが、それでもヤンの足にすがりつくようにやってきた。這いずるヨーゼフの両脚からは血が流れ、おかしな形に歪んでいた。

「お前でもいい! なあ、助けてくれよっ! みんな殺されちまった……吸血鬼に喰われたんだ!」

「……吸血鬼」

「親父もお袋も……あいつ、おれの脚をわざとこうして逃げ回るのを楽しんでやがるんだ! なあ助けてくれ、魔法が使えるんだろ!? 魔女の子なんだから!」

 いつもだったらヤンを見つけるたび罵ったり小突いてくるヨーゼフが必死の形相で助けを求めてくる。こんな状況でなければ小気味よく思えたかもしれない。しかし今のヤンは居心地の悪さばかりを感じてしまう。

「……俺は、魔法なんて使えない」

「なんだっていい! とにかく助けてくれよお! お前が小さい頃は遊んでやったりしたじゃないかっ!」

 ああ、そんなこともあったっけ。ヤンはぼんやり思う。本当に昔のことで、いつの頃だったかはっきり思い出せない。何がきっかけだったか、遊んでくれていたヨーゼフがある日突然いじめてくるようになったのが悔しくて悲しかった記憶だけが鮮明だった。

「なあ頼むよ、お願いだよ、助けてくれって……!」

「おー、いたいたァ」

 そんな声が降ってくる――途端、ヨーゼフがびくりと硬直した。

「あ、ぁ……!」

「九分二十五秒……ハハ、ガキにしちゃァなかなか頑張ったじゃねーのよ。親父サンもきっと喜んでるぜ、ええ? 俺様の腹ン中でな」

 若い男だった。背が高く細身で、ジャケットのようにだらしなく着たローブから垣間見える身体は豹のようにしなやかな筋肉で覆われている。辺りを焼く炎と同じ色の髪と瞳、裂けたように笑む口から覗く猛獣めいた牙。ヤンは直感した。この男は人間ではないのだと。

「あぁ……ぁああああぁああ……!」

「だーが残念、てめえはゲームオーバーだ。見つかったら負けがかくれんぼだぜ? ハイド・アァンド・シィィィク! ハハハハハ!」

 男の歩みは緩やかだ。しかしヨーゼフは震えるばかりでその場から動かない。まるで地面に糊付けでもされたかのようだ。逃げなければ。この男が何者なのかはわからない、だがこの男に見つかったら殺されてしまうと直感した脳が警鐘を鳴らし続ける。けれど――ヤンの足はどういうわけか動いてくれないのだ。

「い……いやだ助けて、殺さないでっ……!」

「おいおいおいおい、なーに面白いこと言ってんだァ? 俺様が勝ち、てめえが負け。負けた奴が罰ゲームを受けないゲームって楽しいか? 楽しくねえよなァ!? ええ!?」

 ふ、と男の姿が消えたように見えた――いや違う、一瞬のうちにヤンとヨーゼフの目の前に移動してきたのだ! 走りやジャンプする動作なんてまったく見えなかったが、しかし風や砂埃が男の目にも留まらぬ速さに驚くかのように巻き上がる。そして男は右手を鷹めいて広げヨーゼフに向かってかざす。掌の真ん中に真一文字の傷が出来たかと思うと、それがぱっくりと縦に開き――中から赤黒い舌がべろりと姿を現す! 口だ……男の手に現れたおぞましき口はにんまりと唇を吊り上げ、がちがちと鋭い牙を打ち鳴らす! ヨーゼフが悲鳴を上げるのが聴こえた。ヤンもなぜ自分が叫ばずにいられたのか不思議で仕方なかった。

「いやだッ、やだ、いやだああああああああああああああああッ!」

「ヒャハハハ! イィィィィト・ジス!」

 男の手が伸び、《口》がヨーゼフの喉笛に食らいつく。男の手ががっちりとヨーゼフの首を鷲掴みにし、掌のあぎとがその肉を食い破って血を啜りだした。じたばたとヨーゼフはもがいていたが、男はどんどん《口》から血を吸っていく。次第にヨーゼフの四肢から力が抜け、辺りに転がっていた死体同様に萎れ干からびていく。反対に男の腕は血を吸って膨張し血管が浮き上がる。まさしく血も凍るような恐ろしい光景にヤンはいつしか尻餅をつきその場にへたり込んでいた。

 なんだこれは。どうしてヨーゼフがこんな残酷に殺されている? ヨーゼフのことは嫌いだった、だけどこんな風に死んでほしいとは一度も思ったことはないし、こんな風に殺されるほど悪い奴じゃなかったはずだ。みんなこんな風に殺されたのか? こんなおぞましい化け物に…………グレーテは? まさかグレーテまで? まさか、そんなはずない!

「ふいー、食った食った。久しぶりだからついつい食い過ぎちまったぜ。やー、生きてるって最高だなァ!?」

 すっかり枯れ果てたヨーゼフの死体をゴミのように投げ捨て、男は掌に付いた血を本当の舌でべろりと舐めた。そしてそこでようやく気づいたのか、座り込んだヤンへ気だるげな視線を送る。

「ン……まだ生き残りがいたかよ。どうすっかねー、さすがにもう食えねっての…………ん?」

 と、怪物ははっとしたように鼻をひくつかせた。ヤンの臭いが気になるのか、身を屈めてヤンの体にぐいと顔を寄せる。ヤンは動けない。ただ男の見定めるような不穏な目を見返すことしか出来ない。

「……くせェな」

「え……」

「くせえくせえ。忌々しい《魔女》の臭いがしやがる……てめえ、なんだァ? まさかこんなチビが魔女なわきゃねーしなァ……」

「ま、じょ」

 魔女……魔女? そんなものはおとぎ話だ、そうだろう? そんな常識は目の前の化け物によってとうに破壊されてしまった。ヤンにはもう何がなんだかわからない。早くグレーテに会いたい。町に行かなくちゃ、せっかくあんなに大きな鹿も獲れたのに。

「おいおいおいおい、こりゃ思わぬ大金星かァ? つまらねえ与太話もたまにゃあ信じてみるもんだなァ……魔女の村に魔女のガキ、ええ? おいこらクソガキよォ」

「うわっ!」

 男がヤンの胸倉を掴んで立ち上がる。自然、ヤンの体は宙ぶらりんの状態になった。男は唇を舐め、獰猛な笑みを浮かべてヤンを眇める。

「魔女はどこだよ。てめえを生みやがったくせえ雌犬だ、サン・オブ・ア・ビィィィッチ! 知ってんだろマザーファッカー!」

「し、知らない」

「そーか、知らねえか、ハハハハハ! ……ふざけんじゃねえ!」

「ぎゃうッ!?」

 猛烈な痛み。ヤンの体がもはや廃墟と化した家の壁に叩きつけられたのだ。目を白黒させて激しく咳き込むヤンに怪物はさらに詰問した。

「じゃあその臭いはなんなんだ? 雌犬の小便くせえ臭いをプンプンさせときながら知らねえだと、ええ!? 笑わせるぜ、てめえの母親のことも忘れちまったかよ!」

 知らない、知らない、知るもんか。僕達を捨てて死んじゃったお母さんのことなんか。いくら言えども男は納得しない。生意気だと言わんばかりに何度も何度もヤンを壁に叩きつける。やがてヤンは男の嗜虐的な笑みに気づいた。知っていると嘘を吐こうと、たとえ本当に知っていたとしても、この男は構わずヤンに暴力を振るっただろう。ぐぎり、と肩のあたりで嫌な音がした。その痛みに叫ぶ程の余力すら既に奪われてしまっていた。

「イィィィィィト・イット! イーリィイーリィイーリィイーリィ、イィィィィィィリィィッ! ヒャッハハハハハハァ!」

「っ……ぅ…………ぁ……」

「旦那ー、終わりましたかい?」

 ヤンの体が何度叩きつけられたときだろうか、唐突に男の暴力がやんだ。場違いなほど明るい声に振り向いた男はチッと舌打ちをした。

「終わったように見えるかよ、ええ? シャイロックよォ」

「そりゃあすいませんで。ですがね旦那、もう潮時だとあたしは思いますよ」

「シャーイローック……」

「あたしはあんたが心配なんでさ、ハイドの旦那。そろそろあんたの呪いがぶり返すんじゃないかってね。シーカー坊は見かけやせんが、今夜は連れてこなかったので? あたしにあんたの介抱ができるか、ちいとばかし不安なんですがね」

 シャイロック、と呼ばれた商人風の男はひひひと愛想よく笑って男――ハイドの肩を叩く。再び舌打ちをしたものの、反論はせずに黙ってヤンの体を放した。床に叩きつけられ、ヤンはげほ、と力なく咳をする。

「おや、その坊ちゃんは?」

「魔女のガキらしい。母親のことも知らねえ親不孝者だがな」

「おやまあ、こんな可愛らしい坊ちゃんが」

 シャイロックはヤンを掴みあげた。丁寧な手つきだが、優しさはまるで感じられない。まるで品物を扱うかのような無感情さだ。

「殺さねえんですかい?」

「飽きた。腹もいっぱいだ」

「それはそれは。だったら、あたしがいただいても?」

「売れんのか? そんなくせえガキが」

「ちょうど、仕入れの依頼が来てましてねえ……このくらいの子供を何人か。生憎、今宵はちっとも仕入れられなくて」

 旦那が見境なしにやっちまうから、とシャイロックは少しだけ恨みがましげにハイドを見た。「そりゃ悪かった」とハイド。

「しかしよくやるなァ? 食いもしねえ血袋集めて売って」

「食い道楽だけが鬼の生き方ってわけじゃあありやせんよ。旅をして、色んなものを見聞きして、それが楽しいんでさあ」

「わからんねェ」

「お互いさまで」

 シャイロックがひひひと笑い、ハイドは肩をすくめた。そして。

「……ごほッ」

「旦那?」

「チッ……来ちまったか。シャイ、あとは頼んだぜ」

 シャイロックの返事を待たず、ハイドは一瞬のうちに姿を消した。置いてきぼりをくらった商人はやれやれと溜め息をつく。

「まさかこの後始末を全部あたしに? まいるねえ、さすがは暴虐者ハイド様」

「……ぅ、う……」

「おっと、忘れちゃいけねえや」

 腕の中でヤンがうめくのを聞き、シャイロックは慌てて駆けだした。その先には屋根のついた大きな荷馬車。黒い馬が落ち着かなげに地面をかくのを「おお、よしよし」となだめながらシャイロックはヤンを荷台に入れる。

「おら、ここでお友達と一緒に大人しくしておきな。良い子にしてたらいいところに連れてったげるから」

「お、ともだち……?」

 ヤンは上手く動かない体をくねらせ押し込まれた狭い荷台の中を見た。奥に誰か寝ている。見覚えのある長い茶色の髪。

「グレーテ……」

 もぞもぞと這って妹に近づく。怪我はないだろうか? あの怪物に襲われてはいないか? しかしグレーテの寝顔は穏やかで怪我一つないようだった。ほっとした途端、彼の意識は薄れていく。

「……ずっと、一緒だ……」

 痛む腕を伸ばしてグレーテと手を繋いだ。熱が手から伝わってきて冷え切ったヤンをゆっくりと温める。絶対この手は放すものか。意識を手放す間際に心に固く誓った。

 たとえこの先、何が起ころうとも。



  ◆



 意識が、あるいは記憶がぶつ切りになる。


「すいませんねえ、今回は二人しか仕入れられませんで」


「いや、ありがとう……君のお陰でとても助かっているんだ」


 荷台の外から聴こえてきた声。シャイロックと呼ばれていた男が別の男が話している。


「一人は健康な女の子。もう一人は……仕入れの時に少し問題がありやして、傷が目立ちますねえ」


「そうか……いや、二人ともいただくよ」


「よろしいので?」


「余った方は食べればいい。傷の方、値引きしてくれるんだろう?」


「そりゃあもちろん」


 しばらくして荷台の扉が開き、シャイロックがヤンとグレーテを順番に引きずり出した。そして鳥籠めいた大きな檻に押し込むと、もう一人の男に渡す。柵に邪魔されてよくは見えないが、貴族のような服を着た白い長髪の男だった。


「いつもご贔屓にありがとうございます、バートリーの旦那」


「こちらこそ。また機会があったらよろしく頼むよ」


「グレーテ……」

 ヤンはもぞりと身じろぎした。グレーテは未だに目覚めない。あれからどのくらい時間がたったろう。一日? 二日? それ以上かなあ? あちこちの傷が痛み、お腹がくうと鳴った。檻の外は真っ暗だった。


「……なんだか似ているな。きょうだいなのかな?」


 男が檻を覗く。緑とも青ともつかない色が暗がりでいやにぴかぴか光っている。あの怪物に似ている、とヤンは凝った思考の中でぼんやり思う。


「どちらにしようか……君たちのどちらを、僕の家族に」


 ぞく、と怖気が走った。グレーテの手を強く握る。何か恐ろしいことが起こりそうな気がした。守らなければ、グレーテを。


 意識がぶつ切りになる。


「グレーテ……!」

 ヤンは檻の中から手を伸ばした。白髪の男に連れ出されたグレーテには届かない。男に抱かれたまま眠り続けるグレーテ。駄目だ、駄目だ、早くグレーテを! 檻は固く閉じて開かない。ヤンはがりがりと檻の隙間から床をひっかいた。


 意識がぶつ切りになる。


 グレーテの体からどんどん血が流れ出る。肌から赤みが消えて真っ白になっていくグレーテ。ヤンはもがく。床をかく手から爪が剥がれた。

「グレーテ! グレーテ!」

「待っていてくれ……もう少しだから」

 男はうわごとめいて言うと、グレーテの首を突き刺したナイフを今度は自らの左手首に向ける。深々と突き刺し、引き抜く前に寝台に置いた太い管を手繰り寄せる。ナイフを抜き取ると、血が吹き出す前に素早く管を傷口に突き刺した。

「もう少しで君はっ……!」

「グレーテ―っ!」

 血が止まったグレーテの首に男は管の先を挿し入れた。男から出て行く血がどんどんグレーテの中に入っていく。男は激痛にもだえ、その場に膝をついた。

「君は僕の……家族になるんだ……!」

「グレーテ! グレーテ! グレーテ!」

 意識がぶつ切りになる。意識がぶつ切りになる。意識がぶつ切りになる。

 綺麗だった茶色の髪が真っ白に染まる。あの男と同じ色だ。うっすらと開いた目は青緑色。あの男と同じ色だ。グレーテは……いや、あれはもうグレーテじゃあない。あんな髪、あんな目! あれは誰だ! あの男と同じ色だ!

「……成功だ……」

 目を覚ました《グレーテだったもの》を男は衰弱し、しかし恍惚とした表情で抱きしめた。血の気をなくし、こけた頬を少女にこすりつける。

「僕は……やっと、家族を……!」

「グレーテええええええええええええええッ!」

 意識がぶつ切りになる。




「おい、坊主……いいかげん起きてくれよ……」

 肩をゆすられてヤンは――カンタレラは目を覚ます。目を開くと、困り顔の主人が頭をかいていた。

「確かこの辺だろ? お前さんが言ってた『魔女の森』っていうのは……違うんだったら謝るけどなあ」

 カンタレラはぼんやりした目で辺りを見た。森の手前だ。節々がねじくれた黒い木々が日の光を通すのを拒むように密集している。間違いない。カンタレラはのっそりと荷台から降りた。

「…………」

「な、なんでい」

 カンタレラは主人の顔を見た。何か見覚えがあるような気がしていたのだ……夢を見たせいかはっきりと思い出せる。

「ヨーゼフに似ている」

「はあ?」

 当惑する主人にカンタレラはそれ以上何も言わず、懐から金貨を出して主人へ放り投げる。

「お、おい!?」

 カンタレラは振り向かずさっさと歩きだす。魔女の森の奥、そこに魔女モルガーナの棲家があるはずなのだ。

 生きなければならない。十年前、ヤンから妹を、すべての幸せを奪った吸血鬼達に復讐する為に。この世界から一匹たりとも残さず殺しつくす為に。

「生きて、殺す」

 それだけが、今のヤン少年のすべてだった。



  ◆



「ん……」

 エルジエはふと目を覚ました。身じろぎすると、机に向かうバートリーの姿が見える。そうか、昨日はバートリーの部屋で寝たのだったか。

「エル? 起きたのかい?」

「うん」

 気づいたバートリーが立ち上がる。エルジエもベッドから起き上がろうとするが、先にバートリーに制される。

「まだ起きるには早い時間だよ。陽が沈むまで、もう少し寝ているといい」

「……はあい」

 布団の中に潜り込む。すっかり目は覚めていたけれど、バートリーに優しく胸元を叩かれるとすぐに眠くなってきた。

「変な夢を見たの」

「へえ、どんなだい?」

「なんだか、大切なものを失くす夢。……怖かった」

「寝なおせばきっと忘れるさ。おやすみ」

「うん……」

 それにしても不思議な夢だった。エルジエの家族はバートリーだけなのに、夢の中では別の誰かが家族としていた気がしたのだ。エルジエと同じくらいの背の、茶色い髪の男の子。知らないはずなのに、なぜだか妙に懐かしい気持ちがした。

「大丈夫だ……失くしたりするものか、絶対に」

 薄れていく意識の中、バートリーの呟きが耳に滑り込む。

「ずっとずっと一緒だ。何があったって、絶対に」

 君は僕の、たったひとりの家族なのだから。


吸血鬼大全 Vol.129 抜け目なきシャイロック

催眠能力を得意とし、人間社会に潜り込んで人をさらい客に売り物として提供する《人買い》を生業とする吸血鬼。

彼の催眠能力は特に眠らせることに特化しており、彼の術にかかったが最後彼の顧客の胃袋に至るまで目を覚ますことは出来ない。

反面戦闘は不得意で、大規模な狩りを行う際は手練れの吸血鬼とコンビを組む。暴虐者ハイドなど『後始末』が不得意な吸血鬼の尻拭いを行う代わりにおこぼれを預かるのである。

かつて肉焦がしのテュバルと行動を共にしていたが方向性の違いで解散した。


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