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第十話 お前などいらない

 ひどく寒い。ヤンは外套に手を伸ばそうとし、そもそんなもの持っていないことに気がついた。

 ここはどこだったろう。目を開けても暗く低い鋼鉄の天蓋と、それを柱めいて支える檻しかない。寒さに身じろぎすると体のあちらこちらがずきずき疼いた。血の匂いがする。

「血」

 そうだ……グレーテが血を! 今に至るまでの記憶が走馬灯のように駆け巡る。胸にナイフを突き立てられ噴水のように血を流した挙句吸血鬼の血を注ぎ込まれた妹。彼女は、そしてあの白髪の吸血鬼はどうなっただろう? 確か奴の仲間らしい吸血鬼がやってきたことまでは覚えている。それから……それからどうなったのだっけ? わからない。ただただ、寒い。

 グレーテは……かつてグレーテだったものはどうなったのだろう。吸血鬼達にどこかへ連れていかれたのだろうか。どこへ行ったのだろう? 天国だろうか、地獄だろうか。ここよりも寂しくない場所だろうか。そうか、もうグレーテがヤンと一緒に眠ることは二度とないのだ。そう気づくと、体を覆う寒さが増した気がした。

 あれから何回朝が来て夜になったのだろう。わからぬままに目を閉じて、また開く。……お腹が空いた。ヤンは震える手を口の中に突っ込んで歯を立てた。流れ出た血を美味しいと思うことは出来なかった。なんだ、あいつはあんなに美味そうに飲んでいたくせに、こんなのちっとも美味しくないじゃないか。しょっぱいし温いし、金具を舐めたみたいな変な味がする。こんなものの為にあいつは村の人達を殺したのか。だったらこんなもの、もういらないや。手を口から出して床に放り出す。どくどくと血が床に撒き散らされるたび、ヤンの体から熱が逃げ、寒い。

 自分が生きているのか死んでいるのかもよくわからない。いや、多分もう死んでいるのだ。妹をあんな風にされて、自分だけ生きているだなんておかしい。それで神様が怒ってヤンに罰を与えたのだ。天国にも地獄にも行けないように檻の中に閉じ込めたままにしてしまったのだ。暗くて、静かで、一人ぼっちでいることは、こんなに悲しくなることだったのか。

 寒い。寂しい。怖い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い――――――

「おやまあ。子ネズミにしては随分大きいねえ」

 ふいに、天蓋がどろりと溶けた。

「……え」

 まるで蝋細工のようにヤンを閉じ込めていた檻がどろどろと溶け落ちていく――そうして目の前に広がる光景に、ヤンはようやくここがどこかの荒れ果てた屋敷の一室であったことを思い出した。月光と寒風を部屋の中に招き寄せる壊れた窓、すっかり擦り切れ部屋中に破片を舞い散らせる寝具。そして、もう乾ききっているはずなのに未だむせ返るほどの匂いを発するグレーテの血。ヤンの乏しい語彙では精々『地獄』としか呼ぶことのできないその空間の真ん中に、その女はいた。

「ぁ……だ、ぉ、……ぇ……」

 なんだ、お前。そう紡ごうとしたヤンの喉は驚くほどに乾き、まともな音を発することが出来なかった。立ち上がる力もなく、這いつくばった状態のまま呆然と見上げるヤンを女はくすくすと笑う。

「いっひっひ。お仲間の気配と思って来てみれば、いるのはドブネズミの一匹ぽっちとは……大魔女モルガーナ様もいよいよヤキが回ったかねえ」

「ま……じょ」

 魔女。そう言われると確かに、その女は魔女以外の何物でもなかった。ぼろのローブから伸びる白い腕、毒々しく赤い長い爪。眉間と鼻の間に何やら奇妙な金属とガラスの小さな窓めいた細工物を掛け、それを覗く瞳は人間離れした赤紫。鈴を転がすような美しい声色にすらなぜか背筋が寒くなる。今しがた檻を溶かしてみせたのも魔法を使ったに違いない。

「魔女を見るのが珍しいかい? そんなに魔女の気配をべったりつけているのに」

「………………」

 いや……なぜこんなところに魔女がいる? 人間どころかネズミすら近寄らないような荒涼とした山中の小さな屋敷……仲間の気配? 魔女の匂い? あまりにも突然に現れた魔女をただただ見つめることしか出来ないヤンに対し、魔女は部屋の中を気だるげに見回した。

「……珍しいこともあるもんだねえ。吸血鬼が人間に自分の血を注ぎ込むなんて、千年前には笑い話にもならなかったろうさ。豚と結婚するようなもんだろうに、猿の血でも吸って頭をやられたのかね」

「!」

 この女は今なんと言った……まるで見てきたかのようにこの部屋で行われたことを把握している? ついさっきまでいなかったはずの魔女が。

「で、あんたは娶られるどころか餌にもされず忘れられて、今の今までずうっとネズミ捕りの中で朽ちるのを待ってたってわけさね。惨めだねえ、それこそドブネズミだってもう少しましに死ぬだろうさ」

「……だ……ぁ、れ……」

 黙れ、お前に何がわかる。何もかもを見通しているかのような魔女が腹立たしく、回らぬ舌で言葉を紡ぐ。

「ああ、何もかもわかるさ? おっかあにも村人にも見捨てられ、命より大事な妹は吸血鬼に奪われて、痛いのとひもじいので動くことも出来やせず、寒い寒いって泣きべそかきながら死ぬところだったんだろう? ああ惨め惨め、お涙頂戴の三文小説さねえ」

「だま、れ!」

 今すぐにでもあの女をくびり殺してやろうと最後の力を振り絞って飛びかかろうとする。だが、立ち上がる力すらないヤンにそんなことできようはずもなく、精々半インチも魔女に近づくことは出来なかった。そのあまりの惨めったらしさに、ヤンを嘲笑っていた魔女もさすがに笑みを消した。

「……哀れもここで極まれりだねえ。いっそ介錯してやりたくなってきたよ。ここまで酷いのを見るのはこのモルガーナも初めてさ。いるんだねえ、幸せから嫌われている奴ってのは」

「…………」

 幸せから嫌われている。なるほど、今まで散々嫌われてきたヤンだ、幸せにすら嫌われていてもおかしくはない。ヤンを愛していたのはただ一人、血を分けた妹のグレーテだけだった。

 そして、グレーテももういない。ヤンと分けた血は吸血鬼によってそこらに撒き散らされた。

「さあ、首をお出しよ、坊や。この大魔女様が直々にお慈悲をくれてやろうじゃないさ。どうせ洗礼も受けていないんだろう? このまま野垂れ死んで地獄に落ちるよりはずっとましに使ってあげる」

 白魚のような手がヤンの首に伸びる。魔女は人間の魂を魔法に使うと聞いたことがある。地獄に落ちるのと、魔女の魔法にされるのと、一体どちらがましなのだろう。……まあ、でも。これで楽になれるなら……

「…………だ、」

 駄目だ。

「……何さ。今更あんた、生きていかれるような希望や理由はないだろう? 大事な妹はもういない、このまま生き延びたところでまたろくでもないところで死ぬだけさ。あんただって思ってたじゃないか、妹を見殺しにした自分が生きているのはおかしいって」

 そうだ……その通りだ。どうしてグレーテじゃなくて僕が生きている? 誰もかもから嫌われているヤンこそが本来死ぬべきだったのだ。……けれど、けれどだ。

「……死ぬなら、俺だ。……でも、殺したのは、あいつらだ」

「へえ?」

 魔女が手を止め、興味深そうに眉を上げた。確かにヤンは沢山のものから嫌われていたかもしれない。しかし、こんな風に惨めに死なねばならないほどの罪を犯したことはないはずだ。ヤンだけではない、グレーテも、あの憎ったらしいヨーゼフも、沢山の村人も、決してあんな残酷に殺されるような理由なんてなかったはずなのだ。ふつふつと、心の中で何かが煮える。

 そうだ、なんでヤンが死なねばならない? もっと死ぬべき奴等がのうのうと生きているのに、どうして! あいつらこそが死ぬべきじゃないか、村人達を弄んで殺し、グレーテを奪った、吸血鬼達こそが!

「何か理由が見つかったかい? あんたをくそったれみたいに扱う世界で死に損ない続けるような理由が……」

 そこまで言って、魔女は何か面白いことを思いついたようににいいと唇を吊り上げた。それはネズミを見つけた猫の表情によく似ていた。

「そうさねえ、だったらこうしようじゃないか! あんた、魔女がどんな魂を魔法に使うか知ってるかい?」

 昔、村人の誰かが子供を怖がらせていたのを思い出す。魔女はわざと悪い奴に力を貸して、その魂が罪で汚れきったら殺してしまい、そうして最も邪悪な黒魔法に使うのだと。

「そうさあ、それこそが魔女との契約。生きている間は沢山良い思いをさせて、死んだあとはそのツケを魂で払ってもらおうってわけさ。坊やみたいな魂じゃたき火を燃やすにも使えないからねえ」

 ヤンと契約して、その見返りに魂を奪おうというのか。確かに魔女の力を借りればどんな願いでも叶うだろう。魂を差し出さねばいけないのは少し恐ろしいが……どうせ普通に死んだところで地獄に行くだけだ、大した差などないだろう。

「それで、どんな風に生きたいんだい? 大魔女モルガーナ様がなんでも願いを叶えてやろうじゃないさ。この世の誰より大金持ちになりたいかい? 世界一の美女を嫁にするどころか、ハーレムを作ることだってできるだろうさ。世界のありとあらゆる美食を食べることもできるねえ。王になって贅の限りを尽くしてみるのもいい。この世の真理やら知やらを極めたり、魔法を使いたいってならそうしてあげようさ。あるいは全部ひっくるめて叶えてやろうかい?」

 魔女があげつらった例はきっとどれも魅力的な願いなのだろう。どれか一つでも叶えてもらえればそれ以上の幸せはないに違いない。だが。

「吸血鬼を殺す」

 幸せなどいらない。

「すべての吸血鬼を殺す。吸血鬼という吸血鬼を全部殺してやりたい。それが、俺の願いだ」

 ただひたすらに吸血鬼という理不尽が憎かった。その為には何を犠牲にしたって構わないと、本気でそう思った。どうせ幸せには嫌われている。それに、グレーテがいないのにどうしてヤンだけ幸せにならなくてはならないのだろう?

「……後悔しないね?」

 ヤンの言葉に魔女は妖しく目を細めた。

「魔女との契約はがきの口約束とはわけが違うんだよ……あとから嫌になったって取り消しもばっくれもできやしないんだからね?」

「構わない」

 最終確認すらもどかしく頷く。

「魂でも心臓でもなんでも持っていけ。俺の願いを叶えろ」

「……いいじゃないか。気に入ったよ、坊や」

 ふいに、ヤンの体がふわりと宙に浮いた。ぎょっとして周りを見ると、景色も荒れ果てた室内からぬめりとした暗闇へと変わっている。だが、不思議と寒さはなかった。何かの体内に飲み込まれたかのように仄かな温もりに包まれている。

「お望み通り、あんたの願いを叶えてやろうじゃあないか――あんたは精々頑張って、望みに似合うよう魂を育てるんだよ」

 魔女の声が奇妙に反響して聴こえてくる。ああ、と再び頷いたか頷かないか自分でもわからないうちにヤンは意識を失った。



  ◆



「ここで……いいんだよな?」

 ロムルスはそっとヤンの体を部屋の中央の寝台らしい大きな台座に寝かせる。魔女モルガーナによって招かれた奇妙な小屋。外側から見るとまるで木々が独りでに組み合わさって建物を作ったような外観だったが、中身は案外ちゃんと小屋としての体裁を保っていた。ロウソクが入っているわけでもないのに光を放つ奇妙なガラス玉、柱や壁に絡みついている何とも知れない巨大な骨、棚にひしめく奇抜な色の薬瓶だの、怪しげな物品が視界の隅にちらつくのが気になるが……。

「な、なんだよ、魔女の住処って言ったらお菓子の家じゃないのか?」

 湧き上がる不安を誤魔化そうとくだらない冗談を言ってみると、ロムルスがもたれていた柱が突然ぐしゃりとひしゃげた。

「うぎゃ!?」

 慌てて振り向き確かめる――まさか人狼の力で壊してしまったのか? 柱に触ってみると、しかしその感触は先程感じていたものより柔らかく感じた。まさか、と思って指先で少し千切って口に含んでみる。……甘い。

「これって……砂糖菓子か?」

「生憎、婆は最近のお菓子がわからなくてねえ。ケーキにした方が良かったかい?」

 困惑する間もなく後ろから声をかけられまたも飛び退いた。さっきまでこの小屋にはヤンとロムルスしかいなかったはずだ! しかし魔女、小屋の主は当然のごとくそこにいる。

「あの子も馬鹿な子だったよ……森の奥にそんなもの作って、小虫以外に何が来るって言うのかね。ようやく獲物が来たと思えば自分がかまどにくべられる始末さ、間抜けもいいところさね」

「あ、あんた……」

 目の前にいる女は若く、服装の胡乱さに目をつぶればとても魔女には見えない。しかし現実、宙に浮いてみせたり、ロムルス達を瞬時に別の場所に連れ去ったり、柱を砂糖菓子に変えたりと、魔法としか思えないようなことを次々起こしてみせている。モルガーナ……彼女なら今のヤンを助けられるのだろうか?

「おやおや。この姿は結構気に入ってるんだがねえ」

 と、モルガーナは何を思ったかロムルスの手を取り自分の胸元に持っていく。ゆったりとした服の上からでもわかる豊満で張りのある胸だ。自然と心拍が速まり、ロムルスはごくりと生唾を呑んだ。

「いきなり何を…………うぎゃああああああああ!?」

 次の瞬間ロムルスは腰を抜かしていた。ロムルスが触れていた豊かな胸はまるで水でも抜けたかのようにみるみるうちにしぼんで垂れていく。あまりのことに思わずモルガーナの顔を見ると、蠱惑的で美しかった顔も落ちくぼんでしわだらけ、まさにおとぎ話に出てくるようなおどろおどろしい魔女の老婆そのものになっていた。

「お、おば、お化けっ!?」

 尻餅をついたまま後ずさる。自分が狼に変身できる『お化け』であることを完全に忘れているロムルスである。

「きゃはははは! お化けだって、おっかしい! きゃはははは!」

 モルガーナだった老婆はそんなロムルスの醜態に腹を抱えて笑い出す。いや、老婆ではない。だぶついたローブを床に引きずり、あどけない顔をほころばせているその姿は少女としか言いようがない――艶やかな金髪と奇怪な装飾品が辛うじてモルガーナの面影を残している。

「あたし、魔女だもん! 姿なんてどうにだって変えられるわ。お兄ちゃんみたいに狼になったり、猫や蛇にだってなれるのよ?」

 そういって少女のモルガーナは可愛らしい顔に毛を生やしたり紅葉のような手に鱗を生やしたりしてみせる。背筋が凍るような光景に耐えられずロムルスは叫んだ。

「わ、わかった! あんたは魔女だ、もうわかったよ!」

「わかってくれて何よりさね」

 瞬きする間に最初に見た美女の姿に戻って笑うモルガーナ。ロムルスはほっと溜息をつきかけ、すぐにヤンのことを思い出した。

「……こんなことやってる場合じゃないだろ! ヤンが大変なんだ!」

 寝台に横たえたヤンを振り返る。まだ息はあるようだが、かなり出血したせいか黒い肌がすっかり白くなってしまっている。息が出来ているのが不思議なくらいだった。

「そんなの見ればわかるさね。この婆を一体誰だと思っているんだい? ほら坊や、いつまで寝ているんだ、さっさと起きるんだよ」

 モルガーナが乱暴にヤンの頬を叩く。びしびしと顔を叩かれ、ヤンは小さく呻いて目を開けた。

「……寒い」

「血が抜けたんだ、寒くもなろうさ。どうしてこうなったかちゃんと思い出せるかい?」

 ヤンはしばらく視線を彷徨わせ、やがて自分と同じくらい、あるいはそれ以上に傷ついているロムルスの姿を見つけ、ぎゅうと目をつぶった。

「……俺、よりも」

「はん、他人を心配できるザマだと思ってるのかい? 脳みそまで毒を回らせた覚えはないけどねえ」

 と、モルガーナは再びロムルスをじろりと見た。なんとなく居心地悪く身じろぎするロムルス。

「な、なんだよ?」

「まずあんたのみすぼらしいナリをどうにかしてほしいとさ」

 言われたロムルスは自分の姿を見下ろす。半分程人狼に変身している為わかりづらいが、今のロムルスは一糸もまとわぬ生まれたままの姿。全裸である。

「服なんてあとでどうにでもできるだろ?」

「おつむの中身まで犬とおんなじかい」

「なんだとっ!?」

 明らかに侮蔑が含まれた溜め息に拳を握る。そしてふと違和感を覚えその手を見ると、吸血鬼ハイドの鱗によって付けられた傷が消えていた。

「……あれ?」

 拳だけではない。あばらやすねといった折れたあちこちの骨が綺麗に治り、付けられた傷もすべて塞がっていた。人狼の力にしてもいくらなんでも早すぎる。目を白黒させるロムルスにモルガーナは服を投げつけた。

「ほら、これで気が済んだかい? さっさとそれを着て大人しくしているんだよ、犬の坊や」

「……ありがとう」

 変身する際跡形もなく引き裂かれたそれと寸分違わぬ形、大きさの服に袖を通しながら(もちろん、その為に人間に戻った)、ロムルスはヤンとモルガーナのやりとりを見つめる。犬呼ばわりされたことは頭にくるが、これ以上ヤンの治療を遅らせるわけにはいかない。

「随分無茶をしたもんだ。呆れたねえ、いっそ見捨ててやりたいよ」

「……出来るものなら、やってみろ」

 ヤンの減らず口を鼻で笑いながらモルガーナはヤンの服に手をかけた。むき出しになる上半身。傷口に触れてしまったのか、ヤンはまたも呻いた。

「っ……!」

「ま、定期的なメンテナンスもメーカーの責任だからねえ。だが、治してもらえると思ってこうも好き放題されちゃあむかっ腹も立つってもんさ」

「ぐッ……っあぁ……!」

 治せなくなったら知らないよ――とモルガーナが取り出したのは、先端に槍のような刃が付いた長い管だった。モルガーナはその刃を躊躇いなくヤンの心の臓へと突き立てる。

「お、おい、何して……むぐ!?」

 抗議の声を上げる間もなく、ロムルスの口はどこからともなく伸びてきた蔦に塞がれる。どうやら小屋を形作っていた木々や植物が独りでに動きロムルスに絡みついたらしい。慌てているうちにロムルスの手足はすっかり縛られ壁に固定されていた。

「むぐ、むぐー!」

「やれやれ。犬がこれ以上うるさくなる前に終わらせちまおうか」

 モルガーナが管の先を見やる。長い管は小屋の奥に鎮座する、禍々しく脈動する黒い巨大な心臓めいた物体に繋がっていた。モルガーナがぱちんと指を鳴らすと、黒い心臓が一際大きく脈打ち黒い液体をヤンに向かって押し出した。

「がぁああッ!」

 ヤンの体が痙攣する。黒い心臓はどくどくと激しく脈動して毒血カンタレラをヤンの体に流し込んでいく。白くなっていた肌に血色が戻り、見覚えのある黒色へと戻っていくが、ヤンの様子を見ると回復しているようにはとても見えない。毒血をその身に流し込まれるたび顔を苦悶に歪ませ、抵抗するようにもがく手足が空を蹴り、寝台を引っ掻き酷く落ち着かない。これが治療? ロムルスの目には拷問をしているようにしか見えなかった。

「もがっ……お、おいやめろ!」

 絡んでいた蔦を力づくで引き裂き、モルガーナに掴みかかる。モルガーナは平然と、どころか冷めきった目でロムルスを見る。

「早く止めろよ! ヤンを殺すつもりかよ!」

「とんでもない。坊やを生かしてやる為にやってるんじゃあないか」

「だって……ヤンが苦しんでる!」

「そう望んだのは坊や自身さねえ」

 煙に巻くような答え。やっぱり騙されていたんだ、こいつはヤンを殺す気だ! そう決め込んだロムルスは拳を振りかぶった。

「おやおや、何をする気だい?」

「うるさい! 早く止めないと、こうだぞ!」

「やれやれ、あんたはよっぽど坊やを殺してやりたいらしいねえ」

 モルガーナの言葉にぎょっとする。殺す? ヤンを殺そうとしているのはモルガーナの方ではないのか?

「あのねえ。この坊やはこのモルガーナと、魔女と契約したんだよ? それがどういうことなのか、犬のおつむじゃわからないかい?」

 魔女との契約。その対価は魂。

「その坊やはあんたと出会うずうっと前から、このモルガーナに魂を売り払っているのさ――吸血鬼を殺すとか、妹の復讐とか、そんなちんけな願いの代金としてねえ。で、もしその契約ビジネスが反故にされたらどうなると思う?」

 赤い爪を生やした指が空を掻く――その掌の上に心臓を形作った鬼火が灯った。

「復讐は辛いからもうやめたい? これ以上痛い思いはしたくない? 理由はどうだっていいさ。だがこれまで散々世話を焼かせておいて、今更キャンセルでハイサヨナラなんて聞けるわけないねえ」

 モルガーナが手の中の火を握り潰すのと同時に黒い心臓が一層激しく脈打った。

「ぐあああああああああああああッ!」

「ま、まさかお前……!」

「つまり、あんたが止めたところで誰も得しないのさ。坊やは復讐を完遂できずに死に、魔女は中途半端な魂しか得ることができない……。坊やの命が惜しいのなら黙って指でもくわえてるんだね、人狼の坊や」

「なんだよそれ……めちゃくちゃじゃないか!?」

 一体ヤンが何をどんな風にモルガーナに願ったかはわからない。けれどそれは、こんなにも苦しんでまで叶えなければならない願いなのだろうか? 願いの為に戦ってその身を傷つけているというのに、その願いが叶ってもなお魔女に魂を支払わなければいけないような?

「おや、おふくろさんから教えてもらわなかったかい? 魔女が悪徳高利貸しだってのは今更の話じゃあないか。坊やだってそれを承知で契約したんだからねえ」

「ふざけんなこのばばあ!」

「……うるさい、ぞ」

 ヤンの声にはっと振り返る。施術が終わったのか管が抜かれた胸の傷をおさえ上体を起こしているヤン。普段通り愛想がなく冷たい声だが、やはり先程の拷問めいた治療の名残が表情に残っている。

「ヤン!」

 血色は元に戻っている。首やあちこちの傷もきちんと塞がっているようだ。『治療』で負ったダメージ以外は残っていないようだった。ロムルスは一安心しつつヤンの肩を掴む。

「大丈夫か!? もう動いて平気なのか!?」

「お前の目は節穴か」

「でも……でも、お前!」

 こんな状況でなんで平気でいられるんだ。そう思うと、ロムルスの口は勝手に動き出していた。

「何考えてるんだよ!? 契約って……お前このままだと死んじゃうぞ!?」

「復讐だ」

 ヤンの眼差しは冷たく暗い。

「吸血鬼を殺す。俺の人生はその為だけにある」

「そんなわけあるか! ずっと痛くて辛くて苦しいだけなんて人生じゃないだろ!」

「やれやれ、喧嘩ならよそでやってくれないかねえ」

 モルガーナが指をぱちんと鳴らす。それによって周囲の景色が一変したことにもロムルスは気づかない。

「復讐って、お前の幸せを犠牲にしてでもやんなきゃいけないのか!? お前の幸せは、お前の人生は、一体どこにあるんだよ!?」

「うるさい」

 ふいに、ヤンの声に鋭さが増した。

「わかったように言うな」

「わかんねーけど……だから心配なんだろ!?」

「誰がいつ心配してくれと言った!」

 突然怒鳴ったヤンにロムルスは思わず後ずさりした――じゃり、と小石を蹴る音で、自分達がいつの間にかハイドと戦った林に戻ってきていることに気づく。そんなロムルスにヤンは逆に詰め寄り返す。

「お前に心配される筋合いはない。いらないお節介だ、お前の自己満足の都合を俺に押し付けるな」

「自己満足……そうかもしれないけど、でも!」

「うるさい!」

 短刀《裏切》を鞘ごと腰から抜き、その切っ先をロムルスに向ける。尋常ならぬ雰囲気にロムルスも身構えると、ヤンは躊躇いなく裏切をその身に叩きつけようとした。

「ッ!」

「やめろ、ヤン!」

 頭を狙ったその一撃をロムルスはとっさに腕でガードする。真似事や嘘では生じない痛みに、ロムルスは人狼に変身すべきか悩んだ。しかし短刀が鞘から抜かれていないのを見てその考えを捨てる。

「知ったような口を利くな……お前は俺を何も知らない! お前が俺を語るな!」

「っ……そうだな、知らないよ。全部オレの自己満足なんだろうな。けどさ……!」

 次に振るわれた一撃をかわさず、あえて掌で受け止める。そのまま短刀を握り込み、動きを止められたヤンに手を伸ばした。

「……!」

「オレはお前に死んでほしくないんだ! それじゃ、それだけじゃ駄目なのかよ!?」

 一発食らわされる――そう確信して怯みかけたヤンを、しかしロムルスは殴らず伸ばした手でヤンの手を取った。その眼差しにはなんの敵意もなく、ただ純粋にヤンを心配しているようだった。そんな彼がヤンには恐ろしくてたまらなかった。

 理由もないくせにこうもヤンを大切にしようとするロムルスが怖い。いつか自分までロムルスのことが大切になってしまうのではないかと思うと恐ろしい。そうしてまたいつか、グレーテやゲルダのようにうしなってしまう日が来るのが怖い――強いはずのロムルスが、ヤンのせいで死んでしまうのが恐ろしい。


(貴方はきっと、誰も守ることはできない)


「……黙れッ!」

 掴まれた鞘から裏切を引き抜き、ロムルスの手を振り払う。そしてそのままその刃をロムルスの首に向けた。

「俺には何もいらない、幸せなどいらない、お前などいらない」

 だが、手が妙におぼつかない。裏切をロムルスの首につきつけたまま、ヤンはがたがたと震える手を必死で抑えようとした。なぜだ? 前はこうじゃなかったはずだ。前にこうした時は……!

「これ以上、俺の中に入ってくるな……!」

「……ヤン」

 時が止まったかのように、二人はしばらく硬直していた。ヤンの震える手を、その表情を、ロムルスはじっと見つめ、やがてふっと笑った。諦めたようなその顔に、ヤンの胸はなぜか締め付けられる。

「……ごめんな。オレ、ずっとお前の邪魔だったんだ」

 手の震えがいよいよ強くなり、ついに裏切を取り落としてしまう。ロムルスはそれにも構わず続けた。

「……オレ、いっつもそうなんだよな! 相手のことちゃんと考えないで余計なことばっかしてさ……レミーにもうざがられてたのに、お前にもやっちゃった」

「………………」

 違う、と否定の言葉が口から飛び出しかけた。一体何が違うのか、自分自身にもわからないまま。

「本当に、ごめんな。お前がちゃんと考えて決めたことなら邪魔しちゃ駄目だよな。……うん、本当、ごめん。オレ、いらないよな」

 これでいい。これでいい、はずだ。

「そうだ、ごめんの代わりじゃないけどさ、これ持ってってくれよ」

 と、ロムルスは首のチョーカーに手をやり、そこにつけていたトップ――アルファベットが刻まれたメダイユを外し、裏切を取り落としたヤンの手に握らせた。

「これさ、幸運のお守りなんだ。結構御利益あるんだぜ? お前あんまし運なさそうだもんな、最後のお節介だと思って持ってけよ」

「…………ロムルス」

「……じゃあな! 頑張るのはいいけどさ、あんまり無理すんなよな!」

 ヤンがメダイユを受け取ったのを確認すると、ロムルスは何か焦ったようにヤンに背中を向けた。その背中に何か言葉をかけようとして、しかしその口から何も出ることはなかった。どんな言葉をかければいいのか、そもそもそんな資格が自分にはあるのかもわからず、それでも何か言おうとして口を開いた時には、既に銀髪の持ち主は風に吹き消されたように姿を消していた。

「………………」

「坊やの選択が正しいよ」

 もはやヤン以外誰もいなくなったはずの林の中にモルガーナの声が奇妙に反響した。

「人狼なんかと関わってもろくなことにならないよ。今はああでも、いずれ理性をなくしてただの獣になる。坊やなんか一口で食べられちまったろうさ」

「……うるさい」

「本当、つれない坊やだこと」

 肩をすくめたような気配を最後にモルガーナの声が消えた。裏切を拾って鞘に納め、メダイユを乱暴にチュニックのポケットに突っ込むと、ヤンもとぼとぼと歩きだす。

「これでいい」

 これでいいんだ。何もおかしなことはない、何もかも元に戻っただけなのだから。あんな奴と出会ってしまう前と同じになっただけだ。

「俺は、これでいい」

 ただ一つ、以前にはなかったポケットの重みを無視し、口の中で繰り返し呟きながらヤンはひたすらに歩みを続けた。


吸血鬼大全 番外編 魔女

魔法、魔術、呪術、薬学、錬金術を扱う人間の総称。男性の場合は魔法使いとも呼称されるが魔女と呼ばれる方が一般的。

同じ人類を利用する存在として吸血鬼と敵対関係にあり、千年前の《聖魔戦争》以来たびたび衝突を繰り返している。猛毒カンタレラもその際製作されたと言われている。

簡単なまじないをかけることしか出来ない者からモルガーナのように時間も空間も超越した存在である大魔女など、吸血鬼同様その力量には大きく格差がある。魂を扱うことのできる魔女は実はごく少数である。

現在は吸血鬼の襲撃や人間達からの弾圧によりその数を大きく減らしている。

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