第十六話 別たれる月/後
そこは闇。月すら輝かぬ汚泥めいた暗黒。父祖の加護も届かない紛い物の夜。
それは見慣れた夢だった。誰の物ともつかない無数の声と腕。逃げ惑いひた走るバートリーを追い立て、責め苛み嘲笑う。
「出来損ない」「身の程知らず」「裏切り者」「人間もどき」「すべて失う」「このままではいずれ」「早く、早く、早く!」「醜い」
「やめろ……やめてくれッ……!」
「早く消えてしまえ」「なんて罪深い」「バート……」「面汚しめ」「なぜ生きている?」「ああ、呪わしい、愚かしい!」「バート」
「来るな、来るな、来ないでくれ……!」
「……バートっ!」
「ひっ……!」
もがき、宙を泳がせていた腕が不意に捕まえられて悲鳴を上げかける。が――その聞き馴染んだ声と、倒れかけたバートリーを支える温もりでその正体を悟ったとき、バートリーは安堵に脱力した。
「……ラヴィー」
大きな傷によって二つに割かれた右眉を不安げに歪ませ、ラヴァルはすっかり力の抜けたバートリーをソファに座らせた。ここは他ならぬバートリーの書斎、粘着質の黒い汚泥も、バートリーを責めたてる者も元より最初からいはしないのだ。
「……また、夢か?」
ラヴァルの問いかけにバートリーはかすれた声でああ、と頷いた。どちらともなくついた溜め息が重なる。
――あの晩餐会の夜から幾晩も過ぎた今もなお、奇妙なことにラヴァルとバートリーの親交は続いていた。かたやひ弱なはみ出し者、かたや堅物の嫌われ者。一見似ても似つかぬふたりは、しかし仲間と馴染めないという共通点に親近感を抱きあっていた。引きこもりがちなバートリーの家をラヴァルが掟番の任務の傍ら立ち寄り、ぽつりぽつりと近況や互いの話を二、三する。お互い立ち入られたくない話を持つ同士の不器用な交友だった。
「こないだやったやつはどうした」
バートリーのこけた頬を見て、ラヴァルは以前差し出した血のボトルについて訊ねる。それが封を開けられた様子もないまま床の端に転がっているのを見つけ、ラヴァルはますます深いため息をついた。ただでさえひ弱な体質、それでろくに体も動かさず断食していたのなら悪夢の一つも見ない方がおかしい。
「飲まなければお前が死ぬんだぞ」
懐から新たに持ってきたボトルを取り出し、ソファの前のテーブルに置く。テーブルの上には血の代わりに食べたのであろう薔薇の花弁が散らばっていた。
「……いっそ、そのほうがいいのかもしれない」
ラヴァルの置いたボトルを恐ろしげに横目で見ながら、バートリーがぼそりと呟く。
「生きるためにしなければならないこともまともにできない半端者なんて、最初から……」
「そんなことを言うな」
ついつい感情的に言うと、バートリーは申し訳なさそうに頭を動かし、視界からボトルを外す。
「……声が聴こえるんだ」
少しの沈黙ののち、唐突にバートリーが言った。
「きっと『血の声』なんだ。いつも嘆いてる、怖い、助けて、死にたくないって……。飲もうとするたび、聴いたことのない断末魔が聴こえるんだ」
「気にしすぎだ。気分が悪いから幻聴を聴いているだけだろう」
と、否定するのがラヴァルには精一杯だった。しかしバートリーがそれで納得して血が飲めるようになるわけがない。
「誰かが言っていたんだ……『どうか家族だけは助けてくれ』って。『妻が待っているんだ』『お母さんのところに帰して』『パパに会いたい』……彼らにはきっと、帰るべき場所があって、帰りを待つ人々がいたんだ。それを、僕達は……」
「……バート」
「一体どんな気持ちだったのだろう? 帰るべき場所に帰れぬまま非業の死を遂げた彼らは……いつまでも帰ってこない家族の帰りを待ち続ける彼らは。当たり前にあった幸せを僕らの勝手な都合で取り上げられて……!」
「バートリー!」
頭を抱え込んでいたバートリーはラヴァルの声にびくりと肩をすくめた。
「……吸血鬼が人間の気持ちを考えてやるなんて馬鹿げている。奴らだって何の罪もない豚や鳥だのを殺して食っているだろうが?」
バートリーの悩みはあまりに非合理だった。生きるために殺して食うことの何が悪いのか? 自分の命を繋ぐために他の命を絶つことが罪ならば、この世に生きることを許されるほど良き存在などまったくいなくなってしまうだろう。それに……このままバートリーの悩みが『結論』に至ってしまって、それが掟番として見過ごせないものになってしまったならば。眉の古傷がずきりと痛む。
「……ごめん、ラヴィー」
バートリーもそれを察したか、小さな声で謝罪が返ってきた。そうして小さくなって黙り込んだバートリーに、ラヴァルは違う、と内心で首を振った。どうしてこんな風になってしまうのだ。ラヴァルがここを訪ねてきたのはこんな風に哀れな程にひ弱な吸血鬼に説教をするためではない。自分はただ…………ラヴァルは背後にあった戸棚からグラスを二つ取り出すと、一つは空のままバートリーの前に置き、もう一つに今しがた自分が持ってきたボトルの中身を注いだ。バートリーがどうこう言おうが、ラヴァルにとってはやはり血は美味い食物でしかない。
「……最近、どうなんだ。その……執筆、というやつは」
口の中を湿らせてからそんなことを訊ねてみる。バートリーが本なるものを書いていると知ったのは最近のことだ。書斎に溢れる本の山がすべてバートリーの著書であると知ったときは、さすがに学術からは無縁のラヴァルもぎょっとした――招待状の返事を書くだけでも半夜使って四苦八苦するラヴァルが塔を作れるほど羊皮紙に文を書き連ねるのに一体何年かかることだろう。
「ああ、ちょうど新しいのを書き始めたところなんだ……」
と、バートリーはよろよろと立ち上がって机の上から書きかけの羊皮紙を取る。
「今度は物語に挑戦しているんだ。といっても一から物語を考えるんじゃなく、史実を下敷きにしているんだけど」
「ほう……」
物語などとんと読んだことのないラヴァルだったが、とりあえず相槌を打って話を合わせる。
「舞台は聖魔戦争……吸血鬼と魔女が戦争していた時代だ。ブラムの直系であるまだ幼い吸血鬼が主人公で……」
バートリーが書いている文学にしろ学術書にしろ、ラヴァルにはほとんど興味が持てないというのが正直な気持ちだった。しかし――こうして自分の著作について語るバートリーを見るのは好きなのだ。束の間ながらも自分の苦悩から解放され、生き生きと楽しそうに話すバートリーを。できるならもっとこうさせてやりたいが、しかしラヴァルは他に方法を知らなかった。
「凄いな。よくわからんが、そういうものを書くときは取材だの下調べだのをするんだろう? 大変だろうな、体力のないお前は……」
「……取材?」
ラヴァルの言葉にバートリーはきょとんとする。
「なんでそんなことする必要があるんだ?」
「なんでって……知らないことや、よくわからないことは普通調べてから書くものじゃないのか」
「僕は知っていることしか書いていないぞ?」
と――あまりにも当然のことのように言うバートリーにラヴァルもぎょっとせざるをえなかった。
「ペンを握ったら、自然と『書くべきこと』が浮かんでくるだろう? 思いつくままにペンを躍らせて、たまに前後の文脈の違和感に気をつければ…………」
話す最中、呆然としているラヴァルの顔を見てしまったのだろう、バートリーは徐々に顔を青ざめさせながら口を閉ざした。そして「バート」と口を開きかけたラヴァルを遮るように訊ねる。
「……違うのか、普通は? 僕は……普通じゃない、のか?」
「…………!」
羊皮紙を握り潰しながら崩れ落ちそうになるバートリーを慌てて支えるラヴァル。ああ、だから、どうしてこうなってしまうのか!
「僕は……僕はやっぱり……!」
「お前は、お前だ。別におかしいことなんてない」
震えるバートリーを抱き支えながら必死で慰めの言葉を紡ぐ。気がつけばろくでもないことばかり喋ってしまうこの口はこういう時に限って役立たずとなる。
「吸血鬼だって色んな奴がいる。残酷な奴、のんびり屋、無法者、几帳面……その中のひとりがお前なんだ。誰かと違うことは別におかしいことなんかじゃない」
たとえば吸血鬼の持つ異能だってそうだろう。体を自由自在に変化させられる者。人間や動物、ときには仲間である吸血鬼すら思い通りに操ることができる者。ラヴァルのように、見えない力で周囲の物を動かしたり盾を作ったりする者。ナイフや服や、時には巨大な城塞すら作ってみせる者。あるいはそれらの異能をまったく持たないまま生まれてきた者。バートリーのそれも、きっと吸血鬼の持つそれら異能の変わり種の一つでしかないのだ。怯えたりやましく思ったりする必要など決してない。ラヴァルは不器用な舌で思いつく限りにバートリーを励ました。しかし……。
「ああ、そうだな……きっと君の言う通りなんだろう……」
虚ろに頷く声に、ラヴァルの言葉は届いていないのだろうと察する。当然だ――どれだけラヴァルがバートリーのことを想いやろうとしても、ラヴァル自身はまったくバートリーのことが理解できていないのだから。ひたすらにひ弱で、滑稽な程優しく、普通ならありえないことで悩んでいる。バートリーがどれほど涙を流して自分の想いを吐露しようとも、ラヴァルはそれに共感することができなかった。だのにどうして、そんなラヴァルの励ましでバートリーが元気づけられるだろう?
「……そろそろ、帰った方がいい。長居すると夜が明けてしまう……」
だからそんなバートリーの提案には黙って頷くことしかできなかった。
「いつもありがとう、ラヴィー。僕なんかのために、本当に……」
門まで見送ってくれたバートリーの言葉に何も返せないまま、雲に姿を隠す月の浮かぶ空の下を歩く。
「……ジル。俺はどうしたらいい」
ふと、おぼろげな三日月にかつての友を思い出して呟く。しかしこの手で殺めた友が蘇って答えてくれるわけもなく、月は雲越しに静かに地上を照らすだけだった。
眉の古傷がずきりと痛んだ。
闇の中、羊皮紙に刻み込むようにペンを躍らせる。静寂の中にかりかりとペンの音だけが響く。いつもならバートリーを責めたてる声も今はなく、ただ純粋に脳の奥底から湧き出る『知識』を出力する作業に没頭できた。
「……バート?」
そんな声にもしばらく気がつくことができなかった。ロウソクに火が灯されたのか、不意に明るくなった部屋にようやく我に返る。
「ラヴィー。今夜も来てくれたのか……」
「どうしたんだお前……これは一体」
ラヴァルは驚いたようにバートリーと書斎を見た。塔のように積み上げられた本の山が崩れ、代わりに羊皮紙が部屋中に散らばり、そのいくつかには血らしい赤い滴が点々と付着している。そういえば最近、掃除をするのを忘れていたな、とバートリーはぼんやり考えた。
「ちょっと書き物に熱中してしまって。ごめん、今片付けるから……」
「いや、いい。それよりお前……」
眉をひそめて顔を覗き込んでくるラヴァルにバートリーはきょとんと首を傾げる。
「顔色、前よりもひどくなっている。あれから血は飲んだのか?」
目が落ちくぼんで見えるほどくまができ、今にも死んでしまいそうなほどこけ落ちた顔。前に会った晩から一食も一睡も摂っていないとしか思えない弱り様だった。しかし、その青緑色だけはきらきらと、らんらんと輝いている。
「聞いてほしい話があるんだ」
と、バートリーはラヴァルの問いに答えずには言う。
「バート……?」
「人間と吸血鬼の違いはどこにあると思う? 実を言うとね、肉体変化時の大幅な変身を除けば、骨格も筋構造も内臓もほとんど変わらないんだ。大きく違うとすれば血液の成分……だからおそらく、吸血鬼の異能を始めとした特質は、この『血』と大きく関係している」
いぶかしむラヴァルに構わずバートリーは話し出す。その口調が奇妙なほど明るく楽しそうに聴こえるのがラヴァルの不安をかきたてた――まるで何か悪いものに憑かれているような。
「だから、もしも、の話だけれど。もし人間からその血をすべて抜き取って、代わりに吸血鬼の血を注げば、その人間はきっと吸血鬼の力を手に入れることができる――いや、多分吸血鬼そのものになれるはずだ。寸分違わず、吸血鬼とまったく同じ存在に」
「お前、何を……」
「ただ……実際実行するなら、吸血鬼の血をどうやって調達するかが問題だ。血を丸々人間に輸血したら、血を抜かれた吸血鬼は間違いなく死んでしまうだろうから……まさか代わりに人間の血を輸血する、なんてわけにもいかないし。だから、血を提供する吸血鬼は最低でもふたりは必要だ。どうしてもひとりでしかやれないというのなら、輸血する人間はなるたけ小さな、血の量が少ない子供の方が好ましいだろう……」
ぺらぺらとよどみなく話すバートリーがこの上なく恐ろしく感じる。自分の書き物について語っているときとは明らかに何かが違っていた――まるで何者かに操られ、喋らされているかのような。そして何より恐ろしいのは、バートリーの話が一体どこに向かいどんな結論に達するのかだった。
「……まさか」
「ずっと不思議だったんだ。人間と吸血鬼の違いはどこにあるのだろう? どうして人間達が当たり前に作る『家族』が、当たり前に愛し愛される関係が、当たり前にある帰るべき場所が、僕達にはないのだろう? もしそうなれたら、きっとこれ以上なく幸せになれるのに……」
吸血鬼に生殖能力はない。いつだってひとりでに生まれ、ひとりで死ぬだけだ。ああ――だが、バートリーは。誰にもわかってもらえない苦悩を持ってしまったこの吸血鬼は。
「僕は家族を作ろうと思う」
とうとう、バートリーはそんな言葉を口にしてしまった。
「同じ血を分けた家族を……同じ場所に帰ることができる存在を。寂しい夜に寄り添い合うことのできるひとを。もう独りは嫌なんだ。誰かにぼくのことをわかっていてほしいんだ……!」
だから……人間をそうしようというのか。人間同様につがいを作り、子を成すことができないというのなら、自らの手でそんな存在を作ってしまおうというのか。
だが――そんなことは許されない。
「それで……相談があるんだ。ラヴィー、もし良かったら、君も……」
「……駄目だ」
バートリーの話を遮るようにラヴァルは言う。きょとんとするバートリーに、ラヴァルは感情的に言葉を続けた。
「駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ――そんなことは許されない」
「ラ、ヴィー?」
「お前は、自分が何を言っているかわかっているのか?」
呆けた顔のバートリーにかつての友の面影が重なる――そうだ、あのときのジルもこんなふうに、吸血鬼が抱いてはいけない夢を願ってしまったのだ。
「人間を吸血鬼にする? 家族にする? 駄目だ、そんなことがどうして許される! お前の願いは同胞と父祖を……いや、人間すらも冒涜している! 最も罪深い掟破りだ……!」
そんなことをしてしまえば、もはや『人間もどき』とも名乗れはしないだろう。人間だってどれだけ寂しくなろうと豚や牛を『家族』と呼んだり同類にしようとは考えまい。吸血鬼にとっての人間がそうであるように、人間にとってのそれらはあくまで食料なのだから。そして、ただ食われるだけの立場であった人間が吸血鬼同様の力を持つようになってしまえば……それが大いなる災いを招くことは想像に難くない。
「ラヴィー、聞いてくれ、僕は……」
「まさか……俺にそんなことの片棒を担がせようというのか? 掟番である俺に? できるわけないだろう……!」
眉の傷がずきずきと痛む。早くバートリーを止めなければ、見過ごしてしまったジルのようにさせるわけにはいかない……! バートリーにかつての友の影を見てしまったラヴァルは、しかし目の前の彼がどんな顔をしているのか気づくことができなかった。
「俺にまた『朋殺し』をさせる気なのか、バートリー……!」
「…………!」
は、とバートリーが息を呑む音に、視界が現実へ引き戻される。眼前のバートリーはどうだ、今にも卒倒しかねないほど青く白く、血の気の引いた顔をしていた。ラヴァルはそのとき初めて、今しがた自分が感情的に放った言葉がバートリーにどう届いていたのか悟る。
「…………バート」
「信じていたのに……」
ぽつりと呟いたバートリーの顔からは既に表情は失われていた。どうにか弁明の言葉を紡ごうとするも、舌が動かないラヴァルにバートリーは震えながら言い――
「君だけはわかってくれると信じていたのに!」
「バート!」
踵を返し部屋から飛び出していくバートリー。ラヴァルも慌てて追いかけるが、バートリーの足は数夜絶食していたとは思えないほど速い。屋敷を出ると、いつのまにか降り出していた雨がラヴァルの足と視界を阻む。どこへ行った? 辺りを見回すが、まるで雨に溶けてしまったかのように彼の姿は見つからない。
「バート……バートリー!」
叫ぶ声は虚ろに響き、やがて雨音にかき消されていった。
その日の夢の中ではバートリーは小さな子供になっていた。
誰か『大切なひと』の手を取り歩いている――孤独なバートリーにとって、そのひとこそが世界のすべてだった。彼女のためならばなんでもできる。彼女がそう望むのなら世界だって敵に回そう。心からそう思える『家族』だった。
しかし――それをあの腕が奪っていったのだ。
怒り狂ったバートリーはナイフを取り家族をさらった悪魔を追った。そうしてついに悪魔の胸へナイフを突き立てた瞬間、ふとその悪魔の顔が見えた。
白い髪に青緑色の瞳。悪魔は他ならぬバートリーの姿をしていた。
「――――――」
叫ぼうとしても声は出ず、焼けるような喉の痛みに意識を現実へと引き戻される。眼前に見えるは空を覆い隠す枝葉。バートリーは泥の中に横たわったまま身じろぎした。
「………………」
ああ、と胸の中で嘆息する。意識を失う前、ラヴァルから逃げるために雨の中をむちゃくちゃに走ったことを思い出す。我を忘れていたとはいえなんという無茶か。吸血鬼が野外で眠ることは自殺行為に等しい。運が悪ければ今頃バートリーは黒焦げの炭と化していただろう。めちゃくちゃに走ったのが祟ったか、全身が酷く痛んで寒気がする。上着は枝に切り裂かれてぼろぼろになり、泥にまみれている。まるでドブネズミのような有様だ。
「……ラヴィー」
しばらく空を仰ぎ、ようやく出るようになった声で友の名を呼ぶ。酷いことを言われたと思った。裏切られたと思った。しかしどうだろう、こうして文字通り頭を冷やして考えると、酷いことを言って裏切ったのはどちらだったか。償いのために掟番になったラヴァルに対し、掟を破るような誘いをするなんて。最低だ、と流した涙が泥の中に落ちていく。
「謝らなければ」
許してはもらえないかもしれない。きっとバートリーに対して激怒し、絶交を申し渡すかも。しかしこのまま別れるわけにはいかない。短い間ながらもバートリーに心を砕いてくれた友に、せめてお礼の一つは言わなければ。
ゆるゆると立ち上がって、ふと右手が小枝を握っていたことに気づく。ちょうど普段使いのペンと同じ大きさだ。小枝をペンのように握り、執筆するときと同様に目を閉じてしばらく瞑想すると、ラヴァルの気配が感じられるようになった。そう遠いところではない。今から行けば、きっと夜明け前には出会えるはずだ。
暗雲が覆い尽くす空の下をひた走るバートリーは、その先で自分が思い知らされる現実を知らなかった。
「どうした、随分疲れた顔をしているじゃないか」
洞窟でしばしの休憩を取っていたラヴァルの前に現れたのは――赤いマントを纏った掟番、フォーティンブラスだった。
「……いや、別に」
「見栄を張るな。いつもより眉間のしわが増えているぞ?」
そう言われ慌てて眉間に触り――フォーティンの表情でからかわれていたことを悟る。腕を下ろし、一つ大きくため息をついた。
「……知り合いを探している」
「この間の友達か? 晩餐会の」
勘の良いフォーティンに見透かされ、隠し事はできないとわかったラヴァルは掟破りのことだけ伏せてあらましを話すことをした。
「あいつは助けを求めていた。誰かにわかってもらいたかったんだ。なのに俺は……否定し、傷つけてしまった」
「それで逃げられてしまったか。お前のおっかない顔は何を言っても恐ろしく聴こえるからなあ」
茶化すような言い方にますます眉間のしわを増やすが、しかし実際にバートリーにやってしまったことを考えると何も言い返せなかった。
「俺は、どうすれば良かったんだ」
ぼそりと言った言葉にフォーティンは逆に訊ね返す。
「お前はどうしてやりたかったんだ?」
「………………」
答えられずに黙り込んだラヴァルを、フォーティンは考え込んでいると思ったのか辛抱強く答えを待った。
「……あいつの助けになってやりたかった。気持ちが理解できなくとも、せめて寂しくないように一緒にいてやりたかった。もう二度とあいつがひとりで闇の中をうずくまらなくてもいいようにしてやりたかった」
「それは今からじゃできないのか?」
フォーティンの言葉に思わず声を荒げる。
「だから、俺はあいつを傷つけて……!」
「じゃあ、なんで傷つけてしまったんだ。お前はそいつのことが嫌いになったのか」
「違う! 俺は、あいつのことが――」
言いかけ、はっとする。自分の気持ちに気づいたラヴァルに、フォーティンはにやりと唇を吊り上げた。
「その気持ちが変わらないのなら、きっと今からでもできるだろうさ。ちゃんと見つけて、謝って、やり直せばいいだろう。お前みたいな奴を友達にしてくれた奴だ、ちょっと喧嘩したくらいでお前を見捨てはするものか」
「ああ……そうだな……」
ほとんど事情も知らないはずのフォーティンの言葉に救われた気持ちになり、ラヴァルはわずかながら顔を綻ばせた。ああ、ちゃんとやり直そう。そしてもう二度とバートリーがあんな風に気を迷わせることのないよう、ちゃんと支えて……
「――!」
「どうした?」
不意に聴こえた、小枝を踏み折ったような物音がいやに気になった。人間ではないだろう、そんな匂いはしない……きっと小動物か何かだろう。そう思うのに、なぜか胸騒ぎが止まらなかった。
「……これは」
どうしても気になり、付近を調べてみると、特徴的な白い長髪が落ちているのを見つけた。単なる偶然とは思えなかった。まさか……胸騒ぎが加速する。
「すまん、ありがとうフォーティンブラス! 恩に着る!」
「おお、頑張れよ」
礼もそこそこに洞窟を飛び出すラヴァル。何か恐ろしいことが起こる予感に怖気が走るのを止められなかった。
「ははは……ははははは!」
可笑しくてたまらず、バートリーは笑いながら森の中を走った。口の中に生暖かい滴が入ろうと、笑いを止めることは出来なかった。
勘違いをしていたのだ、とラヴァルが他の吸血鬼と話しているのを見てようやく気づいた。掟番のマントを着た彼はラヴァルの同僚なのだろうか、笑いあっていたのを見るに決して悪い仲ではないのだろう。
そうだ――友達を失くしたと聞き、自分に優しくしてくれるものだからすっかりそう思い込んでしまっていたが、決してラヴァルはバートリー同様に独りぼっちではなかったのだ。あんな風に親しく話ができて笑いあえる知り合いがいて、隠し事の後ろめたさに悩まされることはない。ちゃんとお互いを理解し合える仲間がいるのだ。バートリーはそんなラヴァルの友の中のひとりにすぎず――ラヴァルもただ、弱っちいバートリーに同情して優しくしてくれただけだったのだ。
「あははは、あははははは!」
可笑しくて可笑しくてたまらない。結局バートリーは最初から独りぼっちだったのだ。それを早とちりして調子に乗って、唯一優しくしてくれた友をも裏切って。最低で、最悪の、愚にもつかない人間もどき! 誰がバートリーを愛してくれるものか、血も心も通っていない同胞の誰が!
足がもつれ、再びバートリーは泥の中に倒れ込んだ。冷たい土がバートリーの体温をどんどん奪っていく。ああ、もういっそこのまま死んでしまおう。それがこの身の程知らずに相応しい末路に違いない! 目を閉じたバートリーの命運は、幸か不幸か未だ尽きてはいなかった。
「……旦那!? もしかしてバートリーの旦那じゃありませんかい!?」
激しく何度も揺さぶられ、バートリーはいやいや目を開く。心配そうにこちらを覗き込んでいるのは人買いのシャイロックだった。バートリーを著作に価値を見出し、それらを引き取る代わりに狩りの下手なバートリーへ人間の血肉を運んできてくれる優しい商い屋だった。
「どうしたんです、行き倒れちまったんですか? ああお可哀想に、こんなぼろになっちまって……」
衰弱しきったバートリーをひいひい言いながらも抱き起こし、わけも聞かずに荷馬車へ運んでくれるシャイロック。ああ、なんて優しいのだろう。けれどきっと、バートリーの悩みを知ったら見捨てるに違いない。バートリーは朦朧とした意識の中で笑った。
「まったくどうしてこんなことに……何か食べたいものはありますかい? 生憎今は持ち合わせがありませんが、きっとすぐに用意しますよ」
顔についた泥を拭いながら訊ねてくれるシャイロックに、バートリーはぼんやり呟いた。
「……子供が良い」
「子供ですかい?」
「十つにもならないくらいの小さな子供だ……できれば女の子がいいな。僕でも簡単に抱き上げられるくらいの、ともすれば潰してしまいかねないくらいの……」
バートリーの言葉にシャイロックは「ええ、ええ、もちろんすぐに用意して差し上げます」と頷いた。そうして気絶してしまったバートリーをあり合わせの毛布や外套で暖かくくるんでやると、シャイロックは御者台に座ってバートリー邸へと荷馬車を走らせた。
「バート……バートリー……!」
月の見えぬ空の下、ラヴァルが必死で探し求める声も知らぬまま、バートリーは夢の中でまだ見ぬ家族の温もりを探した。
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