春休み
授業が終わると、フレッドは教室を出たラザフォードを衝動的に追いかけて、話しかけた。
「教室でお話しするのが憚られると思ったので、ここでなら少しだけお話していただけるかと思って……」
ラザフォードは困ったような表情を見せた。その表情はリーナによく似ており、フレッドの胸はまた高鳴った。
「何か、授業に関する質問ですか?」
「いえ、ただ貴女にについてもっと知りたいと思っただけです」
フレッドがそう言ったのを聞くと、ラザフォードは一瞬顔を赤らめたが、すぐに冷たい表情をした。
「君は私のことをからかっているの? これ以上無礼な態度は許しません」
言葉尻から怒りが感じられる声だった。
「失礼しました。貴女を困らせたいと思ったのではありません。ただ、貴女という人についての純粋な興味が、俺にそう言わせたのです」
頭を下げたフレッドを、ラザフォードはさらに困った様子で見つめた。
「私はこれから研究に戻りますので、時間がありません」
そういうと彼女は足早にその場を後にした。
フレッドは自分があまりに積極的過ぎたことを悔いた。
(そうだな、こっちは彼女がリーナのつもりでも、彼女からしてみれば俺はただの学生の一人だしからな)
教室にとぼとぼと戻りながらフレッドは自分の衝動的な行動を恥じてこそ居たが、まだ淡い期待を捨てきれないでいた。
***
それからというもの、彼は授業中の発言意外でラザフォードに話しかけることはなかったが、相変わらず彼女の授業だけは教室の最前列に一人で陣取っていた。それについてマニュエルが一度理由を聞いた際、彼は助平な笑いを浮かべて言った。
「あそこに座っていれば彼女のほのかな匂いが漂ってくるんだ。俺はそれだけで幸せだ」
その言葉を聞いて苦笑いを浮かべるマニュエルに、さらに、最前列でのみ得られるという卑猥な利点についてフレッドは語って聞かせた。
マニュエルは相変わらず勉強熱心であったが、一人ですべてを理解できないこともあったので、フレッドから勉強を教わることも多かった。しかし、彼の並々ならぬ努力の甲斐もあって、次第にフレッドの学力に追いつくようになっていた。
ある日、化学の授業で出された問いをマニュエルが指名され、それに彼がすらすらと答えたことは同級生を驚かせた。
彼が面接で気に入られた為に特別に入学許可が出ていたということは生徒達にとって周知の事実であったので、入学後一ヶ月を過ぎた頃にマニュエルが彼らのレベルにまで追いついたことは、皆を驚かせた。
「マニュエル、やるじゃない! ちょっと見直しちゃったわ」
彼の勉強を時々助けていたテレーザは喜び、授業後にやって来てそう言った。
「いや、君やクリスチャンが勉強を教えてくれたおかげです。でも、まだまだ君達のような優等生には追いつけないですよ。でも、この分なら学期末の試験をなんとか突破できると思います」
マニュエルは嬉しそうに生徒達とそう話した。
入学試験で高いハードルを課せられていたテレーザら外国人の学生達は、リッツシュタイン出身の学生達より常に一歩先を行っていた。マニュエルは勉強を教わるために、彼らと行動を共にすることが多かった。
「でも、君は本当に頑張り屋だよね。最初は君がすごくあたふたしているから、本当に学期末までに他の生徒達に追いつけるか心配していたよ。でも、協力した甲斐があったってもんだよ」
セイレンブルク出身のクリスチャンもマニュエルに親切であった。クリスチャンだけではなく、マニュエルは彼の穏健な人柄と礼儀正しい態度によって教室の皆から好かれていた。
***
入学して2ヶ月が過ぎた頃、フレッドも漸く教室に馴染めるようになっていた。相変わらず奇行が目立つこともあったが、生徒達がフレッドに慣れたということもあり、特に問題は起こらなかった。
そのころ、カティヤからフレッド宛ての手紙が届いた。
カティヤの返事は検閲に引っかかっても分からないように隠喩を多用したものになっていて、部外者には理解できないように気をつけて書かれていた。
フレッドは学校に入学するころに、カティヤに手紙を出していた。そこで彼は、早くて3年後までローゼンタールに戻ることがかなわないかもしれない、ということを書いた。彼女はフレッドが無事なことを喜んでいたが、彼がすぐにでも帰って来られないことについて、どんなに彼女が悲しんでいるかを返事に書いて送ったのだった。
手紙を読み終えたフレッドはソファに寝転んで、教科書を読むマニュエルを恨めしそうに見た。
「マニュエル、このままではカティヤの心は完全に俺から離れてしまう。その前になんとかローゼンタールに帰れないかな?」
マニュエルは本から目線を上げた。
「どうでしょうね。研究所内の警備は硬いです。いくら付属学校の生徒であっても、研究所内を許可なくうろうろしていれば不信がられます。たまに研究錬での授業があるときは、できるだけ証明書を作る部門を探していますが、一度、警備をする兵隊に止められたこともあるし、うかつに行動するのは危険です」
「それはそうだが、俺はローゼンタールに帰りたい!」
「フレッド様。駄々をこねないでください。僕だって早くここを出て、お母様やお父様に会いたいです。でも、投獄されたくなければ、このまま3年が過ぎるのを待つか、その前に偽造旅券を作って脱出する方法を見つけるか。嘆いてもしかたないでしょう」
視線は本にやったままそう答えたマニュエルに、お前は冷たいなあ、と言ってフレッドはため息をついた。
「でも、旅券を印刷する特殊インクの仕組みはもう学びましたよね。どうして特殊な光に見えないインクが反応するか。面白いものですよね」
「仕組みを理解するのと、それを作るのとはわけが違う」
二人は同時にため息をついた。マニュエルは教科書を閉じた。
「だけど、フレッド様だってなんだかんだ言って、少しは学園生活を楽しんでいるみたいじゃないですか」
「まあな。俺の唯一の幸せはラザフォード先生の授業に出られることだからな」
「少しでも楽しみがあるのはいい事ですよね。僕にとってもここで学ぶのは幸せなことです。今まで知らなかったことが色々分かるというのは楽しいです。そして、いつかツォーハイムに帰ったら、ここで学んだことを人々の役に立てることもできるでしょうし」
フレッドはマニュエルの言ったことに対して頷いたが、すぐに、彼には珍しく寂しそうな表情を浮かべた。
「お前はいいよな。ここさえ出られたら、あとは自由だ。でも、俺はどちらにしろ流刑者だ。アルスフェルドの追っ手がいるうちは、ツォーハイムの国境にて保護してもらえるだろうが、その後はまたローゼンタールに戻りカティヤ達には会えるが、父上や母上にはずっと会えないだろうな……」
その言葉にマニュエルは沈黙するしかできなかった。
「きっとそれまでにクリス兄さんが、フレッド様の無罪を証明してくれます」
なんとか肯定的なことを言おうとしたマニュエルだったが、それ以上何も言うことができなかった。
***
一学期目修了間際に、学園では期末テストが行われた。それから約一ヶ月の間は授業が休みで、二学期目開始時にテストの結果が開示される。
5教科あるテストの最後の科目を終えた学生達は、悲喜こもごもの反応をしめしていたが、殆どの生徒達が春休みを楽しみにして嬉しそうにしていた。
「マニュエル、コーラー先生の数学のテストどうだった?」
テレーザが話しかけてきた。
「ギリギリってところかな。落第しなければ僕はそれでいいです」
「私はまあまあって感じだったわ。ところで、休みの間マニュエルやフレッドはどうするの?」
「僕は勉強をちょっとする他には特に予定がないです。テレーザはどうするんですか?」
「私はもちろんドーリンゲンの実家に帰るわ。こんな休みでもなければ帰れないでしょ。よかったら一緒に来る?」
マニュエルはドキリとした。自分が奴隷身分からの解放者の身分証であるということは生徒たちには誰にも言っていなかったので、他の生徒達は彼らが国外に出られないということを知らなかった。
「――えっと、気持ちは嬉しいけど、僕は旅行資金も無いくらい貧しいですからね。何かしらここに残って仕事を探そうかと思います」
「そうなの? なんだか以外ね。そういえば、簡単な測定作業とかを手伝う助手を探しているって化学のグレアム先生が言ってたわよ」
顎に指を当てて首をかしげながら、テレーザは怪訝な面持ちでマニュエルを見た。
「……でも、マニュエル達がお金に困ってるようには全く見えないけどなあ。貴方達どこか変だけど、どことなく貴族っぽいし、私達より年上でしょ? まさか仕事を探しているなんて思わなかったわ。だから、助手の仕事のことは二人に言わなかったけど、すぐにグレアム先生のところに行けばまだ間に合うかもよ」
「それはありがとう。早速行ってみるよ!」
マニュエルは、研究所内で休みの間に助手をすれば、何かしら証明書を手に入れるための手がかりを得られると思った。もしかしたら、研究所内の普段生徒達が足を踏み入れることを許されていないエリアにも入ることができるだろうし、ここに勤めている研究員達ともっと知り合えば、何かしら情報が得られるだろう。
マニュエルはすぐにフレッドも誘ってグレアムの部屋へ向かった。
ドアをノックするとグレアムがすぐに出てきた。
「グレアム先生、僕たち休みの間の仕事に興味があって来ました」
マニュエルがそう言うと、グレアムは喜んで彼らを部屋へ招きいれた。
フレッドが驚いたことに、部屋の中にはラザフォードも居た。
「ラザフォード先生!」
ラザフォードは書類をまとめながら、やってきた二人を笑顔で迎えた。
「フレッド君にマニュエル君じゃない。グレアム先生の助手をするつもりなの? 実は私も助手を探しているところだったの。それで今、グレアム先生のところに相談に来てたのよ」
フレッドはそれを聞くと、すぐに彼女の助手に立候補しようと思ったが、彼がそれを言う前にラザフォードはフレッドに話しかけた。
「フレッド君、そういえば、貴方は私の出したテストでトップの成績だったわ。よくがんばったわね。よかったら、休みの間、君は私の助手をしない? 君は褐曜石に興味があるみたいだし、私の属する課での仕事はよい勉強になると思うわ」
フレッドは顔を輝かせた。
「もちろんです。俺は貴女のためなら何でもすると言ったはずです」
そう声に出してから、フレッドはまた余計なことを言ったとすぐに後悔したが、グレアムもラザフォードもただ笑っただけだった。
「それじゃあ、明日から早速手伝ってもらうわよ。まだ君達は一学期を終えたばかりだから、出される賃金は安いけどいいかしら?」
フレッドは快諾した。
他に希望者がいなかったようで、マニュエルもその場でグレアムの助手の仕事をもらえることになった。
次の日、フレッドは興奮と緊張を抑えきれない様子で研究所へ向かった。ラザフォードの部屋をノックしたフレッドは、彼女がドアを開けるまでの数秒間が永遠のように感じられた。
ドアを開けたラザフォードは明るい笑顔で彼を招きいれた。笑顔の彼女がやはりリーナにそっくりであったため、フレッドはまた胸の鼓動を高鳴らせた。
「それじゃあ、これから一緒に研究錬に行くわね。あそこは普段生徒が立ち入りできない場所なの。だから助手としてあそこで働いてもらう前に、研究所内の秘密を厳守する書類にサインをしてもらうわ」
ラザフォードの差し出した紙には長文の免責事項が書かれていた。それを半ば読まずにフレッドはすぐサインした。
「それじゃあ行きましょう」
彼女はすぐにフレッドを伴い研究錬へと向かった。
ラザフォードの後ろを歩くフレッドは、緊張して何を話したらいいかわからなかったが、彼女は当初に比べると驚くほど気さくに話しかけてきた。
「最初に会ったときは、まさか君がそんなに真面目な生徒だと思わなかったわ。でも、君が褐曜石のことを最初っからよく知っていたのには驚かされたわ。そうは言うけど、実は私も褐曜石の研究にはずっと興味があって、入学前から色々自分で勉強していたり、一年生の春休みには、君と同じように、褐曜石研究課でバイトをしたりしていたのよ」
そう言って楽しそうに話すラザフォードは、少女のような表情をしていた。
「俺は学校とか行ったことがなかったから、最初にここに来たときには色々戸惑うことばかりで、ラザフォード先生にも迷惑をかけましたね」
「君は学校に行かなかったの? それは変わっているわね。あっ。……ごめんなさい。君はたしか――」
教員であるラザフォードは、フレッドが奴隷からの解放者としての身分証を持っていることを知っていたため、彼が学校に行かなかった理由について勝手に想像をめぐらして、彼女の不用意な質問を恥じた。
フレッドはそんな彼女に事実を言えるはずもなかったが、ただ気さくに「気にしないでください」と笑いかけた。




