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第十八話 決別、死別

「カミラ!」

 式辞を終え、休憩の為に広間を出て廊下を歩いていたカミラは呼び止める声に振り向く。そこにあった姿に心からの笑みを浮かべ、カミラは返事をした。

「あら、ラヴァルさま。どうかなさって?」

「どうかしたのはお前の方だ!」

 いつにないほどのラヴァルの動揺は先程のカミラの表明のせいだろう。当の掟番そのものであるラヴァルにとって『掟番をなくしたい』という言葉がどれほど衝撃的だったかは考えるまでもない。

「どういう意味だ、今の話は……!」

「言った通りの意味ですわ。これからの吸血鬼世界に掟番は必要ない、と言ったのです」

 カミラはきっぱりと言い切った。先程カミラが発し、その場にいた者を凍りつかせた話。吸血鬼達の不正や掟破りを監視する組織、掟番。だが現状、この制度がもたらしているのは平和ではなく不和だ、とカミラは訴えた。互いを疑い合い、汚れ仕事を請け負う者達への偏見や差別を助長しているだけだ、と。

「もちろん、犯した罪を許し見逃すべきだとは思いません――しかし現状では罪に対する罰があまりにも重すぎます。咎者を罰する者達がそのせいで嫌われ、不当に扱われているのがその証左でしょう」

 人間達も少しずつ力をつけ始めている。このまま不和の火種を放置していれば人間達につけいられる大きな弱点になりかねない。吸血鬼達がこの先団結する為には、掟番という制度を見直さなくてはならない――というのがカミラの話の要旨だった。

「大厄直後の荒れた時代には確かに必要な役割だったのでしょう。吸血鬼達が大きく減り、絶滅すら危ぶまれていたあのときならば、一致団結の為の必要悪として掟番は成立していました。しかし――既に吸血鬼達は充分に繁栄し、掟で縛るだけで意思統一を図るのは難しくなってきています」

「だからといってなくすわけにはいかないだろう!? 掟破りの数は夜毎に増えている、罰する者がいなくなればますます増えていくはずだ。掟破り達がはびこれば吸血鬼世界は――」

「そも、ラヴァルさま。『掟』とはいったい、誰がどうして決めたものなのでしょうか。わたくし達はなぜ掟を守らねばならないのでしょうか?」

 カミラの返しにラヴァルは言葉を失った。――そもそも、掟はなんの為にある? 誰がどうして掟を定め、それを守らなくてはならなくなったのか。

「……当時の権力者、ブラムの直系たる隠者ノスフェラトゥ、串刺し将軍ゼペス、千里眼のグライアが定めたのだろう? 大厄での戦いに疲弊し散り散りになった吸血鬼達を一つにまとめる為に……」

「ただでさえ疲弊した吸血鬼達をさらに厳しい掟で縛るのですか? ときには命であがなわなければならないほどの重い罰の?」

「……俺にお偉方の考えなんてわからん」

 餓鬼のような言い訳だ、とラヴァルは言いながら思った。なるほど言われれば言われるほど不自然な話だった。しかし――『お偉方』の真意がどこにあろうと、既にラヴァルは掟番として数多の同朋達を罰し、時に殺めてきたのだ。それが正しいことであると信じて。

 それを今更否定されてしまったら。

「あんたが何を考えているのかもわからないが、早くその意見を撤回してくれ。……考えを改めてくれ。でなければ俺は、もうこの先あんたと付き合うことはできない」

「あなたこそ、一度お考えになってほしいのです」

 ラヴァルの拒絶を、しかしカミラは受け入れなかった。

「な……」

「あなたは本当にこのままで良いのですか? 間違っているかもしれないことを続けることがあなたの望みなのですか? あなたのやっていることが正義でも贖罪でもなく、自覚なき悪行でしかないのだとしたら……」

「それ以上言うなッ!」

 反射的に怒鳴りつけてしまってから、相手があのカミラであることを思い出す。ラヴァルが顔を青ざめさせるよりも早く、どこからか駆けつけてきたカミラの侍従達がラヴァルの前に立ち塞がった。

「カミラ様!」

「一体何をしようとしているの、この不届き者!」

「……いいえ、違うわ。わたくしがラヴァルさまを怒らせてしまったのよ」

 やめなさい、というカミラの手振りに侍従達は渋々ながら構えていた武器を下ろしてラヴァルに対し非礼を詫びる。それでも言葉を紡げないままでいるラヴァルに、カミラは申し訳なさそうに丁寧に頭を下げた。

「……すみません、出過ぎたことを言ってしまいました。このような場でご気分を害すような真似をしてしまったこと、心からお詫び申し上げます」

「………………」

 侍従達は責めたてるようにラヴァルを睨みつけている。ラヴァルはあれこれ返事を頭の中で練り、しかしどれも言葉にできぬまま、代わりに大きな溜め息をついた。

「……俺の意見は変わらん。あんたが考えを改めないというのなら、尚更だ」

「……そうですか」

「俺を仲間にするつもりで今夜の招待状を出したのなら、もう二度とこんなことはしないでくれ。俺とあんたは、一緒にいるべきじゃあないんだ」

「ラヴァルさま……」

「おいラヴ、そんなとこで何してんだ?」

 と、姿を消したラヴァルを探していたギルデンスターンがカミラ達と相対している友をいぶかしむ。何か気まずい雰囲気らしい、と部外者である彼にもわかる各々の顔つきに戸惑っていると、ラヴァルがわずらわしげに首を振る。

「なんでもない。帰るぞ、ギル」

「ええっ!? お、おいおい……」

 ろくろく事情も話さず荒々しい足取りで踵を返すラヴァルに慌ててついていくギルデンスターン。カミラはそんなふたりを何も言わずに見送り、侍従達に元の配置に戻るよう目配せした。

「……ラヴァルさま」

 周囲に誰もいなくなったことを確認してから、カミラはひとり溜め息をついた。部下が増えて力が増すとくだらない独り言すら呟く場所を選ばなければいけなくなる。

 掟番になった理由が、以前ラヴァルがその手で殺したという『掟破り』となった友だという話は知っていた。その話題に触れられるのを嫌っていることも。理由はどうあれ朋友を殺してしまったのだ、無理はないだろう。しかし――カミラにはどうしても、ラヴァルがその強い責任感、正義感、罪悪感を体よく利用されてしまっているようにしか見えないのだ。

「以前は、あんな方ではなかったのに……」

 ラヴァルが掟番になるずっと以前のことを思い出すと自然と溜め息が出た。カミラもラヴァルもまだ若かった三百年前――まさにあの忌まわしき『白きものども』と戦っていた大厄の時代。あのときのラヴァルに心を奪われたカミラからすれば、今のラヴァルはあまりにも不自然で苦しそうに見えた。


 「あんたが誰であるかなどどうでもいい。俺が助けたいと思ったから、助けた。それだけだ」


「あのひとはきっともう忘れてしまっているのでしょうけれど……」

 ふふ、と自嘲気味に笑む。そしてふと窓に映る月を見ると、かなり地平に近づいていた。そろそろ宴も終わりに近い、広間に戻らなければ。ほのかな想いを心の隅に追いやり、今後の展望について考えながらカミラは来た道を引き返した。




「大厄ねえ。教えてあげたいけど、ぼくもあんまり覚えていないんだよねえ」

「そうですか……」

 白馬の手綱を握りながら笑うは吸血鬼サンジェルマン。自慢の長い金髪が風にたなびき、翳りがちな月の光を反射してほのかに輝く。その後ろに跨り、顔にかかってくる彼の髪を少し鬱陶しそうに手で除けながら少年吸血鬼タイタニアスは残念そうに頷いた。

「大厄って言うと、もう三百年も前でしょ? その頃はちょうど今のきみと同じかそれより年下くらいだったかなあ。成りたてで出来たての吸血鬼だったから……物凄くおっかなかったことは覚えてるんだけど」

「えっ、てっきりもう少し年上なのかと……」

「ええ、そんなに老けて見える? そろそろスキンケア対策とかしたほうがいいのかな?」

 おどけて頬を触ってみせながら、「ところで、いきなりどうして?」とタイタニアスに訊かれた理由を訊ねた。

「いえ、お師匠やラヴァルさんから沢山聞いたんですが、どうしてもわからなくって……大厄って結局なんなんでしょう? 『白きものども』はどうして現れて、どうして吸血鬼達を襲ったんですか?」

 タイタニアスの疑問に、サンジェルマンは先程同様肩をすくめながら言葉を濁した。

「……それがわかる奴は吸血鬼にはいないんじゃないかな。ぼくでなくとも、ラヴァル君も、カミラ姫も、ハイド将軍もゼペス将軍も、きっとノスフェラトゥ殿下にだってさ」

 大厄戦争――三百年前、突如吸血鬼世界に現れた怪物『白きものども』。吸血鬼、魔女、人狼、まして人間とも違う姿のその種族の正体は戦いが終わった三百年後の現在も不明だ――何しろ吸血鬼が倒したはずの白きものの骸や骨はすべて消えてしまっているのだ。獣に食われたわけでもなく、腐って朽ちたわけでもなく、白きものの死骸は煙のように消えてしまった。研究や解剖のしようもなく、それ以降白きものどもが現れることもなく――吸血鬼達はこの正体不明の怪物群を『降って湧いた厄災』とする以外できなかった。

「そんな……またそいつらが現れたらどうするんです!?」

「どうしようもできないよ。昔とおんなじようにいなくなるまで戦うしかないんじゃないかなあ。まともに会話もできないらしいし、話し合いで和解できたら昔のひとも苦労してないだろうしねえ」

 投げやり気味に言うサンジェルマンの言葉にタイタニアスは臍を噛む。聞けば、大厄で亡くなった吸血鬼は数え切れないほどいるという。またいずれそんな厄災が訪れる夜が来るかもしれないのに、原因もわからず、なんの対策も立てられないなんて。そんなタイタニアスの心を読んだふうに「そうだ」とサンジェルマンが思い出したように言った。

「バートリー君なら、案外知ってるかもしれないね。彼、なんでもわかるから」

「えっ……バートリーさん、ですか?」

 聴き慣れない名前に首を傾げると、サンジェルマンは困ったように笑う。

「おいおい、忘れちゃった? これからぼくらが訪ねる吸血鬼の名前さ」

「あ、そうでしたっけ……」

「せっかくのカミラ姫の晩餐会なのに、気分を悪くして途中で帰っちゃったっていうでしょ? 心配だしお見舞いに行ってみようか……って話したじゃない」

「す、すみません!」

 事実上の師からの言葉を聞き逃すなんてとんだ大失敗だ。泡を食ってぺこぺこ頭を下げるタイタニアスのせいでふたりがまたがる鞍が揺れ、馬が不機嫌そうにいなないた。

「おっとっと……まあ、今度かは気をつけてくれればいいさ。いちいちこんなことで目くじら立てたりしないよ」

「はい……ところで、『バートリーさんならわかるかも』というのは?」

 誰にも分からないはずのことがわかるというのは一体どういうことか。そのバートリーという吸血鬼はよっぽど物知りなのだろうか?

「千里眼、って知ってるかい?」

「えっと……吸血鬼の異能の一つですよね? とっても珍しい……確か、遠くのものが見えたり、未来のことがわかったりするとか」

「その通り。さすが、ちゃんと勉強してるね」

「お師匠が教えてくれたんです」

 持つべきものは頼れる師である。サンジェルマンは笑って続ける。

「バートリー君はその千里眼を持ってるらしいんだ。見たこともないものを知ってたり、どこにいるかわからないひとの居場所を言い当てたりね。その能力を利用して色々本を書いて暮らしてるんだ。もしかしたらきみも読んだことあるかもね? バートリー君の本」

 なるほど聞けば聞くほど凄い御仁であるらしい。そんな方と会わせてもらえるのか、とタイタニアスの胸は期待で膨らむ。

「うんうん、きっと勉強になるだろうから、話を聞けたらいっぱい聞かせてもらうといいよ。……ただ、彼ってかなり繊細なんだ。もしかしたらまだ体調が悪いかもしれないし、そのときは残念だけど諦めてね」

「わかりました」

 そうこうしているうちにふたりを乗せた白馬が森を抜け、いよいよ目視でもバートリーの住まう古砦が見えるようになった。しかし砦を見た途端、サンジェルマンは眉間にしわを寄せて馬を停めた。

「どうかしたんですか?」

「何か変だ。見える? あそこの馬車」

 砦の前に停まっている馬車はタイタニアスにも見覚えのあるものだった。少し考え、持ち主の名を思い出す。

「あれって確か、シャイロックさんの……」

 けれど、シャイロックといえば人買いだ。吸血鬼の家を訪れて商談するなど珍しいことではないはず。そこまで気にすることだろうか? と視線で訊ねる。

「何か気になるんだ。ごめん、ここで待っててくれるかい? ちょっと様子を見てくるよ」

「ぼ、僕もいきます!」

「駄目だ」

 おいて行かれるのが心細くなり慌てて食い下がるが、サンジェルマンはいつになく厳しい顔で跳ね除けた。

「……大丈夫だよ、すぐに戻ってくるから。もしぼくが戻ってくる前に何か危ないことが起きたら、そのときはきみの異能で逃げればいいんだ。できるだろ?」

 思わず硬直してしまったタイタニアスに怯えられたと思ったか、サンジェルマンはすぐに表情を和らげタイタニアスの頭を撫でた。理由はわからないがタイタニアスを気遣っておいていくのだろうとわかり、タイタニアスも頷く。

「はい……」

「じゃ、ブランのことは頼んだよ、タイニー君」

 愛馬ブランのたてがみを梳いてから馬を降りるサンジェルマン。タイタニアスはそんな彼の後ろ姿に小さく呟いた。

「タイタニアス、です……」




「バートリー、バートリー!」

 エルジエは自らの身の丈の半分ほどもある大きな本を抱えてバートリーの書斎に飛び込む。あの晩餐会から数夜後、いつも通り書き物に取り組んでいたバートリーは快くそれを迎えた。

「どうしたんだい、エル?」

「ね、これなに!?」

 エルジエはいそいそと本を開いて挿絵を指し示す。幼いエルジエはまだ字の読み書きが不得意で、バートリーの本を借りては挿絵を探してあれこれ考えることを『読書』としていた。

「どれどれ……ああ、これは」

 エルが指したのは教会が描かれた絵だった。豪奢な礼拝堂の中央に鎮座する巨大なパイプ群。ああ、自分も初めて見たときは正体がわからず驚いたなあと懐かしい気持ちになる。

「これはオルガン――パイプオルガンっていうんだ」

「オルガン?」

「楽器の一つさ。ここの白と黒、鍵盤を押すとパイプから音が鳴るように出来てるんだ」

「どうして押すだけで音が鳴るの? ラッパみたいに誰かが息を吹いてるの?」

 楽器と言えば簡単な管楽器やハープくらいしか知らないエルジエにとってオルガンはまさに魔法のようだった。鍵盤が押されることでパイプの中の弁が開閉して、その空気の出入りが音を鳴らすのだ――と説明されても、魔法使いでもなければそんなからくりが作れるとは思わなかった。

「一体どんな音が鳴るんだろう。聴いてみたいなあ……」

 床に座り込んで挿絵を見つめ、魔法の楽器の音に思いを馳せる。きっとラッパよりも綺麗な音が出るのだろう。いつかバートリーにオルガンのある場所に連れていってもらえないか、とちらりと彼の横顔を見るが、どうやら気づいてくれた様子はない。

「読むのはいいけれど、読み終わったらちゃんと元の場所に戻すんだよ。ページを折ったり、汚さないように気をつけて」

「……はあい」

「?」

 首を傾げるバートリーの耳に門扉が叩かれる音が聴こえてきた。エルジエにも聴こえたらしく、本を閉じて立ち上がっている。

「お客さん?」

「多分ね。いつも通り、部屋で良い子にしていてくれ」

「はあい」

 本を抱えてぱたぱたと自室に戻るエル。最近は来客が妙に多いな、と溜め息をつきながら門へと向かう。吸血鬼仲間ならば良いのだが、時折バートリーを人間の貴族と勘違いして盗みに入ってくる野盗がいるのだ。そんな野盗を独りで始末するのは本当に気が滅入る。どうか訪問者がその類や不運な人間ではありませんように、と内心で祈った。

 もっとも、結果から言えば野盗であった方がずっとマシだったのだが。

「……シャイロック?」

 門前に立っていたのは人買いのシャイロックだった。しかし、普段は陽気で愛想のいい彼が今夜に限っては妙に暗く神妙な面持ちでバートリーを見つめている。言葉にしがたい不安がバートリーの胸をざわつかせた。

「どうかしたのかい? 今夜は特に欲しいものも、売れるようなものもないけれど……」

「いえ……大したことじゃあないんですがね。少し、お話しさせてほしいんでさあ。中に入れてもらえますかい?」

 というシャイロックの口調はやはり神妙で、その話とやらは余程の重要事なのだろうと思わせた。ますますもってきな臭い。悪いがお引き取り願おうか、という考えが何度も頭をよぎる。

「お願いしますよ、旦那。こないだの晩餐会の話です」

 しかしそんなバートリーの心を見透かして釘をさすかのようにシャイロック。晩餐会? まさか……血の気を引かせたバートリーはほとんど無意識のうちにシャイロックを中に入れていた。

「君は……晩餐会に行かないんじゃなかったのか……?」

「そのつもりだったんですがねえ。テュバルの奴が最後になるかもしれないんだからってしつこくって。まあ……やっぱり行くべきじゃあありませんでしたね……」

 薄氷を踏むかのような手探りの会話。このままうやむやに茶を濁せればどんなにいいか、とバートリーは思う。だが、シャイロックはためらいがちに本題に触れてくる。

「……お嬢さん、エルジエちゃんはお元気ですかい?」

「!」

 シャイロックにエルジエの名前を教えた覚えはない。もし知る方法があるとすれば。

「晩餐会のときにたまたまお会いしましてね。元気いっぱいで可愛らしい良い子でしたね……きっと将来は相当な別嬪さんになるでしょう」

 本当に、吸血鬼であるならば。シャイロックの呟きがバートリーの耳を打つ。

「旦那、あたしは人間売りです。そりゃあ今まで数え切れないほどの人間を扱ってきましたよ。ですが、その顔一人一人全部覚えてるのがあたしの自慢でさあ。商いである以上、例え食料や奴隷になるものであろうと出来る限りに商品は丁寧に扱ってるんです」

「……それが、一体どうしたって言うんだい?」

「とぼけるのはもうよしてください。あの子のあの顔、あたしが見間違えるとでも思ってるんですかい?」

 必死で否定するための論理材料を探すが、そんなものすべて看破しているとシャイロックの瞳が告げていた。ならば、しかし、けれど、ああ、でも――!

「あの子は十年前、あたしがあんたに売った人間の子じゃあないか……!」

 がた、と背後で鳴ったのはバートリーの背が壁にぶつかる音だろう。バートリーの体は頭で考えるより先に逃げ出そうとしていた。しかし後ろは頑強な石の壁、前方には唯一の扉を塞ぐように立つシャイロック。ならばこの咎者(バートリー)に逃げ場所などあるわけもなく。

「……やはり、そうなんですね? あの子はあのときの……でも、だとしたらおかしいことがある」

 バートリーの反応にシャイロックは確信を強めて頷いた。駄目だ……もう何を言っても誤魔化すことはできないだろう。もう終わりだ、おしまいだ――!

「人間はあたし達とは違う。特に子供なんてのは十年もありゃ背は三十も四十も伸びちまいます。なのにあの子は背が伸びるどころか髪以外ちっとも変わっちゃいない。それで、あんたはあの子を『吸血鬼』として連れてきましたね? とすると……まさか……まさかですよ、旦那」


「あんたまさか、人間の子を吸血鬼にしちまったわけはないでしょうね……?」


 ひゅうひゅうと、バートリーの荒い呼吸の音だけが響く。それが何よりも雄弁な返事だった。

「……旦那。あんたほど賢い方にこんなこと言うなんておかしな話だとは思います。ですが……もしあたしの想像が当たっているのなら、あんたのやったことはとんでもない大馬鹿だ。まさか掟を知らないわけじゃあねえでしょう? いいや、たとえ掟がなくったってこんなことしちゃあいけねえことのはずだ……!」

「………………」

「いずれこのことが世間に知れたら大騒ぎになります。きっと旦那はあの子ともどもひっ捕らえられて、掟番の連中に散々に拷問を受けてから酷い殺され方をするでしょう。あたしがいくら黙ってたって誰かがきっと気づきます。時間の問題だ」

 ふとバートリーは右手に奇妙な感触を覚えた。すがるように手をまさぐると、壁にかけて飾っていた護身用の細剣だとわかった。シャイロックに気づかれぬよう慎重にまさぐり、背中の後ろに隠す。

「だから、そうなる前に……誰にも知られぬうちに、あの子を始末してくだせえ、旦那!」

「しま……つ……?」

「旦那、あたしがあんたにあの子を売ったのは罪を犯させる為じゃあない、可哀想だったあんたの腹を満たす為だ。なのにこんなことをされちゃああたしの腹だっておさまりません。頼むよ、今なら知らんぷりできるんだ! あんたの掟破りの片棒を担がされたなんて思いたくなんでさあ……!」

 始末。そうか、始末すればいいのか。恐怖に強張っていたはずのバートリーの頭が冷たく冴え妙案をはじき出す。

「……ということはまだ、ほかの誰にも言っていないんだな?」

「ええ。何かの間違いだったら――いいえ、旦那がこんな間違いを犯すはずがありません。何もかもあたしの勘違いで、あの子はあんたの食料だ。そうでしょう?」

 思えばシャイロックは常に優しかった。秘密を抱え弱っていたバートリーに追及することも責めることもなく、いつだって対等に向き合ってくれていた。そういえば、最初にバートリーの本に価値を見出してくれたのもシャイロックではなかったか。

 だから今だって、疑いながらも信じようとしてくれている――都合がいいくらいに。

「っ……!」

「旦那ッ!?」

 突如うめき、ずるずると崩れ落ちるバートリーにシャイロックは慌てて駆け寄る。シャイロックはバートリーの虚弱体質をよく知っていた。バートリーが嘘などつかない誠実な男であることも。

 だから――次の瞬間にバートリーがした行為を予想することができなかった。

「…………あ?」

 心の臓を細剣で貫かれたことは理解できた。しかしなぜ自分がそうされたのか、ましてどうして相手がそうしたのかはまったくわからない。胸から細剣が引き抜かれ、真っ赤な血がほとばしる。その血を浴びる彼は。

「旦……那……?」

 全身から力が抜けていく。うつぶせに倒れたシャイロックの背に再び細剣が降ってくる。二度、三度、四度――逃げなければ、とここに来てようやく思い至って這わせた手にも、それは念入りに。

「……な、…………で………………?」

 訊ねても返事は返ってこなかった。最後の力を振り絞って上を向き、殺害者の顔を見る。その顔、その目の冷たさ! もしも誰かに言い残すことができたなら、シャイロックは彼のことをこう称していただろう。

「ありゃあ旦那じゃなかった。旦那の顔をした化け物だったに違いない」と。




「…………え?」

 バートリーは呆然と細剣を取り落とす。自らの服や手を汚す赤い液体。横たわったまま動かない友の体。自分が為したはずのことすべてが非現実のようだった。

「……し、シャイロック! しっかりしろ、返事をしてくれ!」

 我に返って慌てて友の肩を揺さぶる。しかし返事などするはずもない。シャイロックはたった今、バートリーによって殺されたのだから。

「あ……あああッ……!」

 ようやく自分のしでかしたことを悟り、バートリーはその場にへたり込んだ。――殺してしまった? シャイロックを、大切な友を、この僕が? 動かしようのない現実が血溜まりとなってバートリーの服に染み込んでいく。

 違う。こんなつもりじゃなかった。いくら秘密を知られ、恐ろしい選択を迫られていたからって、まさか殺すなんて――! どうしよう、どうすればいい? とにかく、早くなんとかしなければ。エルジエに知られてしまう前に。エルジエ――そうだ、エルジエだ。エルは大事な家族だ、僕が守らないと。そうだ、仕方なかったんだ。エルを守る為にはこれ以外なかった、ああ、だから、早くなんとかしなければ。でも、どうしたら、どうやって――――混濁した思考が堂々巡りをくり返す。右手が無意識に何かを探すように這い回る。

「なんとか、しなきゃ……何か……!」

「――バートリー君?」

「ひっ!?」

 不意に投げかけられた言葉に縮こまる。いつの間にか開いていた扉から覗く頭が戸惑ったようにバートリーを見つめている。長い金髪に赤い瞳、吸血鬼サンジェルマンだ。

「う、うぁ……」

「お見舞いで来たんだけど……な、なんか様子がおかしかったからさ……? 門も扉も開けっ放しで、何かあったんじゃないかって思ってさ……」

 ひきつった笑みで言うサンジェルマンの視線はシャイロックの亡骸に釘付けになっている。普段は飄々と笑みを絶やさないサンジェルマンもバートリーの前に横たわる死体には動揺してしまっているようだった。

「これは一体……どういうこと、なのかな……?」

「ち、違うんだ」

 投げかけられた問いをわけもわからないまま否定する。

「そんなつもりじゃなかったんだ……ぼ、僕は殺すつもりなんて! だって、彼が、エルを……エルが人間なら、殺せって……!」

 支離滅裂なバートリーの言葉。しかしサンジェルマンはそこに含まれていた断片的な情報から真実に辿り着き、目を見開かせる。

「……シャイロック君に知られてしまったのかい!? エルジエちゃんの秘密を……!」

「ぼ、僕はもうおしまいだ……!」

 がくがくと震え血溜まりの中に両手をつくバートリー。秘密を知られ、友を殺め、さらにその姿をサンジェルマンに目撃されてしまった。もはや自分に希望などない。流れ落ちた涙が血の中に溶けていく。

「僕は……ッ、ぁあ…………!」

「……バートリー君」

 サンジェルマンはそんなバートリーにそっと歩み寄り。

「……大丈夫だよ」

 服や髪が血で汚れるのも省みずにかがみ、その体を抱きしめた。

「…………?」

「大丈夫だよ、バートリー君。ぼくがきみを守る。ぼくが全部なんとかしてあげる」

 抱きしめられたバートリーには今のサンジェルマンが一体どんな表情をしているのかはわからない。しかし、その温もりからサンジェルマンの想いを知ることは出来た。

「何があってもぼくだけはきみの味方だ。大丈夫、ぼくに任せてくれれば、きっと何もかも解決してみせる。だから、安心して。もう泣かないで」

 サンジェルマンの言葉が甘く暖かく耳の中に入っていく。ああ、もう大丈夫だ。なぜだかそんな確信が心のどこかから湧いてくる。

「だから……ぼくを信じて、ぼくの言うことを聞いてくれるよね?」

「…………うん」

 思考をやめ、自らの破滅の可能性から目を背け、バートリーはしばらくサンジェルマンに抱きしめられていた。

 それが更なる破滅への一歩へと繋がるとも知らずに。


吸血鬼大全 番外編 黄金のサンジェルマン

彼について、この名前での該当ページ、および記述はどこにも存在しない。

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