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赤燐の異邦人  作者: 秋月冬雪
第一章 
9/38

ソフィアの興味

 それからもフレッドは週2回ほど古本屋に通っていた。彼がローゼンタール家のものであるということは次第に知られつつあったが、常連客はそれでも態度を変えずに接したので、相変わらず居心地が良かった。

 ある日の午後フレッドが古本屋へ向かおうと思い、邸の入り口を出ようとしていると、呼び止める声がどこからか聞こえた。辺りを見回したが声の主は見えない。空耳かと思って、気にせず出かけようとすると、また鈴を鳴らしたような声が静まり返った邸の中で、辛うじて聞きとることができた。

 階段が静かに軋む音がすると、三女のソフィアが現れた。

 ソフィアは寡黙なので、家族で食事をする際にもほぼ話をしているのを見たことがなかった。その彼女がフレッドを呼び止めるので、何事かとフレッドは動揺した。

「ソフィア、どうしたんだ? 何か必要なことでもあるのか?」

 彼女は表情を変えずに頷いた。

「どうしたんだ? 俺にできることなら手伝うが」

 ソフィアは何も答えなかったが、フレッドは辛抱強く彼女の目をじっと見つめた。

 彼女はなんとか口を開いた。

「私も古本屋に連れて行って」

 鈴のように響く小さな声が、フレッドの耳に届いた。

「え? 一緒に来るって事か?」

 フレッドは一瞬困った顔をした。

「でも、徒歩で行くんだぞ、いいのか?」

「歩きやすい靴を履いているわ」

 ソフィアは軽くスカートの裾を持ち上げ、ヒールの低い靴を見せた。

 どういう風の吹き回しだか分からないまま、フレッドはソフィアを伴いブドウ畑の坂道を下りた。何を話したらいいのか分からず、ソフィアの顔色を何度か盗み見する以外は何も言うことはできなかった。

 彼がソフィアの顔をじっくりと見たのはこれが始めてだったことに気がついた。彼女の横顔は美しかった。歩調に合わせて揺れる茶色の細い髪の毛は、顎の下で切りそろえられたボブカットで、彼女の細い首をより美しく見せていた。彼女はかなり小柄な方で、フレッドの肩にもとどかないほどの身長が彼女をより可憐に見せていた。

「なぜ私を見ているの?」

 視線も表情も変えずに言う彼女の一言がフレッドを狼狽させた。

「いや、なんでもない。ソフィアは身長が低いんだなと思って。セイレンブルク人は皆長身だから、俺よりだいぶ小さい女の子って少ないと思って」

 ソフィアはなにも言わなかった。

 そのまま無言で歩き続けた二人は古本屋に辿り着いた。


 店舗に入ると店員がフレッドに声をかけた。

「いらっしゃい。そちらのお嬢さんは?」

「義理の妹だ」

「それじゃあ、ローゼンタール伯のお嬢様ってことかい?」

 無言のソフィアに代わってフレッドが返事をした。

「へー、フレッドさんだけじゃなくて、こんな庶民の来る場所にお邸の方が来るとは」

 店員はたまげた様子で二人を見た。

 カフェは結構込んでいてフレッドの知り合いの常連客も多くいたが、人を寄せ付けない雰囲気を出すソフィアのせいで、彼らはソフィアを見えてはひそひそと話しあうだけで、二人のところにやってくる者はいなかった。


「で、なんでここに来たかったのか、お前?」

 そう言ったフレッドをソフィアはじっと見つめた。

「褐曜石……。知りたいの」

「へ? ツォーハイムの鉱石のことか」

「そう」

「なぜそんなことに興味があるんだ」

「私は化学に興味があるわ」

「へ?」

「褐曜石からは最強の兵器ができるわ。リッツシュタインにあるでしょ?」

 フレッドは間抜けな顔で硬直したのち、真意のほどを尋ねた。それに対してソフィアは真顔で答えた。

「化学兵器って美しいわ。貴方にはそれが分からなくって?」

 彼女は化学兵器マニアで、褐曜石の兵器としての利用に興味があるらしかった。それでツォーハイムから来たフレッドに褐曜石について聞き出そうとしていたのだ。

 ソフィアはこれまでに、アルコールを熱して発生させたガスに引火して爆発させた話や、可燃性のガスを溜めて石を飛ばした話などを淡々と語って聞かせた。こんな饒舌な彼女を見たのはそれが初めてだった。

 彼女が言うには、セイレンブルクでは化学兵器に興味のある者はいないそうだった。セイレンブルクが誇る騎士団や傭兵部隊は、純粋な剣や弓による武力にプライドを持っているため、化学兵器や弓以外の飛び道具の使用を良しとしないのだという。

「お姉さまのように武芸を磨いて強くなることしか彼らは考えていないの」

 ソフィアは残念そうな顔で言った。

(この少女はなんだか物騒だな……)

 フレッドはなぜこの可憐な少女が化学兵器や飛び道具に興味があるのか分からなかった。しかし、義理の妹には好かれて損はないと思ったフレッドは、知っていることを話し始めた。

「褐曜石が他の物質同士の反応を速めるってのは知ってるな? 普通、例えば鉄片をその辺において置けば、そのうち酸化して錆びる。それが褐曜石を少し鉄に混ぜておくと、常識を超えて速く錆びるんだ。褐曜石の力で、鉄と酸素の反応が加速されるからだ」

 ソフィアは頷いた。彼女が理解している様子を見てから、フレッドは続けた。

「そんな効果もあるんだけど、別の場合もある。鉄に炭素を混ぜると鋼になる。でも、そこに褐曜石を混ぜると、鋼の持つ、合金としての錆びにくく強い性質が、何倍にも高くなる。それで褐曜石が重宝されている。なぜそのような性質を持つのかはリッツシュタインみたいな高度な科学を持つ国の科学者でも分からないそうだ」

 ソフィアは首をかしげた。

「でも、どうやって物質同士の反応速度が上がったか分かるの? それに反応速度って何なの?」

 ソフィアはやっと表情らしい表情を見せた。目を輝かせて話を聞く彼女を見たのはこれが始めてだった。彼女は逐一質問を立ててフレッドの知っていることを学ぼうとした。フレッドが分かり難い計算について話し始めえると、彼女は自ら店員の所に行き、紙とペンを受け取り戻ってきて、さらに計算方法について話を促した。

「お前、積分はできるか?」

「それ何?」

 フレッドは微分・積分について概要を説明したが、彼女はそれを知らないようだった。

「ツォーハイムの科学技術もセイレンブルクと大差ないのに、なぜ、ツォーハイムの王子である貴方が、そんなことを――」

「馬鹿っ!」

 フレッドは慌てて彼女の口に自分の手を押し当てた。近くの席に座っている他の客にそれが聞こえてしまうことをフレッドは恐れたのだった。ソフィアもそれを理解したらしく、彼の手が除けられると、ごめんなさい、と謝った。

「以降は気をつけてくれると助かる……」

 辺境伯の養子であることは知られつつあったが、彼が元王子であることは、ローゼンタール一家しかしらなかった。そして、それをフレッドは人々に知られたくなかった。

 フレッドは大きくため息をつくと、話を戻した。

「昔まだツォーハイムとリッツシュタインの国交があった頃、母上に連れられてリッツシュタイン王国によく行ったのだが、あそこは科学技術が強い国で、立派な研究所もあるだろ? 国を挙げて技術者を養成しているから、子供の頃から大抵の人々は、高度な数学などを習ったりするんだ。それで、何より重要なのは、リッツシュタインでモテるためにはそういった科学について詳しいことが重要なんだ!」

「……。お兄様を一瞬賢いと思った私が馬鹿だったわ……」

 ソフィアは冷たい視線を浴びせた。

「要はリッツシュタインでモテたくて勉強していたのね」

「いや、別にそれだけじゃないんだが……」

「でも、いいわね、お兄様は。リッツシュタインに行けたなんて。私も科学を学びたかったわ。でも、誰もそんな私の気持ちを理解してくれなかったし、誰も教えてくれる人がいなかった」

「お前、変わってるな」

「貴方もね」

 そう言うと、ソフィアは初めて笑顔を見せた。少し恥ずかしそうに笑う彼女の見せたその表情はフレッドの目線を捉えて放さなかった。


 フレッドとソフィアは本棚へ行き、自然科学に関する本を探したが、ちょうど良いのがなかった。ソフィアが言うには、セイレンブルクの首都でもない限り、誰もそのようなことをここでは学ばないという。

 フレッドは店主のところへ行くと、自然科学基礎についての本を取り寄せられるかを尋ねた。

「フレッドさん、そんな本を取り寄せてどうするつもりですか? ちょっと難しいかもしれませんね。でもやってみましょう」

「金ならいくらでも出すわ」

 ソフィアが真顔でそう言うのを聞いて、店長は表情を強張らせた。


 彼女に強請られたフレッドは、彼の思い出せる限りで知っていることを教えた。その次に古本屋に彼が行こうとした際にも、同じように彼女は着いてきて数学や化学について教えるように強請った。フレッドは自分の読みたいシュールな笑いの本を我慢し、しぶしぶと彼女に勉強を教えた。彼女の覚えはとても早く、フレッドを驚かせた。

 一ヶ月すると注文していた本が届いたが、そのころには彼の知っていることの殆どを彼女は理解していたので、ソフィアは一人で届いた本を読むことができた。

 その後も、ソフィアは相変わらずフレッドと古本屋に来ていたが、大抵一人で本を読み、フレッドはやっと自由に他の常連客と話したりすることができるようになって喜んでいた。

「やれやれだぜ。俺は別に自然科学にそれほど興味はない。俺が興味あるのは美女との愉悦だけ」

「そうかい? 彼女、なかなかかわいいじゃないですか。フレッドさんに懐いているみたいだし。科学に興味がなくても、あんな可愛い子だったら、ずっと相手をしたいと思うけどな」

「懐いてるのかどうなのか。俺の浅智慧を吸収したいだけだったみたいだし。勉強を教えるのなんて面倒なだけだ……」

 紙に何か走り書きをしながらページをめくるソフィアを、横目に眺めた。

「でも、フレッドさんは奇術師にでもなるつもりだったんですか? ツォーハイムでもそんなに自然科学は学ばれないですよね」

「いや……、その」

 初恋の相手であるリッツシュタインの姫リーナの気を引こうとして勉強していた、などとは口が裂けてもいえなかった。

 リッツシュタインでは貴族といえども、男性は自然科学を勉強し、国家が主体となって牽引する技術をある程度理解できる必要があり、それができないものは蔑まれる風潮があった。

(そういえば、リーナが結婚したフィリップ王子も天文学オタクだっけな……)

 ここに着てからリーナのことをしばらく思い出さなかったが、ソフィアを見ると、リーナのことを思って勉強していた子供のころが懐かしく思えた。


 しばらくするとソフィアは地下室に実験道具を組み立て始め、なにやらあやしい実験をし始めたため、彼の古本屋通いに着いてくることが少なくなった。古本屋の人々はそんなことも知らず、フレッドがソフィアに振られたのだと噂していた。

 二人が揃って出かけていたことをよく思っていなかった長女カティヤは、最近フレッドが一人で出かけるようになったことを知って安心していた。



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