デート
古本屋で出会い談笑したカップルに、ローゼンタール家の使用人であると嘘を付いてしまった手前もあったことと、目立つ容貌のフレッドが小さい街で毎日昼間からぶらぶらしてこれ以上噂にならないために、彼は本当にミヒャエルの手伝いをすることに決めた。
ミヒャエル達はそれを喜んでくれたし、マニュエルもフレッドがこの地でやることを見つけたことで、ほっとした様子であった。
仕事は書類整理や領地の管理に関する事務一般であった。執事ミヒャエルのするべき事務仕事のうち、土地や税金の管理に関して任されることになった。フレッドはそつなく仕事をこなし、手の空いたときはシモン達に出会った古本屋に通った。
次の週になって、フレッドはマニュエルを誘って、シモンにもらったタダ券を持ってオペラを見に行くことにした。執事のミヒャエルは、それなら馬車を出すと提案したが、二人は徒歩で行くことにした。
マニュエルは道すがら言った。
「僕じゃなくて姉妹の誰かを誘っていけばいいのに。カティヤさんあたりだったらきっと喜んでくれたと思いますよ」
ため息混じりにフレッドは答えた。
「それはそうだけど、俺はそのタダ券をくれた二人に自分がミヒャエルの部下だと言ってしまったんだ。ただの使用人が伯爵令嬢と劇場デートなんてした日にはまた変な噂が立つ。この街では、すぐに噂が広まるそうだからな」
「そうだったんですか。たしかに噂は広まりますよね。この街の人はだいぶ噂好きのようだし。僕も知らない人に名前が知られてたりして驚きましたよ。ツォーハイムのような都会とは違いますね」
フレッドはうなずいた。
「でも、なかなか好い街じゃないか。人も親切だし、俺は嫌いじゃない」
劇場には少し早めに着いた。訪問者の多くは豊かな商人か騎士団の者が多かったが、わずかに庶民らしい装いの者もいた。
受付の近くのバーで飲み物を売っていたので、二人はそれぞれ飲み物を注文すると、壁際に立って人々の様子を見ていた。すると、一人の上等な仕立ての服を着た商人風の男がこちらへやって来た。
「司祭様! これはこれは。司祭様もオペラのご鑑賞ですか? こちらの紳士はどちら様ですか」
「ああ、こんばんは。彼は友人のフレッド様です」
「こんばんは。私は画商のシュミットともうします。お見知りおきを」
そのシュミットと名乗った男はフレッドに手を差し出した。
「お見受けしたところ、貴方はツォーハイムの方ですかな? 私はツォーハイムにも仕事で何回か行ったことがあるんですよ――」
男は話好きなようで、フレッドにツォーハイムでの彼の仕事について色々語って聞かせた。マニュエルとは神殿に飾る絵のことで顔見知りになったようだ。
「私は宗教画から風景画まで幅広く扱っているんですよ。よろしければ一度、うちのギャラリーにも来て下さいね」
男はフレッドにそう言うと、挨拶してその場を去り、別の者と話を始めた。
「商人はこういう社交の場で良いコネを作るのも仕事だからな」
フレッドは感心したように言った。
しばらくすると開演の合図がして、皆が舞台のあるホールへ入っていった。
それはフレッドとマニュエルが知らないオペラだった。フレッドは真剣に鑑賞していたが、マニュエルは15分も立たないうちに居眠りしていた。
一幕目が終わると休憩が挟まれたので、フレッドはマニュエルを起こして、また飲み物を買いに言った。一気に人がバーカウンターに来るので列ができていた。二人はそこに並んだ。フレッドは、居眠りをしていたことでマニュエルを冷やかしていると、後ろから呼びかける声があったので、彼は振り返った。
そこにいたのは一度レストランでカティヤと出くわしたときに一緒にいた騎士団員の一人だった。騎士団員の服装をしていなかったので誰かと思ったが、彼が「カティヤの弟さん」と呼びかけたのでそれが分かった。
フレッドは面倒だと思ったが、逃げ出すわけにも行かずに、その場でなんとか話をつなげようとした。
男は立派な体躯だが、人のよさそうな笑みを浮かべていた。
「カティヤは一緒じゃないのですか? 彼女は貴方に誘ってもらえたら喜んだだろうに。最近なんだか、男兄弟ができたことを喜んでいるようですよ」
フレッドは呆けて「はあ」とよく分からない返事をした。
「最近のカティヤはなんだか女らしくなったと騎士団内ではうわさなんですよ。フレッド君が領主になってくれるから、自分の責任から解放されて喜んでいるんじゃないですか」
「いや、別に俺は領主になる気は……」
そう言ったところで、彼は周りの人々が彼らの会話をこっそり聞いていることに気付き、気まずくなったフレッドは「トイレに行く!」と言って無理やり会話を終了させた。マニュエルも慌ててフレッドを追った。
(あまり素性を明かしたくないのに、あの騎士の野郎!)
早足で歩くフレッドをマニュエルは呼び止めた。
「フレッド様のお気持ちは分かりますが。遅かれ早かれこの街の規模では、貴方が伯爵家の者だって知れ渡ることでしょう。仕方のないことです」
「それはそうだが、そうなったら古本屋に居座ったりできなくなってしまうだろが」
そうこうしている間に、第二幕開始の合図がなってしまい、二人は飲み物を買えないまま座席に戻った。
第二幕でもマニュエルはすぐに居眠りを始めたが、フレッドは舞台に見入っていた。恋人達の悲劇を描いた結末が近づくと、なんとかフレッドは涙を堪えようとしていた。間抜けな顔で居眠りをするマニュエルを見ることで、フレッドは辛うじて涙を流さずにすんだ。
舞台の幕が閉じると、フレッドはマニュエルを起こした。
「あ。終わったんですか……」
マニュエルはぼんやりした顔で目を覚ました。
フレッドは寝起きのマニュエルを連れて舞台裏のシモンとその彼女に挨拶に行った。化粧係と大道具である二人はすぐに出てきてくれて、フレッドが劇を気に入ったことを聞くと喜んでいた。
***
次の日の夜、家族揃った晩餐の後に、カティヤは部屋に戻ろうとするフレッドを呼び止めた。フレッドはしかたなくカティヤに連れられ彼女の部屋に入った。
「お前は昨日、マニュエルと二人で劇場に行っていたそうだな。騎士団員のエリックから聞いたぞ」
カティヤは怒ったように言ったので、フレッドは気まずい状況であることが分かった。
「えっと、それはそうですが、それが何か?」
「なぜ私を誘わなかった!」
フレッドは驚いてぽかんと口を開けた。
「呆けた顔をするな。見苦しい」
「す、すみません」
「なんだその話し方は!」
フレッドはまた謝ったが、そのせいでカティヤはさらに機嫌を悪くした。こうなったら殴られるか斬りつけられるかと身構えたが、カティヤは何も言わずそっぽを向いていた。
「……お前は私を連れて行くのが恥ずかしいのか?」
カティヤは寂しそうな面持ちでそう言った。
フレッドは一瞬戸惑ったが、カティヤが劇場に連れて行ってもらえなかったことが寂しかったのだと理解した。
「それはだなあ。実は、古本屋でできた友達にタダ券をもらって劇場に行ったのだが、その友達に、俺がここの家の使用人であると嘘を付いてしまって。その手前、お前を連れては行けなかったんだ。使用人が伯爵令嬢と一緒にオペラなんておかしいだろ。でも、マニュエルも、いつかは俺の嘘がばれる日がくるだろうことを言っていたし、良かったら今度は一緒に行こうか?」
それを聞いたカティヤは目を輝かせて頷いた。
「それなら、今週末にコンサートがあるそうだから、それにでも行くか?」
嬉しそうに頷くカティヤを見て、フレッドの胸は少し高鳴った。
***
その日、フレッドは仕事を早く切り上げると、急いで街で一番高級な衣料品店に向かった。ツォーハイムからは殆ど服を持って来ておらず、服装に無頓着なフレッドがこの街に来てから買った服は全て質素な庶民風の服だった。
ローゼンタール夫人にも服装のことを注意されたことがあったが、気に入っていた古本屋に通うのに目立たない服装をしたかったフレッドは、一枚もまともな服を持っていなかったので、カティヤとの劇場デートのために一着だけ良い服を買おうと思って、衣料品店へ向かったのだった。
(あの女は俺に気があるようだし、合意の上であれば美味しいことをしても誰も咎めまい。伯爵も、彼女を俺とくっつけたいみたいだし、だいぶ長い間お預けを食らっていた俺に、とうとう運が向いたようだ)
フレッドはすでに厭らしいことを妄想してニヤニヤとしながらワイン畑の間の道を小躍りで降りていった。
高級衣料品店に入ると、フレッドの質素な身なりを見た店主は怪訝な表情をしたが、フレッドが彼の予算を告げると、すぐに態度を変えた。
何着か貴族らしい服を試着したフレッドを見て、店主は感嘆の声をもらした。
「見違えましたよ、旦那様。まるで王族のように見えます!」
フレッドはそれを聞くと鼻で笑って「そんな訳ないだろ」と苦笑した。
彼の銀髪の美しさを際立たせるような暗い色の服を買って、フレッドは店を出た。
夕方になる前にフレッドは執事のミヒャエルを呼んで、馬車の準備をさせるように言った。カティヤと劇場に行くとの事を聞くとミヒャエルは嬉しそうな様子でそれを快諾した。
「マニュエルと出かけるのだったら徒歩で劇場まで行くが、徒歩で行こうなんて言ったら、カティヤにまた斬りつけられるだろうからな」
フレッドは軽口をたたきつつも、馬車を出す面倒をミヒャエルに詫びた。
「お嬢様はとても喜んでいらっしゃる様子でしたよ。今朝も、緊張して眠れなかったとおっしゃっていました」
嬉しそうにミヒャエルは笑った。
コンサートが開始する一時間前までに、フレッドは今日の昼間に慌てて買った服を着込み、カティヤの部屋をノックした。
ドアを開けたのは使用人の女性で、「もうすぐ準備が整います」と慌てて言った。開いたドアから部屋の中を覗くと、もう一人の使用人がカティヤの髪を纏め上げる仕上げをしていた。
その時、鋭い視線をどこからか感じてフレッドは辺りを見回すと、三女のソフィアがこちらをじっと見ていた。フレッドは戸惑いつつも声をかけた。
「ソフィア、どうしたんだい?」
彼女は表情を変えずに数歩ほどこちらに近づいてきた。
「お姉さまはとても楽しみにしているようね」
フレッドは何を言って良いものか分からず、愛想笑いをした。
ソフィアはまた何も言わずに振り返ると自分の部屋へ戻っていった。
程なく、カティヤがドアから使用人を連れて出てきた。化粧を施された顔は、普段のカティヤから想像できないほど美しく、豪華すぎるドレスを着た彼女はまるで女優のように見えた。ただ、履きなれない女物の靴を履いているせいか、歩き方がぎこちない。
「カティヤ、とても綺麗だ」
そう言って彼女の手を取り軽くそこに口付けすると、カティヤは耳まで真っ赤にした。そのままフレッドは手を取り彼女を馬車までエスコートし、二人は馬車に乗り込んだ。
カティヤはどういうわけか沢山汗をかいていた。フレッドが具合を聞くと、彼女はコルセットが苦しい、と言った。
「慣れない格好をするものではないな。女の服装がここまで苦しいとは。私は男装して生活することができて幸運だ。お母様やジェニファーはいつもこんなものを身に着けてよく健康を損なわないものだ」
フレッドは、そのとおりだな、と言って笑った。
「でも、本当に綺麗だ、カティヤ。お前に男の格好をさせておくのは勿体無い。騎士団の奴らが見たら驚いて腰をぬかすぞ」
その言葉にカティヤはまた頬を赤らめた。
「そんなに褒めるな。動揺してかいた汗で化粧が落ちてしまうではないか」
フレッドはまた笑った。
劇場に着くとまだ開演時間には早かったようだが、すでにロビーには多くの人が集まり立ち話をしている。着飾ったカティヤとフレッドが道を通ると、誰もが眩しそうに彼らを見つめた。しかし、それが騎士カティヤだと気付く人はいないようだった。
フレッドは飲み物を頼もうとしてボーイを呼んだ。
「ワインを二つ頼む」
「待て! 私はワインなど飲まない。騎士はビールである。大ジョッキでビールを持って参れ」
それを聞いたボーイは驚いて一瞬硬直したが、すぐに、承知しました、と言ってワイングラスと大ジョッキを持って戻ってきた。
フレッドはなんだか気まずい気分になったが、カティヤは笑顔だった。
「お前と劇場に来れて私は嬉しい。乾杯だ」
そういうと勢い良く大ジョッキをフレッドの持つワイングラスにぶつけた。フレッドはワイングラスが割れるのではないかとびっくりしたが、彼が怯んでいる間にも、カティヤはごくごくと音を立てて大ジョッキの半分まで飲み干した。
フレッド達に視線を送っていた人々がざわめく。
「おい! もしかしてカティヤか!?」
声をかけたのは、この前もこの場所で出くわした騎士団員エリックだった。
「また会ったな」
「ああ。俺の趣味は劇場鑑賞だからな。それにしても、君の連れているそちらの貴婦人は本当にカティヤか?」
エリックは信じられない様子で彼女を見ていた。
「お前は10年間修行を共にした騎士団員の顔を忘れるのか?」
「いや、見違えたよ。女優のようだ。本当に一瞬誰だか分からなかったが、ビールの飲みっぷりを見てカティヤだと確信したよ」
フレッドは苦笑した。
「それじゃあ僕はデートの邪魔をこれ以上してはならないから、行きますね」
というと、エリックはその場を後にした。
前回タダでもらった券で入ったときと違い、フレッドが取っておいた席は豪華な個別のボックス席だった。二人は早めにそこに座り、コンサートの開始を待った。
幕が開き、コンサートが開始した。フレッドは美しい旋律を優雅に楽しんでいた。
ふとカティヤを見ると、彼女が真っ青になっているのに気がついた。小声で「大丈夫か」と聞くと、彼女は首を横に振った。
「うっ。このままでは吐いてしまう。た、助けてくれ……」
「助けろってどうすればいい。トイレに行って吐くか?」
「いや、お願いだ。このコルセットをどうにかしてくれ。そうしないと倒れてしまう」
彼女は本当に苦しそうに言った。そういうと、ドレスの上半身を勢い良く脱ぎ、下着とコルセットのみがドレスの下から露出した。
「おい! 待て」
「待てない。ここだ。この背中にあるリボンを緩めてくれ」
フレッドは突然下着を見せられて動転したが、言われたとおりにリボンの結び目を解こうとした。
彼の手が背中に触れると、くすぐったかったのか、彼女は大きくビクッと動いた。
フレッドはしっかりと結ばれたリボンをどうにか解き、網目に指を入れてコルセットを緩めた。
「お願いだ。もっと下の方も緩めてくれ」
コルセットの最下部はほとんどヒップの膨らみにかかる部分だった。フレッドが網目に指を入れてリボンを引っ張ると、カティヤはまた腰をビクつかせた。
フレッドは次第に自分がムラムラとして来たのが分かったが、相手がカティヤであることと、彼女が本当に吐きそうだったので、真面目にコルセットを緩めて圧迫がほぼない状態にしてからまたリボンを結んだ。それが終わると彼女は何事もなかったかのようにドレスを持ち上げると小声で言った。
「ありがとう。もう大丈夫そうだ。鑑賞を邪魔してすまなかった」
フレッドは少し前のめりに座りなおし、まっすぐにオーケストラを見つめたが、煩悩に支配された頭の中では、すでにコンサートを楽しめる余裕がなかった。
コンサートが終わるとカティヤはもう元気になっているようで、コンサートの感想を色々とフレッドに話した。フレッドは調子を合わせて適当な返事をしたが、頭の中ではまだカティヤの背中や腰に触った手の感触のみが渦巻いていた。
二人は馬車に乗り込み帰路についた。
「こんな風に男性と二人で劇場に来たのは初めてだ。でも、楽しかったぞ。よかったらまた連れてきてくれ」
カティヤは恥ずかしそうにそう言った。
馬車は邸に着き、フレッド達がそこから降りると、またどこからともなく鋭い視線を感じた。彼は周りをみまわしたが、見つけた視線の主はソフィアだった。明かりを消した窓にくっつく様に無表情でこちらを見る彼女は、何か亡霊のようにも見えた。
カティヤはそれに気付かなかったようで、そのまま自室に戻った。