ローゼンタール辺境伯領
「フレッド王子様、お待ちしておりました。長旅お疲れ様でした。これから、この近くの宿屋へ向かいます。今日はもう遅いので、そこで一泊してからローゼンタールに向かいます」
ミヒャエルの親切そうな様子に二人は一安心した。
「ありがとう、ミヒャエル。だが、俺はもう王子ではない。これからはローゼンタール家の養子である。だから、人々の前では俺を王子と呼ばないでくれ。面倒なことはごめんだからな」
「失礼しました。以後気をつけます。ローゼンタール家の執事としたことが、お察しすることもできず、申し訳ありませんでした。馬車を急がせますので、宿屋までもう少しばかりお待ちください」
ミヒャエルがそう言って御者を急がせようとした。
「いや、心配には及ばない。ただ、連れが非常に腹を空かしています。でも、少しばかり食べさせなくても死にはしませんからご安心ください」
マニュエルの腹はその間にも何度も音を立ててはいた。
30分ほどすると馬車は宿屋へ到着した。大きくはないが、外観の美しく品のある建物だった。
マニュエルは小躍りするように馬車を降りた。
「ごはん、ごはん、……ごはん!」
そんな様子をミヒャエルはほほえましそうに眺めつつ荷物を運び出した。
「晩餐の用意はできております。お二人はどうぞ食堂へ」
二人は無意識に早足になって宿屋の中の食堂へ向かった。食堂には仕立ての良い服を着た商人や貴族風の人々が何人かすでに食事を済ませた様子で談笑していた。二人が空いている席に着くとすぐに女中が食事を運んできた。
「待ってましたー! やっと食事だ!」
子供のような歓声を上げてマニュエルは食事を始めた。それを横目で見ながらフレッドもスープに口をつけた。淡いオレンジ色のスープは、何かの豆類の入ったもので、ハーブの風味が程よく口に広がった。
「なかなか美味いじゃないか」
マニュエルは頷くと、スープを口に流し込んだ。瞬く間にスープを平らげたマニュエルは満足そうな顔をした。それを見た女中が皿を下げに来て、二人に尋ねた。
「お飲み物はいかがですか?」
フレッドはそれに俊敏に反応するように姿勢を正して言った。
「もしかして、ワインはある?」
「もちろんですとも。お持ちいたします」
フレッドは小躍りして喜んだ。
「さ、酒がやっと飲める……」
女中はすぐにワインを持ってきて二人のグラスに注いだ。
「セイレンブルクに乾杯!」
「乾杯!」
二人はグラスを鳴らすと、フレッドは喉をごくごくと鳴らしてワインをグラスの底まで一気に飲み干した。
「くぁー! 生き返った。地下牢生活の何が辛いって、酒が飲めないほど苦しいことはなかった!」
「フレッド様、品が悪いですよ」
「ああ、すまないな。でも、お前だって、そんな急いで食べるのは行儀が悪い!」
そう言うと二人は顔を見合わせて笑いあった。
フレッドは旅の疲れと晩餐に飲んだワインの酔いで一気に疲れを感じたため、食事の後はすぐにベッドへ入った。その日は久々の柔らかなベッドで、上等なワインの酔いも助けて、すぐに深い眠りに落ちた。
翌朝目が覚めると、マニュエルはもう起きて一人で朝の礼拝を行っているようだった。フレッドはそれをつまらなそうに見やった。信仰心のないフレッドが神に祈るとしたら、腹痛のときくらいであった。彼はマニュエルの礼拝が終わるのを、ぼんやりと待っていた。礼拝を終えたマニュエルと執事ミヒャエルと共に朝食を取り、出発の準備を整え馬車に乗り込んだ。
執事ミヒャエルは二人に尋ねた。
「今日は、夜までに着くために走り通しになりますが、よろしいでしょうか」
二人は快諾した。
馬車は途中で馬を何度か代えては走り続けた。フレッドとマニュエルは長い旅路に退屈していた。
田園風景が広がる風景はツォーハイムの風景に似ていたが、町に建つ民家の多くは、明らかに凝っているものが多く、道を行く他の馬車にしても作りのしっかりとしたものが多かった。二人はセイレンブルクの国の豊かさをひしひしと感じた。
フレッドは長い道中退屈していたが、あまり自分のことに触れられたくなかったので、ミヒャエルと多く言葉を交わさないようにしていた。だから、これから向かうローゼンタール辺境伯についてもあまり突っ込んで尋ねることができないでいた。しかし、簡単な家族構成くらいならば差し障りもないだろうと思いそれを訊いた。
「お屋敷には奥様と旦那様。それに三人のお嬢様がございます。旦那様の遠い親戚に当たるのがフレッド様のお父様でございます」
三人の娘と言う単語に、フレッドは思い切り反応した。
「娘さん達は御幾つですか?」
フレッドは生唾を飲み込んで訊いた。
「上から21歳のカティヤ様、20歳のジェニファー様、14歳のソフィア様でございます」
目を輝かせ、鼻の下を伸ばすフレッドを見て、マニュエルは一喝した。
「フレッド様! どういうおつもりですか? そもそも、貴方のそういう助平な態度が有らぬ疑いを――」
フレッドはマニュエルの口を自分の手で押さえ込んだ。
「司祭様は勘違いをしていらっしゃる。私は自分の姉妹となる方々についてただ尋ねているだけなのですよ。新しい家族について興味を持つことはいけないことなのでしょうか」
フレッドは皮肉を込めてそう述べると、ミヒャエルが見ていないのを確認して、マニュエルの足を思いっきり踏んだ。フレッドは、小さく悲鳴を出したマニュエルの耳元で囁いた。
「馬鹿司祭。要らないことを言うな。これはきっと父上の計らいだぞ。若い三姉妹との甘い夜。流刑、最高! 父上は分かってらっしゃる。きっとこれを知っていて俺をローゼンタール家へやったんだぞ。粋なことをしてくれるものだぜ」
フレッドはすでに甘い妄想に花咲かせていた。鼻の下を伸ばすフレッドをマニュエルは軽蔑するように眺めた。その視線に気づいたフレッドはため息をついた。
「お前は分かっていないな。俺の楽しみを奪う権利なんてお前にはない! それともお前は、俺が女達と戯れるのが嫌なのか?」
「なぜそうなるんですか。ただ僕は先が思いやられます。ああ、神よ、われらをお守りください」
「祈らなくてよし!」
小声でささやきあう二人を見たミヒャエルは、お二人は仲がよろしいことで、と言って笑った。
***
夕方になり目的地に近づくと、窓の外にはブドウ畑が広がっていた。低い山脈の片側の斜面を段々畑にしてブドウを栽培している景色は、ツォーハイムで見るような小麦や他の野菜の田園風景とはだいぶ違っている。ブドウ畑の作られた山脈のふもとには街が広がっている。低い山脈の頂上には裕福な商人らの別荘と思われる豪華な館も、いくつか見られた。
「へー、ここがローゼンタールですか。綺麗な街ですね」
「はい、ローゼンタール辺境伯領はセイレンブルク王家の静養地もある美しい場所です」
傾いた日の光が段々畑を照らし、そこにブドウ棚が作る繊細な影絵が美しかった。
馬車はブドウ畑の中を通る坂道を登る。ブドウ畑のブドウは建てられた木製の棚に蔦が這うようにして栽培されている。それを間近ではじめて見たマニュエルは子供のように車窓に顔を貼り付けてそれらを観察していた。
しばらくすると丘の上に高い木立が塀のように並ぶのが見えた。
「あそこがローゼンタール邸の入り口です」
入り口の木立を抜けるとすぐに、こじんまりとしているが美しい館が見えた。黄色い壁に小さな塔のあるかわいらしい印象を与える建物だった。
「……っていうか、あれ、普通の民家じゃないか?」
「え、民家ってことはないですよ。十分立派なお邸じゃないですか」
「俺的には民家だ……」
フレッドはため息をついた。
馬車を降りて二人は館のドアを入った。使用人が頭を下げる。フレッドは面倒くさそうに挨拶をした。ほどなくローゼンタール辺境伯夫妻が姿を現した。
「貴方がフレッドさんね。長旅はどうでした? これからはここが貴方の家です。遠慮なく寛いでくださいね。私はコリーナと申します」
背の高く品の良いドレスを身にまとった中年の女性だった。感じの良く暖かい笑顔が印象的だった。
「いらっしゃい、フレッド君。これから君は私達夫妻の息子としてここに住んでもらうことになる。ツォーハイムに比べて田舎だが、のんびりとした生活も良いものですよ」
そう言ったのは、どこかフレッドの父親に似た風貌の男性だった。ハインリッヒと名乗るその男性は、ツォーハイム王の遠い親戚だそうだ。
フレッドとマニュエルは、二人にそれぞれ挨拶をして、簡単に旅路についてなどの世話話をした。
話の途中、長い金髪に略装をした騎士がぞんざいな様子で広間にやってきた。その騎士は夫妻の脇に立つと、真顔でやってきた二人をじっと見据えた。彼の視線に気づいたマニュエルはすぐにお辞儀をした。
「騎士様、私は司祭のマニュエルでございます。フレッド様のお供として参りました。どうぞよろしくお願いします」
丁寧にそう挨拶したマニュエルを見て、騎士は嘲るように鼻を鳴らした。
「まさか、こんな青臭い司祭と、軟弱そうな王子だったとはな! 弱小国のツォーハイムから来るような者は、これだからな!」
「何なんだお前は? 我が国を侮辱するつもりか」
フレッドはその騎士の言葉にカチンと来たようで、喧嘩を買ってでようとした。
「おやめなさいカティヤ! その言い方はなんですか?」
そう言って辺境伯夫人はその騎士を制した。
「カティヤ?」
フレッドはミヒャエルから聞いたその名前が、夫妻の娘であることを思い出して言った。
「そうです。これが我が長女カティヤでございます」
「って、男じゃないか! 長女ってどういうことだ?」
「なんだと! 失礼な! 表へ出ろ!」
騎士は怒りを顕わにして剣を抜いた。
それまで剣を抜かれたこともなければ、腕っ節に自信もないフレッドは、マニュエルの後ろに、彼を楯にするように隠れた。
「おやめなさい、カティヤ! ――ごめんなさいね、フレッド君。この娘は血の気が多くて。でも、本当はいい子なんですよ」
コリーナ夫人はフレッドに掴みかかろうとするカティヤを押しのけた。押しのけられた彼女は、フレッドを睨んだ。
「呆けた男だ。私は部屋へ戻る」
そう言うとカティヤは剣を納めてその場を立ち去った。
「えーっと、その……」
マニュエルはなんとかその場を取り繕うと試みて言葉を発したが、それは形にならなかった。
「突然でびっくりしたでしょう。フレッド君がこの家に来てくれて家督を相続してくれるだろうから――それは、私達はカティヤの幸せを祈ってそうしたことなのに、なんだか、それをあの子に知らせてからというもの、ずっと機嫌が悪くって……」
フレッドはまだポカンとした顔をしていた。
三姉妹との愉悦の妄想が崩壊し、突然剣を抜かれた衝撃から、彼はまだ回復していなかった。マニュエルはそんな彼の肩をさすって元気付けようとしていた。
そうこうしていると廊下の向こうから高い声が鳴り響いた。
「いったいなんの騒ぎですの?」
そう言って広間に姿を現した娘の服装を見たマニュエルは目のやり場に困った。黒い光沢のある革のドレスをした黒髪の娘だった。アクセサリーまで全てが黒で統一され、ただ唇の赤い色と極度に白い肌が生生しかった。豊かな胸元が強調され、コルセットによって細く絞られた華奢な胴体が対照をなしていた。
「貴方達が例のツォーハイム人ですのね。わたくしはジェニファー。良く来たわね。これからたっぷりかわいがってあげますわ」
マニュエルの前まで腰を揺らしながら彼女は歩いてきた。
「こちらこそお出迎えありがとうございます。僕は、司祭のマニュエルでございます」
「随分可愛らしい司祭様だこと。うふふ。貴方と遊ぶのが楽しみだわ……」
そう言ってジェニファーはマニュエルの鼻先まで近づいた。強い香水のにおいと、革のドレスからパックリと割れた胸元の熱気がマニュエルに伝わり、マニュエルは顔を真っ赤にした。ジェニファーはマニュエルに興味津々の様子だった。
夫妻はその様子を微笑ましく眺めていた。
その時フレッドは、どこからか強い視線を感じた。あたりを見回すと、階段の上から柱に隠れるようにしてこちらを見る影が目に入った。
「ハインリッヒさん、あれは……」
フレッドはその影を指差した。
「ソフィア! そんなところから見ているのは失礼です。降りてきなさい」
その影は怯えたように首を振った。しかし、夫人も彼女を呼んで催促したので、ソフィアと呼ばれた少女は上階からしぶしぶと降りてきた。ボブカットのふわふわとした髪の下の顔はどこまでも無表情だった。階段を降りきるとその場で棒立ちしていた。
「ソフィア、フレッドに挨拶しなさい。これからは彼がお前のお兄さんだ」
「そう……」
ソフィアは小さく鳴る鈴のような声でそう言った。
「よろしく」
じっと冷たい目線でフレッドを見つめた。
「あ、よ、よろしくお願いします」
地味な服装の彼女は二人の姉に比べてまともそうに見えたが、表情のない顔が人形のようで、どこかそら恐ろしく見えた。
「もういいかしら?」
少女は階段を上に昇ろうとしながら言った。
フレッドは少女の人を押しのけるような雰囲気に圧倒されて、言葉がでなかった。少女は足音も立てずに階段を昇っていった。
「ごめんなさいね、フレッド。あの子は物静かなの。私達も何を考えてるのかわからないのよ」
夫人は微笑した。
そうこうしている間に、一時マニュエルを壁際に押し付けようとしているジェニファーも諦めたようにその場を去っていた。
「二人ともお疲れでしょう。晩御飯を用意してありますよ。ぜひ食堂にどうぞ。私達はもう遅いのですでに食事を済ませていますが、お二人でごゆっくりお食事してくださいね」
使用人に二人を任せて夫妻はその場を退散した。
その場に残った二人は顔を見合わせて、同時に言った。
「何なんだ、ここは……」
二人はただ黙々と食事をしていた。長旅の疲れだけではなく、ローゼンタール家の三姉妹の衝撃がまだ二人に重くのしかかっていて、どこから話をしたらいいのかわからなかったからだ。
無難な食事を平らげた二人は、お互いの顔を見つめ合って、ため息を漏らした。
「先が思いやられる。あの女、知り合ってすぐの俺に切りかかろうとしたぞ。剣を抜くなんて物騒な……。怪我でもしたらどうするつもりだ、あの男女!」
「最初女性だったって僕も気付きませんでした。彼女は危険そうですね。フレッド様は剣ができるのですか?」
「いや、剣は真面目に練習しなかった」
「もしフレッド様が切り殺されたら、僕はツォーハイム王に面目が立ちません」
「ペンは剣よりも強し。俺はあの女と交渉して懐柔させるしかあるまい」
「そうですね。争いはよくありませんが。彼女はフレッド様が突然やってきてローゼンタールの家督を相続するのが不満だそうでしたね。いっそ、フレッド様があの方と結婚して……」
「あんな男女は嫌だ」
「でも、良く見れば結構美人だったような」
「良く見る余裕がなかった!」
二人はまた黙り込んだ。
「お前は次女ジェニファーにだいぶ好かれていたようだが?」
「あれは好かれていたっていうのですかね。僕を『ペットにしたい』とか言っていましたよ。僕にはそういう趣味はありません。でも、怖かったです」
マニュエルは目を潤ませた。彼は本気でジェニファーを怖がっているようだった。
食事後二人はそれぞれ自室に案内された。フレッドは落ち着いた感じの広々とした部屋に案内された。ツォーハイムの自室のように豪華な感じではないが、良い印象を受けた。荷物を一通り整理した後、マニュエルの部屋に向かった。
ドアをノックしたが返事がないので、そのままドアを開けて部屋に入ったフレッドを目の前に飛び込んだ光景が戦慄させた。床の上でマニュエルがジェニファーに押し倒されて、もがいていた。
マニュエルは入って来たフレッドに気付いた。
「フレッド様! 助けて!」
「人の良い所を邪魔するものじゃなくってよ。ちょっと司祭様と遊んであげようとしていただけですのよ」
ジェニファーはそう楽しそうに言った。もがくマニュエルをフレッドは呆然と見つめて。
「えっと、あー、その。なんでしょうか。止めたほうが……」
そういってフレッドはジェニファーを制するために、彼女の腕に触れた。
「気安く触れるんじゃなくってよ! この家畜がっ!」
と言って、フレッドの手を跳ね除けた。
「家畜って……」
フレッドはまた言葉を失ったが、ジェニファーは「興ざめだ」といって部屋を出て行った。
マニュエルは起き上がるとフレッドの胸に飛び込んでしがみつき「フレッドさまぁ」と涙声をだした。
「気持ち悪いなあ、離れろ」
フレッドはマニュエルを突き放した。
「鍵はしっかりかけろ……」
「はい。僕、やっぱり司祭の寮に引っ越そうかな。神殿横の寮に住めるって、もらった手紙に書いてあったし」
「待て! そうしたら俺が一人になってしまう。俺があの女から守ってやるから、ここに残ってくれ」
マニュエルは涙目でフレッドを見上げた。
「お前は俺のためにここへ来てくれた。感謝している」
「フレッド様」
マニュエルはまたフレッドに抱きつこうとしたのをフレッドは突き放した。フレッドは用心のために部屋に鍵を掛けると、二人はソファに腰を掛けた。
「あー、疲れた」
フレッドは小さな机の上に用意されていたワインを開けた。マニュエルにもグラスを渡そうとしたが彼はそれを断った。フレッドはワインに口を着けたあと、深いため息をついた。
「なんだか長い一日だったな」
「そうですね」
それだけ言うと二人はしばらく沈黙した。
「お前の司祭の仕事はいつからなんだ?」
「もう明日には神殿に赴き、手続きなどを始めるつもりです」
「そうか。じゃあ、俺は明日からここで一人だな」
「ローゼンタール伯はフレッド様に家督を継がせるつもりみたいじゃないですか。じゃあ、領地を治める仕事を手伝えばいいのでは」
「それもそうだが、あの女がそれを許すか……」
「カティヤさんですね」
二人はたなびく金髪と鋭い目線の騎士を思い出していた。
「俺は少しの間のんびり過ごすよ。ローゼンタール伯を手伝うかとかはそれから決める」
マニュエルは頷いた。