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歴史いろいろ話  作者: 辻風一
歴史いろいろ話
7/21

松尾芭蕉忍者説

松尾芭蕉は江戸時代前期の俳諧師で、その「俳句」は世界的に有名な人物だ。

 そんな松尾芭蕉が忍者だったという説があるのをご存じだろうか。その根拠となった疑問点を紹介する。


1、出身地が忍者の国


 松尾芭蕉は寛永21(1644)年に、伊賀国上野、現在でいうと三重県伊賀市の出身で、松尾与左衛門の次男として生まれる。先祖は福地氏で、天正伊賀の乱では織田信長方についた。伊賀はその後、藤堂藩の支配となる。

 母方は百地三太夫の子孫だ。たしかに忍者の家系だが、零落して苗字・帯刀はゆるされたが、身分は農民で、藤堂藩では「無足人」と呼んだ。しかし、なにかが起これば槍・刀をもって馳せ参じ、武士となる、郷士のような存在の家に育った。

生まれたのは関ヶ原も大坂の陣もすぎた1644年。平和になった時代である。しかし、太平の世となってからは、忍者は必要なくなり、江戸幕府の伊賀組となるか、藤堂家の家臣、もしくは百姓となるしかなかった。

 松尾芭蕉は俳諧を好む藤堂良忠に仕える。無足人から武士となったのだ。この人物は藤堂藩の城代付侍大将である藤堂新七郎良清の三男だ。この藤堂良清は保田采女(藤堂采女)の一族で、服部半蔵のイトコである。ちなみにこの人たちは上忍の家系で武士である。忍者は中忍、下忍の身分の人物をさす。

 二歳上の良忠が松永貞徳や北村季吟に師事して俳諧を学び「蝉吟」という風流な号を持っていました。これがきっかけで、芭蕉も影響をうけて俳諧を習いました。

 ところが、主君の藤堂良忠は25歳の若さで逝去。23歳の松尾芭蕉は主君の遺骨を高野山に運び、この世の儚さを感じて武士をやめ、一所不在の身で俳諧の道に専念することにした。


 つまり、松尾芭蕉は忍者の国で有名な伊賀の国の出身で、先祖は忍者だが、武士となり、そして俳諧師となった。


 だがしかし、前半生は謎が多いので、「無足人」の家で、幼少時に忍者の訓練をしていない、とは断言はできない。

 なにせ、幕末に黒船が来航したおり、江戸幕府の老中・阿部正弘は幕府の伊賀組の者ではなく、わざわざ伊賀上野の藤堂藩の忍者・澤村甚三郎保祐を呼び寄せ、船上パーティーに日本側随員として同行させている。忍術は藤堂藩で幕末までひそかに伝えられた可能性があるのだ。


2、「奥の細道」の旅の移動距離が速すぎるのは、忍者だったから?


 松尾芭蕉は元禄2(1689)年の3月末、弟子の河合曽良を伴い江戸をたち、奥羽・北陸への旅に出ます。それは西行、能因などのいにしえの歌人たちと同じく、歌枕の地をおとずれ、俳諧にひたる旅でした。

 そして、北陸路を巡り、9月美濃(今の岐阜県)大垣まで旅をする。この旅した紀行文が有名な「奥の細道」である。

 この芭蕉の「奥の細道」行は、実はスパイ活動を目的としたものではなかったのか、という説がある。

 松尾芭蕉は当時45歳。「奥の細道」の旅は六百里(約2400キロ)にわたり、一日に十数里もの山や谷も歩いた。

 毎日平均四里(約16キロ)を歩き、ときには一日に十数里(約40~50キロ)も歩いたという……


現 代の人間よりも、江戸時代の人間の方がよく歩き、健脚だったが、それでも当時の年齢にしては大変なスピードと距離だ。

 当時の飛脚にはナンバ走りという独自の走法があり、忍者にも早歩きの秘術がつたわっています。芭蕉が忍者なら、若い頃から鍛えていた可能性もあります。


 しかし、私は逆にこれを否定する考えが思い浮かんだのですが……

お金の無い庶民の旅と違い、松尾芭蕉は有名人で旅の行く先々で弟子や有力者が歓待したそうです。ならば、徒歩の旅ばかりではなく、足に肉刺ができて、あるいは疲労したとき、駕籠を頼んだり、川を舟に乗ったりはしなかったのでしょうか?

ならば、年齢の割に異常な健脚というのは誤解だったのではないでしょうか?


3、俳諧師は忍者の可能性がある


 俳諧とは中世の連歌から発展しました。 その連歌師たちは諸国を遍歴して歌をつくるのですが、時の権力者から敵情を探る任務をさせられた者もあったようです。

連 歌師にかぎらず、日本各地を旅できる者、僧侶、山伏、商人、放下師、能役者などもスパイ活動をしたという記録があります。

 室町時代の連歌師・柴屋軒宗長は今川家の重臣・朝比奈氏の守護する掛川の城を綿密に探って、日記に書き残しています。城のことを記録することも、絵図面を描くことも、見つかれば殺されても言い開きのできない危険な行為です。

 これらは、いわば素人ですから、中には悲惨な目にあった方も多かったでしょう……


ま た、伊賀、甲賀の忍術書には僧侶、山伏などに変装して諸国を探索したという潜入の術があります。

 姿形を坊主や商人の髪型・服装にして、諸芸・物真似に熟練して臨機に応用する訓練をしたとあります。

 また、忍術には「陽忍」と「陰忍」というものがあります。後者は姿を隠して潜入する、一般に知られた忍者です。前者はじぶんの姿を堂々と見せて敵中に入ることをいいます。

 さらに「陰忍」は二通りあり、「遠入りの法」は数ヶ月、あるいは数年にかけて敵地に潜入する「草」と呼ばれる長期間の術であり、「近入りの法」は短期間に潜入する方法です。


 松尾芭蕉の俳諧の旅は、実はこの「陰忍・近入りの法」ではなかったのか?

芭蕉ほどの有名人ならば、まさか彼が幕府の隠密とは信じがたいですし、もしも他藩で隠密とばれても、殺害すれば、天下の注目が集まります。なにかやましい事が藩に隠されているのでは?と幕府が公然と調査に入ってきてしまいます。

 後ろ暗いところのある藩は陰謀がばれますし、何もなくても藩のお取り潰しの機会を与えてしまいます。うかつに手を出せない人物なのです。


4、旅の目的は外様藩の軍事基地の調査だったのか?


 旅の日程も少し疑問があります。旅立ちの前に松島に焦がれ、「松島の月まづ心にかかりて」と言った芭蕉だ。なのに、黒羽で13泊、須賀川で7泊しているのに、目的のひとつである仙台藩の松島では1泊しかしてない。俳諧も一句として詠まなかった。

 この矛盾した旅の日程は、実は仙台藩の情勢をひそかに調べるためではなかったのか?他にも仙台藩領内では不思議な行動、異常な行動が多く見られます。


 共に旅した弟子の河合曽良の日記には、瑞巌寺、石巻港を見物したと書かれている。これらは実は仙台藩の軍事基地ではないかと言われています。松島見物はカモフラージュで、これを探るのが真の目的だったのではと疑われているのです。

 それというのも、江戸幕府は仙台藩伊達家に日光東照宮の修繕を命じたが、莫大な出費がかかるので、仙台藩が謀反をたくらむ可能性があったのではという説があるのです。


5、旅の資金はどうやって用意したか?


 旅をするにはお金がかかります。普通に生活するのもお金がかかります。

松尾芭蕉は江戸にきて俳諧師として有名になると、俳句の添削もやめて俳諧に専念します。 幕府の家臣でも、大名の家臣でもない彼はどうやって生計をたてたのか?奥の細道などの旅行費はどうやって捻出したのか?

 もしかして、幕府に隠密として雇われたので、スパイ活動の資金をひそかにもらっていたのではないのか?という説があるのです。


 弟子の曽良の「随行日記」には、旅先で蕉門の門人や知人をたずね、食べ物やワラジをもらい、ときには多額の金子の喜捨があったと記されています。


 当時の俳諧師や絵師などは大商人や裕福な武家のパトロンがいました。パトロンとは芸術家などを支える経済面での後援者、保護者の意味です。

 地方の俳諧をたしなむ有力者が江戸へ来たとき、芭蕉の弟子となり、こんど旅でそちらへ寄ることを手紙で知らせ、俳句の会を開いたり、講義したりする代わりに援助を受けていたようです。

 芭蕉に限らず、他の俳諧師、絵師など芸術方面の職業の者はこうやって資金を得ていました。地方の有力者の弟子も、江戸の有名な師匠が訪問してくるとは……と近所で評判になります。その地方で新しい弟子志願者が増え、その人々からも歓待され、後援の輪がひろがりました。

 有名人ならではの資金獲得方法ですね。ならば、命をかけて隠密活動をする必要はないのでは……

 これは現在でも、全国区のメディアで有名な芸能人やタレントが地方営業にきたり、有名な芸術方面の方が地方公演をしたりしたほうが儲かるという実情と似ているかもしれません。


6、記録の食い違い


 さらに言うと、弟子の河合曽良にも忍者疑惑があります。彼こそが、真の隠密で、有名な師匠の影にかくれて調査したのでは、と。水戸藩が曽良に調査を依頼したという説があるのです。


 芭蕉の死後、徳川6代目将軍家宣の時代、曽良は幕府派遣の第四回諸国巡見の「巡見使」の随員として九州の調査をしています。1709年の61歳で任命され、翌年の巡見使の旅の途中、病死しました。

 

 巡見使とは、幕府が諸国の大名や旗本の監視および調査をするために派遣した上使のことで、公的な調査機関でした。どんな政治をしているか、「美政・中美政・中悪政・悪政」と格付けして判断しました。悪政と判断されると、藩がお取りつぶしとなるので、大名たちは巡見使を過度に接待したそうです。他にもキリスト教禁止令、物価や相場、海防などを調べたりしました。

 彼ら巡見使にも不正がないか、御庭番がこっそり調べたそうです。


 この二人の師弟は互いの記録、松尾芭蕉の「奥の細道」と、河合曽良の「曽良旅日記」(「奥の細道随行日記」)には80ヶ所以上にわたり相違点があります。江戸深川を出た日から違いがあるのです。芭蕉は3月27日、ですが曽良は3月20日……

 旅の記録が、隠密活動を秘するために、ウソで塗り固められ、破綻したとも考えられます。しかしこれも、たんに勘違いや間違いだった可能性もあります。


 あるいは二人とも幕府の隠密だったか……

 それとも二人ともまっとうな俳諧師だったのか……

 今となってははっきりしません。

 そもそも忍者自体が記録を残さない謎の存在なので、松尾芭蕉忍者説もそこから生まれた仮説なのでしょうね。

 芭蕉が忍者であってもなくても、偉大な俳諧師であったことは確かです。

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