徳川家康と遭遇した妖怪
徳川家康といえば、江戸幕府を開いた歴史上の実在の人物である。
そのような人物が昔話に登場する幻想世界の住人である妖怪と遭遇した話があったことをご存じだろうか?
まず、慶長14(1609)年3月4日
春とはいえ、未だ肌寒い季節、漆黒の夜空に四角い月が現われ、人々を仰天させる珍事があった。
これは不吉な前触れかも知れぬと、人々は騒ぎになりました。が、心配をよそに四角い月は消えてしまいました。
なんとも不気味な出だしです……
そして、同年4月4日
徳川家康が駿府に在城していた頃のある日の朝、城の庭に異形の者が現れた。
小児くらいの大きさで手はあっても指はなく、肉人というべきものだった。その手で天を指して立っている者がいた。家臣たちは騒ぎ立ち、追い回した挙句、城から離れた小山に追い払ってしまった。
これをある人が聞いて、それは惜しいことをした。これは白澤図に記載されている「封」というもので、これを食べると多力(力や権力が強いこと)となり、武勇にすぐれるという仙薬である。
何故捕えて料理して主君に家康に食させなかったのだ。また主君に差し上げなくても御仕えする近臣たちが食べれば、皆武勇に強くなり御役に立つべきものを、といって残念がったという。
これは文化時代の儒者・秦鼎が著し、浮世絵師で銅版画家の牧 墨僊の変遷した随筆『一宵話』巻之二「異人」』に記載された話です。
秦鼎は儒者らしく、徳川家康の時代の人々は生まれつき健康で武勇に優れていたので、そんな怪しげなものを食べる必要はない。家康公も家臣たちも「白澤図」を知っていたが、そんなものを食べて強くなるのは卑怯な振る舞いだから放逐したのだろうと戒めています。
もともと、「一宵話」は歴史書でも、怪奇説話でもなく、教訓をとく随筆集なのです。肉人は棚からボタモチのような偶然の福を期待する人間の愚かしさを諌めるために、引き合いに出した話でした。
まあ、それはともかく、妖怪の話に戻りましょう。
それにしても、警戒厳重な駿府城に不格好な肉人は、どうやって侵入できたのか?歴戦の三河武士がその異様な姿に驚いたというのだからよっぽどの珍事だったのでしょうね。
それにしても、慶長14年(1609年)の前の年には、駿河城の全焼事件があったばかりで、このころは日本各地で地震が頻発して「慶長大地震」という不穏な年でした。中国では異変の起こる前兆として異形の妖怪が出現して予言するといわれています。
この「肉人」という妖怪もその類かもしれません。
なにせ、こののち大坂の陣が巻き起こるのですから……
この「封」こと「肉人」は、佐脇嵩之『百怪図巻』や鳥山石燕『画図百鬼夜行』に登場する「ぬっぺふほふ」という妖怪に似たものという説がある。これは、顔と体のシワが混在した頭に手足の生えた、一頭身の肉の塊のような妖怪だ。
乾猷平はこれを、「古いヒキガエルが化けたものとも、狐狸の類」という。また、大盤山人偏直の洒落本『新吾左出放題盲牛』には、「目もなく耳も無く」「死人の脂を吸い、針大こくを喰う。昔は医者に化けて出てきたが、今はそのまま出てくる……」と記されている。
この妖怪がのちに妖怪「のっぺらぼう」の原型になったという説がある。
ところで、徳川幕府の公式記録『徳川実紀』にもこの事件が載っています。
「手足に指がないボロをまとった乞食が、駿府城内に現われたので、斬らずに追いだした」と記載されています。
あれ?実は「肉人」なる妖怪の正体は指のない乞食の話を後に膨らませたものだったでしょうか?
それとも、妖怪・幽霊のたぐいを否定する武士として、異形の妖怪の記録を乞食に変えて記録したのでしょうか?
話は変わりますが、隆慶一郎作の時代小説『影武者徳川家康』はこの『徳川実紀』を読み込みながら、作者が家康は影武者だっと仮定して、自由に創造を膨らませた小説です。
『影武者徳川家康』にはこの『徳川実紀』と『一宵話』のエピソードを元ネタにして、「青蛙の藤左」という忍者を創作しています。
この青蛙の藤左はもと武田忍びで、羽柴秀吉を暗殺しようとして捕らわれ、四肢の指を切られ追放されました。生き残ったが、雇い主も見つからず自殺しかけたところを、フランシスコ会宣教師ルイス・ソテーロに拾われ、キリシタン忍者となりました。
彼は麻袋に青蛙を常備し、それを食べる事からこの異名がつきました。駿府城へ忍び込み、肉人のごとき身のこなしをして、家康の家臣たちを惑わします。
キリシタン忍者にしたのは、前述の『一宵話』の続きに、「この怪物は切支丹なり。遂いやれと仰せられしというにて、封とは形のことなり。ツトヘビ(ツチノコ)、ソウタの類ならん」と註しています。
これを隆慶一郎先生は参考にしたのでしょう。
しかしなにゆえ、儒者先生が、突然、肉人をキリシタンと断定したのかはわかりません。異人を異国人と考えたのでしょうか?
それに異国人や乞食が、厳重な駿府城に侵入して家臣たちを弄んだのは不可解です。忍者か妖怪のシワザといわれたほうがしっくりしますが、真実はわかりません。
いずれにせよ謎の多いエピソードです




