第十一話 奇妙な旅人たち
いくら宴に招かれた立場の客人といえど、件の日までただ待ち惚けをしているわけにはいかない。それは人ならぬ吸血鬼であっても変わらない。正式に非礼を詫び、参加を表明した手紙を送った次の夜からバートリー一家は毎夜慌ただしく準備に明け暮れていた。
「バートリー、わたし新しいドレスが欲しい!」
「この間新しいのを仕立てたばかりじゃないか……」
「だって、特別な晩餐会なんでしょう? バートリーだってそんな古臭い上着じゃ笑われちゃうわ!」
「え!? そ、そうかなあ……」
エルジエの言葉に慌てて今着ている服を見直すバートリー。お気に入りでセンスも良いと思っていたのだが。サンジェルマンも褒めてくれていた。
「ちゃんと仕立て屋さんの手配もしなきゃ駄目だよ!」
「あ、ああ。それと、馬車も用意しなくちゃいけないな」
「馬車? 馬だけじゃ駄目なの?」
また馬に乗せてもらえると思ってわくわくしていたエルジエはきょとんと聞き返した。
「会場は遠いからね。ずっと馬に跨っていたら疲れてしまうし、万が一の為に雨や陽を避けられるようにした方がいいんだ。馬車に乗るのは嫌かい?」
「ううん、ずっと乗ってみたかったの! 素敵な馬車を頼んでね、ガラスとか、かぼちゃとか!」
「それはちょっと難しいかな……」
あるいはカミラほどの吸血鬼ならどうにか作れるかもしれないが、ヒビが入ったり割れたりしそうな馬車や腐ったりネズミや虫が食い荒らしそうな馬車にはあまり乗りたくはない。
「ううん、あとは……一応カミラにお詫びの品を持って行った方がいいかな……?」
羊皮紙の切れ端に書いたリストとにらめっこしていると、門扉のドアノッカーが打ちつけられる音がした。
「またお客さん? 最近多いね……」
「見てくるよ。ここで待っててくれ」
頬を膨らませるエルジエをなだめるように手を振り、一人玄関へ向かう。確かにここ最近は妙に来客が多くなった、とまだ自我もはっきりしていなかったエルジエを連れてこの古砦へ越してきた頃を思い出す。
「バートリーの旦那!」
と、開けた門から飛び込んできたのはシャイロックだった。その焦った様子ももちろんだが、驚いたのはその格好である。何しろ傷だらけ、服も血まみれ泥だらけ。明らかに只事ではない。
「ど、どうしたんだ? 大丈夫かい?」
「とにかく入れてください。お話はその後で……」
しきりに後ろを気にしながら懇願するシャイロックを締め出せるほどバートリーも無情ではない。しかし直後にしたエルジエの声にどきりとする。
「バートリー、誰?」
「すぐ終わるからもう少し待っててくれ!」
少々ぞんざいな返答をしつつシャイロックを客間に通す。幸いにもエルジエが言いつけを破って部屋から出てくることはなかった。
「お久しぶりですねえ、旦那。突然押しかけて本当に申し訳ありません」
「構わないさ。それより……息災で何より、とは言えないその格好は一体どうしたんだい?」
バートリーの指摘にシャイロックは恥ずかしげに頬をかいた。
「実は……掟番とひと悶着ありまして」
「なんだって!?」
三百年前の《大厄》を機に編成された吸血鬼達の懲罰組織『掟番』。同じく大厄後に正式に定められた掟を守る為、掟を破った者を罰する重要な役職だが、重大な掟破りを犯した者を戒めとして殺すこともある為、同朋殺しを嫌う大半の吸血鬼には快く思われていない。だが、彼らが何の罪もない同朋を殺すことは決してないし、シャイロックのように善良な吸血鬼が掟番に囲まれるなんて普通はありえないはずだ。
「ローゼンクランツの旦那とちょっとした取引してるところを運悪く見つかっちまったんでさあ。なんとか顔は見られずに済んだんですが……」
「ローゼンクランツって……あの《恥知らず》の?」
普段ほとんど他者との交流を持たないバートリーでも知っている名前である。何しろ将軍とまで呼ばれる大厄戦争における功労者でありながら、その後誰よりも掟を破って掟番からの逃亡を続けているという前代未聞の吸血鬼なのだ。裏切り者、恥知らず、吸血鬼の面汚し。悪評が広まりすぎてどれが本当の『名』なのかすらわからなくなる有様。掟番達の目下最大の敵である。会ったこともないバートリーも、カミラやハイドと名を並べる強者でありながら掟番より嫌われていると聞けばその異常性がよくわかった。
「どうしてそんな危ないことをしたんだ……うっかり殺されたらどうする?」
「あたしも大変なんでさあ。近頃はめっきり依頼が減っちまってろくな仕事がないんです」
なんでか最近は全然お話もしてくれなくなったお方もいますしねえ、と半目で見られればバートリーも肩をすくめるしかない。まさか保身の為に避けているなどと面と向かって言えるわけでもなし。
「血袋を変に可愛がろうとするところに目をつぶれば、あれでローゼンクランツの旦那もそう悪いお方じゃねえんですがねえ……本当に、何を思って『人間贔屓』なんてやってるんだか」
「あ、ああ……そうだな」
何の気なしに言ったであろうシャイロックの言葉が突き刺さる。食料に対して変にあれこれ感情を抱くのは異常者なのだ。幸いそんなバートリーの微妙な表情の変化には気づかず、シャイロックは「ところで」と話題を変えた。
「せっかくですし、何か引き取れそうなものはありませんかい? 本やらなんやら、溜まってるんじゃねえですか?」
「そういえば……」
シャイロックはバートリーの趣味が執筆であることをよく知っていた。交流を断つ前はシャイロックこそがバートリーの著作を世に送り出していたのだ。思った通り、バートリーは書斎からおよそ五、六冊分にはなろうかという羊皮紙束を抱えてきた。
「こりゃまた随分溜め込みましたねえ……」
「そうかな? 最近はエル……同居者との時間があるから、あまり書けてないのだけれど」
それでも暇なときはついつい机に向かってしまうのだという。大した好事家ぶりだ、と思いながらいくつか内容を読んでみる。
――吸血鬼の食生活。もちろん吸血鬼の主食と言えば人間の血肉であり、他の動物の肉や植物性の食物は毒となりうる場合が大半だが、薔薇やその近縁種など一部の植物の花弁は例外的に摂取することが可能である。人間の血液程の養分を摂れるわけではないが、吸血鬼ハンターに追い詰められ衰弱した吸血鬼が薔薇の花弁を食べて三夜生き延びたという逸話が伝えられている。父祖ブラムがその死の際落とした血で染まった白薔薇が赤薔薇になった、またはブラムが聖処女テレーゼの血を白薔薇に撒き散らして赤薔薇ができた、という伝承があるが、その関連性は不明である……。
「ははあ、お得意の『学術書』ってやつですかい」
「小説よりはこういう方向が好きなんだ……知っていることを論理立てて書けばいいからね」
まるで簡単なことのように言う。シャイロックには自慢できるほどの学があるわけではないが、バートリーの著作が(かなり物好きな)道楽貴族にどれほどの値で売れるか見ていれば、彼の言葉ほど容易いものではないとわかる。
(謙遜というよりは、最早宝の持ち腐れってところだな……)
彼の才能を使って一儲けする方法を百程思いついたシャイロックだが、彼との友情の為に心の中にしまっておくことにした。
「……うん。これだけありゃあ当分食うに困らねえ分になるでしょうね」
「ううん……食べるには今のところ困ってはいないけれど……」
「じゃあ、何か入用は? 同居者のお嬢さん、おべべとか欲しがるんじゃないですかい?」
抜け目なきシャイロックにエルジエの声を聴かれていたことに内心冷や汗をかきつつも、そういえばとつい先程どうしようと頭を悩ませていた問題を思い出した。
「ちょうど礼服を新調しようか悩んでいたところなんだ。あと、馬車も」
「お、例の晩餐会ですか?」
「知ってるのかい?」
「招待状も届いたのに知らんふりは出来んでしょうが」
まさか最悪の事態が? それこそ全身から血の気が引くような感覚に襲われるが、話を聞くとどうやら参加する気はないらしかった。
「賎しい商人がカミラ姫のご相伴に預かるなんて畏れ多すぎまさあ」
「そ、そうか……」
「とにかく、馬車とおべべですね? 旦那の寸法はお変わりないでしょうし……お嬢さんの寸法を確認させてもらえますかい?」
「あ、ああ! やっぱり服はいいよ!」
服なら他でも調達のあてはあるのだし、下手なことをしてエルジエの正体を見破られてはたまらない。さすがにバートリーの様子にシャイロックも不審そうに眉をひそめた。
「旦那……風邪でもひきましたかい」
「大丈夫だよ、とにかく馬車だけ頼む! ガラスでもかぼちゃでもなんでもいいから!」
「そういうのはちょっと難しいと思いますがね……」
これ以上居させたらボロを出してしまいそうだ。もうかなり経ったし、掟番の追っ手も諦めているだろう。バートリーはなんやかやと言い訳を並べシャイロックを玄関まで追い立てる。
「まあ、こんな格好でお邪魔したのはすみませんでした。馬車の件はまた夜を改めてお伺いします」
「ああ……本当に」
できることならもう来ないでほしいなあ、と冷やしに冷やした肝を抑えてバートリーは友を見送った。
◆
夜闇と同じ色をした土を踏みしめ、歩く。崩れた土塊から立ち上る湿ってすえた臭いに顔をしかめるのももう何度目だろう。街の姿は未だ見えない。
ハイドと戦い、ロムルスと別れを告げてから数日。ヤンはあてもなく歩みを進める日々を過ごしていた。なんのことはない、今まで通りに吸血鬼を探して殺す日々に戻ればいいのだ。しかし、胸の奥に堕ちた鉛めいた何かがことごとくヤンの行動を邪魔をした。ヤン十七歳、初めての無気力症候群だった。
そろそろ陽が落ちてだいぶ経つが、未だ街には辿り着かない。諦めてどこか、野宿できそうな場所を探そうか。小さい溜め息をつき、なんとなく手をポケットに突っ込む。指先に触れた硬い感触。ヤンの眉間に刻まれたしわが増えた。
「…………ん」
適当な木陰に腰を下ろしかけたとき、妙な物音が聴こえた気がした。ヤンには既に聞きなれた音――人がもみ合い、争う音だ。
「……野盗、か?」
気配を消しながら音の出どころに近づき、そう判断した。しかし嫌な光景だ、こんな風に一人の人間を大勢で囲み襲うなど……出来るなら襲われている方を助けたかったが、しかし敵の数が多すぎる。十……いや、遠方にも二、三人?
「………………」
人間にはカンタレラの毒は通じない。あの強力な吸血鬼達を文字通り一撃で仕留める力を持つはずの猛毒が、人間に対してはどうしてか精々濁った水程度の威力にしかならない。もちろん、それでも傷を膿ませるくらいにはなるだろうが……十余人程の敵を相手取るにはあまりにも頼りない。
(……たとえ、できたとしても)
たとえ殺すべき人間であっても、『吸血鬼ではない』者を殺すのはどうにも気が引ける。どうせ襲われている彼あるいは彼女を助けに行っても思い通りの成果を挙げることはできない。余計な傷を負わないよう、見なかったことにして立ち去るのがこの場における最善ではないのか、と至極賢明な判断をしかけていた、その最中。
「……!」
野盗とおぼしき男の一人の顔が偶然こちらを向いた。その顔に浮かび上がる、奇妙に光る紋様めいた血管――! 間違いない、松明の影などでは断じてあり得ない! あれこそ吸血鬼の証、血紋ではないか! となるとあれは野盗ではなく、吸血鬼の群れ? 人間が吸血鬼達に襲われている――!
「――殺す!」
妖刀《裏切》を抜き、左腕を切り裂いて刃にその血を塗りこめるまでに二秒。暗殺者と化した復讐鬼は息を殺したまま直近の敵まで跳躍し、背後からその首めがけて刃を振り下ろした!
「ぐあッ!?」
「どうしたッ!? 奴の仲間か!?」
「いや待て、この匂い……!」
予想外の奇襲に動揺する吸血鬼達だったが、その正体はすぐに看破されてしまった。吸血鬼を滅ぼす甘美な死の誘惑。
「カンタレラ……!?」
「……不愉快だな。名乗る前に名を呼ばれるのは」
軽口を叩きつつ、どうしたものかと状況を確認する。奇襲のおかげで敵を一体減らすことには成功したが、それでもまだ十体以上残っている。復讐どころではない、本来なら何がなんでも離脱、撤退、逃亡を考えるべき戦力差だ。襲われていた人物はどうなったろう? 確認する限りでは見当たらない……混乱時に上手く逃げおおせたのだろうか。
「隊長! ローゼンクランツの姿が!」
「抜け目のない奴め……ポロニウス、オズリック、奴を追え! 他は俺と共にカンタレラ討伐に当たれ!」
「はっ!」
彼らはどうやら隊を組んでいるらしい。揃いの赤マントはどこか見覚えがあるような気がした。しかし完全に包囲されてしまった。このまま一斉にかかってこられればヤンに勝ち目はない。カンタレラの実力を図りかね、敵も不用意に動けずにいる今のうちになんとかするしかないのだが……。
「カンタレラ……あのコスタードを屠って調子に乗ったか、わざわざ多勢に飛び込んでくるとはな。当然、その実力を存分に発揮してくれるのだろうな?」
隊長格らしい吸血鬼が挑発的に言いながら剣を構える。わずかな仕草からでも相当な手練れであることが窺えた。ヤンは焦りを表情の下に隠し憎まれ口で返す。
「群れていないとろくろく夜道も歩けない臆病者どもめ。そのマントは卑怯者の為の目印か? あの誇り高いコスタードが見れば情けなさに悲嘆するだろうな」
「貴様ッ!」
挑発に反応したのは隊長格ではなくそのそばに控えていた吸血鬼だった。「よせ!」という隊長格の制止も聞かず、剣を振り上げヤンへと迫ってくる。
「くっ――!」
怒りによって放たれた一撃はあまりにも大振りで避けるのは容易だった。しかし問題はここからだ。ひとりが動いたことにより他の吸血鬼達も動きだしてしまった。各々武器を構え直し、息の合った動きでヤンへと襲い掛かる――!
「死ね、毒野郎!」
「……!」
吸血鬼のひとりの剣がヤンの胸をかすめる。後方の吸血鬼を警戒する必要がなければ無傷で避けることができたかもしれないが……不利、あまりにも不利。せめて武器がもう一つあれば違ったかもしれないな、と裏切を握りしめながらかつての敵の得物を思う。コスタードの手斧、《逆賊》もとい《露払い》はハイドの戦いの際に奪われてしまった。たられば論の見苦しい言い訳だが、しかしやはり短刀一本で十数人の敵を相手取るのは土台無理があった。
「……殺す!」
だが、不利であろうと無理であろうと、吸血鬼が敵である以上撤退も逃亡も、ましてや敗北などという選択肢を取るヤンではない。肩に剣を振り下ろしてきた吸血鬼に、その一撃を避けないまま猛毒の刃で斬りつける。吸血鬼とヤン、ふたり分の悲鳴が上がる。
「んー、なんていうか。要領悪いね? キミってさ」
戦いの最中、怒号と悲鳴の間を縫うようにそんな声が聴こえた。敵の声にしてはいやに能天気で、妙に癇に障る声だった。あまりに唐突で突拍子もないその声は、聴き間違いでなければ上から聴こえてきたような気がする。……上? ヤンは《声》を探して上を見上げ、そのまま目を見開いた。
「なッ……!?」
その絶句がヤン自身の物か吸血鬼の物だったかも定かではなかった。あまりに非現実的な脅威に襲われると防衛本能すら働かなくなるらしい。ヤンも、赤マントの吸血鬼達もあんぐりと口を開けてその光景を見上げた――巨木の大群がさながら雨のようにこちらに降り注ごうとしているのを。
「でもまあ、好きだよ。そういうの!」
「――総員、退避ッ!」
隊長格の命令を聞くことはできなかった。何しろ走り出そうとしたその目と鼻の先に落下した大木が地面に突き刺さったのだ。轟音、衝撃、そして――すぐそばまで迫りヤンを押しつぶさんとする巨木。ヤンの意識はそこで途切れた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんってば」
幼い声とともにぺしぺしと頬をはたかれる。どこか懐かしい感覚だが、知らない声だった。
「いいかげん起きなよ。もう朝なのにー」
「……グレーテ?」
薄目を開け、窓から差し込む陽光に目をかすませながら見た茶色の髪。しかしその長さは記憶の物よりだいぶ短い。目をこすってよくよく見てみればその少女はまったくの別人だった。
「あたしの名前、アニカだよ?」
「ここ、は」
数日ぶりのふかふかなベッド。あとは精々小さなテーブルが置かれただけの小さな部屋。宿屋だろうか? 見覚えのない部屋にヤンはふっつり途絶えた記憶の糸を辿る。覚えているのは吸血鬼達に襲われていた人を助けようと吸血鬼達に戦いを挑み、案の定苦戦していたところに突如降ってきた巨木の雨……それがどうして宿屋で眠っているところに辿り着くのか、ヤンには皆目見当がつかなかった。
「俺は、どうして」
「お兄ちゃん、なんにも覚えてないの?」
と、アニカと名乗った少女――十つ前後といったところか――はヤンの顔を覗き込む。そも、当たり前のようにヤンを起こしに来たこの少女は何者なのだろうか?
「倒れているところを《先生》が助けてくれたんだよ。それでうちまで運んできてくれたの。お兄ちゃん、ちゃんと先生にお礼言わなきゃ駄目だよ」
「先生……?」
「アニカ! お客さんにちょっかいをかけるなって言ってるじゃないか!」
ますますわけがわからず首を傾げていると、アニカに似た顔立ちの中年の女性が入ってくる。服装を見るに、この宿屋の主人らしい。するとアニカは彼女の娘だろうか。
「すみませんねえ、旅の方。お体に障りませんでしたか? 何かありましたら《先生》をお呼びしますので……」
「いたっ」
女主人は黒い肌を持つヤンに若干怯えた風にしながらもいたわりつつ、アニカを連れ戻してその頭にげんこつをくらわせた。
「先生、とは」
「お母さん、このお兄ちゃんなんにも覚えてないみたいなの」
「あらまあ……」
余程怖い目に遭ったんでしょうねえ、と女主人はヤンがここに運び込まれたいきさつを語ってくれた。道で倒れているのを見つけた《先生》――この村を定期的に訊ねてくる旅医者の先生が哀れに思って一番近いところにあったこの村へ運んできたのだという。アニカや女主人の口振りから見るに、その先生とやらは大変に信頼を受けているらしい。
「先生はすごいんだよ! どんな傷も病気もあっという間に治しちゃうの!」
「こんなへんぴな村に何度も来てくれて、しかもお代もなしに診てくださる、神の使いのようなお方ですよ」
「神……」
確かに、こんな怪しい風体の旅人をわざわざ拾ってくれるなんて並大抵のことではない。礼の一つも言わなければ罰が当たってしまうだろう。
「その先生は、どこに?」
礼がしたい、と身支度をしながら伝えると、案内役を買って出たのはアニカだった。
「こら、アニカ!」
「だって、お母さんはお仕事があるでしょ!? 先生の為だもん、ちゃんと良い子にするもん!」
「場所を教えてくれれば、一人で……」
「ほら行こう、お兄ちゃん!」
母親の言葉も聞かず、やっと身支度を終えたばかりのヤンの腕を引っ張り宿屋から飛び出すアニカ。どうしてこんなおてんばな子を妹と見間違えてしまったのか、自分でも不思議で仕方がないヤンだった。
「ねえ、お兄ちゃん」
「……ヤン、でいい」
周りの目を気にし、肌が見えないようフードを目深に被り直す。アニカがヤンの肌を怖がらないのはまだ何も知らない子供だからなのだ、と自分に言い聞かせながら。
「ヤンの顔はどうしてそんなに黒いの? 病気なの?」
だからアニカにそんな質問をされたときはまるで心中を見透かされたような気分だった。
「病気なら先生に相談しなよ。きっと治してもらえるよ?」
「……いや。病気じゃ、ない」
少し迷い、適当に誤魔化すことにした。
「……俺が悪い奴だから、黒くなったんだ」
「ふうん……」
アニカは不思議そうにフードで隠れたヤンの顔を見上げた。
「でも、ヤンは悪い人には見えないよ? 悪い人だったら先生が助けるはずないもん」
「人は、見かけじゃわからない」
「うーん……でも、お母さん言ってたよ? 本当に悪い人は自分のこと悪いだなんてまったく思ってないんだって」
「……?」
どういう意味か、とアニカの顔を見ると、アニカ自身も言葉の意味をよく分かってない風にとぼけた顔をしていた。
「本当に悪い人は、自分のことを良い人だって思ってて、悪い人だなんて全然思ってもいないんだって。ヤンは自分のこと、悪い人だって思ってるんでしょ? じゃあ、本当は良い人なんじゃないかなあ」
「………………」
「あ、先生だ! おーい!」
と、民家の一つに向かって手を振るアニカ。《先生》はこの村に来ると、歩けない老人や病人の為に宿屋で休むより先に村中の家を回診して回るのだそうだ。となると、民家の前に立つ彼が《先生》なのだろうか。
「ああ、アニカちゃん。どうしたんだい?」
「…………」
しかし、アニカに向かって(おそらく)にこやかに手を振る彼の姿を見たヤンは思わず言葉を失った。その風体は今までヤンが見た中で一番と言っていいほど怪しく奇妙であった。
首から足首まで全身をすっぽり覆う黒のローブ。洒落たつばつきの帽子に呪術師めいた杖と大きな鞄。何よりも目を引くのは顔を隠している奇妙な仮面だ。鳥のくちばしを思わせる大きな突起が鼻口の部分にある怪物のような造作――ご丁寧にも目の部分には黒色のガラスがはめ込まれており、男の顔はまったくうかがい知ることができない。一言で言えばカラスの化け物、といった風貌だった。
「…………?」
「ああキミは……もう動けるようになったんだね、良かった」
自分以上に目を引く姿の人物を前に二の句どころか一の句すら告げられないヤンにカラス男、もとい《先生》が優しく話しかける。夜道で出会ったら腰を抜かしてしまいそうな外見だったが、よく懐いているらしいアニカは当たり前のように《先生》にじゃれついた。
「ヤンって言うんだって! 助けてくれたお礼がしたいんだって!」
「ふうん……でも、ちょっと待ってくれないかな? あともう少しで回診が終わるからね」
と、民家の扉をノックする。出てきた住人は「先生!」と嬉しそうに彼を迎え入れた。
「……彼は、一体」
《先生》が住人の一人に治療を施すところを見学させてもらいながら、ヤンはようやく口を開いた。住人は下痢をしているらしく、瀉血を施してもらっている。体の中のよどんだ悪い血を排出させることで体内の有害物を取り除く、という治療法らしい。万が一ヤンが受けてしまったらそれこそ命にかかわりかねないが、普通の人間であれば万病に効く、と信じられているという。
「先生だよ?」
「いや、あの格好は……」
「色んな所を旅してるから、病気をうつされないように、だって。『お医者さんが病気になったりあちこち病気をばら撒いたら大変でしょ?』って」
それにしたって異様すぎる。あんな怪しい格好でよくもこんなに村人達の信頼を得られたものだ。誰も彼も《先生》の姿を見たら嬉しそうに笑って駆け寄り、自分の畑の野菜だ今朝鶏が産んだ卵だを渡そうとしてくる。しかし《先生》はそんなもの貰ってはかえって悪いから、とそれらを頑として受け取らなかった。
「やあ、待たせてごめんね。それでえーっと、キミは確か……」
「……ヤン」
「そう、ヤン君」
陽が真上からすこし落ちかけたあたりでようやく回診が終わり、三人は村のはずれの木陰で休憩する。
「助けてくれたお礼がしたいんだって言ってるよ!」
「そっか。んー、でもさ、お礼をするべきなのはボクの方なんだよねえ」
と、《先生》はわけのわからないことを言う。
「どういうことだ」
「あ、もしかして覚えてないかな? ほらキミさ、ボクを助けてくれたじゃない。赤マントの奴らに襲われてたのを……」
言われて思い出す。あの時襲われていた人は、ちょうど彼と同じ黒い服を着ていたような……。
「助けてくれてありがとね。ボクの命に比べたら、キミをここまで運ぶくらい安すぎると思うけど、どうかな?」
《先生》はそう言って、ウインクした――ような仕草を見せた。理屈ではそうなるのかもしれないが……しかしどうしても納得がいかない。何か引っかかるようなものも感じる。
「……あんた……」
「ローゼス。先生って呼ばれるの、ボクもちょっと苦手なんだよね」
「……ローゼス」
何か手伝える仕事はないか、と訊きかけ、ついさっき仕事を終わらせていたことを思い出す。どうしたものか、と所在なく口を開閉しているとアニカが手を挙げた。
「あたしもお礼したい! 前に風邪を治してもらったときの!」
「アニカちゃんもかい? んー、困ったなー……」
《先生》改めローゼスは悩んだようにマスク越しに頬をかき、少しして手を打った。
「……じゃあ、お花を摘んでもらおうかな?」
もちろんこの場合の花摘みとはいわゆる用足しの隠語ではなく、村はずれにある花畑で花を摘んでほしい、という頼みだった。
「出来れば薔薇がいいなあ。なんだったら他の花は持ち帰るなり好きにしていいよ」
とのことだったが――花、それも薔薇など一体どうするのか。
「先生ね、花が好きなんだって」
至極真面目な顔で花と向き合いながらアニカは言う。
「診察のお代をもらわない代わりに、村長さんや偉い人に許可をもらって邪魔にならない場所に花畑を作るんだって」
「…………」
ますます奇矯な趣味である。どうも気になり、考え事をしながら借りたハサミで無造作に薔薇を切ろうとするヤンを「だめっ!」とアニカが止める。
「適当な切り方しちゃだめ! 切り口が汚いと花が長持ちしないし、元の草も弱っちゃうでしょ! それに薔薇にはトゲがあるのよ、気をつけて触らないと!」
「……うん……」
女の子は花摘みのプロである。生まれてこの方花など摘んだことのないヤンはアニカに言われるがまま、黙々と花を摘み続けた。
陽が暮れる頃には二人で抱えるほどの花を摘んでいた。いくらなんでも取りすぎだろう、こんなのどうするんだ、と訊ねると。
「もちろん、うちに飾るのよ。お客さんの部屋の一つ一つに飾ってくの。余った分は花びらだけにしてベッドや窓辺に撒くの!」
どうだ素敵なアイデアだろう、とばかりに胸を張るアニカ。勝手なことをして、また母親に雷を落とされなければ良いが、と祈るヤンだった。
「……ん」
と――ふと何やら黒い物が一瞬視界の隅に入ったことに気づき、目で追う。
「どうしたの?」
「いや……」
用を思い出した、先に戻っていろ、と花を入れた袋をアニカに持たせ、黒い影を追う。
「ちょっとー! どこいくのー!?」
あの影、見たのは一瞬だが間違いなくローゼスだった。あんな異様な格好をした人物が何人もいるはずがない。持っていたのはおそらく瀉血で抜き取った患者の血を入れていた樽だ。そんなものを抱えてこんな時間に村から出て行こうとするなどなんだか妙だ。
やはり彼はおかしい。自分を助けてくれ、村人にも好かれている人を疑うのは心苦しいが……あの服装、まるで「陽の光から体を守っている」ようだ。それに、村までヤンを運んでくれたというなら、一体ヤンはどうやってあの巨木の雨から逃れられたのだろう? あんなめちゃくちゃな物を避けられるとしたらそれこそ人間離れした身体能力を持つ吸血鬼しかありえないではないか。
考えれば考えるほど辻褄があっていく。けど、そんな。だったらどうして吸血鬼殺しのカンタレラを助けるのだ?
「…………!」
息と気配を殺してローゼスの後ろをつけ、やがて林の中へと入っていく。森や林は木々で日光が遮られ、かつひと気も少なくなる吸血鬼にとっては絶好の場所だ。いよいよ怪しくなってきた、と唾を飲んで追跡を続けていると、唐突にローゼスの姿が掻き消えるように見えなくなった。どういうことだ? まさか……!
「吸血鬼じゃあるまいし、人の後をつけるだなんて良い趣味してるんだねえ、《カンタレラ》」
「!」
背後、おそらくほぼゼロ距離でローゼスの声が聴こえてきた。やはり尾行に気づかれていた! 先回りならぬ後回りをされヤンは息を止める。戦いであれば既に殺されていてもおかしくない状況だった。
「まあ、ボクこそ《人》じゃあないんだけどね。あーあ、気づかれちゃったかあ。出来れば秘密のまま別れたかったんだけどなあ」
参った参った、と言葉のわりに能天気な口調で言いながらローゼスは後方へ下がっていく。ヤンは心臓を凍りつかせたまま、糸で引かれたように振り向いた。沈みゆく夕陽から木陰に隠れ、ローゼスが独特な仮面を脱いでいる。顎まで届く癖の強い栗色の髪に一目で人ではないとわかるワイン色の瞳。剃り忘れたような顎ひげを生やした顔は吸血鬼にしては大分老けており、四十歳程に見える。旅医者を名乗っていた吸血鬼は人当たりの良さそうな表情で顎を掻き、穏やかに言った。
「一応、自己紹介はした方がいいかな? ローゼスもといローゼンクランツ、こう見えて吸血鬼。『恥知らず』とか『裏切り将軍』なんて名前は、あんまり覚えてくれない方が嬉しいな」
吸血鬼大全 番外編 掟番
三百年前の大厄以降、吸血鬼達の結束の強化、及び裏切り者を早期に抹殺する為に吸血鬼の最高権力者《隠者》ノスフェラトゥによって結成された懲罰組織。
主な任務は定められた掟(人間を食料、家畜以上に扱わない、人間以外の動物の血を飲まないなど)を破った吸血鬼を処罰、粛清すること。吸血鬼ハンターなどに情報を渡し種に損害を与える吸血鬼を殺すなどその役割は極めて重大だが、吸血鬼にとって同族を殺すことは何より忌避すべき大罪だと思われている為、吸血鬼達からの評判はお世辞にも良いとは言えない。
掟番にはそんな誹謗中傷や非難の目にも耐えられる強い精神力を持った高潔な戦士や、または既に居場所を失くした者が選ばれる。
任務は通常ひとりで行うが、ローゼンクランツを始めとした極めて悪質、かつ強い裏切り者を討伐する際は隊を組むこともある。