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EX 裏切りと友

『拝啓。僕の親愛なる友人、クレスニク・フォン・ヘルジングへ。

 近頃は秋も深まり、肌寒い日が続きますがいかがお過ごしでしょうか。貴方が深酒をして布団以外の場所で眠ってしまっていないか毎夜気にかかっております。

 ……ううん。時候の挨拶は礼儀ではあるけれど、相手が君だと思うとなんだかむず痒いな。それにどうせ君のことだ、つまらない挨拶はやめてさっさと本題に入れって思ってるんだろうな。うん、本題に入ろう。

 君に人を紹介しようと思う。そう、この手紙と共に君の元を訪れたその子のことだ。正確には君の恋人と君の所属する組合に、なのだけれど。要は、君に仲介役を頼みたいのだ。ああ、君の驚く顔が目に浮かぶよ。何言ってるんだ、こいつ? なんて思ってるんだろうな。

 けれど僕はふざけていないし、気が狂ったわけでもない。君達のギルドがどういうところか、所属すればどうなるのか、よくわかってその上で相談しているつもりだ。それらの沢山の危険と秤にかけて、そちらの方が安全だと判断した。

 もちろんその子もいたずら半分にギルドに入りたがっているわけじゃあないんだ。彼にも彼なりの事情がある。書き始めると羊皮紙が何枚あっても足りないから、詳しい話は彼に訊いてくれ。

 ……久々の手紙がこんな内容で、今頃君は呆れているかもしれないな。ひょっとして怒っているかな? おっかない顔であの子をねめつけて怖がらせているのだとしたら、その怒りは彼じゃなくて僕に向けてくれ。思う存分憤怒を羊皮紙にしたためて、その子に持たせてこちらに送ってほしい。受け止める準備はいつでも出来ているから。

 いずれにせよ、君がよく考えて彼の処遇を決めてくれることを願っている。もちろん君ならきっと良い選択をしてくれるだろうけれど。

 君の幸福と幸運を祈る親愛なる友人、アルトゥール・シュタインホルズより。敬具』



  ◆



 クレスにそんな手紙を送る数日前、僕の日常に異常が起きた。

 僕の名前はアルトゥール・シュタインホルズ。シュタインホルズ伯爵家令息、つまりシュタインホルズ家において一番の暇人だ。来月で僕も二十三、妻も貰って(コルネリエというんだ、とっても可愛い!)良い加減に将来を考えたいところだけれど、父上はまだまだ引退しそうにないし、戦で頭角を現そうにも今はどこもかしもすっかり平和。だからたまに父上の仕事を手伝ったり、こうして城下町を『視察』に行く以外はやることがなくて暇ったらしょうがない。

 城を抜け出して外でうろうろしてるなんて知られたらきっと父上やばあやに怖い顔をされてしまうけれど、こんな季節に城の中に閉じこもっていたら苔になってしまいそうだ。あまり品のないことを言ってしまうと、城の生活はあんまり性に合わない。城、あんなの戦の時にしか役に立たない木偶の坊だ。冬は隙間風で肌寒いし夏はじめじめかび臭い。おまけに年中虫やコウモリやネズミとお友達になれる。僕が爵位を継いだらあんなものさっさと商人か教会に売って、日当たりの良い丘に素敵な別荘を建てるつもりだ。コルネリエもきっと喜ぶぞ!

 とはいえ、町の人達は貴族の僕が町中をうろついているとあまり気分が良くないらしい。今日も少し不機嫌そうな表情のご婦人と出くわした。

「こんにちはご婦人」

「何がこんにちはだいドラ息子」

「ドラ息子とはなんですか!」

 貴族であるうえ、町の若者とは違って仕事らしい仕事をしていない僕(仕事がないのだから仕方がないのに)は町人、特に年配のご婦人方からは評判が悪いようだった。だからといってドラ息子は酷いじゃないか!

「人を不良のように言わないでください! 町一番の暇人ではありますが、生まれてこの方悪事に手を染めたことはありませんとも!」

「悪事どころか仕事だってしていないじゃないさ」

「だって、やることがありません」

「こちらにはいっぱいあるんだよ! 畑の手入れ、井戸の水くみ、鶏の世話……あんたらの決めた高い税を支払う為にね!」

「僕が跡を継いで領主になった暁にはきっと楽にして差し上げます」

「そりゃいつだい」

「…………十年後くらい?」

「このまぬけでとんまで能無しの役立たず!」

「ひええ」

 腐った卵を投げつけてくるご婦人に僕は必死で走って逃げる。腐っているとはいえ食品を人に投げるのは感心できない! 腐っているものなら尚更だ! どうにかご婦人の目を撒きひと安心した僕は、同じことを繰り返さないよう人目を忍んで裏通りを歩く。本当は活気があって楽し気な表通りを歩きたいけれど、せっかくコルネリエが褒めてくれた上着を汚さない為だ。

 しかし、どうしてこう町の人達は理不尽なくらいに僕達貴族を嫌うのだろう? 昔母上が「猫がネズミを追うのやキツネがウサギを狩るのと同じ、本能的なことよ」と言っていたけれど、いつか僕達は町人達に食べられてしまうんだろうか。火を持って追いかけられて、いぶされてぱくりと。考えたら恐ろしくなってきて、僕は目的地、僕を嫌わないでくれる数少ないうちの一人の家へ急いだ。

「ハルトマン! いるかい!?」

「今日もお暇そうですねえお坊ちゃん」

 商人ハルトマンの家は裏通りも裏通り、町の人もほとんど知らないんじゃないだろうかというへんぴなところにある。商家というとみんなしっかりした佇まいの大きな家を想像するかもしれないが、ハルトマン家は厩がある以外はほとんど他の民家と変わらないこざっぱりした外観だ。周りに人がいないのを確かめて扉を叩くと、中から少々陰気な顔を覗かせる。僕より少し年上、ちょうどクレスと同じくらいの男だ。

「ああ、暇なんだ。遊んでくれ!」

「お坊ちゃん、今年でおいくつで?」

「二十三だ!」

「歳を二十年ほど鯖読んじゃいませんかい」

 呆れのため息の後、ハルトマンが扉を開けてくれる。僕はわくわくしながら中に入った。

 僕がハルトマンを気に入っている理由は、彼が取り扱う商品にある。彼が扱う商品は普通の商人とはわけが違う。南方の砂漠の国のミイラの副葬品や、東の大国の姫が肌身離さず身につけていた首飾りや、遥か北方の果てに棲む毛の生えた巨象の牙や……怪しく不思議で、何より魅力的な品々を扱っているのだ。人呼んで闇商人。初めてハルトマンの家を訪れたときは興奮で気絶しかけたほど、僕はこういう不思議な品が大好きなんだ!

「あれ?」

 けれど、家の中で真っ先に目に入ったのはそういった珍品の数々ではなく、人間だった。子供だ、それも肌が真っ黒の!

「…………」

 黙々と荷物をあっちからそっちに運んでいる黒い子供。遥か南の灼熱の大陸には肌が日に焼け焦げたように黒い人々が住んでいると聞くけれど、彼の肌はどうもそういう感じではないみたいだった。日焼けとか、肌の表面の色が黒いんじゃあなく、もっとこう……『体の内側』から黒く染まっているような。失礼な言い方をしてしまえば、なんだか不自然で不気味で、思わずぞっとするような色だった。

「!」

 と、子供が僕に気づいて荷物を運ぶ手を止め、見知らぬ闖入者である僕をほとんどねめつけるような目つきで見つめる。もちろん初対面なのだけれど、もしかして何か気に障ることをしてしまったかしらと少々不安になった。しかし予想に反し子供はぺこりと頭を下げて作業を再開した。別に僕が気に入らないわけじゃあないらしい……ほっとしたところで思い出す。クレスもよく、何もないのにああいう不機嫌そうな顔をしたっけ。本人曰く「生まれつきの顔」らしいから、彼もきっとその口なのかな?

「あの子は? 君の子供かい?」

「冗談は止してくだせえ」

 ハルトマンは不景気顔をさらに歪めて言った。歳の頃から見て彼の子供でもおかしくはないかなと思ったが、そういうわけでもないとすると。

「お弟子……にしては少し若すぎるようだけど」

「あんな真っ黒助を弟子にしたら売り上げが落ちちまいやさあ」

 君の顔つきも似たり寄ったりじゃないかな、と思ったが言わないのが友情かなあ。

「仕入れの時に品と一緒に紛れ込んでたんでさあ。親なしの野良犬ですよ」

「犬呼ばわりはあんまりだろう」

「おれの食料を好き放題食い散らかしてたんだ、犬と大差ありません」

 なるほど、親なしの子だ、食べるものもなくお腹を空かせていたのだろう。そして運よく旅先のハルトマンに出くわし、欲に負けて失礼をしてしまったのか。その償いとしてハルトマンの元で労働をしていると。まだ十つあまりくらいにしか見えないのに大変そうな身の上だ。健気にあっちからこっちを往復する彼に涙が出そうになる。

「僕はアルトゥール。君の名前は? 歳はいくつだい?」

 彼の作業が一段落したのを見計らって訊ねる。彼はちらりとハルトマンの様子を窺い、特に何も言われないのを確認してから口を開いた。

「ヤン。十二」

 こんなに無口な人に会うのは久しぶりだ。クレスだってもうちょっと、主語とか助詞とか接続詞を活用していたぞ。辛い身の上は人間からここまで会話能力を奪ってしまうものなのか……。

「そうか、ヤン君か。飴食べるかい?」

 心の中で涙を流しながら懐から小袋に入れた飴玉を出す。僕の上着に泥や牛糞を投げつけてくるいたずらっ子を懐柔する為の秘密道具だ。ヤン君は驚いたように飴袋と僕を見つめ、おずおずとハルトマンの様子を窺った。

「その人は暇人なうえに物好きなんだ。くれるっていうなら貰っておきねえ」

 ハルトマンに許可を貰い、控えめに両手を差し出すヤン君。一個二個なんてけちなことは言わず袋ごと手渡すと、ヤン君もハルトマンもびっくりしたように声をあげた。

「……!」

「やめてくだせえ、癖になったらどうするんです!」

「いいじゃないかこのくらい! 辛い暮らしだったんだろう、このくらいご褒美があるくらいがちょうどいいんだ!」

「あんたらの感覚で物を言わんでくだせえ! おれ達が一体どのくらい働いてその袋分の金を貰えるか知ってるんですかい!?」

 口論する僕達の後ろでおそるおそると言った様子で飴玉を一つ取り出し口に含むヤン君。その甘さに顔をほころばせた彼を見て、あげて良かったと心から思う。そしてどうか、まだ幼い彼が飴よりもっと甘くて素敵な物に出会えますように!

「はあ、まったく……それで、犬に餌やるのが今日のご用件で?」

「あ」

 忘れかけていたけれど、今日はハルトマンの商品をひやかしに来たのだった。

「新しい奴はどれだい?」

 訊ねると、ハルトマンではなくヤン君が僕の上着の裾を引っ張って答えてくれた。どうやら彼がひとしきりえっちらおっちらしていた区画がそうらしい。そこに並ぶ素敵物品の数々に僕の目はきっと宝石のように輝いていただろう!

「ハルトマン! これは一体なんだい!?」

「お坊ちゃんのお好きな東の国の巻物でさあ。読めますかい?」

「読めないけど歴史は感じる! それで充分じゃないか!?」

「さいですか」

 自分で仕入れた品でありながらハルトマンの表情は暗い。どうも彼は、闇商人をやっている自分が気に食わないようなのだ。

「おれだって反物だの食料だのもっとマシなものを商売にしたいですよ。それがなぜか珍妙な物ばかり手元に入ってくる」

「いいじゃないか、需要はあるんだろう?」

「その需要を見つける為にどれだけ駆けずり回らなきゃいけねえことか」

 はあ、と不景気な溜め息。どうやら僕の知らないところで色々な苦労があるらしい。できれば支援してあげたいところだけど、無駄遣いは父上に禁じられているからなあ。

 顔色は優れないながら色々商品を見せてくれるハルトマン。アラビア数字の九の字に似た形に磨いた宝石のペンダント、金に彫られた印に綺麗な青磁器の壺、何やらまじないごとが彫り込まれている古い亀の甲羅……今回は特に極東からの品を中心に集めてきたらしい。あれはなんだ、これは一体? と僕が訊ねるたびに不景気に溜め息をつく。

「……ん、これは?」

 と、品々の山の中に奇妙なものを見つけた。包帯に似たぼろぼろの細長い布が巻きつけられた人の頭二つ分くらいの長さの細長い棒だ。布を解いて中身を見て、息を呑んだ。

「……短剣?」

 柄に鍔に鞘、おそらく刀剣の類なのだろうとはわかった。しかし初めて見る形だ、極東製の短剣なのだろうか? よく見るものとは違って全体的に細くて平たく、少し反っている。多少汚れているが柄も鞘も作り手のこだわりを感じる美しさがあった。きっと刀身も美しいに違いない、確かめようと柄を握ろうとする僕をハルトマンが慌てた様子で止めに入った。

「止してくだせえよ」

「え? ああ、商品にべたべた触るのは確かに良くないな。ごめん」

「……その様子なら『魅入られた』わけじゃあねえようですね」

 ほっとしたようなハルトマン。魅入られる? どういうことだろう。

「そいつは今回の仕入れの中でも特に厄介な代物なんです。妖刀、なんて呼ばれてまさあ」

「妖刀……」

 穏やかじゃない響きだ。

「最初の持ち主が領主に仕える戦士だったらしいんですがね。謀反を企てたかどで自害させられたんですよ、その刀で」

「ひ、ひえ……」

「で、それからこの刀の持ち主になった人間がことごとく自害しちう羽目にまったってんです。みんなおしなべたようにこの刀で腹をかっさばいて。敵より主人の血を求める刀だって言われて、その国じゃ《裏切》って呼ばれるようになったとか」

「ひええ」

 おどろおどろしいいわくに思わず刀を取り落としそうになる。主人を斬る妖刀……? 不思議な物は好きだけれど、そんなおっかない物はさすがにごめんだ。

「そんなの持ってて大丈夫なのか? 君もかつての主人達みたいになってしまったら……」

「そんな縁起でもないこと言わんでくだせえよ。だから言ってるでしょう、好きで集めてるんじゃないって」

 包み布を巻き直し、汚い物でも扱うような手つきでハルトマンは刀を元のところへ戻す。

「だからさっさと売っ払いたいんでさあ。なんならお坊ちゃんが買いますかい」

「冗談じゃない!」

 慌てて首を振ると、ハルトマンはくつくつと喉奥で笑っていた。冗談だったのか……。どうせならもっと楽しい冗談を言っておくれよ、と溜め息をついた。

「……刀」

「うん?」

 ヤン君がぼそりと何か言ったのに気づいて振り向く。彼も刀が気になるのだろうか? 子供に見せるにはちょっと血生臭すぎる品だけれど。

「大きくなって、お金が沢山稼げるようになったら、あれよりもっとかっこいい刀を買うといいよ。少なくとも主人を斬らない刀をね」

「………………」

 ヤン君はこくりと頷いて、口中で飴玉をころころ転がした。

「……おや、これは随分大きいな」

 そんなこんなでしばらく物色を続け、最後に見たのは大きな衣装箱だった。いや、本当に大きい。人一人なら悠々と入れそうな大きさだから、宝石やら何やらで装飾されていなければ棺に見えてしまったかもしれない。黒檀と鉄で作られていて、錠を掛ける穴すらあるけれど、一体何をしまうためにそんなに頑丈に作ったのだろう。

「これはなんだい? 何か入ってるのか?」

 ハルトマンに訊ねる。しかしどういうわけかハルトマンもきょとんとした顔だ。

「……お坊ちゃん。なんですそれは」

「なんですも何も、君が仕入れた品だろう?」

「そんなもの仕入れた覚えはありませんよ。大体、どうやって運ぶんですかい」

 言われてみれば箱は随分重そうで、大の大人が二、三人いてやっと持ち上がるかどうか、といった感じだ。見た目は綺麗だし、買い手はつくだろうと思うけれど……ハルトマンらしくない品であるのは確かだ。

「でも、じゃあ、君が仕入れたんじゃあないなら一体どうしてここにあるんだ?」

「こっちが訊きてえくらいですよ」

 いぶかしみながら箱に近づくハルトマン。しかしその目には勝算ならぬ商算の光が灯っていた。出自は不明瞭だが他の品と比べたら明らかに『売れ筋』に近そうな商品だ、何も問題がなければ売るつもりなのだろう。

「んぐっ……!」

 蓋に手を掛け持ち上げようとするハルトマン。しかし蓋もかなりに重いようでなかなか持ち上がらない。ひょっとして内鍵でもかかっているのか? まあ、こんなところに入っている人間なんているわけないか――しばしの悪戦苦闘の末、ようやく数インチほど蓋が持ち上がった。

「どれどれ」

 ハルトマンは腕を震わせながら箱の中を覗き込む。一体何が入っているのだろう、僕らも気になってハルトマンを凝視した。

「んぐっ」

 と、ハルトマンが突然奇妙な声を上げた。

「ハルトマン?」

 まさか指でも挟んだのか? 助けようと近寄りかけ、その様子の異様さに気づいてとっさに足を止めた。

「う、ぐ……」

 ――手、だ。蓋と箱の間のわずかな隙間から青白い腕が伸び、それぞれハルトマンの両頬と首をがっちり掴んでいる。女か子供くらいの細さにしか見えないが、その力は物凄いらしく圧迫された部位がぎりぎりと歪んでいく。ハルトマンの口が息をしようと開閉を繰り返すが、絞められている首が彼の身体に空気をもたらすことを許さない。

「は――ハルトマン!」

 何が起きているのかはわからない、けれど何かとてつもなく恐ろしいことが起きていることは理解できた。助けなければ! しかし僕が動くより早く、『箱の中身』は行動を開始した。

「ぃ、ぇぐげげえぅがぇがぐがげげげげげがぎ!」

 ぐい、と腕がハルトマンの首を箱の中に引き入れた。重い箱を苦にもせずこじ開け、ハルトマンの頭を、肩を、胴を、腕を、腰を、足を、つま先を、スパゲティでもすするかのようにずるずる飲み込んでいく。あまりに強引に引っ張られたせいか上手く箱の中に入らずふちや蓋にぶつかった部分を、さらに力任せに引っ張って形をひしゃげさせ――結果ハルトマンの口から痛々しく恐ろしい悲鳴が上がる。

「あ……あぁあああ……!」

 みるみるうちにハルトマンは箱の中に『収納』され、ばたんと蓋が閉じた。一瞬の静寂の後、中から奇妙な音が聴こえだした。べきべき、ばきぼき……何かが折られ、ひしゃげて捻じ曲がるような。がりがり、ぐちゅぐちゃ……何かに噛みつき、咀嚼して飲み込んでいるような。

「は、ハルトマン! ハルトマン!」

 僕は箱の中にいるであろう彼に呼びかけた。……いや、本当はわかっていたんだ。呼びかけたところで彼には聞こえないと。だって、彼は既にきっと……いつのまにか僕は床に座り込んでいた。腰が抜けて立ち上がれない。寒くもないのに膝や肩や顎ががくがく震えた。

「……ふぃー」

 どのくらい時間が経ったのか、しばらくして箱の蓋が開いた。出てきたのは若い――少年? いや、少女かもしれない、男物の服を着ているけれど線が細く美しく整った顔立ちで正確な年齢はおろか性別すら判然とさせない。全身に纏った血飛沫と、右手に絡ませた髪の毛――ハルトマンのそれと同じ色だ!――がなければ見惚れてしまっていたかもしれない。美少年は口をもごもごさせながら血まみれの手で目をこすった。

「……やっべっべー。すっかり寝過ごしちゃったです? もー昼だー……いっそ夜になるまでもうちょっと眠ってればよかったかもだぁ」

「ぁ……あ」

「ぷふぇ」

 美少年が床に何か吐き捨てた。血とよだれにまみれたそれは、親指の形をしているように見えた。

「ひっ……!」

「ん、人間さん? らっきー、まだお腹減ってたんだぁ。かみさまさんきゅーべりまっちー」

 ……まさか。話だけは聞いたことがある。クレスの言葉を疑うつもりはないけれど、でもやはり今の今までは非現実的な空想としか思えなかった。人間の血肉を食らう美貌の怪物――目の前の美少年はまさに『それ』であるのだと、直感が、あるいは本能が僕の頭に警鐘を鳴らしていた。

 吸血鬼。

「そいじゃ、さっそくー、いっただっきまーす」

「う――うわああああああああああっ!」

 美少年が僕に向かって跳躍する。僕は何も考えられないまま無我夢中で左に避けた。美少年の両足がつい一瞬前まで僕の頭があった場所に着地し、石造りの床をえぐるように砕いた。もしあのままあそこにいれば、パイのように粉々になっていたのは僕の頭だったろう!

「あ、ああぁ……!」

「逃げないでくださいよぅ、人間さん」

 怪物だ、怪物だ、怪物だ! ハルトマンを残酷に捕食し残虐に咀嚼せしめた化け物が次は僕をも餌食にしようとしている! 僕はまだ二十三だ、死ぬのはごめんだ、それもあんなわけのわからない怪物に食べられて死ぬなんて! 逃げることこそ目下の行動だ、しかし僕の足は相も変わらず震えて言うことを聞いてくれない! このまま四つん這いで逃げ続けてもいずれは赤ん坊のように容易く捕まえられてしまう!

「た、たすけっ……かみさっ」

 舌すら震えて祈る言葉もままならない。しかしそんなつたない言葉でも神の耳に届いてくれたらしい。祈り通り助けは来た、ただしあまりに思いも寄らぬ形で!

「うきゅ?」

 美少年吸血鬼が不思議そうに自分の右手を見た。いつのまにか人差し指から薬指までの三本が中程で切断され血を噴き出している――そして再び背後で動く黒い影。さすがに二撃目には気がついたのか素早くその場から飛び退き、箱の上に飛び乗った吸血鬼は指の傷口を口に含みながら襲撃者をぼうっと眺めた。

「……子供さん?」

「ヤン君!?」

 僕は這いつくばったままぎょっとした。吸血鬼を斬りつけた襲撃者は誰であろうヤン君だったのだ! どこに隠していたのか錆びた小さなナイフを命綱のように強く握りしめ、はっきりと敵意のある眼差しで吸血鬼を睨みつけている!

「な、何をしてるんだ……!」

「……逃げ、ろ」

 子供らしからぬ低い声でヤン君が言った。その声が微かに震えているように感じたのは気のせいだろうか?

「……飴の、お礼。俺が奴を引き付ける、から、その間に……」

「君を置いて逃げろと言うのか!? そんなことできるわけないだろう!」

 相手は石を容易く踏み砕く怪物だ。たかだか飴をあげたくらいの恩を押し付けて子供を犠牲に逃げるなんて恥知らずな真似、いくらまぬけでとんまで能無しの役立たずたる僕でもできない。そんなことをするくらいなら素直に吸血鬼に食われた方がマシだ。しかし――ヤン君は。

「俺は……カンタレラ、だから」

「カンタレラ?」

 僕の言葉に答えず、ヤン君はナイフを逆手に持ち変える。そして何を思ったか左腕を浅く斬り裂いたじゃないか! 恐怖のあまり錯乱してしまったのか!? しかし次の瞬間起こったことを見て錯乱したのは僕の方だった。傷口から流れる血は赤色ではなく、インクのように黒々としていた!

「黒い血……!?」

「カンタレラぁー」

 美少年吸血鬼がぼんやりした口調で呟いた。

「吸血鬼殺しの猛毒ですかー。うっかり子供さんを先にぱくぱくしなくて正解でしたなー。いくらおいしくても、腐って死んじゃうのはごめんかもだぁ」

 うつろでふらふら体を揺らし、とても人食いの怪物には見えない挙動の吸血鬼だったけれど、なんだかヤン君を警戒し出したように見える――吸血鬼殺しの猛毒。それはヤン君のあの黒い血のことだろうか。

「殺す」

 黒い血がべったりと付着したナイフを握りしめ吸血鬼へと駆け出すヤン君。かけっことか子供らしい遊びからは到底かけ離れた、生死をかけているような動き。跳躍し、珍品奇品の数々を蹴散らしながら卓を踏み蹴り、吸血鬼の喉に斬りかかる。が、そんな動きは読めていたのか、ヤン君の身体は空中で吸血鬼に捕まえられてしまう。振り下ろしたナイフもあっけなく避けられ、やけくそ気味な蹴りも不発。ヤン君は吸血鬼に高い高いされる羽目になった。

「ぐっ!」

「悪い子は―、めっ」

 ごちん、とヤン君の額めがけて頭突きする吸血鬼。岩をも砕く怪力の持ち主だが、しかしかなりに手心を加えてくれたらしく、ヤン君の頭がリンゴめいて粉砕されるようなことはなかった。痛みに目を白黒させたヤン君はナイフを取り落としてしまい、それを吸血鬼は足で踏んでへし折った。

「カンタレラ。調べ調べしたりもちょもちょしたりすれば面白そう、かも?」

「ふざ、けるな」

 胴をわしづかみにされながらも強気に吸血鬼を睨みつけるヤン君。自分を掴んでいる腕に思いきり爪を立てながら、美少年の端麗な顔に向かって唾を吐いてみせる。頬に飛んだ唾液に、吸血鬼のぼんやりした顔が少しひやりとしたものになる。

「……じゃ、殺します。食べると死んじゃうので、ぐちゅってして殺します」

「やめろっ!」

 このままではヤン君が殺されてしまう、なんとかしなければ! しかしどうやって……? 視界の隅に映るヤン君が蹴り飛ばして床に落下した商品達。僕はとっさにその中の一つを取り、がくがく震える足で吸血鬼に近づいた。

「え、えいっ! ヤン君を放せ!」

「……なんですかぁ?」

 例の短刀で吸血鬼の足を殴りつけた。しかし効果は精々吸血鬼が眉をひそめるだけしか与えられなかったらしい。次の瞬間、吸血鬼のつま先が僕の腹に食い込んでいた。吹っ飛ぶ僕の体、すっ飛ぶ短刀。

「ぎゃふん!」

「せっかちさんだなー。そんなしなくても、あとでちゃんと食べますよぅ」

「げぅ!」

 ヤン君をその場に投げ落とし、吸血鬼が僕に向かって歩いてくる。か、考えなしに殴ってみたけど……どうしよう。

「ぼ、僕を食べても美味しくないぞ! 僕は町一番暇で不味い貴族なんだ!」

「好き嫌いとかしないです。どんな人間さんでも美味しく食べなきゃだぁ」

「こ、後悔するぞ! 君が死ぬまで恨んで祟ってやる!」

「呪ったりとかー、できないくらいもぐもぐよく噛みます」

「ひええええっ!」

 半ばやけで吸血鬼をぽかぽか殴りつける。ああ、もはやこれまでか。父上母上、先立つ不孝をお許しください。コルネリエ、どうか僕より素敵な男性と恋をしてください。クレス、どうか変に怖いことばかりせず幸せな生活をしてください。ハルトマン、もうすぐそちらにいくので待っていてください。後悔や心残りが走馬灯のように頭の前から後ろを駆け抜けていく。しかし不思議と、ヤン君の言う通りに逃げていれば良かった、と思うことはなかった。たとえほんの少しの時間でも彼を守ることが出来て良かったとすら思えた。あのまま逃げていれば、きっと今よりずっとずっと後悔していたことだろう。殺されるのが恐ろしい一方で、僕の誇りが「これで良かった」と告げていた。

「……なんでそんな顔してるですかぁ?」

「貴族だから……かな」

「きぞく?」

「暇人でも、まぬけでとんまでも、優雅で誇り高くあるのが貴族なんだ……!」

 よくわからない、という顔をしながら吸血鬼が大口を開けた。ああ、あの口に食らいつかれてもぐもぐ噛まれて飲み込まれてしまうんだ! 僕はぎゅっと目をつぶり、運命が訪れるのを待った。しかしいくら待てどもその運命が来ることはなかった。

「――きゅう」

 吸血鬼の悲鳴が聴こえた。おそるおそる目を開くと……腹から刃を生やした美少年の姿が見えた。吸血鬼も僕もきょとんとその刃を見つめる。刃先には真っ赤な吸血鬼の血と共に、インクめいた黒い液体が付着していた。

「……いたた、です」

「ヤン君!」

 僕が取り落とした短刀を抜き、吸血鬼の背後に忍び寄って背中から思いきり突き刺したのだ。……しかし、よくよく考えてみれば彼は子供だ、いくら必死の状況でも一突きで背中から腹を貫通させることなんてできるのだろうか? ひょっとして数多の血を吸った妖刀《裏切》の加護を得ていたのかもしれない。主人の血を求める刀――自らを使って自傷したヤン君のことを主人だと認め、力を貸したのだろうか?

「う、きゅうぅう……」

 吸血鬼の腹から短刀を引き抜くヤン君。途端に傷口から血を噴出させ、吸血鬼は痛みに悶える――だけではない! なんとその傷口が徐々に腐っていくじゃないか! 自らの体に起きた超常現象に吸血鬼は脂汗を流す。

「……うー、これ、かなりやば……かも」

「殺す」

 と、再び自分の肌を斬りつけて刃に血をつけるヤン君。短刀の刃は血を吸ったためかかなり黒ずんでおり不気味な雰囲気を醸し出していた。しかし――時折光を反射して輝く様には不思議と目を奪われる美しさがあった。……魔性の刀。

「殺されるのは、ちょっとや、です。おさらばですなー」

「待て!」

 吸血鬼は窓を蹴破り外へ飛び出した。吸血鬼は日光に弱いんじゃなかったのか!? ……いや、今日は曇っていたか。それにここは裏通り、日陰だらけで吸血鬼には絶好の場所だろう。

「た、助かった……のか?」

「逃がすものか……!」

 追いかけようとしたヤン君。しかし相手はめちゃくちゃな身体能力を持つ吸血鬼、対してたった十二歳の子供だ。見失ったらしく、すぐに戻ってきた。

「……くそ」

 悔しそうに舌打ちをし、ヤン君は吸血鬼が入っていた箱を見た。……今はおそらくハルトマンの亡骸ないし残骸が入っているであろう箱。どのくらいかはわからないけれど、それなりの期間衣食住の面倒を見てもらったはずだ。世話になった人を無惨に殺されて何も思わないわけはない。ぎゅうと唇を噛み、悼むようにしばらく目をつぶると、ヤン君は踵を返して再びここから出て行こうとした。

「ま、待て! どこに行くんだ!?」

「あいつを、追わなければ」

 箱の方を気にしながら言う。仇討ちのつもりだろうか? 殊勝な心掛けだが、しかし……。

「相手は化け物だ、追いつけるわけない! それに、怪我をしているじゃないか!」

 頭突きや投げ飛ばされたときについた打撲痕に、自分でつけた腕の傷。軽傷と呼べる範囲かもしれないが、だからといって放置して悪化したら大変だ。

「……このくらい、平気だ」

「平気じゃない! 君は子供なんだぞ!」

 とにかく何がなんでも止めなければ、と強めに怒鳴りつけると、ヤン君はびっくりしたように目を見開かせた。ようやく力が戻ってきた足でヤン君に近づき、その肩を抱く。

「まず、怪我の手当てをしよう。それから、ハルトマンの弔いと葬儀を。その他の全部は、その後でも遅くないから」

 怖がらせないようにつとめて優しい言い方で、ゆっくりと説き伏せる。しかしヤン君は不服そうに……というか、気まずそうに? 渋っている。

「……でも」

「だったら、お願いだ」

 膝を折り、ヤン君と目線を合わせて話す。黒い肌、黒い血、子供らしからぬ言動。けれど彼は子供なのだ。小さくて、素直で、たった一つぶの飴玉で幸せになれる子供。こんなところで無責任に放り出してしまうにはあまりにも可哀想な。

「たった数日でいい。数少ない友達を亡くして傷ついた僕の為に、友達になってくれないか?」

 そうして出来た新しい友達を城に連れて行って父上をひっくり返らせたり、ハルトマン家での一件で放心させたり、結局汚れてしまった上着のことでコルネリエを悲しませてしまったり、色々なことがあった末、僕は手紙を書くことにした。

 新しい友人を、古い友人に紹介する為に。



  ◆



 クレスニク・フォン・ヘルジングは読み終わった羊皮紙をぐしゃぐしゃに潰し、はあと溜め息をついて目の前の人物を見つめた。短刀を腰に下げ、真新しい外套を着た黒い肌の子供。まったくとんでもない厄介事を押し付けてきたもんだと送り主に舌打ちをする。めんどくせえ。

「……本気か?」

 こくり、と頷く。嘘をつけとなじりたくなったが内心でぐっとこらえる。カンタレラの毒血、そんなものを本当に手に入れているのなら充分に本気なのだろう。クレスニクからすれば狂気としか思えないが。

「俺は別に止めん。てめえがアル……アルトゥールの友達だろうが、俺の友達じゃあない。阿呆のガキがいくら死んだって俺の知ったことか」

「………………」

「けどな……あいつにちょっとでも恩を感じてるんだったら、今のうちに考え直しとけ。てめえが死んだらあいつがどんな顔するか想像してみろ」

「それでも、関係ない」

 と、子供――ヤンはクレスニクに向かって初めて口を開いた。

「吸血鬼を殺す。俺にあるのは、それだけだ」

「……そうかよ、クソガキ」

 クレスニクは再び長い溜め息をついた。そして目をつぶり、アルトゥールに向かって百余りの罵詈雑言を心の中で投げつけた後立ち上がり、厨房に向かって声をかけた。

「おいばばあ」

「誰がばばあだい」

 酒場の女主人が厨房から顔を出し、席から立ったクレスニクと椅子に座ったままのヤン少年を見比べておや、と驚いた。

「あんた、子供がいたの」

「いねえよ。赤の他人だ、似てねえだろうが」

「あっそう。似ていると思ったんだけどねえ」

 どこがだ、とぼやき長い髪をかきあげるクレスニク。ヤンを横目でじろりと睨み、立て、と仕草で合図する。

「『扉』を開けてくれ」

「まさかその子も連れてく気じゃないだろうね? そんな小さい子を?」

「そのまさかだ」

「あんたっ……」

「こいつが自分の意思で決めたんだ。そうだろ、新入り」

 クレスニクに問われ、ヤンはこくりと頷いた。女主人はしばらく渋い顔をしてクレスニクとにらめっこしていたものの、根負けして地下への扉を開ける。

「まったく……本当にろくでもない奴なんだからねえ」

「うるせえよ」

 地下へと続く階段は暗く、足場も悪くふとすれば足を踏み外してしまいそうだった。無意識に唾を呑み込んだヤンにクレスニクが囁きかける。

「本当にいいんだな? ここを降りたら後戻りは出来ねえぞ。ずっと降りるだけだ、暗くてくせえ闇の中を」

「……ああ」

 元より、それが自分の道だ。腰に吊った短刀を握りしめ、意を決してヤンは闇の中へ足を踏み出す。

 ポケットの中に突っ込んだままの飴袋が揺れ、小さく音を立てた。


「……あれからもう五年かあ。クレスもヤン君も、元気にしているといいけれど」

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