奪われた名前
フレッドの処遇について王から通達を受けてからの3日間は何事もなく、ただ牢での生活が続いた。マニュエルの同行の件についても、流刑執行の日程についても、何も情報を得られず、ただもやもやとして過ごすしかなかった。牢に閉じ込められ、自由に動き回れないことが彼の気持ちを暗くした。
貴族が流刑にあった場合、ツォーハイム領内への入国を禁じられるが、多くの場合流刑地での生活は保障され、目立ったことをしなければかなり自由に生活することができるということを聞いていた。
彼は、流刑地となるセイレンブルクについてあまり知らなかった。しかし、目前に唐突と現れた自由と言う概念は、不安と共に少しの魅力を伴っていた。
その日の午後になり、フレッドはやっと王に呼び出された。
「余もお前のために最善を尽くした。モリッツ家から反発を受けないギリギリの処遇をしたつもりだ。流刑地であるセイレンブルク王国内にあるローゼンタール辺境伯領にお前は住むことになる。そして、お前の流刑に同行させる者は、司祭のマニュエルに決まった」
それを聞いたフレッドはポーカーフェイスを保ったまま、心の中で大いに喜んだ。
「父上、お手数をかけました。お慈悲に感謝します。これ以上のことは俺のような『大罪人』には望めないでしょう。司祭殿と共に懺悔の日々を送らせていただこうと思っています」
フレッドが皮肉たっぷりにそう言ったのを聞くと、王はうつむいた。
「アンネ・フォン・モリッツが嘘を付いているという証拠が挙がらなかった。それが無い限り、この状況下でお前を無罪にはできなかった。我が王国内の保守派と進歩派の争いにお前が巻き込まれたことが、余は悲しい……」
王はそれ以上言う言葉もなかった。
法務官から、翌日にもう流刑地に向けて出発することに決まった、と告げられると、すぐに旅支度を整えるために、兵に伴われ自分の部屋に連れて来られた。十日ぶりにフレッドは自分の部屋に戻ることとなった。あたかも彼が最後に自室を出てから一年くらい過ぎてしまったかのように感じられた。
王家の紋章の入った服や道具の持ち出しは禁じられ、数冊の好きな本や日用品などを旅行鞄へ詰めた。まとめた荷物は意外と少ない。一時間もせず準備は済んだが、もしかしたらもう二度と自分の部屋に戻ることがないかもしれない、という実感が沸かなかった。
(きっとクリスが俺の無罪を証明してくれる。それまでの辛抱だ……)
しかし、彼は本当に自分の無罪がいつか証明されるかどうか、まったく見当がつかなかった。
出発の朝、質素な朝食の後に牢から連れ出されたフレッドを法務官と王が待っていた。フレッドはいくつかの書類を渡された。彼はセイレンブルク王国の流刑先ではツォーハイムの名を名乗ることを硬く禁じられ、これからは流刑地であるローゼンタールを治める辺境伯の養子として生きることを告げられた。
さらに、王位継承権の放棄などに関するいくつかの書類にサインをさせられると、事務が済んだ。それはあっけないものであった。
城の前にはすでに馬車が待機しており、司祭のマニュエルも旅装束に身を包んですでにその場で彼を待っていた。僅かな見送りの者の中に、王妃はいなかった。
見送りに来ていた者たちと短い挨拶を交わした後、フレッドは馬車に乗り込んだ。
(母上は見送りに来てくれなかったのだな……)
フレッドが事件を起こしたと思い込み、打ちひしがれていた王妃のことを、フレッドは心配していた。さらに、自分が王位継承者でなくなったことで一番立場を損なわれるのは王妃であることを知っていた。王妃にとってただ一人の息子であるフレッドが王位継承者であること、それが唯一彼女のプライドを保っていたからだ。それがなくなった今、彼女が城の中で、肩身が狭く感じられるであろうことは、手に取るようにわかった。
見送りのもの達に挨拶を告げると、馬車はゆっくりと走り始めた。
「昨日は良く眠れました?」
マニュエルはちょっとした旅行にでも行くかのごとく、気軽な感じで彼にそう訊ねた。母が見送りに来なかったことがフレッドの気分を暗くさせたが、マニュエルのおかげで落ち込まずにいられた。
「ああ、慣れてみると地下牢も悪くない。硬いベッドは背骨に良いんだぜ」
「そうですか?でも、地下牢は僕が寝るには寒そうです。僕、冷え性だから」
「セイレンブルクは寒いってしってるだろ。お前、大丈夫か?」
「ストーブを焚いて寝るから大丈夫です」
「お前がそれで火事を起こした日には、俺達はローゼンタール家を追い払われて路上生活者になるしかない」
「そのときはその時です。どこまでもお供しますよ」
マニュエルはそう言って微笑んだ。
馬車は城下町を過ぎてゆく。
石畳の上を行く馬車は心地よく揺れた。窓から過ぎていく街並みを見ながら、フレッドは故郷に別れを告げた。荷物を抱えて歩く人々や商店、そんな何気ない景色が愛おしかった。
馬車は街を出て森へ入った。父親や兄弟達と狩をしたことのあった森だった。木々の緑が美しい。
森を過ぎると牧草地帯が広がる。
フレッドはふと思った。
(この国はこんなにも美しかったんだ。もうしばらく見ることもないだろうから、それで余計に美しく見えるのだろうか……)
広がる牧草地帯と通ってきた森の向こうに、自分の育った城がもう小さく見える。彼は少しの間、感傷に浸っていた。
牧草地帯は続き、馬車はその合間の小さな農村を過ぎていく。王家の紋章の付いた馬車を珍しがる人々がそれを指差しているのが見える。彼らが自分の治めるはずだった国の民であることを思った。
フレッドは窓の外を見るのをやめた。ふと思いつき、口をひらいた。
「マニュエル、お前はそんなに急に司祭の仕事を放棄して大丈夫だったのか?」
馬車の窓辺に頬杖を付いて、彼はマニュエルを見た。
「なんとか仕事の引継ぎは済ませてきました。まあ、全く問題がないわけでも無いけど、一応やることはやってきました。それに、ローゼンタール領の神殿でも働かせてもらえるという手紙をもらったから、相変わらずあっちでも仕事ができるみたいです。仕事がなければフレッド様を誘って聖地巡礼でもするかと思ってたけど、そうもいかなそうです」
フレッドは微笑んだ。
「よかったな。お前が一日中俺の飲み相手になってくれるのを期待していたんだが、お前が好きなことをやれるなら嬉しいよ。――でも、聖地巡礼なんて言って、俺はそんなに自由にローゼンタールの邸の外へ出歩けるものなのか?」
「それはローゼンタール家の裁量しだいでしょう。お目付け役である彼らの前で行儀良くしていれば、そのうちセイレンブルク国内を旅するくらいの自由はあると思います。フレッド様、いい子にしてくださいね。そしたら一緒に旅行ができますよ」
マニュエルは楽しそうに言った。
童顔の彼は実年齢よりだいぶ若く見えるが、こうしていると旅行ではしゃぐ子供のようにも見えた。
「それにしても、俺、ローゼンタールで何をしたらいいのやら」
フレッドはつまらなそうにぼやいた。
「ローゼンタールは、フレッド様の大好きなワインの産地です」
「一日中ワインを飲むとか……」
「病気になりますよ」
「それなら、ぶどうの栽培にでも関わるか。でも、葡萄摘みはかなり体力がいるとか。元王子の軟弱な体には農作業はこたえるかもな」
「でも、どこかのマフィアのボスは引退後にトマトを育てたとか、なんとか。きっと、ワイン栽培も楽しいですよ。それに、何もしなくても生活費は王様が払ってくれるし、楽しくニート生活をするなんてこともできますよ」
笑顔でそういうマニュエルを王子は鬱陶しそうに小突いた。
マニュエルがうまくフレッドの気を紛らわせていたおかげで、旅の始まりは愉快に過ぎていった。
***
走り続ける馬車の窓から見える西日は、すでに傾きつつあった。馬車には法務官と兵士が同乗していた。彼らはツォーハイムの国境まで同行し、そこから後、二人はローゼンタール家の遣す馬車に乗り換えることになっていた。旅の予定について尋ねたところ、国境通過後のことについて、彼らは知らないそうだった。
「国境まであとどれくらいだろう?」
「あと一時間ってところでしょうか……」
フレッドはため息をついた。旅は嫌いでなかったが、長時間の馬車移動はしだいに退屈になってきた。二人は取りとめもない話をして時間を潰すしかなかったが、話も徐々に尽きてくる。
日が暮れかけたころ国境に着いた。そんな時刻であるにも関わらず、国境は人でごった返していた。身なりからして大抵の人々は商人であったが、そのなかにはツォーハイムの希少鉱物・褐曜石を運んでいると思われる重量感ある馬車も見えた。鉱山を管理するモリッツ家の女神の紋章がその目印であった。馬車は数人の正規兵と多くの傭兵によって守られているようだった。
フレッドはそれを見ると、「褐曜石だ!」と小さく叫んだ。
「マニュエル! 褐曜石って暗くなると赤く光るんじゃなかったか? 光なんて見えないけどな」
彼はそれを聞くと笑った。
「輸出される褐曜石は安定した状態なので、光ったりしません。そもそも褐曜石の赤い光を浴びて生き残れる人間なんて殆どいませんよ。光を放つような不安定な褐曜石が鉱山から持ち出されることはありません」
「お前、詳しいんだな」
「もちろん僕も褐曜石鉱山を管理するモリッツ家の端くれですからね。兄さんや父さんから色々聞いてます」
フレッドは感心したようにマニュエルを見て、褐曜石について他にも色々と訊ねた。
褐曜石はツォーハイム王国の主要な収入源であった。外国へ褐曜石を売ることで国が成り立っていることを、フレッドももちろん知ってはいたが、国境にて売られていく褐曜石の輸送現場を見るのはそれが初めてだった。
国境を越える検問の前には長蛇の列ができているようだったが、法務官は直接検問所の兵に話をつけに行ったようで、それにより二人が待たなくて済むように取り合っているらしい。
「もう疲れたよ。さっさと国境越えられるといいんだけどな」
フレッドはだるそうに馬車にもたれ掛かっていた。
彼は暇つぶしに周りの商人達を眺めていた。
商人達の中にはかなり良い身なりをしているものもいた。彼らはこれから二人が向かうセイレンブルク王国の商人達のようだった。馬車や積荷に付けられた紋章で出身国を区別できた。セイレンブルク王国は豊かな国であり、金融業で成功したもの達や、傭兵から成り上がる者たちの中にはかなりの財を成すものもいる。
「ツォーハイムは褐曜石鉱山の他に何も産業とかないからな……。それにしても、セイレンブルクの者たちは我らが国民に比べて羽振りがよさそうだな。我が国にはこれだけ豊かな資源があるのに、国民の暮らしはこの程度で、土地の恵みのないセイレンブルクはなぜこんなに潤うのだろう」
「資源の少なさをばねにして、人の力によって国を潤す。それは、セイレンブルクだけでなく、リッツシュタイン王国もそうでしょう。彼らは優秀な研究者集団を抱え、彼らの開発した技術によって国を成り立たせています」
マニュエルは物知り顔でそう言った。
フレッドは自分が何も知らないで生きていたような気がしてならなった。自分だけでなく、城で暮らす誰もが、あまりに褐曜石に頼って暮らし、国の多角的な発展など望んでいないように思えたのだった。
そうこうしている間に、法務官が検問所から戻ってきた。何枚かの書簡を携え、軽い足取りだった。
「フレッド様、マニュエル様、お待たせいたしました。漸く手続きが済みましたのでご案内します」
そう言うと若い法務官は二人を連れて検問所へ向かった。
「さあ、行きましょう。フレッド様。とうとうセイレンブルク王国ですよ」
「ああ。俺達の新天地だ」
検問所の前の人ごみを分けるようにして、フレッドとマニュエルは自分達の荷物をよろよろ運びながらやっと建物の中に入った。
担当者はすでに法務官と話を着けていたようで、フレッドには挨拶程度の会話をした後、いくつかの書類を二人に渡した。
「フレッド様。検問所を越えたところに既にローゼンタール家の者が待っております。馬車の紋章ですぐに分かると思います。それではセイレンブルクでの快適な生活をお祈りしております」
そう言って頭を下げた法務官は馬車に戻っていった。
「――あっけないものだな」
フレッドは法務官の背中を見送りながらそう言った。
「これからは二人だけですね」
「そうだな。さあ行こうか。ローゼンタール家の使いが待ってるらしいからな」
検問所の兵に連れられて二人は国境の反対側へと出た。こちら側も人ごみができている。
食べ物を売る屋台から香ばしい匂いが流れてきた。他にも、見世物をする人々、路上で土産物を売る人々、それはツォーハイム側の国境と変わらないような光景であった。
二人はローゼンタール家の紋章を探した。あちこちに明かりが灯されていても、もう日は沈んでいるため、遠くから紋章は見えず、何台か泊まっている馬車に近づいて行ってはそれを探した。
「それにしてもお腹すきましたね。荷物も重いです。こんなことならもっと持ち物を少なくするんだった」
マニュエルは心細そうに言った。
「そうだな。確かに腹が減った。セイレンブルクの通貨もあることだし、ちょっと買い食いでもするか」
フレッドが食べ物を売っている屋台に向かおうとすると、彼を引き止める声が聞こえた。
「貴方はフレッド様ですね? 私はローゼンタール家の執事ミヒャエルと言います」
ツォーハイムでは長身であるフレッドより、更に頭一個分身長の高い立派な体躯の中年の男が立っていた。
「あ、ああ。そうか。見つかってよかった。こちらも貴方を探していたんです」
フレッドはその男の大きさに圧倒されて、しどろもどろとした。
「こちらへ来てください」
露骨に動揺する二人をよそに、二人の荷物を軽々と持ち上げ、執事は軽い足取りで歩き出した。
簡素だが丈夫そうにできた馬車に荷物を載せると、執事ミヒャエルは馬車のドアを開いて二人に乗るように促した。
言われるがままに二人は無言で馬車に乗り込んだ。