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第十四話 宴と追憶

「まさかご友朋と一緒に来てくださるなんて……! 心から嬉しく思いますわ」

「あんたがカミラかぁ。噂通り美しい」

 にこにこといつになく上機嫌なカミラとでれでれと頬を緩めるギルデンスターンに挟まれ、ラヴァルは仏頂面で着慣れぬ礼服の襟をいじった。

 まさかいくらなんでもと思ってやった無茶な頼みだったのに、本当にギルデンスターンの同伴を許すとは。内心愚痴るラヴァルに答えるようにカミラが言う。

「ラヴァルさまたってのご希望ですもの。聞かないわけにはいきませんわ」

「………………」

「おいラヴ、強面のくせにやるじゃないか? こんな別嬪さんといつこんなにねんごろになったんだよ!」

「誤解だ……」

 ラヴァルの意外な交友関係に興味津々といった様子のギルデン。しかしラヴァルには元よりカミラにこんな厚遇を受けるような心当たりなどないのだ。

「どうか今宵は心ゆくまで楽しんで言ってくださいませ。それでは、また後ほど……」

 主催として色々仕事があるのだろう、カミラは名残惜しげに去っていく。ラヴァルは疲れた顔で通りすがりの給仕の吸血鬼から血のグラスを受け取った。

「……騒がしいのは苦手なんだがな」

 晩餐会にはあまり良い思い出がない。カミラには悪いが、どうにか口実を作って途中で抜け出そうと画策するラヴァルに慰めるように言うギルデン。

「そんなにくさくさするなって。あれから大分経ったんだ、お前を面と向かって罵る奴はもういないだろ」

「……ああ、そうだな」

 ラヴァルは無意識に右眉の傷を撫でた。さすがに十年前ほど酷いことにはならないだろう。……十年前。そうしてふと、かつて別れた友のことを思い出す。

「バートリー」

 口の中で呟いた言葉を押し流すように、ラヴァルはグラスをあおった。



  ◆



「すごーい!」

 幼いエルジエは今まで見たこともない景色に目を輝かせた。

 沢山のロウソクを立てて煌々と輝くシャンデリアがいくつも吊り下げられた天井。それらに照らされる貴族のように豪奢な礼服を纏った吸血鬼達。彼らが囲むテーブルには芳醇な香りを漂わせて食欲をそそる様々な人肉料理と血杯。きっと天の国とはこんなところなのだ。寝物語からせいいっぱい想像した世界がそこにあった。

「ねえねえ、あれ食べていいの? あのひとに話しかけていい!?」

「こら、落ち着いて、エル……」

 今にも走りださんばかりにはしゃいでいるエルジエを弱り顔でたしなめるバートリー。外の世界に憧れているのは知っていたが、まさかここまで喜ぶとは。きゃあきゃあ無邪気に声をあげるエルを不思議そうに見ている吸血鬼達にひやひやする。さすがにそう簡単に正体がばれるとは思わないが……悪趣味な吸血鬼に目をつけられてかどわかされでもしたらたまらない。バートリーはせわしなく動くエルジエに腕を伸ばす。

「いいかい、エル。絶対に僕から離れちゃ――」

「あっ、あれ美味しそう! お姉さん、それください!」

「エル!?」

 考えていた傍から走りだしてしまうエルジエ。慌てて追いかけようとするが……。

「おお、貴殿は! 貴殿はもしやバートリー殿ではないですかな!?」

「えっ……!?」

 後ろから現れた、立派な髭をたくわえた吸血鬼に呼び止められてしまう。

「おっとこれは失礼! 吾輩はベルナルディンと申します。いやあ、バートリー殿! 数々の名著を記された貴殿と巡り合うことができるとは! このご縁をもたらしてくれたカミラ殿にますますこうべを垂れなければなりませんなあ!」

 髭の吸血鬼は息継ぎも少なにまくしたて、ひとなれしないバートリーの眼を白黒させる。

「あ、あの、僕は……」

「貴殿に直接お話を伺いたいと常々思っていたのです! ささ、こちらへ! 『月のみどりご』第二十三頁の八行目のくだりについて是非ご教授を……!」

 ベルナルディンの勢いに押され、事情を説明できずぐいぐいと引っ張られる。その間にエルはテーブルやひと影に紛れて姿を消してしまう。

「え、エル……エルジエぇ……!」




「おい、そこの! グラスが空になった、早く注いでくれ!」

「ちょっとぉ、料理がなくなったんだけどぉ? 一体いつになったら片付けてくれるのぉ?」

「全然足りんぞ! もっと沢山持ってこい!」

「ああ、もう、うるさい! よそんち来てぎゃーぎゃーわがまま言ってんじゃないわよ!」

 と、叫びたいのを我慢しながら必死で給仕をこなすのは、カミラの一の侍従を自称するネリッサである。カミラ主催の晩餐会、多くの吸血鬼を招いているのは知っていたが、しかし来賓が予想よりも多すぎる。ネリッサ同様に給仕の任についている侍従吸血鬼達も表情に疲労の色をにじませている。

「ネル、大丈夫? ちょっとあんた顔色悪いわよ?」

 だが、その中でも特に疲れているのはやはりネリッサだった。息を荒げさせ、今にも倒れそうなほど赤い顔をするネリッサにややマシな表情の同僚が声をかける。

「へ、平気……こんくらいどうってこと……」

「いいえ、少し休憩した方が良いでしょう」

 聴き慣れた声にぎょっとする。見ると、カミラが眉根をひそめて心配そうにネリッサの顔を窺っていた。

「か、カミラ様……!」

「頑張ってくれるのは嬉しいですが、それで体を壊したら元も子もありません。来賓の方々へはわたくしが説明しておきます。ネリッサ、少し休んできなさい」

「はい……」

 有無を言わさぬ口調に頷くしかない。それを見て、カミラはふっと表情を和らげて続ける。

「お腹も空いてきたでしょう、少し料理を味見してきたらどうかしら。少し休んで、お腹が膨れたら、また頑張ってちょうだいね」

「平気よネル、あんたの後であたしも休むから!」

 主と同僚に背中を押され、ネリッサは広間の隅に行って壁にもたれかかる。確かにいつもより疲れていたが、それをよりによってカミラ様に見抜かれてしまったのは不覚だった。もっと精進しなければ……もらったグラスの血の味は、来賓たちに配慮したのかいつものスパイス入りではなく普通の生き血だった。

「やっぱりいつものブレンドのほうが美味しいなあ……ん?」

 ふと、視界の隅にやけに小さな影がちらついたのに気づく。小さい、おそらく十つにもなっていないような幼い少女だ――立派なドレスを着ているからには来賓のひとりなのだろうが、何やら様子がおかしい。不安げに辺りを見回し、通りがかった吸血鬼の顔を覗き込んでは残念そうにうつむく。

「どうしたの? 何か困ったことあった?」

 見かねて声をかける。本当に少ししか休めていないが、困っている客を放っておくわけにはいかない。白髪の少女吸血鬼は「うぅ……」とばつが悪そうにうなった。

「バートリー……えっと、一緒に来た家族が見つからないの。さっきまでそこにいたはずなのに……」

 歯切れの悪い言い回しになんとなく察する。両手にはグラスや料理、口元はソースで汚れている。大方初めてのパーティではしゃいでいるうちに同行者とはぐれてしまったのだろう。探してあげたいところだが……。

「うぐっ……」

 歩きだそうとした足にはしる痛み。動き回っていた時は麻痺して気づかなかったが、ネリッサの足は既に棒同然だ。こんな状態で少女の同行者探しに付き合うのは少し厳しいものがある。

「一緒に探してくれる……?」

「ううん……してあげたいのはやまやまなんだけど……」

 良い返事を返せないネリッサにエルジエの瞳が少しずつ潤んでいく。本能とは不思議なもので、吸血鬼の子供など生まれて初めて見たネリッサでもそんなものを見せられると罪悪感にかられてしまう。

「な、泣かないで! そうね、とりあえず何か美味しいもの食べましょう! ええと……」

「おや、そこにおわすは……」

 言うことを聞かない足を引きずってテーブルに行こうとすると、礼服の上に前掛けを着たちぐはぐな格好の吸血鬼がエルジエの姿を見咎めた。確かあれはカミラの専属ではない、ひと手不足を懸念したカミラが依頼した流れ者の料理方だったような……。

「テュバル! あなたも招待されてたの!?」

「いえいえ、あたしはお仕事で呼ばれまして。休憩を頂いたので少し様子を見に来たんですよ。ほら、そこのローストやキドニーパイなんかあたしが作りました」

「本当!? とっても美味しかったわ!」

「お口に合って何よりです」

 どうやらこのテュバルなる吸血鬼はエルジエの知り合いらしい。すっかり泣き顔を引っ込ませたエルジエにほっと一安心するネリッサ。エルジエと知り合いならば、エルジエの同行者とも知り合いであろう。エルジエが迷子であり、はぐれた同行者を探していることを説明する。

「バートリーの旦那と……? そりゃ大変です、すぐ探さにゃ!」

「テュバルも手伝ってくれる?」

「ええ、ええ、もちろんですとも!」

 ひとの良い笑顔で二つ返事で頷き、「心当たりがあります」とエルジエの腕を引くテュバル。置いて行かれるわけにもいかず、ネリッサも足を引きずりついていく。

「おおい、シャイロック!」

「なんだい、そんなに大きな声を出すもんじゃねえっての。……うん?」

 向かった先にいたのは、ネリッサもよく知る人買いのシャイロックがくつろいでいた。普段は人間に扮している彼も宴の場では礼服を纏っている。当然のことだが、普段との差に戸惑ってしまう。

「ほら、この子が例の旦那の『家族』だよ。せっかくパーティに来たのにはぐれっちまって困ってるんだ」

「『家族』……?」

 シャイロックはエルジエを見――寸の間、ぎょっとしたようにその顔をまじまじと見つめた。しかしエルジエにとってシャイロックは初対面、見覚えも心当たりもまるでない。

「おじちゃん、どうしたの? わたしの顔になにかついてる?」

「おじっ!? い、いや……なんでもありません。きっとあたしの気のせいでしょう」

 と、優しい笑みを浮かべてエルジエの頭を撫でるシャイロック。初めて会ったはずなのに、その感触になぜだか既視感を覚えエルジエは不思議な気持ちになった。

「それで、バートリーの旦那は見なかった?」

「ああ、それならついさっきまでそこで話してるのを見たんだが……」

 シャイロックが振り向いた方向には既にバートリーの姿はない。どうやら知り合いと話し込みながら別の場所に移動してしまったらしい。

「あたしもお世話になってるし少しばかし話がしたかったんだがねえ……」

「バートリー、いないの……?」

 周りを見回しても彼の白髪を見つけることができない。再び目が潤んでいくエルジエの隣でネリッサは不信感を抱いていた。

「何考えてるのかしら、そのバートリーっての。こんな小さい子を放っておいてふらふら歩き回るなんて……」

「ううん、あんまり言いたかないですけど、ちょっと考えなしに思えますねえ」

「バートリーを悪く言わないで!」

 一体どういうつもりなのか、と眉をひそめる吸血鬼達にエルジエが叫んだ。ぎょっとしてネリッサがエルジエの顔を見ると、エルジエは涙目になりながらも唇を噛み泣くのを堪えている。

「エルちゃん……」

「ば、バートリーは悪くないの……わたしがちゃんと言うことを聞かなかったから、勝手に歩き回ったから……! だ、だから、バートリーをそんなふうに言わないで……」

「ごめんね、そんなつもりはなかったのよ?」

 ドレスを両手でぎゅうとつかんで、嗚咽混じりに言うエルジエを慌ててなだめすかすネリッサ。ポケットからハンカチを取り出し涙を拭いて鼻をかませる。直後、そのハンカチがカミラからいただいたものだと気づいたが後の祭りだった。

「まあ、バートリーの旦那もそんなひどいお方じゃありませんよ。きっと何か事情があるんでしょう。もう一度改めて探してみましょうや」

「うん、探す!」

 ぐちゃぐちゃになったハンカチを握りしめ、シャイロックの言葉に頷くエルジエ。すっかり汚れてしまったハンカチに、ネリッサは顔も知らないバートリーに内心で恨み言を吐いた。



  ◆



「どうもありがとうございました! 機会があれば是非またもう一度お願いしますぞ!」

「や、やっと終わった……」

 ベルナルディン達の長話からようやく解放され、疲れ切ったバートリーはふらふらとおぼつかない足取りで歩きながら溜め息をついた。

 バートリーの著作の大ファンを名乗る彼ら……褒めてくれるのはありがたいが、しかしバートリーにはいまいち『実感』というものが薄かった。『月のみどりご』も『黒薔薇王戦記』も『二つ星ものがたり』も確かにバートリーが執筆した書籍である。だが……書いた当人であるバートリー自身、なぜ、どうして自分がそんなものを書けたのか、不思議で仕方ないのだった。

 そもそも、バートリーが自分の意志で執筆しようと思い立ったことはついぞ一度もないのだ。机に向かい、ペンを握った瞬間、衝動とでも呼ぶべきものがバートリー自身も知らぬ『裡』から湧き出てくる――気がつくと、ほとんど無意識のまま、突き動かされるようにペンを走らせている。そうして書かれた文章には、ときにバートリーが知らないはずの知識も含まれていた。

 この奇妙な『特技』のおかげで、吸血鬼としては不出来なバートリーも食うに困らずに済んでいるのだが、しかし不気味だ――何も知らず、他者にそのことを打ち明けて気味悪がられたときに思い知った。普通、そんなことはないはずなのだ。自分自身も知らないようなことを無意識のうちに書いてしまうなんて。

 まるで、何者かに操られて書かされているような。

「……エルジエだ」

 かぶりを振り、優先すべきことを思い出す。はぐれてしまってからだいぶ経つ。初めてのパーティで、この混雑だ。今頃寂しさで泣いているかもしれない。だけならまだしも、たちの悪い吸血鬼に捕まってしまっているのではないか? 考えるだけで怖気が走る。ああ、エル、早く探してあげないと!

「君、もしかしてバートリーじゃないか?」

「えっ……」

 そんな中、不意に声をかけられて反射的に振り向くと、声の主を確認したバートリーは硬直した。

「ああ、やっぱりそうだ。人間もどきのバートリー!」

 と、その吸血鬼は悪意なくバートリーの『名』を呼ぶ。名前は思い出せないが、顔には見覚えがあった。かつて十数年程前に会ったことがある――とても嫌な思い出だった。

「どうだ、あれからちゃんと血は飲めるようになったかい、ええ?」

「あ、ああ……」

 親しげに話しかけてくる吸血鬼にバートリーは曖昧に返す。そうだ、吸血鬼は普通『ちゃんと』血を飲めるもの。しかしバートリーはそうではなかった。昔も、今も。招かれた晩餐会ですら満足に血を飲むことができなかったバートリーを、『普通の吸血鬼』達はこう呼んだ。獲物に情けをかける落ちこぼれ、人間もどきのバートリーと。

「どうも……おかげさまで……」

「そうかそうか! ところで最近どうしてる? 僕は――」

 吸血鬼は昔のことを忘れたかのようにごく当たり前に話しかけてくる。いや、事実昔のことなどどうでもいいと思っているのだろう。バートリーの胸ではこんなにも吐き気と嫌悪感が渦巻いているというのに。

「まあなんだ、君も一杯どうだ? おおい、そこの! 彼にグラスを頼む!」

 と――バートリーになみなみと血が注がれたグラスが渡される。少し揺らすだけで金属に似た強烈な匂いがバートリーの鼻に突き刺さる。グラスを持つ手が自然と震えた。

「どうした? 気分が悪いのか?」

「い、いや……」

 吐き気がする。しかし、ここで飲まなければ失礼であり怪しまれる。バートリーが未だ血が満足に飲めない『人間もどき』であると知られれば――鼓膜にこびりついた嘲笑の幻聴に強いられるようにグラスをあおり、血を一気に喉に流し込む。

「うんうん、ようやく吸血鬼らしくなったじゃないか!」

 安心したように笑う吸血鬼に、バートリーはえずくのをこらえながらぎこちない笑みを作る。

「お気遣い、ありがとう……」

「ああ! それじゃ、僕はこのへんで!」

 幸い吸血鬼はバートリーの異変に気付かず、満足げに去っていく。吸血鬼の姿が見えなくなったのを確認して、バートリーはかたかたと震える手でグラスをテーブルに置いた。吐き気がする。胃の中で飲んだばかりの血が得体の知れない感情と共に渦を巻き、食道にせり上げかけている。

 ――なぜ、自分はこうなのだろう。バートリー自身がよくわかっている、おかしいのは他の吸血鬼達ではなくバートリーの方なのだと。人間にしろ他の数多の獣達にしろ、自分が食べる獲物に対して「可哀想」だの「申し訳ない」だの思うだろうか? そうやって哀れんで食べずにいたら死ぬのは自分の方なのに。けれど――しかし。今わの際に見せる絶望の表情。助からないと理解しながら必死で命乞いをして泣き叫ぶ姿。中身、有り様、生き方はさておき、人間と吸血鬼の姿はとてもよく似ている。同族とほとんど変わらぬ外見の生き物を自分はこれから食べるのだ。そう実感してしまうと、どんなに腹が減っていようと食欲がなくなってしまうのだ。

「うぐ、ぅ、うう……!」

 吐き気がどうしても収まらない。ともすれば、今すぐにでもその場で吐き戻してしまいそうだ。それはまずい、せめてどこか場所を写さなければ……おぼつかない足取りで歩きだす。額には脂汗、最早外面を取り繕う余裕もない。

「バートリーくん! 探したよ、こんなところにいたんだね……バートリーくん?」

 途中、聞こえてきた馴染みある声に振り向く余裕も残っていない――わずかに意識の底にこびりついた理性が警告を発する。今はそれよりももっと重大な問題があったはずだ。エルジエ――――早く、エルジエを。しかし、バートリーの精神はとうに限界を迎えていた。霞み、おぼろぐ視界にバルコニーへの扉が映る。ほとんど崩れ落ちるような歩き方でバートリーはバルコニーへなだれ込んだ。

「う――げほッ、がふごぼッ、ぐぇ……ごぼほッ、ぉ、ぇ…………」

 バルコニーの柵にしがみつき、胃袋の中身を外に吐き戻す。だが、今しがた喉に流し込んだ血どころか胃液をほとんど吐き出し胃をまさしく空にしてもなお、吐き気が収まることはなかった。胃液に焼かれた喉と腹の底に未だ渦巻く悪寒を抱えながらバートリーはずるずるその場に崩れ落ちる。すがりつくように柵の下部につかまりながら荒い息を吐く。

「……ぅ、は……ぁ……」

 ああ、とぐらぐら揺らぐ意識の中思う。そういえば以前にも似たようなことがあった。同じように晩餐会に招かれて気分を悪くしてしまい、こんな風にひと目につかないバルコニーでひっそりうずくまる。あれはいつのときだったろう? あのときは一体どうしたのだったか――思考がまとまらぬまま意識は闇に溶けていき、そしてそのとき。

「おい、大丈夫か!?」

 バルコニーに誰か入ってきたらしい、息も絶え絶えといった様子のバートリーを見つけたのかぎょっとした声が聴こえた。入ってきた吸血鬼は一目散にバートリーに駆け寄り、うずくまっているバートリーの背中をさする。

「しっかりしろ! 気分が悪いのか!? 待ってろ、今助けを――!」

「だ、だいじょ……っぐ、げほっげほっ!」

 返事をしようと口を開くが、喉奥に絡みついていた残滓がせり上がり再び咳き込んでしまう。助けに来た吸血鬼も今は様子を見たほうが良いと判断したか、そのままバートリーの背中をさすり続けた。

「あ……ありがとう……」

 しばらくして咳も収まり、バートリーはようやく礼を口にすることができた。辛抱強くさすってもらったおかげか、不快感もいくらか軽減していた。良かった、と安心したように溜め息をつく音が上から聴こえ、バートリーは顔を上げる。特徴的な眉の傷と、菫色の瞳。よく見慣れ親しんだ顔。

「!」

「あ…………!?」

 そしてふたりは――――バートリーとラヴァルはそこで初めてお互いをそうと認識した。床に座り込んだまま、互いに触れあったまま、ふたりは硬直する。

「……バート……」

 震える声でうわごとのようにラヴァルが言う。それはかつてラヴァルが好んで使った愛称で、絶交以降もう絶対に使わないと宣言された名。ふたりのかつての親交の証。

(……ああ)

 バートリーは思い出す。確か、あのときもこんな風だったのだ。初めてラヴァルと出会った時もこんな風に晩餐会を抜け出して、バルコニーに座り込んで――こうして、空に輝く月に照らされながら。あのときふたりは、こんな風に出会った。

 それは十数年前。未だ『家族』を持っていなかったバートリーが希望を抱き、そして途絶えてしまった小さな友情。


吸血鬼大全 Vol.244 人間もどきのバートリー

執筆活動を行う吸血鬼。吸血鬼としての生存能力、戦闘能力はかなり低いが、研究書や史実を元にした歴史小説など多くの『本』を執筆する彼のファンは吸血鬼、人間共に数多い。

彼の自我は大厄以降に生まれているが、彼の書籍では大厄以前の史実を扱ったものが多い。生まれてもいない時代の話をどうして知っているのか、またなぜ彼がそんなものを執筆しているのか。彼自身にもその謎はわかっていない。

彼の人間に対するコンプレックスと憧れ、「家族願望」によって起こした大罪は、やがて吸血鬼世界を大きく揺るがす大事件へと発展することになる。


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