第十二話 誇り高き獣
「……なぜだ」
吸血鬼ラヴァルは困惑していた。早く返事を書け、と足元に止まったミミズクがラヴァルの足をつつく。しかし足元に散らばった膨大な数の封書の返事を書ききる頃には夜明けになっていることだろう。送り主はすべて同じであろうことは開けなくてもわかった。そして、その文面も。
「カミラ……」
一体何を考えているというのか。返事を書くのはこれでもう四度目だ。幾度となくやってくる晩餐会の誘いの手紙に、断りの文面がすっかり手が染みついてしまった。
なぜだ? 掟番であるラヴァルをそうまでして誘うからには何か意味があるのか。主催する晩餐会に掟番が来るということがそれほどまでに政治的に重要な事柄なのだろうか。ならば、他の掟番を当たればいいのに。カミラに誘われて何度も断り続ける吸血鬼などラヴァルくらいのものだろうに。カミラの意図がさっぱり解せないラヴァルはただただ溜め息をつくしかなかった。
「すまん、誰かいるか!?」
ラヴァルが頭を抱えていたそのとき、赤マントを纏った影が洞窟内に慌ただしく入ってくる。ラヴァルが今滞在している洞窟は掟番で共有されているものだった。掟番同士で鉢合わせになることは今に限らずよくあることであり、大規模な任務では待ち合わせや集会場として使われることもある。
「うおっ!? なんじゃこりゃ!?」
「ギルデンスターン、どうしたその傷は!?」
床一面の手紙に目を丸くした同朋はラヴァルのよく知る顔だった。掟番ギルデンスターン、無愛想なラヴァルに自分から話しかける気さくな男である。しかし今宵の彼はそのひょうきんさが影を潜めるほど傷を負っているようだった。
「ははは、男前が増しただろ……『狩り』でドジっちまってな」
「……ローゼンクランツか」
確か少し前、かの裏切り者ローゼンクランツ討伐の為に大規模な部隊が編成されていた。残念ながらその時負傷を負っていたラヴァルは参加できなかったが、オズリック、ハムレット、フォーティンブラスといった手練れの掟番が参加したその作戦は成功間違いなしと思われていた。……しかし、ギルデンスターンの様子を見るに。
「……失敗した、のか」
「まだ終わっちゃいない。生き残った連中が部隊を再編成して奴を追っている」
ギルデンスターンの口振りからすると、既に相当数の死者が出ているのだろう。そして敵を追うには深手を負いすぎたギルデンスターンは大事を取って任務から降ろされたに違いない。
「まあ、その、なんだ……残念だ」
「ああ……作戦は上首尾だった。上手く奴の隙を突いて、今度こそ息の根を止められるところだったんだ。なのに、あと一歩のところで邪魔が入った……!」
「邪魔?」
「カンタレラだ! あいつ、よりにもよって吸血鬼ハンターと組みやがった!」
「なんだと!?」
ラヴァルは驚愕した。いくら裏切り者として知られるローゼンクランツでも、吸血鬼である以上ハンターに追われる立場なのは変わらないはずだ。それがよりにもよってあのカンタレラと手を組んだというのか?
「あの薄汚い恥知らずめ、どんな手段を使ったかは知らないが上手く毒野郎を仲間にしたらしい。俺達が奴に釘付けになっている瞬間にカンタレラが奇襲をしかけてきて、マグダフがやられた……その混乱に乗じた
奴の攻勢で部隊は大打撃だ。……くそっ!」
悔しげに洞窟の壁を殴るギルデンスターン。しかしそれが傷に響いてしまったのか、呻き声をあげてその場にうずくまる。
「おい、大丈夫か!」
「へへ、大丈夫さ……あいつらにやられた傷に比べたら。……畜生、畜生……!」
気丈に笑おうとしたが、こらえきれなくなりうつむいて嗚咽を漏らし始めた。かけてやる言葉が思い浮かばず、ラヴァルは背中を撫でながらギルデンスターンを見守った。
(ローゼンクランツ。恥知らず、裏切り将軍)
会ったことはない。しかしその悪名は嫌というほど知っている。吸血鬼でありながらわざわざ人間に扮し、傷病を負った人間を助けて回っているという前代未聞の所業を行っているという。人間にこびへつらい、頭を下げてまでごく少量の血を恵んでもらうという乞食じみた行いをし、こともあろうにそれを他の同朋にも勧めるという気狂い。彼を知る吸血鬼の大半は彼の厚顔無恥ぶりを嫌っているだろう。
それでも、大厄から今宵までのうのうと生きていられるのは、彼が圧倒的に強いからに他ならない。暴虐者、赤竜のハイドや、貞淑、疾風怒濤のカミラと名を連ねているほどの規格外。今回の作戦で失敗したのなら、それこそ他の将軍達を招聘するしかないのではないだろうか? ハイドと一対一で戦い、見事に引き分けたという逸話を聞く限りそれすら不安になってくるが……。
「……すまん、今夜はここで休ませてくれ」
少しして、涙が引いたギルデンスターンの相談に「もちろんだ」と頷く。今の彼には休息が必要だろう。今夜中にここを発つ予定だったが、彼が落ち着くまでもう少し付き合ってあげた方がいいかもしれない。
「それにしても、この手紙の山はなんなんだ?」
と、ギルデンスターンが手紙の一つを拾い上げた。上手いごまかしを思いつかず、ラヴァルは正直に答える。
「晩餐会か、いいなあ! しかもあのカミラを間近で見られるんだろ? いいな、おれが行きたいくらいだ!」
「だったら、一緒に行くか?」
などと、柄にもなく冗談を飛ばしてみる。すると、「良いのか!?」と真に受け取ったように目を輝かされた。
「まあ……ふたり一緒でもいい、とカミラが了承してくれるならな」
まさか、いくらカミラでもそこまではしないだろう。そう高をくくって、次に送る返事の文面を考えるラヴァルだった。
◆
ローゼス――吸血鬼ローゼンクランツ。覚悟はしていたはずだが、やはりこうして目の前に堂々と現れると混乱する。ヤンはとっさに短刀《裏切》を腰から引き抜き、ローゼスに飛びかかった。
「殺す!」
「まあまあ、ちょっと落ち着いて」
確かに無防備に晒されている顔面を斬りつけたはずだった――しかしほんの一回の瞬きの後には、その声は背後から聴こえるようになっていた。勢い余って通り過ぎた? ……否、ヤンが斬りつけるより早くローゼスがヤンの背後に移動したのだ。
「!」
「んー、とっさの判断力は微妙だけど、瞬発力は見どころありってところかな?」
ローゼスの声は場違いにすら思えるほど能天気なものだった。だが――戦闘中に敵に背後を見せるとはどういうことなのか。その慢心は死によって償われる。ますます焦り、冷静さを欠いたヤンは前方に向かって飛び、どうにかローゼスから距離を置こうとする。しかしそんな浅はかな考えはとうに見透かされていたことを突如眼前に現れたローゼスによって思い知らされる。
「だから、ちょっと落ち着こうって。こんなところで切った張ったなんてやってたら近所迷惑だ」
「何をふざけたことを……!」
吸血鬼のくせに人間を慮っているような口を利く。ヤンにはそれが何よりも理解できなかった。ヤンの知る吸血鬼は、自分の都合の為に好き勝手に人間を弄ぶ生物である。それが人間に化けて、こともあろうに医者の真似事をするだなんて。
「まあ、ボクはいいんだけどさ。所詮根無し草の吸血鬼、別れるのも嫌われるのも慣れてるからね。けどキミはどうなんだい、そんな危なっかしいの振り回してるの、アニカちゃんに見られて大丈夫?」
「……!」
村に置いてきた宿屋の娘アニカ。ヤンの不気味な姿を怖がらずに接してくれるような優しい女の子をこんな血生臭い殺し合いに巻き込むわけにはいかない。一瞬の躊躇。それこそが身を滅ぼすのだった。
「……ホントに甘いねえ、キミ」
「が……ッ!」
鳩尾を突き穿つ衝撃――たった数秒ほどしか刃を交えていなくともわかる圧倒的な実力差。相手の本気は露ほども出されてはいないだろう、だのに体ごと意識を吹き飛ばすような威力のこの拳。あのハイドと同等、あるいはそれ以上の力を持つのではないか? 惨憺たる敗北の記憶が蘇る。
「言いたいことは山ほどあるんだろうけどね、ちょっと時間を考えようよ。もう夕方だよ? 夕方って言ったら――」
吹き飛ばされて倒れ込んだヤンにさらに伸びてくる腕。追撃か……死を覚悟しヤンは目をつぶる。しかしその手が掴んだのはヤンの命ではなく。
「――お家に帰ってご飯を食べる時間だぜ」
荷物のように肩に担ぎあげられたことに混乱するより早く、ヤンの意識は途切れた。
「ヤン、ヤンってばー。もう、いつまで寝てる気?」
ぺしぺしと頬を叩かれる。途切れた意識がよられた糸のように繋がった。
「……殺す!」
「えー!? 殺すって誰を!?」
聴こえてきた幼い声にはっとする。ベッドに寝かされたヤンをアニカが心配そうに覗き込んでいた。薔薇の甘い香りが鼻をくすぐる。
「もう、心配したんだからね! 先生は『お腹が空きすぎて気絶しちゃっただけ』って言うけどなかなか起きないし……それにあの後、一人でお花全部持って帰るの大変だったんだから!」
心配する必要がなくなったとわかった途端アニカは目を吊り上げる。先生……ローゼス! 意識を奪われるまでの記憶を思い出し、はっと飛び起きる。
「ローゼスは!?」
「ヤンを運ぶのに疲れたってお部屋で休んでる。『お礼は真夜中になってからね』だって」
挑発的な伝言に理性が沸騰しそうになる。あの場で殺せばいいものを、なぜこんな情けをかけるような真似を? 枕元に置いてあった裏切をひっつかみ、文字通りの押っ取り刀でローゼスの部屋に向かおうとするが、仁王立ちになったアニカに阻まれる。
「だーめ! 先生は疲れてるんだってば! それにヤンはやることがあるでしょ!?」
「…………?」
「もう! ご飯に決まってるじゃない!」
他に誤魔化しようはなかったのか、と通された食堂で慎ましやかな食事を頂きながら考える。自分は空腹で倒れそうなほど貧弱に見られているのだろうか。あんまりな認識に納得がいかず、しかめ面でスープの中でくたくたになったレタスを噛んでいると、その様子が哀れに見えたのか女主人が焼いた腸詰肉のおかわりを持ってきてくれた。
「昨日も行き倒れになっていたんでしょう? 本調子に戻るまで無茶はいけませんよ」
「ほら、ちゃんと食べて! また倒れたら大変なんだから!」
だから、違うのだが。……今から思えば、あのとき木々が雨のように降ってきたのもローゼスもとい吸血鬼ローゼンクランツの仕業だったのだろう。とすれば、どちらもローゼスのおかげで気絶したことになる。それをまるでヤンの過失のように言われるのは理不尽だ。
「ねえ、ちゃんと聞いてる? 反省してる!?」
「うぐっ……!」
肉を飲み込んでいたところを揺さぶられ、危うく喉に詰まらせそうになる。むせるヤンに気づいたアニカは慌ててその背中を叩いた。よくよくヤンの心配をする羽目になる少女である。
「あはは。駄目だよアニカちゃん、心配なのはわかるけどさ。ご飯くらいは安心してゆっくり食べれるようにしてあげなきゃ」
と、能天気な口調で現れるヤンを理不尽に陥れた元凶。すっかり日も暮れているからか、あの奇妙なマスクを外し素顔を晒している。
「先生! ちょうどいい、一緒にご飯食べよ!」
「ああごめん、さっき済ましちゃったところなんだ。ボクは気にせず、ゆっくり食べるといいよ」
などと飄々と呟き、素知らぬ顔でヤンの向かいに座るローゼス。一体どの面を下げて。握ったフォークを突き刺してやろうかと握り込むが、やはりそんな浅はかな考えでは見透かされてしまうのだ。
「ここで始める気かい? ボクは良いけど、カーヤさんやアニカちゃんに迷惑じゃない?」
「え? なんの話?」
「なんでもないさ。アニカちゃんは今夜も可愛いね。きっと将来はカーヤさんに似て別嬪さんになるよ」
「変なお世辞はよしてくださいよ、もう……」
女主人カーヤがアニカの頭を撫でながら眉を下げる。そうだ……体内に猛毒を持つヤンはまだしも、この二人はローゼスの正体を知らないただの人間なのだ。相当な使い手だろうローゼスとの戦闘に巻き込まれてしまったら……ヤンは力なくフォークを下ろした。
「……ごちそうさま」
「あれ? もういいの?」
空になった皿を女主人に下げ渡すヤンにアニカが不思議そうに首を傾げた。何回もおかわりをよそわれもうすっかりお腹いっぱいである。それでなくとも、宿敵であるはずの吸血鬼ににこやかに見守られながら食事をするのはあまりにも居心地が悪かった。
「さて、それじゃあボクは夜の散歩に出かけようかな」
と、ローゼスもそれに合わせたかのように立ち上がる。
「今からお散歩?」
「夜の回診がすっかり習慣になっちゃって、夜歩かないと落ち着かないのさ。花畑の様子も見ておきたいしね……ヤン君もどうだい? 月光に照らされた花畑もなかなかオツだよ?」
それが『さっきの続き』の誘いであろうことは容易に分かった。ヤンを何度も助けたり医者の真似事をしたり、一体この吸血鬼が何を考えているのかはまったくわからない。だが、吸血鬼なのだ。どんなに優しかろうと、何より強かろうと、それが吸血鬼であるならば殺す。たとえどんな事情があろうとだ。
「……行く」
「そうかい」
「えー、ヤンも?」
心配そうに頬を膨らませるアニカの頭を撫でてやる。どんな気まぐれであるにしろ、吸血鬼がこの優しい少女を殺さないでいてくれて良かった、と心から思った。
あと数夜もすれば満月になるだろう、大きく膨らんだ月に照らされる花々。花弁や葉についた水滴がその光を反射し、宝石を思わせる輝きを放つ。復讐に心を捧げたはずのヤンも、その光景には思わずその心すら奪われそうになる。
「それで、ボクは殺せそうかい?」
そんな中、不意を突くようなローゼスの言葉に心臓が跳ね上げられた。
「……殺す」
「いやいや、決意表明じゃなくてさ? 実際問題ボクを殺せるのかな、って話さ」
「………………」
既にヤンの理性は結論を出していた。今の自分にはローゼンクランツを殺せはしないと。
何本もの大木を雨のように投げ打つ怪力、目にも止まらぬ俊敏性。いくらカンタレラの毒が強かろうと、その毒を食らわせられなければなんの意味もない。毒の刃を当てるより先に首をへし折られるのがオチだ。
「……何が目的だ」
だから、そんな問いを絞り出すことしかできなかった。
「ん? どういう意味かな?」
「吸血鬼であるお前が、なぜ人間を助ける。……なぜ、俺を助けた」
「んー……」
一方のローゼスも、この問いには答えづらそうに頬をかいていた。しかし月に照らされた顔に隠し事やはかりごとの影は見つからない。
「ボクはこの通り、『恥知らず』の『裏切り者』だからねえ。人間を助けないことの方が、ボクにとっては異常なんだけど」
だが、それこそが吸血鬼の正常であるはずだ。その『正常』を是としない、この男は何者だ。
「……生まれつき変な奴だったのさ。他の奴が当たり前にできることがどうしてもできない。キミ、肉の解体はしたことある? 鳥とか豚とか、ジビエとかのさ」
かつてヤンに妹がいた頃、身寄りなく貧しく幼い二人が肉を得るには、他の村人に物乞いするか自分で狩りに行くしかなかった。当然、焼いて食えるまでの加工も自分達で行わなければならない。皮を剥いだり血を抜いたりといった作業は幼いヤンには肉体的にも精神的にも過酷であったが、しかしそうしなければ腹は膨れないのだ。
「そうだね。人間が食べるには他の動物を殺さなければならない。鳥も魚も他の肉食の奴等も、みんな他の生き物を殺して食べて生きている。そればっかりは変えようがない、神様が決めた絶対の決まり事さ。……でも、吸血鬼はどうなのかな?」
「どういう、意味だ」
「ボクはずっと考えてたんだ。吸血鬼は本当に人間を殺さなければ生きてけないのかってね。吸血鬼はそりゃ人間の骨や肉も食べたりするけど、血さえ飲んでりゃ他はいらないんだ。で、ここからが問題。ヤン君、人間が一体どのくらい血を失ったら死ぬか知ってる?」
「……全量の半分から、三分の一。百三十ポンドの人間なら五ポンドから三ポンド程度だ」
学無きヤンが覚えている数少ない計算式の一つである。魔女モルガーナとの取引の際、耳にたこができるほどに教え込まれた。いくら魔女の加護があれど、死んでしまえば復讐を完遂するのは不可能である。
「正解。ついでに言うと、吸血鬼が一日に必要な食事量も思われてるほど多くはないんだ。肉食獣の習性で『食い溜め』してるだけで、毎日欠かさず飲んでるなら一日あたり精々一半ポンドもあれば充分なんじゃないかな? 実際、それでボクもなんとかなってるしね」
「何が言いたい……」
「わざわざいちいち誰かを食い殺さなくとも、毎日違う誰かから少しずつもらえば生きていける。だったら殺す必要なんてないだろ? 本来、吸血鬼はこの地上で唯一の不殺の獣になれる。だからボクはそれを選んだ、それだけの話さ」
確かに、それは理想的であるように思えた。人間であってもそうだろう、もし牛や豚を殺さずに肉を少しずつ食べられるような方法があるのなら、きっとその手段を選ぶに違いない。……だが、今現在の吸血鬼がその方法を取っていないということは。
「そうだね。仲間にこの話をしたら決まって笑われたり馬鹿にされるんだ。そんなに殺しが嫌なら雑草でも食べてろ、この人間かぶれってね。……吸血鬼は人間を食べる生き物だ。万物の霊長の更に上に立つ誇り高き肉食獣だ。自分からそのありようを否定するのはただの恥知らず、同朋を侮辱する恥さらしってわけさ」
「………………」
「ボクが追われてるとこ見たでしょ? あれは掟番、裏切り者の吸血鬼を始末する部隊さ。追われるのは慣れっこだけど、あのときはちょっとやばかったね。完璧に不意を突かれたし、危うく裏切り者じゃあない仲間まで巻き込むところだった」
だから、凄く感謝してるんだよ? 勘違いとはいえ、助けてくれたこと。ローゼスの言葉にヤンはなんとも言い難く、閉口した。
「だからまあ、そんな感じなんだよね。ボクは人間をなるべく殺さずに生きていきたい。お医者さんしてるのは平和的に血を貰う為。キミを助けたのは助けてくれた恩返し。そんなところで納得してくれる?」
「………………」
「無理にでもしてくれ、とは言わないけどね」
ローゼスは肩をすくめてヤンの返答を待った。普段のヤンならばローゼスの言葉はすべてこちらを欺く為の嘘八百だと決めつけただろう。しかしローゼスはヤンとは比べ物にならないほど強い。自分の食料にもならない猛毒を妙な嘘をついてまで生かすだろうか? 同族から追われ、殺されそうになってまで人間の味方になるものだろうか。ヤンにはまるでわからない。わかるのは、ローゼスのおかげでこの村の人々が助けられているということだけだ。
……だが。ヤンの思考に暗い陰が落ちる。今まで何度も目の当たりにした吸血鬼の暴虐。吸血鬼は人間を騙し、弄び、殺して啜り食らう邪悪な生き物だ。ヤン自身、そんな吸血鬼達のひとときの楽しみの為にすべてを奪われ、めちゃくちゃにされたのだ。ローゼスが人間には善良無害な『例外』であろうと、目の前の吸血鬼を見逃していいのか。吸血鬼は皆殺しにすると決めたのではなかったか。理屈では説明しがたい感情がヤンの冷静な思考を責めたてた。お前は誓いを破る気か、と。
だが……どうだ。道理も無理も黙らせて考えを進める。もし奴を例外なく殺すとして、自分は奴に勝てるのか。感情がどうであろうと、実力はそれに伴えるのか。ぐるぐると巡る思考は、最終的に最初の地点に戻ってきてしまうのだ。
「まあ、無理だろうね」
と、沈黙したヤンの代わりにローゼスが結論を出した。
「カンタレラ。キミのことも、キミの中に流れる猛毒も、今じゃ吸血鬼には知らぬものなしだ。恐ろしい話だよ、コスタード、ペリゴール、アーシュラ……歴戦の猛者達を一撃で殺す反則級の武器。でも、さすがに暴虐者ハイドを殺すには至らなかった」
ヤンは目を丸くする。ハイドと交戦したことまで知られているのか。耳が早い知り合いがいてね、とローゼス。
「ハイドは強いよねえ……他の吸血鬼達と一線を画す肉体変化能力・再生能力。動物植物の類に変身する奴はいくらでもいるけど、あんなに硬くて速くて強い生物になれるのはハイドくらいさ。攻撃を受け付けない鱗をようやっと剥がして一撃食らわせたと思えば、次の瞬間にはもう傷が塞がっている。できれば二度と戦いたくないねえ」
見てきたかのように語る。……いや、実際に見て、戦ったのだ。
「まあでも、凄いとは思うよ? あのハイドに真っ向から戦いを挑んで五体満足で逃げ延びるなんて早々できるもんじゃないさ。けど……『勝ち』を狙うのは到底不可能だ。ボクを倒せないなら、尚更ね」
「………………」
そんなことはわかっている。今のヤンはハイドもローゼスも到底手が届かないくらいに弱い。あまりにも弱すぎる。
だが。
「……殺す。絶対に、殺す」
「んー……」
巨大な壁に阻まれてなお答えを変えようとしないヤンに、ローゼスは再び困ったように頬をかいた。
「期待はしてなかったけど、諦めちゃくれないか……甘くて不器用で要領が悪くて頑固。参ったねえ」
諦める? 一体何を諦めさせようというのだ。……まさか。
「これを機に、キミには吸血鬼退治から身を引いてほしいんだよね」
ローゼスが口にしたのは絶対にありえない選択肢だった。
「ふざけるなッ!」
「大真面目に言ってるんだけどな。ふざけてるのはキミの方さ」
反射的に怒鳴るが、しかしローゼスの厳しい視線に逆に黙らされてしまう。
「キミは足りなさすぎるんだ。カンタレラのアドバンテージがあろうと埋めきれないくらい圧倒的にマイナスがある。実力は未熟、けれど鍛えたところで果たして実になるかどうか。多分限界値まで鍛えてもハイドに勝つのは難しいだろうねえ」
だけど、それよりも。葡萄酒色の瞳がヤンを見つめる。
「キミ、根本的に向いてないんだよ。殺しの才能って奴がない。キミは本来、何かを殺せる人間じゃないんだ」
「殺しの……才能だと」
「戦闘適正っていってもいいかな。例えば、最初にボクを助けてくれたときなんか、一番わかりやすく駄目だった。いくら倒すべき敵がうようよいて、助けるべき人間がいるからって、たった一人で無策に突っ込むだなんて普通はしない。はっきり言って信じられないくらい馬鹿」
……否定は、できない。実際にそれで殺されかけているのだ。
「ざっくり結論を言っちゃおう。キミ、お人好しすぎ。なんでやってるのか知らないけど、思わず他人を助けちゃおうとしちゃおうとする奴がこの先殺しなんてやってける? ハイドに辿り着くまでにどこかで野垂れ死ぬのがオチだよ」
「………………」
「さて、ここから先は吸血鬼ローゼンクランツじゃなく、頼れる旅のお医者さんローゼス先生としての意見を言おう。ヤン君、吸血鬼ハンターをやめなさい。体内のカンタレラの猛毒、自分の命を顧みない戦い方。医者としてキミの不健康の原因は見過ごしてはおけない。身の丈に合わないことはすぐにやめて、健康的で平和的な生活を送るべきだよ」
それは忠告というよりは宣告だった。否定させる気は微塵もなく、なんとしてもそうさせようとする恐ろしいまでに強固な意志があった。
「……嫌だ」
「だろうねえ。うん、本当ならここで退くべきなんだろう。キミは吸血鬼殺しのカンタレラ、吸血鬼であるボクがあれこれ言ってあげること自体が間違ってる……けど、ね。なんだかほっとけないんだよなあ……」
ローゼスは花畑の薔薇の一株に近づき、花弁を一枚千切って口に含んだ。そして「じゃあ、こうしようか」と呟いた。
「どうしても吸血鬼を殺したいっていうのなら、まずボクを殺してごらん。三日間猶予をあげるから、その間にボクを殺すんだ」
「な……」
何を言っている? いくらローゼスの強さが規格外だとしても、自分の命を取引に使うというのか。
「それでできなかったなら、キミには吸血鬼殺しをする適格はない。ボクは全力でキミを『吸血鬼を殺せない体』にしてあげる。キミの体からその猛毒を丸っと抜き取って、元の人間に戻してあげよう。復讐なんてすべくもない、幸せになる以外ありえない体にね」
人を食った笑みで吸血鬼は言った。
吸血鬼大全 Vol.119 頑健なギルデンスターン
掟番に所属する吸血鬼。掟番には珍しく気さくでひょうきんな性格。
得意な異能はなく、いわゆる『無特異型』――吸血鬼の持つ異能をほとんど使えないタイプの吸血鬼である。通常、このタイプの吸血鬼はハンター達の格好の的となってほとんど生き残ることができないのだが、彼は一心不乱に自分の肉体を鍛え上げ、その実力を他の戦士達と遜色ないまでに引き上げた。
かつてはローゼンクランツと盟友と呼べる関係にあったが、ローゼンクランツの思想を知り泣く泣く彼を告発。吸血鬼としてあってはならない生き方をしようとしている彼を止める為、自ら掟番に志願した。