第十三話 勝機と狂気
落ちかけの陽に照らされた《裏切》の刃がきらめく。ローゼスに蹴り上げられたヤンはとっさに近くにあった木の幹を蹴り、ローゼスの頭上から短刀を振り下ろす。
無論、この一太刀でローゼスの頭蓋を割り斬ることはできないだろう。ヤンの狙いはローゼスが被っている日除けの仮面だった。あの仮面を剥いでしまえば、無防備に晒されたローゼスの素顔は落陽に容易く焼き焦がされるはず――しかしそんな安易な考えはあっさりと見抜かれ、ローゼスが振り上げた鞄によって短刀が弾かれる。
「なかなかイイとこ突いたね。でも」
弾かれた短刀はくるくる回転しながら落下し、地面に突き刺さる。得物を失ったヤンは空の右手をローゼスの顔に伸ばした。しかしその手が届くよりも早くローゼスに横顔をはたかれ、得物の隣に倒れ込んだ。
「うぐっ!」
「もう時間切れだ。今日はこの辺でおしまいにしよう」
倒れたヤンに手を差し伸べながらローゼスが言う。その後ろでいよいよ太陽が地の底に隠れようとしていた。夜は吸血鬼の時間だ。太陽から身を隠さなければならないという足枷を外したローゼスに対してヤンには勝ち目がない。情けをかけられた屈辱に歯を食いしばり、ヤンは差し伸べられた手を払って自力で立ち上がった。
ローゼスとヤンがアニカ達の住む村を発ったのは今朝のことだ。表向きは旅医者であるローゼスに命を救われたヤン、きっとその恩を返す為に同行したのだろうと村人達は思っている。しかし実際は吸血鬼と吸血鬼ハンターが殺し合う為に連れ立っているという実に奇妙な同行だった。
「そろそろ晩御飯にしようか。準備はできてるかい?」
「……余計なお世話だ」
とはいえ、その実態は『殺し合い』とはかけ離れたものになっていた。
何せ吸血鬼有数の猛者であるローゼンクランツに対してヤンの勝ち目などほぼ皆無なのだ――それをローゼスがわざわざ自ら『陽のあるうちしか戦わない』という足枷をつけ、ようやく成り立っているような殺し合い。そもそもローゼスにはヤンを殺す理由などない――むしろ助けようとすらしている――のだから、本気など微塵も出していない。何重にも手を抜かれている状況で、さらにその時々の食事やら睡眠時間まで心配される始末。ヤンがもう少し誇りのあるハンターだったなら屈辱のあまり自死すら選んでいただろう。
しかし、どんなに屈辱的な条件だろうとヤンはあと二日以内にローゼスを殺さなければならないのだ。できなければ、ローゼスはヤンの毒血を奪い普通の人間に戻すと宣言しているのだから。
「ボクは医者だぜ? 代わりの血の調達も取り扱いも思いのままさ」
そんなことができるわけない、耳障りの良いことを言って油断させて俺を殺す気だろう――そうたかをくくったヤンに対し、ローゼスは飄々と答えた。
「ま、安心して。こう見えてボク、人間に関しちゃ殺した数より助けた数の方が多いんだからさ――」
愛用の医療用ナイフをぴかぴかに磨きながらにへらと笑うローゼスに対しどんな感情を抱けばいいのか、ヤンにはわからなかった。
とにもかくにも、あと二日のうちにローゼスを殺さねば――ヤンは歯噛みしながら野宿の準備をし、荷袋から食料を取り出した。宿屋の女主人が親切に持たせてくれた干し肉とパン。干し肉を沸かした湯に浸し、パンをかじりながらヤンはふとローゼスを見た。ローゼスは一体何を『夕飯』とする気なのだろう。まさか目の前で人間の血を啜られたらさすがに平静を保てない。しかしローゼスが取り出したのは、アニカが丁寧に千切って袋詰めにしてくれた薔薇の花弁だった。
「美味しそうでいいねえ。ボクはこっち」
「……なんだ、それは」
「薔薇だけど?」
わけがわからずきょとんとする。薔薇を食べるというのか? 吸血鬼は人間の生き血以外食べられないのではなかったのか?
「ああ、知らないんだね。血よりは不味くて栄養もないけど、これもそれなりに腹の足しにはなるんだよ。次の村まで遠いからね、血はなるたけとっとかないと」
言いながら花弁をむしゃむしゃ頬張るローゼス。表情を見るに、確かに美味しいものではなさそうだった。
「キミも食べる? なんていうか、そう……大自然の味がするけど」
「いい」
「そっか」
肩をすくめ、花弁をもう一枚口に含むローゼス。ヤンは何も言わず、ふやけた干し肉ごと湯を飲んだ。
何よりも吸血鬼を憎んでいるはずの自分が、なぜ吸血鬼と食事を共にしているのか。そして、吐き気を催すべきその事実に対し、それ以外の何か別の感情を抱いている自分が不思議でたまらない。
ポケットの中に入れたままのメダイユがちゃり、と音を立てた。
夜。「早寝早起きは健康の基本だよ」とうそぶき、当然のように寝入ってしまったローゼスの横でヤンはぼんやり空を眺めていた。三日月の淡い光は吸血鬼も人間にも平等に降り注ぐ。
「なんてザマだい。見てるこっちが悲しくなっちまうよ」
「!」
そんな中、突然降ってきた声に飛び上がる――しかしそこにあったのは見慣れた姿、大魔女モルガーナが遣わした魔法による幻影である。
「吸血鬼が憎いんじゃなかったのかい? 奴らを殺す為なら魂も命も惜しくないんじゃあなかったのかい? それがなんだいこのザマは」
「………………」
呆れた顔のモルガーナに言い返す言葉は思いつかなかった。
「仇のひとりにあれこれ世話焼かれて、面倒見られて。はっ、いっそ真人間と言わず吸血鬼にしてもらったらいいじゃないか」
「黙れ」
脳裏に焼きついた忌まわしき記憶を呼び起こされて思わず怒鳴りつける。しかし、モルガーナの言葉は止まらない。
「あんた、本当にあの若造に真人間にしてもらえると思ってるのかい?」
「………………」
「できるわけないじゃないさ。この大魔女モルガーナ様の御業を、医学をちょっとかじっただけの吸血鬼が。そもそもあんたの心臓はこの通り、このモルガーナが握っているんだからねえ」
と、モルガーナはこれ見よがしに瓶に閉じ込めたヤンの心臓を取り出した。今この胸の中でばくばくと鼓動しているのはモルガーナが魔法で作った紛い物。どんな形であれひとたびヤンがモルガーナの手から離れれば、彼の命運は文字通り尽きてしまうのだ。
「いいかい。あんたはこんなところでぐずぐずしてる暇はないんだよ。裏切り者だか恥知らずだか知らないが、あんな若造の酔狂に付き合っててなんの得があるんだい。どうせ殺せないならさっさと見切りをつけて逃げるなりなんなりすればいいじゃないか」
「………………」
たとえ逃げたとして、あのローゼンクランツが素直に逃がしてくれるものだろうかと言い訳じみた思いが胸に浮かぶ。
「はん。どうせ殺すのだって無理じゃあないさ? あんた本当にあと二日のうちにあの若造を殺せるのかい? 何度やってもまともに一撃も当てていないくせに?」
「若造……?」
さっきからいやに若造、若造と連呼するが、ローゼスはどう見ても中年男性の外見である。吸血鬼や魔女に年齢の概念が通用しないとはいえ、モルガーナの今の見た目の方がよほど若く見える。
「いいかい。あんたがててなし子だから変に幻想を抱いちまうかもしれないけどねえ、あんな老け顔の若造に惑わされてちゃあいけないよ。そうさね、吸血鬼の歳で言えばあんな奴、あんたの苦手なクレスニクとかいう奴とさほど変わらないくらいさ。それをあんた、ちょっとしわが多いくらいでダンディぶって年下相手にちょっかいかけて。あれがおじさんならこっちは大婆だよ!」
「………………」
「ふん、まったくふざけるんじゃないさ、女もろくに抱いたことのないような未熟者が親ぶって……」
「……?」
一体、何をそんなに熱くなっているのだろう。
「とにかく、さっさとあの若造とは手を切るんだよ。あんたの望みは復讐だろう? だのに、わけのわからない賭けなんかしてせっかくの毒血を失う羽目になっていいのかい」
「………………」
そんなことはわかっている。しかし。
「……はあ。そんなに殺したいのかい。まったくどうしようもない子だよ」
モルガーナは溜め息をつき、屈みこんでヤンに囁くような姿勢になる。実態なき幻影である以上、わざわざそんな動きをする必要はないのだが……ヤンはふとローゼスが気になり、横目で見る。すっかり寝入っているようで穏やかに寝息を立てていた。
「ようは殺せればいいんだろう? だったらあいつの食料に毒を混ぜてやればいい。吸血鬼を一撃で殺す、あんたの毒血をねえ」
「――――!」
予想外の提案に思わずぎょっとし、目を見開く。毒を盛れというのか? 今までそんなこと考えつきもしなかった。
「あいつが大切に持ち歩いてる血の樽に混ぜるんだよ。なあに、たった二、三滴で充分だろうさ。あいつは気づきもせずに喜んで飲み干して、あとからじわじわ体の裡から毒に蝕まれるんだ。自分より強い奴と大真面目に戦う必要なんてないんだよ」
カンタレラの毒は強力だ。モルガーナの言う通りにすればローゼスを殺めるのも難しくないかもしれない。たった二、三滴……彼の食料に垂らすだけで……。
「……駄目だ」
しかし、ヤンの口から出たのは否定の言葉だった。
「……なぜだい。殺したいんだろう?」
「そんなやり方は、駄目だ。殺せても納得できない」
「納得だあ? なにふざけたこと言ってるんだい」
怒った様子でヤンを詰るモルガーナ。ヤン自身、自分が何を言いたいのかわからなかった。
「とにかく、駄目だ。あいつのことは自分で何とかする。お前は手を出すな」
「はん、勝手にしな。後から慌てて泣きついてきたって知らないさね」
吐き捨てるように言って姿を消すモルガーナ。ヤンはもう一度ローゼスの方を見て、再び横になった。ううん、と寝言のように唸って寝返りを打つ音が横から聴こえた。
「ううん、おかしいなあ」
日の出前に目覚めると、既に起きて仮面以外の身支度を整えたローゼスが困ったように鞄の中を漁っていた。
「どうした」
「村に忘れ物してきちゃったかもしれないねえ。道具が一つ足りないんだ」
商売道具である医療用ナイフやらペンチやらの医療器具を失くしてしまったらしい。鞄の中身を広げ、困ったなあと頭をかいている。
「……取りに戻るのか」
「ううん……いや、いいや。他のものでなんとか代用できそうだし、今度新しいのを買うよ」
諦めたように笑い、花弁が詰まった袋を取り出すローゼス。朝食には早すぎる時間だったが、ヤンもローゼスに合わせることにした。
「昨日のやり方は良かったよ」
と、花弁を食みながらローゼスが言う。
「カンタレラの毒は確かに強い。キミの戦士としての非力さを補って余りあるほどにね。けれど、それが通用しない相手とぶつかったらキミの勝機は消滅する」
「………………」
「仮に毒血がなくなっても……とまではいかないけど、もっと毒に頼らずに戦えるようにならなきゃね。まあ、キミの戦闘力はお世辞にも高い方とは言えないし、そこらへんはまだまだ課題ってところかな」
「………………」
「そうだな、キミは戦闘じゃなくて暗殺向きじゃない? 最初にボクを助けてくれたときの奇襲は上手かったよ。問題は奇襲からの戦闘をどう乗り切るかだね。ハイドは不意討ちで倒せる相手じゃないし……」
「……教師にでもなったつもりか。吸血鬼」
答えないヤンに対し延々と喋り続けるローゼスに耐え兼ね棘のある言葉を放つ。すると、ローゼスははっとした顔になる。
「……そうだね。あっはっはやだなー、弟子がいたらこんな感じなのかなって思っちゃった」
「……弟子」
「吸血鬼は子孫をつくれないからね。代わりに若い吸血鬼を弟子にしてあれこれ教えるんだ。そうやって『自分がいた証』ってやつを残すんだよ」
弟子……考えたこともなかった。吸血鬼は吸血鬼、ただの敵だ。そんな奴らに何かを託されたり残したりする相手がいるなんて……。
「そうだね、例えばキミが前に殺したコスタード。彼なんかお弟子さんを可愛がってたらしいねえ。お師匠さんを殺されたお弟子さん、きっとキミを恨んでるだろうなあ」
「…………!」
コスタード。あの腕を植物のように変形させて戦う斧使い。彼が死に際に振り絞った断末魔を思い出す。
「ねえ、ヤン君――カンタレラ。誰かを殺すのってそういうことだぜ? そのひとの生命だけじゃなく、そのひとが持ってた『つながり』も全部断ち切るんだ。人間の家族ほどじゃあないにしろ、吸血鬼にだって友達や愛するひとはいる」
「………………」
「キミがどこまで考えてやってるのか知らないけどさ。キミが吸血鬼を殺し続ければ、いずれキミを恨んで復讐してやろうって思う奴は出てくるよ。キミはそいつも殺すのかい? だったらもう終わりはないよ、殺した奴の友達、その友達、はたまたその恋人達がキミを殺しにやってくる。キミはいつまで殺し続けられるかな」
「カンタレラ。キミは本当に覚悟出来てるの?」
「……………………俺は」
「ん」
口を開きかけた最中、ローゼスが何かに気づいたように振り向いた。視線の先では木々がそよ風を受けて枝葉を揺らしている。
「……?」
「ん……いや、なんでもないか。あはは、やだなあ、逃亡生活してると後ろが気になって仕方ないんだ」
茶化すように言って、ローゼスは花弁袋を置いて血の詰まった樽に手を伸ばした。昨晩の魔女の言葉を思い出し思わずどきりとする。
「さ、もう夜明けだ! 今日も元気出して一日頑張ろう!」
ジョッキに血を注ぎ、嬉しそうにごくごく飲み干すローゼスをヤンはなんとなく気まずい思いで見つめる。空は白み、地平線には朝日が放つ光が曇り空の中にぼんやりと姿を現し始めていた。
「どこに隠れたかな」
仮面越しにゆっくりあたりを見る。ヤンは木々のどこかに姿を隠しローゼスを狙っているようだ。風が強く、枝葉のざわめく音でヤンの気配はかき消されている。
「ボクならこっちから行くけど……」
後方左側を振り向く。しばらく注視しているとそこからさらに少し左を逸れた場所の低木ががさりと揺れた。
「そこかな?」
気配が現れた場所に向けて突進する。鞄を振り上げ、横なぎに枝葉を裂く。しかし――
「……なるほど」
そこにあったのは拳大の石。ならばと後ろを振り向くと、既にヤンが短刀を正眼に構えてすぐそこまで走ってきていた。得物にしていた鞄は思いきり振りかぶってしまった為すぐには盾にできない。周りには動きを阻む低木。してやられたな、と仮面の下で笑い、ローゼスは左腕を犠牲にすべく前に出し。
「待った」
唐突に、ヤンが動きを止める――絶好の機会を自ら不意にするような真似にさしものローゼスも面食らった。
「ありゃりゃ。一体どうしたのさ?」
「……何か、聞こえなかったか」
と、短刀を鞘に納めながら言う。もうすっかり戦う気は失せたらしい。
「悲鳴が聴こえた、気がする」
「!」
ヤンの顔色は何か嫌なことを思い出したかのように真っ青だった。……そういえば、今日は曇り空。多少無理をすれば日除けがなくとも吸血鬼は活動できる。虫の知らせというやつか、どうも嫌な予感がしてならない。
「……途中だけどさ、見に行ってみるかい?」
「ああ」
迷いなく頷くヤンに思わず苦笑する。自分の進退よりどこの誰かもわからない人間を心配するのか。そんな少年に助けられた自分を可笑しく思いながら、声が聴こえたという方向へ足を進めた。
「あれは……!」
少し行った先は崖のようになっており、低木に身を隠しながら谷底を覗き込む。そこにあった光景に二人は息を呑んだ。
各々武器を持った九、十人ほどの集団。彼らが身に纏う赤いマントは彼らの正体が吸血鬼の掟番であることを示している。テントやたき火跡を見るにここで駐屯しているのだろう。しかし――捕虜か食料か、吸血鬼のひとりが捕まえている少女の姿は。
「アニカ……」
「……なして、離してよ!」
村にいるはずのアニカがどうしてこんなところに!? 吸血鬼の手から逃れようともがく彼女の声にヤンは呆然とする。しかしローゼスは抜け目なく彼女の持ち物を見つけていた。
「まったく、参ったなあ。いくら届け物ったって、女の子がひとりで出歩くもんじゃないよ」
アニカが抱える布袋から飛び出した大振りな医療用ナイフの柄を見つめ、ローゼスは困ったように溜め息をつく。
「届け物……」
「おい、『それ』ちょっとうるさいぞ。弁当なら静かにさせろ」
吸血鬼達の会話が聞こえてくる。その響きの不穏さにヤンは慌てて口をつぐみ耳を澄ませた。
「随分と小さいのを獲ってきたなあ。そんなの食べても腹膨れないだろ?」
「わかってないなお前。若い肉はオトナより柔らかくて美味いんだぞ? 食い出は確かに少ないが手に入れやすいしな」
「うへー、グルメ気取りかよ」
「………………」
怯えた様子のアニカを取り囲みながらおぞましい会話をする吸血鬼に吐き気を催す。
「あー、わかるわかる。特にあのやわこそうな太ももとか思わずかぶりつきたくなるよねえ」
「ローゼス」
「冗談だよ」
冗談じゃない。肩をすくめておどけるローゼスを睨みつける。
「さて、どうしよっか」
「どうする、だと?」
「アニカちゃんを助けるか、見なかったことにしてさっさととんずらするか。どっちがいい?」
そんなの選ぶまでもない! 反射的に答えようとするヤンをローゼスは先んじて制す。
「確かにこのままじゃアニカちゃんが可哀想なことになる。けれど、助けるのだって大変だぜ? あっちは十、こっちは二。多勢に無勢の上、アニカちゃんが傷つけられないように守らなきゃいけないんだ。こないだのボクとは条件が違いすぎるだろ」
「………………」
「奴等はボクさえ殺せればいいだろうけど、だからってキミやアニカちゃんを殺さないでおくような理由もない。三人まとめて殺されました、ってなったら目も当てられない。アニカちゃんを見捨てるのも立派な選択肢だ」
「…………でも」
「よく考えて、カンタレラ。キミには目的があったはずだ。たかだか一日二日一緒にいただけの女の子と、自分の人生。キミが選ぶべきはどっちだい?」
……ヤンの脳裏に蘇る昨夜のモルガーナに言われた言葉。そして、見ず知らずの他人である自分に優しくしてくれたアニカ。彼女のことは助けたい、しかし……逡巡するヤンをローゼスは根気よく待ち続けた。
「……助ける」
「本当に、それでいいんだね?」
ローゼスはヤンの決定を否定せず、ただ念を押すように確認した。
「ここで何もしなかったら、きっとずっと後悔する」
「そっか。やっぱりキミは、そういうのが似合ってるよ」
にやりと、しかしどこか悲し気な笑みを浮かべてローゼスは頷いた。
「ふわぁああ……」
「おい、何してる?」
部下のひとりが大あくびをしたのを見咎め、掟番フォーティンブラスが注意する。
「す、すみません……おれ、やっぱり昼間は苦手で……」
「いくら奴が昼行性だといっても、俺達の体調が整わないときに行動するのは危険では? 全員、昼間の行動に慣れていない。このまま出会ったところでまた逃げられるだけだ」
ハムレットの進言にも一理がある。先日の失敗で功を焦りすぎたか。ローゼンクランツは基本、こちらが手を出さない限りは攻撃してこない。まだ傷が癒えない者もいる、今は隊員達の体調を整えるべきか……。
「もうやだ、家に帰してよぉ……」
と、考えていたところに誰かが捕まえてきた『弁当』が泣き出した。どうせならもっと食い出のある人間を獲ってきてほしかったが、まあいいだろう。
「腹ごしらえにするか。ナイフを貸せ」
「いやっ……!」
腹を空かせた吸血鬼達のぎらぎらとした眼光に身を竦ませるアニカ。手元にはローゼス先生が忘れていったナイフがある。しかしそれだけで少女の身に何ができるだろう? 荷物を胸に抱えながらアニカはひたすら祈り続けた。
「誰かっ……かみさま……!」
「おい、ありゃなんだ――がぶっ!」
そのとき、掟番のひとりが空を見上げ驚いた声を上げ――それより飛来した『それ』に押し潰され、そのまま絶命した。あまりに唐突な出来事に掟番達は呆然と仲間を押し潰した飛来物――もとい襲撃者に釘づけにされる。
「……腹ごしらえの必要はない。空腹のまま地獄に堕ちるがいい」
「ヤン!」
掟番の死体の上から立ち上がる吸血鬼殺し。助けに来てくれたんだ! 喜びに目を輝かせるアニカとは裏腹に掟番達は歯軋りする。
「おのれ、カンタレラ……!」
「こそこそ群れて小さな獲物をつつきあう卑怯者どもめ。その子を離せ、その子はお前らのおやつじゃない」
「黙れッ!」
誰からともなく武器を抜き、ヤンに襲い掛かる掟番。空腹と慣れない昼間の活動、そして奇襲による動揺で完全に思考力を奪われていた。だがヤンは《裏切》を抜くことなく、解放されたアニカの方に向かった。
「逃げるぞ、つかまれ!」
「うん!」
ヤンはアニカを抱き上げてひたすらに走った。掟番にぶつかった衝撃で体のあちこちがずきずきと痛む。しかし足を止めるわけにはいかない。
「逃がすかッ!」
「逃がしたげてよ。ボクが相手になるからさ」
と――ローゼンクランツが崖の上から姿を現した。掟番に向かって全力で『投げつけた』ヤンが無事にアニカを連れて逃げているのを確認し、にやりと笑う。あとは自分が囮になるだけだ。
「ローゼンクランツ……!」
「今回はボクが悪いから、あの子のことは恨まないであげてね」
低木を二、三引っこ抜き、それを棍棒に見立てて両腕で構えながら崖下に飛び降りるローゼンクランツ。
「九対一か。もしかしたら今度こそ死んじゃうかもなあ」
ナイフで切りかかってきた掟番を即席棍棒で殴りつけながらうそぶくように言った。
「あとは一人で帰れるな?」
ようやく村が見えてきた。追っ手がいないことを確認し、アニカを下ろす。
「うん……」
「もう、一人で村の外に出るな。次はもう助けられない」
たとえ吸血鬼がいなくとも、野党やあくどい人さらいに見つかってしまうかもしれない。もう二度と変な気を起こさぬようきつく言い含めるが、アニカは心ここにあらずといった様子だった。
「……ねえ、あれ、先生だよね?」
「!」
逃げる途中、崖上に現れたローゼスの姿を見ていたらしい。どう答えたものか言葉が出ないヤンに「やっぱりそうなんだ」とアニカが顔を曇らせる。
「ごめんなさい……あたしのせいだよね。あたしが危ないことしたから、先生とヤンが……!」
「……大丈夫だ」
泣き出しそうなアニカの肩を抱き、自分に言い聞かせるように言う。
「あのひとは強い。そう簡単には、死ぬもんか」
言ってから自分で驚く。自分はローゼスに死んでほしくないと思っているのか? ついさっきまで彼の命を狙っていたはずなのに……。
「……ね、ヤン。これ」
と、アニカがヤンに荷物を差し出す。ローゼスが忘れた医療用ナイフ。
「これ、先生に返してあげて。あたしのごめんなさい、代わりに言って」
「……わかった」
ヤンが確かに受け取り、頷いたのを確認するとアニカはきびすを返し村へと走り出した。ヤンも来た道を振り返り、ローゼスの元へ向かう。
「ローゼス!」
「なんだ、戻ってきちゃったの!」
掟番の数は既に半分近くになっていた。倒れている掟番が死んでいるのか生きているのか今は判別できない。今見てわかるのは、残った五名が全力でローゼスを抑えつけていることだけだった。
「見ての通り余裕だよ、アニカちゃんと一緒に村に戻って良かったのに!」
「嘘をつくな……!」
裏切を抜き、吸血鬼のひとりに斬りかかる。だが走り続けたヤンの体にはまともに力が入らず、いともたやすく弾かれてしまう。
「邪魔をするなカンタレラ! 吸血鬼殺しがなぜ吸血鬼を助ける!?」
「…………!」
掟番に投げかけられた言葉が突き刺さる。そうだ……なぜ俺は吸血鬼を助けているんだ? 裏切り者であろうと、命を救われた相手だろうと、こいつは吸血鬼なのに!
「お前も裏切り者だからだ、カンタレラ」
――その言葉は掟番達のものでもローゼスの物でもなく。後ろから聴こえてきた声にヤンは心の臓まで止まらせた。……この声は。なぜ、彼がここに?
「吸血鬼同士の殺し合いか、なんと醜い。呪わしき悪魔どもめ」
白い修道服をひらめかせ、仕込み杖を引き抜きながら吸血鬼達に歩み寄る。何も知らない者が見れば宗教画の一枚のように荘厳な情景に見えたかもしれない。だが、その男の本性が聖人からはあまりにもかけ離れていることをヤンはよく知っていた。
「邪悪、死すべし」
「お前……《突き尽くす示指》!」
「違う。私の名前はドミニコ・ベネデッティだ」
吸血鬼ハンターの中でも指折りの実力者、『例外の五指』。カンタレラ以上の強者の登場に掟番達も目の色を変えた。
「くっ――!」
フォーティンブラスが剣を抜き、ドミニコに斬りかかる。ドミニコは仕込み杖のレイピアめいた剣で軽々とその一撃を受け止めた。
「隊長!」
「早く奴にとどめを! 今《示指》と戦うのは危険だ!」
ドミニコと剣を打ち合いながら叫ぶフォーティンブラス。しかし、彼らは既にローゼンクランツに十分すぎるほどの隙を与えてしまっていた。
「ヤン君!」
掟番達を力づくで振り払いながらローゼスが叫ぶ。
「ちゃんと考えておきなよ! 自分が何をしたいのか、何をするべきなのか! 考えないままで進むと絶対後悔するから!」
「ローゼス!」
アニカから預かったものを渡さなければ。ヤンはローゼスを追おうとするが、ローゼスは首を振ってそれを拒み、傷だらけの体で崖を登りだす。後を追う掟番達。
「よせ、今は退却だ! 倒れた者の介助を――」
「死すべし」
「がッ――」
「隊長!?」
「…………行けーッ!」
部下に指示を出す最中、ドミニコに背中を斬り裂かれ斃れるフォーティンブラス。ローゼスを追ったり、倒れた仲間を助け起こそうとしたり、散り散りになった掟番達と雲が薄れてきた空を見比べ、「問題なし」と判断したドミニコはヤンを振り向いた。
「昨夜、吸血鬼と行動するお前を発見した。作戦かと思って観察していたが、お前は本心からあの吸血鬼を助けようとしたな」
「…………!」
ずっと見られていたのか? ローゼスがしきりに後ろを気にしていたのを思い出す。人一倍吸血鬼を憎むドミニコにそんな姿を見られていたのなら、ヤンの辿る道はもはや一つしかない。
「呪われし者め。魔女に魂を売るだけでは飽き足らず、人間すら裏切ろうというのか」
「違う。俺は――」
「黙れ」
仕込み杖の鞘の先端を喉に突きつけられ、吐いたばかりの息を吸い込む。ヤンの言い訳を聞く気など一片たりともないらしい。ドミニコの厳かな口調はしかし、正気から発せられたものではなかった。
「お前に咎があるかどうかは主こそが決めるのだ。お前を査問する」
狂気に染まった獅子の眼光がヤンの体を貫いた。
吸血鬼大全 Vol.118 恥知らずのローゼンクランツ
掟番から追われる裏切り者の吸血鬼。主な罪状は吸血鬼のあり方の否定と仲間殺し。
異能を持たずに生まれてきたが、代わりに肉体を極限まで鍛え上げ、純粋な筋力ならハイドをも上回る力を得た。その実力は裏切り者にして《将軍》の名を持つことで証明されている。
普段は掟番から身を隠しつつ人間に化け旅医者として人間の村を回っている。主食は医療行為で得た血と薔薇の花弁。
無理な昼行性生活と栄養不足な食生活により吸血鬼には珍しく老化してしまっており、その体力は全盛期に比べれば遥かに劣っていると思われる。